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仙人の戯言 2005年〜2006年

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カエルはゲロゲロ

 カエルのTVコマーシャルを見た。何の広告だったかは知らない。

 二匹のカエルが鳴いている。一匹は、ゲロゲロと鳴き、もう一方は、ゼロゼロと鳴く。ゼロゼロと鳴く方が、ゲロゲロと鳴くカエルの頭をたたく。それでも、そのカエルはゲロゲロと鳴く。すると、ゼロゼロと鳴いていたカエルは、そのカエルを、激しく払い落とす。這い上がってきたカエルは、今度は、ゲロゲロではなく、ゼロゼロと鳴き始める。ゼロゼロと鳴いていたカエルは、さも満足したようにうなずき、二匹は、一緒にゼロゼロと鳴く。

 面白かった。画面のリアルなカエルの姿が素晴らしかったこともあるが、面白かった。

 しかし、何度か見ているうちに、背筋がぞっとしてきた。これは、何なのか。どうして、ぞっとするのか。

 やっぱり、これは、おかしいのだ。カエルは、何と鳴いてもよい。ゲロゲロと鳴こうがゼロゼロと鳴こうが勝手だ。ゼロゼロと鳴くのを強制されていくのが恐ろしい。

 今の世の中、どこかおかしい。自由だといいながら、窮屈である。

 一度は、武力または武力による威嚇によっての国際紛争の解決は採らない、と決意したのではなかったのか。暴力による解決は、自由の本質、根本を損なうものだと思う。今、日本は、日本に対しての武力の怖れによって制約されているというより、日本が背景に持つ強大な武力によって制約されているのではないだろうか。国家も自由ではなくなっている。

 格差社会、勝ち組、負け組、再チャレンジ、これらの言葉は、まさに、現状、あるいは現状に対してのものであろう。しかし、そこには、批判を封じ込めるものがある。あなたの今の状況は、あなたの自己責任ですよ、といっているのである。批判することは、自らの無力を披露することになる。

 自己責任、その通りであろう。しかし、自己責任だけではない。格差が生まれる社会、勝ち組、負け組が生じる社会、再チャレンジが上手くいったとしても、また新しく再チャレンジを必要とするものが出てくる社会、これは、やはりおかしいと思う。自由競争の理想社会というものは、こういった、互いに喰い合う社会なのだろうか。

 実は、今の世の中、自由ではないのではないか。巨大な、組織化した、流動性の少ない、固定化した中での、操作された自由に過ぎないのかもしれない。

 あからさまの暴力により、ゼロゼロと鳴かされているのではないのだろうが、知らず知らずのうちに、自由を失っているのではないかと危惧する。大人も窮屈だが、子供も窮屈だろう。

 新しい年からは、心の自由を取り戻したいと思う。

  つくばいの つらら我が眼を 貫けリ

 

2006年 12月19日  崎谷英文


近頃、巷に流行るもの。

 一攫千金、ネット株、投資信託、三連単。とにかく儲ければ勝ち組、見つからなければ法の網をくぐるのが賢いと鵜の目鷹の目、ネット詐欺、悪徳商法、キャッチセールス、自分のためのボランテイアの金集め。

 大儲けしようと、企んで狙った的が大外れ。借金、サラ金、闇金融、法定越える利息で貸すのも悪いと言いながら踏み倒す自己破産、サラ金と手を組む税金を払わぬ大銀行、貧乏人への増税に老人への保険料値上げ、金持ちが唱える再チャレンジ、まじめなワーキングプワー、非正規社員、年金の関係で増えるといわれる熟年離婚。

 挙句の果てのホームレス、家族がいれば失踪、プライドが高ければホームレスになれず悲劇。慣れれば、結構気楽なホームレス。上手くやれば、午後のお茶の優雅な生活保護。払わずに済むなら払わない給食費、年金、視聴料、奨学金の返金。

 近頃、巷に流行るもの。

 子供に声をかけると防犯事案の連絡、人を見たら泥棒と思えとばかりの防犯ベル、防犯携帯。いじめ、虐待、夜道の怖さ。信じられないから不登校、ニート、引きこもり。携帯電話での写真撮影、携帯メールの訳の分からない記号文字、ブログ、ブログを使った陰湿ないじめ、相変わらずの迷惑メール、迷惑メール対策、安売り切符、新世代ゲーム機。

 美しくないから美しい日本、信念がないから数集め金集めの復党、いつまでたっても仲良しこよしの官製談合、大量破壊兵器の存在が前提だったはずの誰も責任を取らないますます酷いイラク戦争。ナショナリズム、パトリオティズム、グローバリズムの親米、反米、反民族主義。エイズ、内乱、テロ、暗殺、武器、核兵器、戦争、偽札、地位、名誉。

 欠陥建築、欠陥車、欠陥器具。酒酔い運転、その事故、その取締りの強化、それでも減らない事故。窮屈な生活。強くなった細菌、薬の効かないウイルス、自然の土から作られない野菜、添加物いっぱいの食品、効くか効かないか分からない健康食品、健康器具。ファースト・フード、スローライフ。用もないのに走ること。

 地震、津波、竜巻、がけ崩れ、大水、熊の出没、猿の凶暴化、浜に打ち上げる鯨に秋刀魚、時知らずの花々。脳を分析した心、信じるものこそ救われる宗教、犯罪者への怒り、十四歳の精神分析。巧みになった広告、キャンペーン。広告、キャンペーンで決まる売れ筋。下手を競う料理番組、高級料理を食べる番組。プロ野球選手の大リーグ移籍。

