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仙人の戯言 2013年

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ポトラの日記8

 相棒が夜遅く帰って来て、僕は寝床の発泡スチロールの箱から顔を出して、自動車が車庫に入るのを見て外に飛び出る。相棒が車庫の電気を消し、僕はニャーと声を掛ける。今日は、昼寝をし過ぎて昼食を食べ損なったので、おなかがすいている。相棒が、僕の皿に食事を入れる。僕は、縁側の方を見る。そこにウトラがいる。

 兄のウトラが、こちらに気が付いていないか心配になる。兄は、右の後ろ脚をずっと以前から引きずっていながら、大きく太く、食いしん坊で、僕が食事をしていると、それを奪いに来る。時々、相棒が、ウトラを遮って、僕の食べるのを守ってくれたりするが、いつも上手くいくわけではなく、相棒が去った後、兄が横取りしに来ることもある。

 僕は兄より弱いのだ。悔しいが事実だ。相棒も弱い。今は、もちろん、奥さんに命令され、こき使われるばかりだが、昔から、弱かったらしい。柔道というものを、高校、大学とやっていたらしいが、よく負けていたそうだ。決して運動神経は悪くないのだと、相棒は言っているが、未練ったらしい。根性がなかったのだ。

 強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格はない、とは、昔の映画のセリフだったそうだが、では、弱い者は生きてはいけないのだろうか。世の中、強い者ばかりではないだろう。僕は弱い。相棒も弱い。そもそも、強い者ばかりの世の中ってあり得ないだろう。弱い者がいるから、強い者がいるのであって、強い者同士が競い合えば、必ず弱い者が出現する。

 切磋琢磨する、という言葉があるが、その結果は、みんな強くなるのだろうか。やはり、負けるものが出てくる。僕は弱いが、あまり、強くなりたいとも思わない。弱くたって、相棒と共に逃げまどいながら、何とか生きていける。野生の自然界は、弱肉強食の世界だが、僕たちは、野生ではない。強い者も弱い者も、共に快く暮らしていこうとしたのが、現代の共同社会ではなかったのか。

 しかし、人にも猫にも、強さへの願望が本能としてあるようだ。強くあれば、そして勝利すれば、自分の思うようにできる。強ければ、思うがままに自由に生きられると、遺伝子は伝えているのかも知れない。しかし、自由ということを、取り違えてはいけない。自由に生きるとは、周りの者、周りの全ての者も、自分と同じ自由があることを実感することだろう。

 自由は苦しい。自分自身で考え、自分自身で判断し、決断し、自分自身で責任を持つことは、苦しい。しかし、それを、試行錯誤しながら生きるしかない。強くなって、勝てばいいものではない。サドは、服従する者を思うがままに操り、考えることがない。マゾは、支配者の言うがままにふるまい、考えることがない。人は時に、あの一人のおばさんのカリスマ的支配の中で、親族同士、殺し合ったりする。

 昔も今もかも知れないが、一攫千金は、勝つことに繋がる人の夢かも知れない。どこかの御曹司が、何十億もの大金をギャンブルにつぎ込んだのも、勝つことへの抗いきれない誘惑のせいであろう。

 強い者が勝利したとして、それはいつか、それ以上の強い者に敗北する。敗北した者は、いつか、勝利した者を打ち負かすことを夢想する。そうやって、止めどのない争いの世界が続く。強い者が弱い者を従え、その強い者はもっと強い者に従い、その弱い者はもっと弱い者を従える。これが組織だ、世界だとしたら、真っ平御免だ。

 欲望を捨てろ。負けることを怖れるな、恥じるな。負けたっていいじゃないか。実は、負けたって、弱くはないのだ。そうでなければ、僕は生きていけない。相棒も生きていけない。

  細る身の 恥を隠して 厚着かな

2013年   12月30日    崎谷英文


自己実現と自己統治

 人は、無として生まれてくるのだろうか。そうではない。何よりも、人の種としての本能を遺伝的に受け継いで生まれてくるのであり、先ずそこに、あらがいきれない煩悩の種(たね)がある。多分、あらゆる生物の種が本能として持つであろう種の保存、存続のための生殖、生存への欲望を無意識の内に抱えて生まれてくる。

 しかし、人は、他の種にはない自意識というものを備え、自分自身の精神を省みて、他人の意図を図りとり、その心に共感し、あるいは反発しながら、高度に社会的生活を営む種である。

 古来、人は生まれついての環境、状況の中で、その誂えられた社会の枠組み、拘束の中で、その社会に順応するべく育てられる。自由選択は限定的であり、時代的、空間的に意識は刷り込まれ、偏見に満ちたまま大人になってゆく。真の自由意志というものは、多分有り得ない。世捨て人、無法者とて、社会的拘束から逃れてはいない。

 しかし、近代以降、人はその生きる意味としての自由を自覚するようになる。如何に生きるかという選択は、個人の自由であり、そこにこそ人の生きていく価値があると考えられていく。実は、存在する社会的拘束の中で、自ら紡ぎだす自らの意志であり、どこまでも、先入観、偏見から逃れることはできないのだが、それでも、自由を擬制し、自由を尊重する。

 そんな自由ではあるが、それでも自己実現のための自由として価値を持つ。建前上、人は何ものにも拘束されず、自らの意志で生きると想定される。他人の自由を損なわない限り、自分自身の自由意志を持って生きると擬制されるのである。あるべき自分、なりたい自分になるという自己実現のための自由なのである。

 その自由は、また、自分自身の他の何ものにも拘束されない意志として、自分自身を拘束する。自分自身が決定、選択したものだからこそ、自分自身を拘束する。これを、自己統治の自由と呼ぼう。この自己統治という擬制により、人は自己責任を負う。自分自身が決めたことだから、他の誰にも責任を転嫁できず、自分で責任を負う。

