先日は、おもてなし、ありがとうございました。魚、奥様の手料理、おいしくいただきました。
ところで、その夜、いろいろ話が、弾みましたが、柴田君が、山登りをする見ず知らずの人たちが挨拶をすることについて、話をしていたのを覚えていますか。
山から下りてくる人たちは、これから山に登っていく人たちの無事を思い、山を登っていく人たちは、山を下りてきた人たちの無事をねぎらい、この後の無事を祈るというのが、その挨拶の意味なのだと思います。
柴田君は、芸術家らしく、そこに、もっと深い興味を覚えたようです。
犬も歩けば棒にあたる、人間、生きていれば、どんなことに出くわすかもわからない。山登りをするということは、予測のできないことが、あり得るのです。どんな危険な目にあうか、気をつけていかねばならないのです。
生きていれば、何があるかわからない。それが、生きるということでしょう。まるで、人々は、永遠の平穏な生命の中に生きているという錯覚をしているような、世の中です。
実は、人の存在、それ自体偶然であり、たまたま、今、ここに存在していると言ってもいいかもしれません。
サルトルの「嘔吐」の中で、ロカンタンは、マロニエの醜怪な根を見て、嘔気を催します。カフカの「変身」のザムザは、巨大な毒虫に変身します。中島敦の「山月記」では、李徴が、虎になってしまいます。それぞれ、小説の主題とするものは異なるでしょうが、存在そのものの、偶然性、不条理性が、それぞれの根にあるような気がします。
人として存在する、それは、現実の中の偶然でしかないのかも知れません。そして、人もまた、いずれ間違いなく、ただの骸(むくろ)の存在になるのです。
だからこそ、そこに、祈りとしての芸術も生まれてきます。人としての賛美なのか、嘆きなのか、いや、両方の意味を込めて、人は、絵を描き、彫刻を造り続けてきたのでしょうか。このことは、また、柴田君に会ったときに、聞きたいと思います。
一期一会という言葉があります。人と人との出会いの偶然性、それを大切にするのが、この言葉でしょう。存在が偶然であれば、その出会いは、なお、さらに偶然なのです。
山登りをする人たちも、存在、不存在の偶然を案じ、出会いの偶然に思いを致しているのでしょう。偶然だからこそ、貴重なのです。
田中君との出会いが、貴重であることは当然として、美しい奥様、素敵なお嬢様との出会いもまた貴重だと思っています。
再び、勝手なことを書いて、申し訳ありません。奥様、娘さん、そして、パピーによろしく。
秋冷に 身を縮めており 白き猫
2006年 11月22日 崎谷英文
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