 近頃、巷に流行るもの。

 そして、流行、流行に飛びつく人々。

  冬の月 冴えて山々 映すなり

 

2006年  12月4日   崎谷英文


田中君への手紙 4

 先日は、おもてなし、ありがとうございました。魚、奥様の手料理、おいしくいただきました。

 ところで、その夜、いろいろ話が、弾みましたが、柴田君が、山登りをする見ず知らずの人たちが挨拶をすることについて、話をしていたのを覚えていますか。

 山から下りてくる人たちは、これから山に登っていく人たちの無事を思い、山を登っていく人たちは、山を下りてきた人たちの無事をねぎらい、この後の無事を祈るというのが、その挨拶の意味なのだと思います。

 柴田君は、芸術家らしく、そこに、もっと深い興味を覚えたようです。

 犬も歩けば棒にあたる、人間、生きていれば、どんなことに出くわすかもわからない。山登りをするということは、予測のできないことが、あり得るのです。どんな危険な目にあうか、気をつけていかねばならないのです。

 生きていれば、何があるかわからない。それが、生きるということでしょう。まるで、人々は、永遠の平穏な生命の中に生きているという錯覚をしているような、世の中です。

 実は、人の存在、それ自体偶然であり、たまたま、今、ここに存在していると言ってもいいかもしれません。

 サルトルの「嘔吐」の中で、ロカンタンは、マロニエの醜怪な根を見て、嘔気を催します。カフカの「変身」のザムザは、巨大な毒虫に変身します。中島敦の「山月記」では、李徴が、虎になってしまいます。それぞれ、小説の主題とするものは異なるでしょうが、存在そのものの、偶然性、不条理性が、それぞれの根にあるような気がします。

 人として存在する、それは、現実の中の偶然でしかないのかも知れません。そして、人もまた、いずれ間違いなく、ただの骸(むくろ)の存在になるのです。

 だからこそ、そこに、祈りとしての芸術も生まれてきます。人としての賛美なのか、嘆きなのか、いや、両方の意味を込めて、人は、絵を描き、彫刻を造り続けてきたのでしょうか。このことは、また、柴田君に会ったときに、聞きたいと思います。

 一期一会という言葉があります。人と人との出会いの偶然性、それを大切にするのが、この言葉でしょう。存在が偶然であれば、その出会いは、なお、さらに偶然なのです。

 山登りをする人たちも、存在、不存在の偶然を案じ、出会いの偶然に思いを致しているのでしょう。偶然だからこそ、貴重なのです。

 田中君との出会いが、貴重であることは当然として、美しい奥様、素敵なお嬢様との出会いもまた貴重だと思っています。

 再び、勝手なことを書いて、申し訳ありません。奥様、娘さん、そして、パピーによろしく。

  秋冷に 身を縮めており 白き猫

 

2006年 11月22日  崎谷英文


仙人のたわごと

 宇宙の広大さを知れば、宇宙の始まりを見たくなる。すると、微小の世界に触れる。さらに、虚の世界に突入する。大きさも、長さも、そして、時間さえもが、相対的になる。

 脳の中にあるのかと思って、脳を解剖しても見つけられない心を、どこから来たのだろうかと探し続ける。

 人は、いつから人になったのかと考えれば、原始の時代が見えてくる。すべてを削り取った、虚飾のあり得ない、祈りの世界が見えてくる。

 人は、胎内で、進化をたどって人として生まれてくるという。そうすると、生命の最初はどうだったのかと考え込む。

 人の心というものは、進化するのだろうか。

 美しいものは、なぜ美しいのかと首を傾げていると、醜い世の中の醜い心が邪魔をする。

 いくら、贅沢でうまいものを食べたとしても、長生きするわけがないと知って、酒ばかり呑んでいると、世の中がぐるぐる回る。

 広いところに住んだからといって、人の体は大きくならないのだから、立って半畳、寝て一畳で生きていける。

 きれいな服を着ても、馬子にも衣装と言われ、わざとつぎはぎにした服、わざわざ傷つけ穴を開けた服が、かっこいいと言われ、体を隠し、寒くなければいいじゃないかと思ってしまう。

 何のために、人は生きているのかと研究した人は、結局、人は、死ぬために生きているのだ、と結論づける。

 そうなれば、生きていても、死んでいても、同じようなものだと思うのだが、せっかくの生命は、そう簡単に捨てられない。

 だとすれば、仙人になれないくせに、仙人になったふりをして、生きるしかない。

 などと考えながら、秋の夜更け、眠たくなって寝た。

  秋風は、山を染めつつ 下りゆき

 

てらこった  2006年立冬  崎谷英文


汚れることのない誇り

 よく、小さなころに、虐待を受けた経験のある人は、他人に対して乱暴になったり、自分の子供に対しても虐待をしがちである、と言うことを聞く。

 それはなぜであろうか。身近な暴力、虐待が、連鎖を生む。確かにそうかもしれない。人は、経験の中でしか生きてゆけない。

 しかし、ちょっと翻ってみれば、自分自身が虐待を受けていたのだとしたら、その苦しみは、人一倍分かっているであろう。なのに、人への暴力、我が子に対しての虐待をしてしまう。そこには、人のつまらない防衛反応、報復感情がありそうだ。自分が、虐待を受け苦しんだ。自分にも、虐待する権利がある、と思うのである。自分だけが、虐待を受けるということを放っていたら、自らの誇りが損なわれる。悪しき平等感というものであろうか。

 そこでは、やはり、自分が受けた虐待というものは、間違いである。それは、自分が経験したように、苦しく、悲しく、寂しいものである。だから、自分は、暴力を好まない、虐待をしないような人になろう、と考えられれば良い。などと、簡単に言うなといわれそうだ。自分だけいやな目にあって、不公平だと。