 国家にも、また意志があると擬制しよう。国王の意志が国家の意志となり、国民はその国王の意志に従わなければならないという時代が長く続いた。しかし、国民主権、民主主義は、国民の意志を国家の意志とする。国民を含む国家というものにも、実現すべき姿というものが想定される。国民主権、民主主義である限り、その実現すべき姿というものは、国民がその自由意志で決定する。

 国民が、自由意志によって国家のなすべきことを決定するからこそ、国民は、その国家の意志に従う。国民主権、民主主義における、自己統治の擬制である。もちろん、その国民の意志も、現実の環境における拘束を受け、全くの自由意志ではあり得ないのだが、それでも、国民主権、民主主義は、試行錯誤しながら国家の意志を決定していく。

 個人が、自由意志により行動するとき、自分自身に関する情報は自分自身で把握している。自由を放棄し、自己統治を放棄しない限り、あらゆる情報から、人は自分で判断し、自由に決定し、選択する。

 国民主権、民主主義における国家においても、国民は自分自身の情報として、国家に関する情報を把握していなければならない。そうでなければ、国民主権、民主主義としての自己統治の前提が崩れるであろう。国民の知らない国家機密というものは、本来あるべきではないのである。

  まぶた閉じ 耳塞ぎても 氷雨かな

2013年   12月23日    崎谷英文


忍び寄る不条理

 英太は、一応、学習塾と言う仕事をしている。やくざな商売で、みんなが塾に行っているからうちも行かさなければと言う親も多いが、自分の子供の出来の悪いのを心配する親や、見栄で子供を何とかして世間で評判のいい学校に進学させたい親の弱みに付け込んで、月謝と言う如何にも勿体ぶった名目の金銭を請求して、生計を立てている悪人なのである。

 本来なら、中学生、高校生は、ほとんど費用なしに、公的教育が受けられて、そこでしっかり学校の先生に勉強を教えて貰っていれば、それぞれの能力の差はあろうが、その子なりに学習ができ、その子なりの進学ができるはずなのだが、わざわざ余計に金を払って勉強を見てもらう場としての学習塾なのである。

 今の中学生は、ほとんどが何処か塾というものに通っているのかも知れなくて、学校の教師たちも、自分たちの教え方が下手くそなのに、まあ、塾で補ってもらえるだろうと、自分たちの負担が軽くなるのをむしろ歓迎していて、口に出しては言わないが、心の中で塾というものを当てにしている教師も多いと思われる。

 それ程高額の月謝ではない塾だとしても、それでもやはり、貧しい家庭の子は塾には行けない。そうすると、本来充分優秀で、まともに勉強ができる環境であれば、高校、大学と難関で優秀な道を進むことができ、個人としてもその能力を発揮でき、社会としてもその能力を享受、活用できるであろう子供たちが、なまじその機会を失し、不遇な人生を送ってしまうことにもなりかねない。

 それは社会の損失でもあり、逆の目で見れば、大して能力もないのに、金に飽かせて高い塾に通ったり、家庭教師をつけたりして、私立の学校に進み、詰め込みの勉強をして、ただ、受験勉強だけができる子供たちが、その難関の道から社会の有力な指導的地位につくようになるとしたら、社会にとってのリスクにもなる。

 国会議員を見れば、二世ばかりではないか。能力がないのに親の七光りでその地位についていくとしたら、国家の危機である。親のことをよく見ているからと言う意味で、政治的能力、手腕が培われているという面もあるやも知れないが、この現代のポピュリズムの中での選挙で選ばれた二世議員というものには、ただの無能者もいそうだし、いる。

 これは、民主主義の欠点、欠陥、落とし穴なのだ。国民全体から、しがらみに囚われていない、真の憂国の優秀な心ある指導者たるものが選ばれていないのである。少々優秀であっても、二世の彼らには、本当の世の中の真実というものは見抜けず、本当の改革はできないと見るべきである。

 マスメディアもまた、本来その正義のあり様が問われる立場でありながら、あのニュースキャスターの息子のように、コネを利かした不正な、不公平な入社採用をしているようで、そのことを、そのテレビ局はもちろん、多のテレビ局も問題として追及していないということは、他のテレビ局でも、同様のことがあることの証でもあろう。

 何よりも、マスコミが、最も重要なマスメディアの存在意義である社会の木鐸としての真実の報道、その自由が阻害され、知る権利が侵されかねない秘密保護法に対して、余りに危機感がない。もはやマスメディアは、真実を追い求め、報道しようとは思っていないのか。このていたらくでは、現の報道自体、当てにならない。

 現代の、権力に擦り寄ったぬるま湯の不誠実なあり様の中に染まっている輩が、現代の不正、不条理、悪を指摘し、正すことなどできない。自らの首を絞めることを恐れるのである。長いものには巻かれろ、寄らば大樹の陰、虎の威を借る狐、そんな連中ばかりの世の中になっていないか。

 情けない。世捨て人になろう。

  空高く 冬の月あり 音もなし

2013年   12月12日    崎谷英文


権力

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす、おごれるものは久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。

 古来、権力を持つ者たちは、入れ替わり立ち代わり、その地位に立つと思えば転げ落ち、現われては消えていくことを繰り返す。

 どうしても、権力の地位に立つ者たちは、傲慢になり、自分自身が偉くなったと錯覚し、大衆、庶民たちを見下し、自分勝手な国家の為という大義の下に、国家の為には、人々の自由、さらには、命さえも取るに足らないものとして、逆らう者は、暴力、武力により、法律、規則により、排除しようとする。権力というものは、魔物なのである。

 官僚たちも、また、その厳格なヒエラルヒーと規律の下、自分たちが国民への奉仕者であることをいつしか忘れ、前例と整合性にのみ囚われ、自分自身を権力に寄り添わせ、政治的リアリズムと称して、権力者に追随し、腐敗していく。

 政治権力には、正統性が要る。あらゆる権力には、その権力の源泉たる権威が必要となる。人々は、ただ単に、軍事的、警察的暴力に屈するのではなく、精神的に、政治権力に対し容認する根拠を持たずには、生きていられない。それが、正統性である。

