私は、イギリス人ではない、中国人でもない、ケニア人でもない、ブラジル人でもない。私は、日本人として生を受けている。このことを、今流行りの言葉で言えば、私の中には、日本人としてのDNAがあるということになるだろうか。さらに言えば、私は、田舎に生まれ育ち、東京で生活し、また、田舎に戻っている。私は、その時、その時において、その場の環境の影響を、常に受けて生きてきている。
現代においては、世界の通信、情報、交通網が発達し、世界を飛び回り、世界と絡み合いながら生きている人も多い。しかし、それでも、やはり、その人の意識、また知識というものは、その人の生まれ育った場所、今生きている場所にいることによる拘束を受けている。
人が、自由であると言うとき、自分自身の自由な感覚、発想、思索において、選択判断をしていると思い込むのであろうが、実は、それ程の自由ではない。天使のような自由でもなく、菩薩のような自由でもない。生まれ付いてからの、地理的、空間的、家族的制約を常に持った自由でしかあり得ない。
私は、縄文人ではなく、弥生人でもなく、武士でもなく、明治の人でもない。古代の狩猟に生きる者でもなく、手仕事の農耕に生きる者でもなく、刀を差しているのでもなく、文明開化に目を見張らせるのでもない。人は、地理的に拘束されているが、また、時代にも拘束されている。
今、現代に生きているからこそ、今の自分が存在している。その人の意識は、常に時代性を帯びている。人は、自由だと言いながら、その意識、心は、その時代の中で培われ形成されたものでしかない。自由と言いながら、実は、ほとんど常に、生まれてからのその時代の影響を受けたものでしかない。
親や大人に育てられ、その時の社会の中で育てられ、その時の社会状況の中で、人の意識は形作られる。子供は、親から束縛を受けている。子供は、その時代、その場所の束縛を受けている。子供は、常に、親の望むように、社会が望むように育てられる。もちろん、望むように育てられる子供は少ないが、それでも、それも、また、その親や社会の思いの中で育った結果である。
温故知新と言っても、その故きことに拘束されたものであろう。大人たちは、すべてにおいて、結局は、教育と言いながら、押し付けているのだという側面のあることは、忘れるべきではない。子供たちは、すべてのことにおいて、その時、その所の大人たちの影響を色濃く受けて育つ。
それが、悪いというのではない。仕方のないことでもある。人というものは、過去からの流れの中で、その時、その所で生きねばならないのであるから、大人たちが、子供たちに、生きる力を与えるためには、大人たちの思いを、子供たちに伝えなければならない。
しかし、それでも、大人たちは、子供を拘束していることを意識していなければならない。何が良いのかどうかという事は、実は、誰にも分からないのだから。大人たち自身が、時代と場所に拘束されているのだから。自由といっても、いいかげんなのだ。本当に、あらゆる拘束から逃れる自由というものはあり得ない。つまり、人は、常に拘束された存在なのである。このことを、存在被拘束性と言う。押し広げていけば、あらゆる存在には被拘束性がある。
人は、生まれた時から拘束されている。仏教で言う四苦とは、生老病死である。生まれ出づるときも苦しいが、生まれてからも苦しい。人として生まれるということは、窮屈な存在になるということなのかも知れない。もし、人に魂というものがあるとしたら、人として生まれるということは、その魂の自由なところから、不自由なところへ追い出されるということなのかも知れない。
こういう言葉を聴いたことがある。自分自身は苦しみながら、周囲の人は喜びながら生まれ、自分自身は喜びながら、周囲の人は悲しみながら死んでいく。
犬に笑う 春風の道 われ一人
2009年 2月16日 崎谷英文
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