 いじめをする子がいる。いじめをされる子がいる。その立場は、入れ替わったりする。ここにも、悪しき平等感が、潜んでいるような気がする。

 勝気な子供は、惨めな自分を克服し、勇ましい自分を取り戻そうとする。いじめられたことに対する代償である。そうしないと、自分自身の肯定感を保てないと思うのであろうか。子供は、純真である、がゆえに残酷である。

 心優しき子供たちは、報復をしない。そこに悲劇が生じる。大人たちは、しっかり見守ってやらねばならない。

 人は、傷つけられたとき、苦しく、辛い。そして、敵を討とうとする。

 権利は主張していい。相手を、静かに非難するのもいい。

 しかし、相手を傷つけ報復しようとしたり、他人を傷つけて憂さを晴らそうとしたりしないほうがいい。

 あなたは、あなただ。あなたは、あなたで、誇り高き人間、個人だ。堂々としていよう。あなたがひどい目にあったとしても、あなたの価値は、びくともしない。人に何をされようが、何と言われようが、あなたの誇りは、少しも汚れない。

 木枯らしに  菜の苗ゆるり  しなりおり

 

2006年   11月8日   崎谷英文


花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。

 「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。」徒然草の第百三十七段である。

 桜の花は、真っ盛りの満開のときばかりが、見るべきときなのではない。まだ咲いていない枝のつぼみや、散り終わった枝葉を見るのも趣がある。さらに、兼好は言う。家の外に出なくとも、桜の花を心の中に思い浮かべることさえ、情緒があると。

 この間、十月七日は、仲秋の名月であった。前日から、天候が悪く、きれいな月が見えるのかどうか、案じていた。しかし、月は、見事に、その澄み切った光を放ち、楽しませてくれた。それも、晴れ渡った夜空にではなく、周囲を黒灰の雲で覆われ、時に曇り、時に光をあらわし、それこそ、移りゆく時を感じながらの月見であった。常に、煌々と照る月であれば、その趣は、違っていたと思われる。

 ここで、人の世を、言うのは、見当外れかも知れない。しかし、人生、人生の楽しみ方が、隠されているような気がする。

 人の世もまた、常に照り輝くものでなく、満開のときばかりではない。雲に隠れ、光はこもり、つぼみのまま耐え、また、しおれるときもある。しかし、それはそれで、楽しんではどうだろうか。何と気楽なことを言うと、叱られそうだが、いちいち、一喜一憂していては疲れる。こんなこともあるさ、まあなんとかなるだろう、まだこれからさ、と思っていることが良さそうな気がする。

 人の世は、長いようで短い。短いようで長い。大人にとっては、特に私ぐらいになると、もう短い。しかし、子供にとっては、まだまだ長い。

 私ぐらいの大人にしてみれば、どうせ、先のない人生、じたばたしても始まらない、せめて、これからの子供たちのために、良いことをしておこうか、と思うのがいい。

 子供にしてみれば、一つや二つの失敗、一年、二年のブランクなどどうってことはない、まだまだ、これからどうにでもなる、明るくやっていこうぜ、と考えるのがいい。

 心が、ふさぐことは、ある。あって当たり前である。仲秋の名月が、ついぞ、姿を見せない年もある。咲いたばかりに、嵐に散る桜もある。しかし、また、時は廻り、元気になる。月は、無理矢理、雲を追い払うことはできない。桜は、嵐から逃げ隠れることはできない。ただ、雲や嵐の通り過ぎるのを、待たねばならない。また、照り、また、咲くときを夢見て。

 見えずとも、月は、雲の影の後ろで、光を放ち続け、桜は、次の機会のために、その力を溜め込むのである。

 人のふさぎこんだ心にも、見えずとも、その中に、必ず、輝くものがあり、蓄え、溜め込まれていく力がある。

  雨上がり 羅漢のごとく 彼岸花

 

2006年 10月 てらこった 崎谷英文


田中君への手紙 3

 お元気ですか。この夏、会う機会がなくて、残念です。十一月に東京で会いましょう。

 ところで以前から、私が、思っていたことがあります。

 果たして、この世は、進歩しているのでしょうか。もしかすると、現代社会は、滅びの道を突き進んでいるのではないかと危惧を抱いています。

 確かに、科学技術、文明の発達は、世の中を便利にし、多くの楽しみを生み出し、寿命を延ばし、生活を豊かにしてきています。

 しかし、現代資本主義は、本当に人間にとって必要なものを生み出しているのでしょうか。この拡大再生産を余儀なくされている市場経済において、科学技術の発達は、人々に、需要―必要ないいいものだ、欲しいなということ。―を無理矢理作り出しているという面があるのではないでしょうか。人間にとって、なくてはならないものではなく、なくてもいいものを多く作り出しているのではないでしょうか。それこそが、現代社会の豊かさなのだという考えもあるでしょう。

 しかし、現代経済は、常に生産を拡大しなくては成り立たないのです。そのために、新しいものを開発し、新しい需要を、消費する者の必要からではなく、生産する者の必要から、作り出しているような気がしています。

 古来、人類は、自分たちが生きていくことのできるものだけを自給自足して、助け合って生きてきました。

 しかし、現代は、あらゆる面において、分業化が進み、その専門的進歩は著しいものがあります。しかしそこでは、もはや、人間は、個人として自立していけなくなっているような思いがします。人は、現代社会の巨大な渦の中にもまれながらでしか、生きていくことはできないのです。そこでは、人間と人間との、あたたかなつながりは、なくなってきているのです。人の心は、すさんでいます。チャップリンが描いた機械の中の歯車、複雑な組織の中の一員としての、孤独な人間になりつつあるのです。