 古くから、伝統的権威というものが、その権力の正統性を担保していた。その始まりは、国民に扇情的興奮をもたらすようなカリスマ的権威であったろうが、ひとたび権力を握ると、伝統的権威として受け継がれていくことになる。しばしば、その伝統に連なる正統性を争いながらの権力闘争が繰り広げられる。

 日本もまた、天皇と言う伝統的権威を纏うことが、その正統性を担保していた。武士の時代においても、天皇に繋がる源氏か平氏か、という血筋の継承が、その正統性を保証していた。時に、秀吉のような、また、ナポレオン、ヒットラーのようなカリスマ的権威を持つ権力者が現れるが、伝統的権威にならない限り、長続きは難しい。

 現代社会においては、制度的権威というものが、最も重要である。民主主義においては、選挙で多数を得ることによって、政権を獲得することができるのであり、選挙で勝利することが、その権力の正統性を担保する。今、日本では、与党たる自民党と公明党が、衆参両院において、過半数を占め、その選挙の結果こそが、与党の権力の正統性を保証する。

 しかし、民主主義は、制度的に政権交代を予定している。おごる人は、久しからず、次なる選挙においては、政権交代があり得る。

 しかし、それを待っていては、取り返しのつかないような事態もあり得る。あくまでも、主権者は国民である。国民の選択が誤っていたとしたら、特に与党のなさんとすることが国民の人権、命を損なうようならば、たとえ、制度的正統性のある政権であったとしても、国民の力で引きずりおろせなければならない。制度的修正を待てない。それが、革命権である。

 今の与党は、日本国憲法の改正にしろ、国家安全保障会議にしろ、特定秘密保護法にしろ、日本を、戦争のできる国にしたがっているとしか思えない。世界でも、いろいろな所で、民主的正統性を装った政権が、革命、改革の騒乱に巻き込まれている。民主的制度も、使われ方により、とんでもないことになる。

 特定秘密保護法は、昔の治安維持法にもなり得る。政府にとって、都合の悪い輩を取り締まることのできる法律になり得る。たとえ、そんなことはないと言おうが、運用のなされ方、使われ方により、自由を奪い、自由を委縮させ、知る権利を侵し、民主主義の根幹を崩す怖れがある限り、馬鹿げた法律であり、日本国憲法違反である。

  背に冬日 帽子で隠す 涙かな

2013年   12月3日    崎谷英文


新しい人権

 日本国憲法には、基本的人権の尊重が明記されている。その中には、精神の自由、身体の自由、経済活動の自由が規定されている。英太が大学生時代、憲法には直接記されていないが、新しい人権として、憲法上も重要で、守られ尊重されねばならない権利として、三つのことが、議論されていた。もう、四十年以上前の話である。今は、中学校の教科書にも載っている。

 そのうちの一つが、プライバシーの権利である。英太の学生の頃、それは、個人の権利として、自己に関する情報は自分自身が管理しコントロールする権利として論じられていた。個人は個人として、他人の権利を侵さない限り何をしても自由であることが原則であり、そのような個人の私的生活に関し、覗き見られたり、勝手に公表されたりされない権利を、人は持つとされる。

 当時は、政治的情報に関し、プライバシーンの権利を認めることにより、政治的報道の自由が損なわれるのではないかと議論され、政治家のような人格的適性が問われる人に対しては、パブリックフィギュアー、公的存在として、ある程度、個人のプライバシーの権利の保護、保障は薄くなると言われていた。芸能人のような、人気商売の人たちにも程度は異なるであろうが、同様に考えられよう。

 現代の情報社会、IT社会において、個人情報は、容易に盗み見られ、また、容易に公表され、犯罪に利用され、個人的中傷に使われ、いじめの手段となっている。現代社会において、プライバシーの権利は重要性を増しているのだが、情報管理の厳密な要求は、一方で、個人の孤立化も助長していようか。

 もう一つの新しい権利として、環境権がある。これは、直ちに被害を及ぼすものではないが、環境を変化させることに対して、良い環境で生活を保持する権利というようなものである。そこから、具体的な権利として認められるものもでてきて、例えば日照権などがそれに当たる。大気汚染なども、数値としては、直ちに直接の健康被害が及ばないにしても、より良い空気の中で生活する権利を脅かすものとできよう。

 景観の良さも、環境権として認められるであろうし、経済成長のために作られる山を貫く高速道路なども、森の生態系を崩すもので、自然との共生の中で生きていく権利を損なうものとできよう。

 そして、もう一つの権利が、知る権利である。これは、民主主義とも関連するもので、政治的情報、事実に関して、国民は、その情報に接近できなければならず、政治的情報の公開を政府、公的機関に対して要求することができるとするものである。すでに、情報公開法、情報公開条例などが、存在する。政治的情報が、国民に知らされてこそ、国民主権、民主主義は成り立つ。

 しかし、今、特定秘密保護法などと言う、知る権利と真っ向から対立する法が議論されている。情報公開法があって、秘密保護法が成立しようかという、何とも摩訶不思議な状況である。そもそも、国民に秘密にしておかなければならない情報というものが、本来存在するのか。戦争中の作戦ならともかく、この平時において、秘密裏に外交、安全の策を講じなければならないと言うことは、つまりは、敵対する国というものを、想定してのこととしか思えない。

 これまでも、外交、安全に関しての秘密は、秘密裏に秘密にされたまま、国民の知るところではなかった。今度は、それを堂々と秘密にしようと言うことだろう。昔から、御上は、国民大衆に対して、寄らしむべし、知らしむべからずと、小手先で信頼させ、真実は知らせないものとしてきた。そうして、誰も責任を取らない戦争に突入していったのである。

