冬の夜空を冬銀河などと言う。夜遅く仕事を終えて戸を開けると、冬の冷え澄みきった夜空には、満天の星が煌めく。
南の空にオリオン座の三ツ星を見つける。今日も新聞に載っていたが、100万年以内には、超新星爆発を起こし、消え去るであろうとされる赤っぽいベテルギウスが左肩にあり、対角線の端の右下に青っぽいリゲルが見える。ギリシャ神話によると、美しき逞しい狩人のオリオンが神に恋をして、神は怒ってサソリを使ってオリオンを殺してしまう。そのオリオンが天に昇ってオリオン座になったと言う。
137億年前頃に宇宙がビックバンにより誕生したと言われるが、宇宙は人知の及ぶべくもなく広大であり、無限に広がると言っていいだろう。。宇宙の果ては知らない。宇宙は、悠久の時間を持ち、過去から未来まで、果て知らぬ時を過ぎる。そんな宇宙の中の小さな銀河の中の、そのまた小さな地球の上にいのちは芽生え、人々もそこに生きている。
ギリシャの栄えた時代、かのアリストテレスさえ、大地の動いていることを知らなかった。地球を中心として、月と太陽と五つの惑星が、それぞれの軌道を持つ同心円状の天球があり、そのいちばん外側に星々の天球があると考えた。その当時、アリスタルコスと言う学者が、地動説を唱えたが、人々に受け入れられなかった。
ローマ時代になり、プトレマイオスがアリストテレスの天動説に沿った体系を確立し、天動説は揺るぎないものとして、定説となった。
釈迦も、キリストも、ムハンマド(モハメッド)も今知れているような宇宙の実像は知らなかったであろう。
仏教においての宇宙観は、須弥山に象徴される。搭のように立つ須弥山の一番下に風輪の層があり、その上に水輪、その上に金輪があり、そこを地上としてこの世の生き物たちが生きている。その周囲を月や太陽が廻っている。その上には、凡人の行き着くことのできない仏たちの住む山が聳えている。
キリスト教においては、よく知られているように、地球中心説は根強く、コペルニクスが16世紀に地動説を唱えたのだが、ルターなどのプロテスタントからも、聖書に反すると斥けられた。ガリレオ・ガリレイが、宗教裁判にかけられながらも、それでも地球は回っている、と言ったという逸話は有名である。
その後、18世紀になって、ケプラー、ニュートンなどの精密な観測により地動説が確固たるものとなっていく。
時は移り、科学技術が発達し、文明が人の世を大きく変えていく。人々の生活は、豊かに便利に快適になっていく。しかし、人の営みは変わってきたのだろうか。いくら、楽しいことが増え、暖かく過ごし、贅沢な生活をし、美味しいものを食べるようになったとは言え、人が生きていくということに、どれほどの変化があると言えるだろうか。
この世に生まれ、育ち、恋をして、子を得て、やがて老い、遂には死んでいく。この人の生に、ギリシャと今の時代とで、変わりはない。結局は、幻のような人生であることは違いなく、人はただ、無常に目を背けて生きていく。
宇宙を知ったかのように錯覚し、その為に神は死に、仏は去っていったのかも知れない。宇宙が神の創造ではなく、仏の住処でもないとしたら、人は宇宙の中心にいないと知りながら、人こそ主人公と勘違いする。
昔、人は謙虚であった。目に見えない何ものかに生かされていると思い、天と大地に祈りを捧げて生きてきたのではないか。しかし、今、人は尊大になり、人間の力を過信し、何処までも欲望を追求するようになっている。夢幻の栄華は、空しく潰えよう。
広大な宇宙の、無限の宇宙の中の、塵芥のような、瞬きする内の存在でしかない人であることを自覚すればこそ、かけがえのないいのちを生きることができるのではないか。
冬の夜空を眺めながら、今夜は歩いて帰ることにする。
濡れ落ち葉 重なり合いて いのち湧く
2014年 12月28日 崎谷英文
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