 今や、教育は産業であり、介護さえ産業であり、ボランティアでさえ産業になりつつあるのです。聖職者という言葉は死語でしょうか。

 しかし、人間も自然の一員です。そして、自然は人間の行っていることも、自然の中で、容赦なく対処するでしょう。かつて、あまたの生物の種が、滅んでいったように、人間も滅びの道を進んでいっているのかもしれないのです。

 田舎者の、たわごとかもしれません。私は、これから、少しの米と、少しの野菜を、助けを受けながらも、ちょっと作ってみようかなと思っています。

 再び、勝手なことを書きましたが、貴君の聡明な考えをお聞かせください。

 奥様によろしく。近いうちに。

  紫に 変わりゆくかな 秋の暮れ

 

田中様  2006年 9月台風一過  崎谷英文


うそをつくと閻魔様に舌を抜かれる

 「うそをつくと閻魔様に舌を抜かれる。」私は、この話を、小さいころからよく聞かされた。私は、まだ、信じている。私が、うそをついたことはない、と言うことはない。何度かうそを言っている。うしろめたいから、よく覚えている。

 「うそも方便」と言うことわざがある。しかし、それは余程のことである。自分を守るためではない、他の人を守るためにうそをつく場合に限られよう。あるいは、他愛のない、笑い話のようなうそに限られよう。

 うそをつくと胸が痛む。

 平気でうそをつける人はいるのだろうか。犯罪に手を染めた人は、うそをつかねばならないのだろうか。そもそも、「うそつきは泥棒の始まり」と言うことわざもある。捕まった犯罪者が、うそをついて罪を逃れる。しかし、その人は、正々堂々としていられるのだろうか。心は痛み、病むに違いない。

 イ、にんべんに、言、と書いて信である。人の言葉は信じられることが前提である。

 事実についてのうそは、罪が深い。政治家の言葉には、うそがつきものである。少なくとも、うそを平気でつかないで欲しい。うそをついたら、謝って欲しい。うそをつかないことのほうが、勉強ができることより、はるかに価値が高い。

 うそを一度つくと、また、うそをつかねばならない。うそをうそで覆い隠すことになる。そうやって、とめどのないうそつきになっていく。

 「好きだよ。」「愛してるよ。」心のうそは、難しい。心のうそは見抜かれるはずがない、と思うのは間違いである。相手によっては、すぐばれる。心のうそが見抜かれていないと思っていても、実は相手はとっくに見抜いていて、信じたふりをしている場合もあろう。

 うそをついてしまう癖のある人もいる。ひどくなると、自分の言っていることが、自分自身もうそか本当か判らないまま、物語を語る人もいる。そういう人たちは、自分自身であるために、うそをつかねばならないのかも知れない。そうすると、うそをつかねば生きにくい世の中も、悪い。正直であることが、すばらしいのだという世の中であって欲しい。

 「天知る、地知る、我知る、子知る」(四知)誰も知るまいと思っていても、天は知っているし、大地も知っているし、何こそ、自分自身が知っている。

 ばれなければ、うそをついてもいいじゃないか、悪いことをしてもいいじゃないか、というのは間違っている。このことが、今の世の中で、あまり徹底されていないような気がする。世の中がそうなると、子供たちも、ばれなければいいと平気でうそをつくようになる。うそをつくより黙っているほうがいい。「雄弁は銀、沈黙は金」である。今は、しゃべらないと認めてもらえないような風潮がある。静かなる人こそ、正直者かも知れない。

 とにかく、子供たちに、「うそをつくと、閻魔様に舌を抜かれるよ。」と教えたい。

  夏の日は すべてを焦がす ばかりなり

 

てらこった 2006年  終戦の日  崎谷英文


田中君への手紙 2

 心温まる御返事、ありがとうございました。ぜひ、また一献交わしたいものですね。

 ところで、田中君、半年ほど前に会ったとき、私が言ったことを覚えていますか。

 それは、「雪の中にたたずむ小さな子供の手を取って、大人が、『冷たいね。』と言ったら、その後、その子供が、部屋のストーブに手をかざして、『冷たいね。』と言った。」という話です。

 おかしな話に思われるでしょう。

 その子供は、大人に手を握ってもらったことで、自分の手は暖かくなったのです。そして、ストーブに手をかざしたときも、自分の手は暖かくなったのです。その状況は、雪の中と変わりありません。その時、大人が言った『冷たいね。』と言う同じ状態だったのです。だから、子供は、その時の大人の言葉、『冷たいね。』と言ったのです。

 その子供が、言葉を知らず、自分と他人との区別がつかないのだということで終わらせてしまえば、それまでです。

 私は、その子供の言葉に、変な言い方ですが、何か感動すべきものを感じたのです。

 その子供は、自分と手を握ってくれた相手と区別がつかない。相手が『冷たい。』と言えば、その心は、その子供にとっても同じ心なのではないか。相手の心は、そのまま、自分の心であるはずだという思いがあるのではないか。

 逆に言えば、相手は自分の心をそのまま言ってくれているはずだ、と言う思いがあるのではないかと言うことです。

 それは、自他の区別がつかないというより、自他が一体となっている。自分も他人も、一つのものとしてとらえている、と言うことになりはしないか。的外れかもしれません。

 しかし、そこのところに、現代の荒廃した人の心の闇を開く鍵があるような気がしています。そのような心こそ、すべてを包み込む生命の原点のような気がしています。

 母親は、子供の冷たい手を握り、『ほら、暖かい。』と言うでしょう。その時、母親と子供とは一体なのです。

 しかし、そこから、どう考えるのか、愚人たる自分にわかるはずがありません。

 再び勝手なことを書きましたが、ご容赦ください。

 それでは、本当に近いうちに、また。

  あらし避け  夏山の陰に  鹿隠れ

 