 権力者たちは、秘密を持つことに酔いしれようとしている。国民主権では、あらゆる情報が国民に共有されねばならない。

  冬立ちぬ 今更何を 語るべき

2013年   11月23日    崎谷英文


タマネギ

 タマネギの苗を、もう百本、値段580円、を買って、畑に植えようとして、畑の準備をする。家の残飯を畑の土の中に混ぜ込んで、上から黒いビニールシートを被せておいて、一か月程経つ畝の、そのシートを取って、柄の長さが通常の半分ほどになった備中鍬で、畑の土を天地返しする。

 野菜くずなどのごみは、畑に入れることによって、ごみの日に出すことはなくなった。昔は、ごみは少なかった。時々、数十人のパーティーに出ることがあるが、その時、食べ物が大量に残っていることがよくある。世界では、飢えている人がたくさんいるのに、何とももったいないことと思う。むしろ、罪さえ感じる。一部のスーパーやレストランでは、食材の残りや残飯を肥料として再利用するらしいが、多くは捨てられるのである。

 畑を耕していると、まだ眠りから覚めたばかりなのか、ミミズがくねくねと這いあがってくる。ミミズは、土の中の微生物を食べて、分解し、それが畑の肥料になる。ミミズの多い土は、良く肥えていると言う。適当に土を掘り返した後、牡蠣殻石灰を振りまき、また掘り返す。石灰によって酸性化した土壌が、中和される。

 タマネギの苗は、10cmという短い間隔で植えていく。タマネギは、葉が横に生い茂るのでもなく、出来上がったタマネギが、くっつくように丸く生長していくことで、土の中の養分を充分に分かち合うことができるのだと言う。植えた苗は、寝かしておく。何時か、真っ直ぐ立ちあがる。水を撒いておく。

 この時季、太市で畑を持っている人の多くは、タマネギを植えているだろう。決して、売るためではない。タマネギは、収穫した後、軒先にでも吊るしておけば、半年程は食べられるので、たくさん作っても無駄にはならない。その他にも、今は、大根、白菜を育てている人が多い。

 農業は、食糧生産であるが、食糧生産にとどまるものではない。農地では、多様な生物が、食物連鎖の輪を作って、生きている。赤トンボは、農薬の多い田んぼには飛ばない。モンシロチョウは、少々寒くても、キャベツに卵を産む。蜘蛛は、害虫を食べる。自然は、実は、一つも無駄がない。弱肉強食の世界であるように見えて、きっと、あらゆる生き物は何かの役に立っている。

 ノスタルジーでなく、田畑の景色は、何時もいい。いいにおいがする。いい空気だ。人は、人同士、共生しなければならないのだが、本当は、もっと広く、この地球上に生きているものたちと共生しなければならない。他の生きものたちと共生することができれば、当然、人は、人同士共生するだろう。

 今、TPPが問題になっている。安く作られたものこそが、そのまま、国を超えて流通するべきだという経済的効率性が説かれる。国家は国家として、それぞれのその得意分野での生産物を他国に流通させることになる。資源のある国はいいだろう。しかし、そうでない国は、結局、食い物にされるばかりではなかろうか。

 国というものがある限り、その国において、少なくとも、衣食住における自給自足の体制はとっておく必要があるだろう。世界中から、安いものが買えればいいとは思われない。世界は、平和でもなく、何処で大災害が起きるかも分からず、いざという時、人々が食べていけるだけの体制は、整えられていなければならない。その時、金があるから大丈夫だとは言えまい。

 そして、何よりも、食の元となる大地との繋がりは、断たれてはならない。自然の循環の中で生きられるのだという実感を失わせてはいけない。もし、美しい日本と言うならば、美しい大地が崩れていくようなことはしてはならない。今さえよけりゃ、金さえあれば、自分だけよけりゃ、では恥ずかしい。

 この追加したタマネギ百本で、全部で二百五十本のタマネギを植えたことになる。収穫は、来年の春。

  欲望を 削り削りて 冬立ちぬ

2013年   11月13日    崎谷英文


非文明農

 十月十二日(土)、今日は、田んぼの残り三分の二程の稲刈りをする。小学生の親たちが手伝ってくれる。彼らは、正月明けのとんどの藁が欲しいのである。今の田んぼは、ほとんどが天日干しなどせずに、コンバインで一度に脱穀、籾摺りを行い、稲は短く切り刻まれて田んぼに散らばる。

 子供たちの親に、稲木の立て方、竹の渡し方、稲束の掛け方を教えて、今日も、ひたすら、バインダーを押し続ける。ウンカで坪枯れした所を残し避けて、すべて刈り終えるのに、昼を過ぎ、すべての稲架掛けを終えたのは、午後の三時頃だった。

 文明というものは、素晴らしいもので、人々の生活を便利にし、楽にし、豊かにさせてきたものと思われている。文明人という言葉は、明らかに、未開の地の人々に対する優越感、差別感を、その裏に潜ませている。確かに、文明によって、この米作りも、昔に比べれば、機械化が進み、農薬、化学肥料の使用により、便利に、楽になった。何しろ、農作業の時間は、著しく短縮した。

 トラクター・田植え機・コンバインは、米作りの三種の神器とも言えよう。牛馬を利用した田起こしから、トラクターに乗ったままの作業になり、早乙女の居並ぶ田植えから、機械的リズムの田植え機使用になり、手で刈ることもなくなり、コンバインでさっさと刈り取ってしまう。その籾米は、そのまま、ライスセンターやカントリーエレベーターに持ち込まれる。

 除草剤の使用により、田の草取りは、ほとんどする必要がなくなり、化学肥料の定期散布により、有機肥料の手間はなくなり、農薬の使用により、害虫や病気の心配もあまりしなくて済むようになった。驚異的に稲作にかかる時間は短くなり、サラリーマンによる兼業稲作が、当たり前にできるようになった。おばあちゃん、お嫁さんが、日頃のちょっとした手間をかけ、年数回、土日に息子が機械仕事をする。

 素晴らしいことなのであろう。汗水垂らす農作業は減り、時間は余り、企業で働きながら、従として農作業をすることができるのは、社会の生産性を大きく増加させているということなのであろう。