田中様   2006年7月    崎谷英文


読み、書き、そろばん

 読み、書き、そろばんというのは、寺子屋時代からの、子どもの教育の基本である。

 文章を読むということ、それができなければ、世の中に出て行ったときに困る。話し言葉だけでは、社会は、効率よく動かない。

 その昔は、文字というものがなく、口伝えに、あるいは、せいぜい、記号のようなものを使って、物事を伝え、意思を伝えていた。今でも、文字のない民族は数多くいる。しかし、文字により、より正確に、より誤解なく、伝えることができるようになった。

 現代においては、文字、文章が読めなければ、社会生活は成り立たない。子どもたちも、先ず、文章が読めなければならない。機械が何でもやってくれると思っていても、そのマニュアルが読めなければ、どうしようもない。間違って読むと、事故になる。法律においてもそうであろう。

 読むことが、さまざまなことを教えてくれる。人生、世の中のあり様、あり方を深く考えるには、読むことがよい手段になる。

 書くことも大切である。自分の意思を、相手に正確に伝えられなければ、人と人とは理解し合えない。顔を見ればわかる、というほどの親子、親友、また原始人の間でなければ、相手に、本意を正しく伝えるためには、正しい文章を書くことができるようにならねばなるまい。

 計算も大事である。計算をするということは、論理に従って、細かに分析し、簡単にしていくということである。物事を考えるときの理屈と相似している。計算が、丁寧に、正確にできるようになるということは、目的を定め、筋道をはっきりさせ、解決への出口を見つけ出すことに有効なのである。

 これらは、いわゆる、子どもの教育における社会化の要請に合致する。子どもは、やはり、将来、社会の中で生きていかねばならないのである。

 個性の尊重とは、方向が異なっているようにも思えるが、子どもの個性も、社会の中で発揮されなければならないのである。読み、書き、そろばんは、個性を育てるのにも重要なのである。

 読み、書き、そろばんは根気の要るものである。その根気も、また、大人になっていく上での、大切な要素であろう。

 社会化のための、読み、書き、そろばんではあるが、その社会が不誠実で、乱れたものであるなら、その社会から逃げ出したくなる。

 大人は、今の社会が、子どもたちにとって、公正で、夢を持たせるものとする責任がある。

 そうしてこそ、子どもへの教育、読み、書き、そろばんの教育の言い訳が立つ。

  揺れ動く  水田(みずた)に映る  山の月

 

てらこった   崎谷英文    2006年梅雨


田中君への手紙

 先日は、久しぶりに会えて、よかったです。

 ところで、貴兄が、新渡戸稲造氏の「武士道」が、とても面白かったと言っていたので、私も、読みました。事実、とても面白かったです。

 氏の言うように、日本人の持つ、心の潔さ、真の思いやり、弱者へのいたわり、誇り、謙虚さというものを、再認識させられました。時代の異なるが故に、その「武士道」の精神は、変容させられながらも、今も、日本人の心の奥底に、確かに存在すると思います。

 日本の礼儀作法というものは、多分外国人には、理解しがたいものでしょう。聡明なる田中君には、釈迦に説法になるでしょうが、ひとつ例を述べたいと思います。

 日本人は、履物を脱いで上がるとき、向きを変え、揃えて上がります。それが、日本人の礼儀です。本来、訪ねた先の相手の人は、訪ねてきた人の履物を、その人がその家を出るとき履きやすいように揃えるのが礼儀なのです。そして、その相手の人が、履物をそろえてくれることを思い、相手の手間を取らせないように、先に、自ら履物を揃えておくということなのです。

 相手の思いやりを見越して、その思いやりを思いやって、履物を揃えるのです。

 相手の思いやりを思いやる。思いやりの思いやり、二重の思いやり、ここにも、日本人の心の深さが表れているような気がします。

 それが、今では、常に、自分の家においても履物を揃えるというようになっていったのです。

 現代を評して、「金銭と快楽と健康の走狗(手下)」というのを読んだことがあります。まさに、この世は、欲望のうごめく、また、欲望そのものであるかのような気がします。

 人は、本当の生き方を見失いつつあるのかもしれません。

 この商品は、とってもいいものですよ、安くて、いいものですよ。自慢しながら、宣伝し売り込むなどということは、日本人の本来の心では、眉をひそめるようなことなのでしょうが、今では、当たり前のようになっています。武士が、商売が下手なのは、当然でしょう。

 しかし、そのような売れればいいのだ、儲ければ勝ちなのだという風潮は、どこかおかしいように思っています。

 「武士道」は、財産とか、物質とか、そんなものに囚われない、大げさに言えば、心、魂こそ、人はもっとも大事にするものだといっているような思いがします。

 「武士道」の精神が、少しでも、正しく、現代に通用するようになればと願います。

 勝手なことを書きましたが、ご容赦ください。では、いずれまた。

  草を刈る また草を刈る 山青し

 

田中様  2006年5月  崎谷英文


子供たちはかわいい

 たいていの大人たちは、子供たちを、かわいいと思っている。時には、子供たちが苦手だという大人たちもいるが、小さな子のにこっとした笑顔を、好ましく思わない大人は、あまりいないと思う。