 英太は、世間に背を向け、後ろ向きに米を作っているかのようである。何を好き好んで、わざわざ、手間暇かけて米作りをしているのだろうか。

 そうやって、人々は、自分が食べていくものを作って生きるのでもなく、また生きていくために必要なものを作りながら生きるのでもなく、楽しいことを貪り、今だけ、金だけ、自分だけ、という生き方に没入していったのである。考えようによれば、無駄なものばかり、要らないものばかり、なくてもいいようなものばかり、が氾濫し、人々が、そんなものに執着していっているということかもしれない。

 それが文化だと言われれば、そうかも知れない。何しろ、人間は、僅か百年足らずの生命を生きねばならず、手近に楽しまなければ、人生は面白くないとも言えるのだから。

 そうやって、人は、土との繋がりを失くし、人間だけの人工の世界で生きようとしながら、逆に、冷酷で冷たく、非情で寂しく、多くの人間に囲まれながら孤独である社会に生きねばならず、そんな社会に耐え切れず、馬鹿になるか、気を狂わさずにはいられなくなる。

 天日干しを終えた翌日から、大雨が続き、二週間で脱穀、籾摺りをする腹づもりだったのが、さすがに乾きが悪く、一週間延びる。

 果たして、文明というものは、本当に人々を豊かにしたのであろうか。物質的充実は大きく進んだが、精神的充実は、ますます遠くに置き去りにされているのではなかろうか。物質によって、心を満たすことはできないのだ。そんな当たり前のことが解らずに、不平、不満は物で補えると見ることの浅はかさに気付かずに、世の中は進行している。

 十一月三日(土)、脱穀、籾摺りを終える。

  トラックに 何時の間に乗る バッタ鳴く

2013年   11月3日    崎谷英文


一人農

 十月十日、朝八時半より稲刈りを始める。一反六畝程の田であるが、終了時間を考え、今日できるだけの量を、バインダーで刈って稲木に渡した竹に干すことにする。左回りにバインダーを押していく。二日前に降った大雨で、低い所はバインダーのタイヤが沈み、空回りしてしまいそうになる。ゆっくりと、慎重に作業を続ける。

 昼前になって、やっと一本の竹を渡して、稲束を掛け始める。まだ、田んぼ全体の三分の一ぐらいしか刈れていないのだが、何とか、東と西に稲木を立てられる場所ができ、泥々になりながら作業を続ける。妻に、昼の弁当を持ってきてもらう。

 きれいに散らばった稲束と四方の山々を見ながら、畔に座って弁当を食べる。その場だけを見れば、一人だけのピクニックのようだろう。十月だと言うのに、この日は気温が30度を超え、とても暑い。ウンカの被害を少なくするために、本当は、成熟まで一週間程早いのだが、稲の出来は、良さそうだ。もっとも、実際は、天日干しの状況もあり、脱穀、籾摺りをしてみないと分からない。

 結局、午後四時過ぎまでかかって、刈った分をようやく干し終える。刈り取った稲束を竹の所まで運ぶのが、とにかくしんどい。昼の暑いときは、一時、これが熱中症かと思うほどふらふらしたこともあるのだが、風が出てきて、気温が下がり始めた頃、身体も慣れてきたのか、すうっと楽になる。それでも、二万歩以上の作業であった。後は、十二日にする。

 今、こんな面倒な作業を、それも一人でする者などいない。誰も褒めてくれない。むしろ、この村の人たちには、英太のやっていることは、道楽のように見えるだろう。採れる米の量も少ないのに、無農薬、無化学肥料、天日干しで米作りをするなど、お遊び以外の何ものでもないと見られていることだろう。

 人は、自分自身で、あるいは共同作業で、自然に働きかけて、自然の産出するものから、食べるものを得、生活するためのものを作って生きてきた。その本質は、今も変わっていない。しかし、文明は、人々の分業を促進する。自給自足の世界から、分業、専門職の社会へと移行していく。そこでは、昔の農村、漁村の共同社会の生活の仕組みが変容していく。

 昔の農村、漁村の共同社会では、凶作、不漁のとき、みんなでひもじさに耐え、豊作、豊漁のとき、みんなで豊かに楽しく過ごした。自然から受け取った恵みは、みんなで分けあった。そう言った共同社会では、誰かが飢えたり、誰かが栄えることなどない。人はみんな、自分自身で、あるいは共同作業で自然から手に入れたものは、みんなのものであると分かっていた。

 しかし、社会の進展は、人々に、効率をもたらす分業化を推し進めていく。村の中にも、大工、加治屋、酒屋、石工、樽屋、下駄屋、油屋など、加工食品、生活用品、農業用具などを専ら作る職人たちが出てくる。しかし、それはまだ、分かちあう共同社会であり、周辺地域と繋がりながらも、その村落においては、自給自足に近い状態だったろう。

 しかし、文明社会、科学技術の発展は、分業、国際分業を推し進め、さらなる効率性、利便性を追求し、今や、人々は、出来上がった食料、製品を、それを誰が、どこで、どのようにして手に入れ、作ったのか分からないまま、お金と交換して生きていくようになる。

 生きていくということはどういうことなのか、英太に分かる訳もないのだが、自ら汗して大地に働きかけて、太陽と自然から生活の糧を得るということに、英太は、幾らかの慰めを持つことができているという負け惜しみで生きている。

  寝て一畳 部屋の隅から 虫の鳴く

2013年   10月23日    崎谷英文


浮塵子

 十月五日、もうすでに、田んぼに水を入れるのを止めて、一週間ほど経つ。後、十日ほどで、ちょうど良い稲の実り具合になる予定をしていたのだが、周囲の田んぼに、浮塵子(ウンカ)の被害が出始めた。ウンカは5mmほどの虫で、いろいろな種類があるが、今、各地の田んぼに被害をもたらしているのは、トビイロウンカと言う種らしい。トビイロウンカは、6・7月ごろに中国、東南アジアから飛来してくるらしい。