 子供たちは、無垢である。何の汚れもなく、真っ白なまま生まれてくる。

 大人は無垢ではない。世の中のいろいろな醜い、穢れた、汚れた経験を数多く経て、無垢であったことを忘れている。

 そんな大人たちに、子供たちは、その忘れたものを思い出させてくれる。子供の無邪気なしぐさ、表情は、大人たちを和ませてくれる。

 それはきっと、大人たちも、本当は、子供と同じように無垢でありたいと思っているからではないか。子供の姿に、あるべき原型を見ているのではないか。そんな気がする。

 自分の子供なら、特にかわいい。しかし、他人の子供もやはりかわいい。どんな子供も、自分の原型なのである。それを、邪まな目で見ると、かわいくなくなる。子供の姿、心に素直に触れるとき、かわいくないはずがない、と私は思う。

 大人は、子供の成長を願う。

 子供が大きくなるにつれて、思い通りに成長しないと嘆く。しかし、それは大人の勝手である。

 子供たちは、成長する。否応なく成長する。ただ、成長の仕方が、それぞれ異なる。当たり前である。それぞれ生まれ持ったものが違うからである。それは、差別ではない。個性である。

 間違った成長―ほとんど間違った成長をしているのではなく、大人たちが間違った成長と思い込んでいるだけなのだとは思うが―をする子がいるとしたら、それは、大人の責任である。それも、親だけではない、大人たちの社会全体の責任である。

 私は、性善説を採る。

 人間は変化する。大人も変化する。子供にとっての変化は、成長である。生まれ持った個性を元に、それぞれ変化し、成長する。

 子供がみんな同じようになったら、気持ち悪いとさえ思う。「へーこんな子だったんだ。」子供のそれぞれに、感動を覚える。

 私も子供に戻りたい。しかし、戻れない。せめて、子供のような、無垢の心でありたいと願う。

 それにしても、今の大人の世の中は、醜い。

  山の雨 庵の霞 うましかな

 

てらこった    崎谷英文     2006年5月


考えることは、ただ

 考えることは、ただである。いくら考えても、金はかからない。こんなよい趣味があろうか。もちろん、思いて学ばざればすなわち危うしであり、いろいろ本を読む。しかし、根本的に、考えることはただである。

 私は、することに困った時、時間を持て余す時、考える。そうでない時も考える。何でも考える。

 例えば、阪神ファンがいる。確かに、熱狂的な阪神ファンは数多くいる。その人たちは、なぜ阪神ファンなのであろうか。近くに住むから阪神ファンなのであろうか。しかし、全国に、阪神ファンはいる。そもそも、関西に住むからといって、なぜ、阪神ファンなのか。人は、その住む土地に対して、愛着を持つのはなぜなのか。

 さらに言えば、ナショナリズム・愛国心とは何なのか。日本人は、日本人として同朋意識を持つのはなぜなのか。確かに、荒川静香さんが金メダルを取ったときはうれしかった。

 当然のようなことに、なぜなのかと考えていくと、考えることは尽きない。

 人が何かに執着することは、自然の姿なのか。なぜ、人は、何かに執着するのであろうか。人は、ただ個人としては、生きていけないのであろうか。何かにすがってないと生きていけないのであろうか。

 などと考えていくと、一応の結論は出る。無人島で、独りで過ごしていても、その島の何かに、愛着を感じるであろう。人は、何かと共生するようにできているのである。それが、いろいろなものに、興味を示し、愛着を感じ、執着することにつながる。それが、日常生活の潤いともなっていく。と、このあたりまでは考えつく。

 人の心の性向は、解かった。解かったつもりになったとしても、では、なぜ人は、そのような心を持っているのか。

 よくよく考えてみると、そういう愛着は、喜びと共に悲しみ、寂しさ、憎しみの元ともなりそうな気がする。何かに執着するから、心は、平安でなくなる。

 いつも望み通りに、なるわけがない。望み通りに行かないのは当たり前で、望むものは、少ししかないのに、望む人は多いのであり、また、反対の望みを持つ人もあるのであり、みんなが、望み通りになるわけがない。

 愛着を捨て、執着を捨てることにより、心の平安は、保たれるのかもしれない。

 そう思って、仙人になるしかないと考えたのだが、やっぱり難しい。

 もっと考え続けることにする。また、いろいろいい考えが浮かぶかもしれない。でも考えが尽きることはないであろう。仏や神には、どこまで行っても近づけまい。

 考えることは、 ただである。貧乏人の道楽である。

  山桜 つぼみの中に 何かある

 

てらこった     崎谷英文      2006年春


夢の中

 最近、よく物忘れをする。どこかに置いてあるはずなのだが、どこに置いたか忘れて、探し回る。確かにそうした事があったのだが、何時の時だったのか、あの事と、どちらが前でどちらが後のことだったのか、と思う。隣の部屋に入って、何をしに来たのかと考え込む。この場面に、ぴったりの言葉があったはずなのだが、のどのところまで出てきているのに、似たような言葉はたくさん出てくるが、出てこない。

 年をとったといえば、年をとったせいかもしれない。集中力が、欠けているのだといえば、そうかもしれない。しかし、少し、四次元の世界に遊んでいるような気もしている。

 私たちは、三次元の世界に住んでいる。それは、縦、横、高さの世界である。つまり空間の中で生きているということである。それに、時間を加えると、四次元の世界になる。私たちは、三次元の世界の中で、自由にふるまう。空間は、特に地球上では、人間たちの支配できる世界である。

 しかし、時間は支配できない。空間において、私たちは、自由に動き、止まることができる。しかし、時間は、それを速めたり、止めたりできるものではない。錯覚をしてはいけない。ラジオ、テレビ、ビデオ、インターネットも、時間を支配しているのではない。それは、単に、記録を保存したり、移動したりすることができるようになったということである。時間は、やはり、止まらない。

 人間には、時間を支配する力はない。人は、時間の制限の中で生きていかねばならない宿命なのである。そんな中で、人は、きちんと、時間の流れを理解し、記憶し、順番を間違えない。それぐらいの能力は、持っている。

 もし、時間を自由に扱うことができれば、と思われないであろうか。

 実は、私たちは、夢の中で、時間の支配を受けていないのかもしれない。

 夢というものは、奇妙でしょう。現実に、起こらないようなことも見るでしょう。それは、時間を越えた、時間の制限のない、つぎはぎの夢なのかもしれない。二十年前と昨日の事が、一緒に夢の中に現れる。亡くなったおばあちゃんが、会うはずもない、自分の恋人と焼き鳥を食べている。もしかすると、未経験の世界さえ夢に現れてくることもある。

 夢の中では、時間に対しても自由でありうる。そこに、心の奥底を見ることができるという人もある。心は、何があっても、自由である。

 実際、私たちは、数億年前の星の光を、今、見ている。ピカソは、その時の姿ではない、時間を越えた姿を絵にした。アインシュタインは、時間、速さにより、空間が歪むと言った。十次元の世界から、宇宙の誕生を説明できるという人もいる。

 物忘れがひどくなったのは、私が、時間の制約に囚われない自由を得たのだ、と思うことにした。

  春雨や 山の頂 虚ろにて

 

てらこった     崎谷英文    2006年3月


情けは人のためならず

 「情けは人のためならず」ということわざをご存知でしょう。この意味を、他人に情けをかけることは、その人のためにならないというように、つまり、情けはあまりかけないほうがいいという意味に思われることがありますが、本来の意味は、他人に情けをかけることは、結局、廻り廻って自分のためになるという意味です。おおいに情けをかけましょうということです。

 情けを他人にかけて、その人を助けてあげる、救ってあげるということが、いざという時、反対に自分自身が他人から情けをかけてもらうことにつながるから、情けはかけましょうということでしょうか。

 しかし、それこそ、利己的な情けでしょう。本当の情けというものは、無償のもの、つまり、見返りを期待するものなどではないと思います。仏や神の、慈悲や愛は無償のものです。神や仏になれとは言いませんが、人の人に対する情けというものは、本来、そういうものであるべきでしょう。

 志賀直哉の「小僧の神様」という小説をご存知でしょうか。これは、Aという裕福な貴族院議員が、商店の奉公人で、まだ子供の仙吉に、その食べたがっている高級な寿司を、上手に自分の名前を告げずに、たらふく食べさせてやったという話です。そして、仙吉は、その二度と会うこともない人を、神か、お稲荷さんだと信じます。一方Aは、自分のしたことに、変に淋しい、嫌な気持ちを抱きます。

 この物語から、いろいろなことが思われます。Aは、仙吉に情けをかけてやったと言えるのですが、それでも悩むのです。匿名性ということも加わり、いいことをしてやったという気持ちに偽善性を感じているのではないでしょうか。ここに難しさがあります。

 本当の情けというものは、掛け値なしの無償であるだけでなく、自分の気持ちを満足させるためのものとしたら、その真の無償性は、影を帯び、純粋性を失うものとなるのです。単なる、金持ちの道楽に過ぎなくなるといったら言いすぎでしょうか。

 河島英五氏の歌に「時代おくれ」というのがあります。その中の一節に、「昔の友にはやさしくて、変わらぬ友と信じ込み、あれこれ仕事もあるくせに、自分のことは後にする」というのがあります。友情ではありましょうが、こういったものが本当の情けでしょう。

 民法の扶養義務には、二段階があります。自分に余裕があれば、他のものを扶養するという義務と、自分の生きるのに精一杯でも、それを分け与えるという義務です。後者が、親子の扶養義務です。りんごがひとつしかなければ、子供と親と二つに分けるのです。

 もうお分かりでしょう。神や仏になれとは言いませんが、生きていくことの本当の意味から、心からの情けを持たないと、人は幸福になれないのです。

 だから私は幸福にはなれません。

  日輪の 山に沈み行く 枯野かな

 

てらこった      崎谷英文     2006年2月


虫めづる姫君

毛虫の大好きなお姫様がいました。毛虫は後に蝶になるのであるのに、みんなは、蝶ばかりをかわいいと思って、毛虫を気味が悪いと見掛けで毛嫌いするのをおかしいといわれる。その姫は、毛虫ばかりではなく、他のいろいろな虫も好きで観察される。周りの人たちから気味悪がられ、親も変わったことで困ったものだと思われている。しかし、姫は一向に気になさらずにいろいろな毛虫などを身の回りにおいて楽しまれている。
(堤中納言物語―平安時代の物語短編集より)

  毛虫の好きな方は、少ないでしょう。しかし、毛虫の好きな人もいるのです。現代でもいろいろ、世間の人たちからすると、変わった好み、趣味、嗜好の人たちはたくさんいます。

 たとえば、有名な脳解剖学者は、同じように虫が大好きです。普通人が嫌がるようなは虫類、ヘビやトカゲが大好きな人もいます

 一般の人たちも、それぞれ好み、趣味は違っています。・・・オタクといわれるような人は、・・・が大好きなのです。

 しかし、みんな同じ人間です。それは、人がそれぞれの感覚を持っているということを表しているのだと思います。みんなが同じ感覚を持っていることこそおかしいのです。このことを個性といってもいいでしょう。