 周囲の田んぼは、肥料をたくさんやって青々と茂っているのだが、英太の田んぼは、年末に乾燥牛糞を少し蒔いただけの田んぼで、きれいな薄緑色をしている。こんな痩せた稲には、ウンカは食べに来ないよ、などと農業のベテランの長老から馬鹿にされているような田んぼだった。しかし、今朝、英太の田んぼの中に、赤白っぽく丸くなっている所が見えた。どうやら、ウンカによる坪枯れらしい。

 坪枯れとは、ウンカの密集している中心から円状に輪のように、稲が立ち枯れしてしまうことである。今年は、西の方から、ウンカの被害が多くあるようで、酷くなると、田んぼ一面が立ち枯れることもあるようだ。ウンカは、稲の茎から汁を吸い取って稲を枯らしてしまい、稲の茎は茶色く萎れて倒れていく。田んぼの縁にではなく、中の方に穴ができる。

 トビイロウンカは、6・7月ごろにやってきて、卵を産み、二代目が発生し、8・9月ごろに再び卵を産み、三代目となると、大量のウンカの大発生となる。どんな田んぼにも、少数のウンカは生息しているのだが、いろいろな気象条件により、三代目となって大量のウンカが集中大発生すると、坪枯れ、立ち枯れが起こる。数が少ない間は、少々汁を吸われようが、稲も自力で回復、修復して普通に育つのだが、その回復、修復の限度を超えるウンカに襲われると、やられてしまう。

 それは、核分裂が臨界に達し、その連鎖反応により、もはや、外からはその増殖を止められなくなる状況に似る。自然界では、ゆっくりとしか崩壊していないウランを、その分裂しやすいウラン235を濃縮集約させて、一つの核分裂を起こすとき、ウランは二つの物質に分かれて中性子を幾つか放出し、その中性子が別の原子にぶつかって核分裂を起こしていく。中性子の放出が次々と核分裂を連鎖的に起こしていくと、それは歯止めのきかない状態となり、ウラン、二次物質から見えない放射線が何百年、何千年、何万年と放出、垂れ流しされることになる。

 臨界状態を、一度に一挙に大量にもたらすものとして、原子爆弾が作られ、臨界状態を、制御、コントロールして原子力発電が可能となる。しかし、原子力の臨界状態がコントロールできない時は、悲劇となるであろう。大地、海原、大気を通して、地球全体を破壊尽くすまで、増殖は止まらなくなる。

 ウンカの被害も、稲の自己防御機能を超えたとき、臨界となり、連鎖反応的に広がっていくが、人間の作りだした原子力ほど致命的ではない。それでも、英太の田んぼも、周囲の田んぼと同じようにウンカの被害に合っていることを、英太の稲も一人前と喜んではいられない。やはり、少し早めに刈り取り、天日干しにすることにする。

 その夜、高校時代からの友人と呑む。子供を産むと、おっぱいがホルスタインのようになったなどと、女の子?が言うと、S君が、僕は女房のそんなおっぱいを飲んだよと、馬鹿話しながら、しこたま呑んだ。

 十月十二日に刈ろうかと思っていたのだが、手伝ってくれる者もなさそうなので、一人で、十日から刈り始めることにした。

  あばら家に 半月高し 虫の声 

 

2013年   10月14日    崎谷英文


何を買う?

 この年齢になると、買って、欲しいものはあまりない。それは、お前が貧乏だからで、金があれば何か欲しくなるだろう、と言われても、たとえいくらたくさん金があったとしても、これと言って欲しいものはない。若い女の子は眩しいのだが、隣に座ってくれるものでもなく、たとえ金があって金で仲良くなったとしても、それで気分が良くなるほど悪党でもなく、ただただ、後悔するだろうと思うと、もはやこれからは、若いときのもやもやとした雑念や煩悩は捨て去って、静かに暮らすしかない。

 などと、冗談を言っても仕方がないのだが、実際、この現代社会、この成熟した日本の社会において、人々は、何を欲しているのだろう。贅沢というものを、みんな、したいのであろうか。では、贅沢とは何か。いわゆるセレブのような、豪華で優雅で、高級なものを身に付け、高級料理を食べ、有り余るものに囲まれた生活が贅沢なのだろうか。そんな生活を、人々はみんな、望んでいるのだろうか。

 そんな贅沢な生活を望んでいる人もいるだろうが、そんな生活を少しも面白くないと思う人も多かろう。立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半。人が生きていくのに、どんな大きな邸宅に住もうが、生活する空間は狭い。どんなに美味しいものを食べたいと思っても、食べる量はたかが知れている。

 贅沢は敵だ と言っていたのは、ほんの七十年前である。今や、贅沢は素敵だ、となって久しい。人は、最低限の衣食住がありさえすれば、生きていける。原始から、ずっと、人々は、そのために悪戦苦闘してきたのだ。そんな暮らしの中にも、いや、そんな暮らしの中でこそ、人々は、生きる意味を体感し、生きる喜びとまたその儚さも、感じてこられたのだ。

 産業革命以降、文明の発達は凄まじく、素朴な衣食住から、華麗な衣食住へと発展していく。本来、人は、自然の中から、自らの手で取り出し、また作り上げていったもので生きていた。野の草は、摘み取って自分のものになり、泉の水は、手で掬って自分のものになる。しかし、今や、自ら作り出すもののみで生きている人は、ほとんどいない。あらゆるもの、あらゆることが、分業化され、世の中の流通過程を経て、人の手に届けられる。

 機械文明は、人の仕事を楽にし、便利なものを供給し、楽しいものを喧伝する。三種の神器(洗濯機、掃除機、冷蔵庫)が行き渡り、3C(カー、クーラー、カラーテレビ)が当たり前になり、インターネット、携帯電話、スマートホンの時代になっていく。後、何が欲しいのだろうか。新しいものが次々と発明され、ほとんどの人がその恩恵を受けて、人々の生活は文明化されていく。

 これ以上、何が欲しいのか。日本では、人口は減り続けていくだろう。今までと同じものを作っていっても、その消費が増える訳がない。イノベーションとやらで新しい画期的なものが生まれ、みんなが、必要だとして、欲しがるようなものができるだろうか。今でさえ、電子機器の生み出す冷たく危うい人間関係が問題になっているのに、なおさらに世の中を殺伐としたものにするようなものしか、発明されそうにない。

 買え買えと言ったって、要らないものは買わないし、食え食えと言ったって、人の身体には限度があり、遊べ遊べと言ったって、そんなに馬鹿になりたくないし、旅行しろ旅行しろと言ったって、物見遊山の旅は疲れるし、老人たちは、縁側に座ってお茶を飲み、ちょっと家庭菜園をし、夕べにはのんびりと散歩して、金は使わない。

 大放出された金は、金持ちたちに集まり、ますます格差は拡がるだろう。先日、成金の若者の、一見豪勢な、実は憐れな生活がテレビで映し出されたが、反吐が出そうになった。貧乏人たちの怨嗟の渦が巻き起こらないように、気分だけ景気を良くしても、果ては目に見えていよう。

 発展、成長と、足掻くのは止めよう。もう発展は要らない。

  見上ぐれば 見下し見られ 雁渡る 

 

2013年   10月3日    崎谷英文


宝くじ

 宝くじのテレビコマーシャルで、上司が部下に「お前の夢は金で買えるのか。」と問いながら、自分は宝くじを買っている。宝くじを買っているのを部下に見られながら、「人違いだ。」と言い張る。しかし、上司は名刺と宝くじのカードを間違えて、商談相手に差し出す。

 結局、今の世の中、お金ですよ、と言いたいのだろうか。宝くじを買ってもらおうとするコマーシャルだから、そうなのだろう。しかし、それでは、どうして、上司は「お前の夢は金で買えるのか。」などと言ったのであろうか。「それはいいね、俺も買うよ。」ではないのであろうか。

 本音と建前の違いだとすれば、本音は金か。では、どうして素直に、世の中は金だよ、と言えないのであろうか。素直にそう言うことが、ためらわれているのであろう。しかし、結局は、このコマーシャルは、世の中は金だ、と結論付けているではないか。そのためらいは、どこから来るのか。

 それは、やはり、世の中は金ではない、のだからではないか。「世の中、金だよ。」という言葉を聞くと、どう感じるであろうか。そう言った相手を、嫌な奴、と思わないであろうか。確かに、現代社会において、金銭、財産というものが、万能であるかのように幅を利かせている。しかし、正面切って、「世の中は、金だよ。」と言う人間は少ないのではなかろうか。金銭欲に憑りつかれてしまうことに、本能的に、恥じらい、後ろめたさを感じるのではなかろうか。本当は、もっと大事なものがあるはずだ、と分かっているのではないだろうか。本音の本音は、世の中は金ではない、のだ。

 もちろん、いろいろな人がいて、世の中金だよ、と平然と言い募る人がいる。そういうことを、さも当然のように言う人たちに、幾度となく会ってもいる。しかし、人は、本当は、金のためにのみあくせくと働き、金のためにこびへつらい、金のために理不尽な命令にも従い、あわよくばあぶく銭を手に入れるのだ、と言うような生活は、どこかおかしく、嫌なものと感じているのではなかろうか。少なくとも、大金を手に入れることだけで、心からの満足が得られるとは思われない。

 そう、人の心は、そんなに醜く、愚かで、不様ではない。人それぞれの生き方はあるであろうが、心からの満足、まあ、そんなものはないと言ってしまえばそれまでだが、それでも、そんな辿り着けないものかも知れないが、心の中には、もっと大切なものがあるという思いが潜み隠れているに違いない。大金を手に入れることだけで、心が満たされる訳がない。

 金は、万能であるかのように装う。嘗て、金で買えないものはないでしょう、と言った馬鹿がいるが、案の定、牢獄に入った。確かに、金があれば、様々なものを手に入れることができる。しかし、人のいのちは買えないし(稀には金でいのちを売る人もいるが)、人の心は買えない(人の心を買ったつもりになっても、真にその人の心を買うことなどできない)。

 金は、ほとんどあらゆるものに取り換えできる可能性はあるのだが、本当に価値あるもの、意義あるものは、その取引されるもの、その仕事なのである。さらに言えば、そういったものや、仕事は、本来、金に換えられるものではない、とさえ言える。人は人に、余ったものがあれば与え、融通してやり、人手が足りなければ手伝ってやり、リンゴが一つしかなければ二つに割って食べ合い、道がなければみんなで道を作り、美しいものはみんなで大事に守っていく。

 しかし、今や、金が神になる。心から納得していないはずなのに、金の亡者に人は成り下がる。どうなのだろう、金持ちを羨ましいと思う人は多いだろうが、金持ちの人を、人は尊敬しているだろうか。金持ちは怪しい。アメリカは真正の資本主義の国で、自由な欲望をその能力と手腕で達成していくという、いわゆるアメリカンドリームを標榜していて、金持ちは偉い、と見る向きがある。日本も、世界も、どうやら、そんなアメリカ的資本主義にはまり込んでしまっているようだ。

 宝くじのコマーシャルを面白がって見ていると、早晩、日本は亡ぶ。

  立待の 月影野良と 二人酒 

 

2013年   9月23日    崎谷英文


稲刈り

 9月13日、金曜日、6時半に起床し、出屋敷、大池のゴルフ練習場の隣のローソンへ行き、温かい缶コーヒーと冷たいお茶を二本買い、新聞二紙、日経と朝日を買う。太市の四方の山は、曇りがちの朝は、遠くの山並みがまるで水墨画のように霞んでいるのだが、今朝は、今日の晴天を予感させるように、くっきりと稜線を見せている。