 ある物を見たり、聞いたり、読んだりしてもそれぞれの人の感じ方は違うのです。

 「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」というのは、相手の立場に自分をおいて、相手の思いを推測して、言動を慎みましょうというとても大事な人としての原則です。

 しかし、さらに相手が自分と同じ感覚でないことのあることも考えなくてはならないのです。えてして、自分の感覚から理解できないことは、相手がおかしいのだと思い込んでしまうことがよくあるのです。そこに誤解や、対立が生まれます。

 困ったことに、このことを思いすぎて慎重になりすぎて、自分を出すことができなくなることもあるのです。

 自分の思いに囚われず、相手の思いを決め付けずに、無になって自然でありたいと思います。難しいです。

  寒月の 山の影にぞ 光あり

 

てらこった     崎谷英文      2006年元旦


サルのイモ洗い

一歳半ほどのメスザルが、砂の付いたイモを海で洗い出しました。それまでサルには、イモを水で洗ってきれいにして食べるなどという習慣は、ありません。しかし、そのサルは、どうしたことか、海の水で砂を落として食べることが便利だ、楽だと気が付いたのです。そして、その習慣は、他のサルたちにも徐々に伝わっていきます。年々、イモを洗うサルたちが、増えていったのです。
(河合雅雄氏より)

 サルの一歳半といえば、まだ子供です。その子供が、大人たちが誰もやらなかった画期的なことを、やり始めたのです。それが、そのサルの群れの文化、習慣となっていったのです。

 そのイモ洗いをしたサルは立派です。それを採り入れて、同じことをしていくことのできた他のサルたちも立派です。

 海の水に入って、水遊びをするようになったのも、子供のサルの行動がきっかけでした。

 サルにも文化があります。世代を超えた、文化、習慣というものがあり、それは生きる知恵であり、それを守ることにより、サルは永らえてきたのです。

 しかし、それがまた、新しいことを生み出すさまたげにもなっていたのです。永い文化、習慣というものは、定着すると、はみ出すことが難しくなります。

 事実、年老いたサルたちは、イモ洗いも、水遊びもしなかったようです。

 どこか、人間社会と似てはいないでしょうか。人間社会においても、今の文化、習慣、制度というものを、かたくなに守ろうとする大人がいて、それを打ち破る若者が出現していくのです。

 大事なことは、それを認めていく寛容な社会です。固い頭の大人たちが、若者の自由な発想による、自由な生き方を認めていくということが大切なのです。

 それは、世代間だけの話ではありません。地域間においても、重要なことです。自分たちだけが正しく、あそこはおかしいと決めつけることは危険です。それぞれの文化があり、その文化の交流により、友好的にもなっていくのです。その中で、若者たちが、いいものを選択していくのです。大人たちの選択は、所詮、自己保身でしかありません。

 新しいものは、若者から生まれていくのです。

 弱肉強食の自然界、自然淘汰の歴史において、弱いものと見られるものたちも、生き残っているものたちは、すべて、見事に、他のものたちと共存、共生しているのです。

 自然界の王者となった人間が、今、同じ種の中で、弱肉強食、自然淘汰をやっているような気がします。

 人間の素晴らしさは、自由の中にあっても、同じ種として、強いものも弱いものもなく共存、共生できる社会を作ることができるということではないでしょうか。

 老兵は去るのみ、山にのぼりて霞を食う。

 

てらこった      崎谷英文     2005年11月


ちくわの穴

 無とは、何もないこと。しかし、ちくわの穴は何もないけれど、穴がおいしいと言ったら、言いすぎでしょうか。

  レンコンの穴も、なければ、変な気がしませんか。

 無用の用とは、用いないけど用いているという意味ですが、そういうものは、たくさんあるような気がします。常識的に見て、何の働きもしていないようなものも、実は、重要な働きをしているということが、多くあるように思います。

 眠っているとき、とくに、熟睡しているとき、つまり、夢も見ていない状態でのノン・レム睡眠のとき、人は全くの無意識です。しかしその熟睡がないと、人は健康に生きられません。

 カエルが、柳の木に飛びつこうとジャンプしています。小野東風の有名な話ですが、それは、無理、無駄なことのように見えますが、そうではないでしょう。何度も、何度もジャンプして、それでも届かない。なんてバカなことをやっているのかと見えます。しかし、カエルにとって、それは無駄ではないのです。いつか、届けば、それは見事なことですし、結局、届かないとしても、カエルは、たくさんのことを学んだはずです。「もっと体力をつける必要がある。」「何か台を持ってくればいい。」「誰かに飛びつかせてもらおう。」「カエルの力は、これが限界だ。」等々、いろいろカエルは学ぶのです。

 無駄のように見えても、実は、無駄なものはないのだと思います。

 人は、それぞれ懸命に生きているのです。懸命にと意識しなくても、懸命に生きているのです。何をやっているのだ、遊んでばかり、だらだらとして等、周りから見ると、いらいらするようなことも無駄はありません。いつか、それが役に立つのです。

 無を0としたとき、マイナスは、さらに悪いことのように見えます。しかしマイナスも、2乗すればプラスになります。虚数のiも、4乗すればプラスになります。

 すべては、何かを生み出す元になっているのだと信じます。

 すべてのことが、いつか役立つように、方向を間違えないように、ちょっと手助けをしたいと思っています。

 今の世の中、方向が、どこかおかしいような気がしています。

てらこった    崎谷英文       2005年9月


仙人の戯言

 自由は実は、苦しいのである。
自分自身で判断し、自分自身で責任を持つ
これは実に大変なことである。
勉強するのは、この考えること、判断すること
責任をもつことの前提としてある。