 太市を北から南へ繋ぐ石倉・太子線の道、太市中の南寄りの一反六畝(16アール)程の稲田を見に行く。昨日、ここにイノシシが出現したらしい痕跡があり、シカの足跡もあり、これから実っていく稲を目当てに、両者から田んぼが荒らされないかと心配する。シカは、田の周囲にリボンや紐を張り巡らすことで幾らかは防げるのだが、イノシシとなると、それこそ、頑丈な鉄製の柵を設けねばならず、困ったものだと、周辺の田の耕作者たちと話をしたところだった。イノシシのこの田への出現は初めてである。今朝も、田の周辺まではイノシシの来た形跡はあったが、田までは荒らされていなかった。田水の堰を開けておく。

 今日は、これから、もう一つ桜山ダムから流れてくる太市川の横にある三畝(3アール)程の田の稲刈りをする。さっき見てきた田の方は、中生品種のヒノヒカリで、刈り取りは十月の中頃になるのだが、この小さな田の方は、早生種のキヌヒカリで、そろそろ刈り時なのである。その畔に、気の早い彼岸花が一輪咲いている。朝食前に、天日干しのための稲木の足、竹を数本、倉庫から取り出し、慎重にトラックの荷台にロープで斜めに括り付け、田まで運んでおく。

 あまりにも能天気な人物ばかり出てくる朝の連続ドラマを見ながら朝食をとった後、直ぐ、出かける。倉庫の中から、稲を刈りとって束ねてくれる、いわゆるバインダーという農機具を取り出し、アルミの梯子を使いトラックに載せる。このバインダーは、稲の並びの一筋ごとに押し歩いて行くもので、先ずは、周囲から刈り取る必要がある。押し歩いていくと、束ねられた稲が規則的な時間の間をおいて、勢いよく右側に飛び出るので、左回りに回らねばならない。そうしないと、稲束がまだ刈り取っていない稲の中に入り込んでしまう。便利な機械なのであるが、何しろ、草取りで踏み荒らし凸凹になった地面を真っ直ぐきれいに進ませるのが難しく、稲を所々倒しながら歩いてしまう。それでも、全面を刈り取るのに、一時間半ほどかかって、一部刈り残しながら終了する。

 最近、少し秋らしく涼しくなってきていると思っていたのに、今日はひどく暑い。大汗を掻きながらの作業で、お茶のボトルを一本飲み干す。一服をして、稲木の設営にかかる。松の木の枝から作られたのであろう直径三センチほどの先を細くした長さ二メートルほどの稲木を、三本、三脚にして木槌で頭を叩いて立てる。そこに、七・八メートルほどの真竹を物干しのように上に置いていく。途中、一カ所か二カ所、二本を括り付けた稲木を、竹が重みで撓み折れたりしないように立てかける。二本の竹を繋ぎかけると、十五メートルほどになる。そこに、稲の束を掛けていく。途中、昼の弁当を妻に持ってきてもらい、また、お茶を飲む。昼の一時を過ぎ、作業を再開し、もう一本、八メートルほどの干し竹を作る。作業は、午後三時過ぎ、ようやく終了する。

 ふと、気付いたことだが、人間以外の生き物とばかり会っている。朝は、半野良猫のポトラたちに餌をやり、秋のキュウリやナスをもぎ、庭のクモの巣を払い、鳥の声を聞き、もうそろそろ終わりのツクツクボウシの鳴くのを耳にする。一昨日、休耕田の草刈りをしていると、トンビの小次郎がミミズやカエルを狙ってであろう、三メートルほどの直ぐ近く目の前まで、下りてくる。今日の刈り取りの時には、アカトンボが二十匹以上も集まって来ていた。バッタやコオロギは、慌てふためいて、ぴょんぴょん飛び跳ねる。

 今日、今までに、人と話したのは、妻とローソンの店員だけだ。万歩計は、優に一万歩を超えている。

  招かずも 数多の秋の 知己に会う 

 

2013年   9月14日    崎谷英文


新宿

 新宿という街が好きだった。新宿は、良くも悪くも、正も邪も、美も醜も、平和も戦争も、男も女も、ほとんどあらゆるものが、混沌とした中で雑居する街であった。新宿駅の広い地下街を通って東口に出ると、目の前にスタジオアルタがある。その一つ左側の道をまっすぐ行くと靖国通りに出る。靖国通りを渡ると、そこは今も不夜城であろう歌舞伎町である。近くには、新宿区役所があり、伊勢丹デパートがあり、花園神社がある。

 歌舞伎町は、種種雑多、高級なしゃれた店もあれば、狭く汚らしい酒屋もある。おしゃれなブティックもあれば、いかがわしい物品店もある。英太が東京に居た二十年以上の間にも、歌舞伎町は、日々変化しているように思われた。いつの間にか看板が変わって、ビルの地下に新しいバーができている。浮き沈みの人生を象徴するような街だった。英太は、東京を離れる少し前に、東京では食べられないと思っていた明石焼きの店が歌舞伎町にできたのを思い出した。

 私が男になれたなら、私は女を捨てないわ、ネオン暮らしの蝶々には、やさしい言葉がしみたのよ。藤圭子の「新宿の女」がヒットしていた。男になれたなら、女を捨てないわ、順接の「なら」があって、女を捨てないわ、は言葉遣いとしておかしいのだが、バカだな、バカだな、だまされちゃって、どこか理不尽でやりきれない生き様なのだろうが、そんなにも愚かでありながら、すがりつくような一途な生き様は、自分に合っているのではないかなどと共感を持った。新宿は、そんな女に相応しい場所だった。きっと、そんな女が其処此処にいるのではないかと思わせる場所だった。

 夜咲くネオンは嘘の花、夜飛ぶ蝶も嘘の花、嘘を肴に酒をくみゃ、夢は夜ひらく。前を見るよな柄じゃない、うしろ向くよな柄じゃない、よそ見してたら泣きを見た、夢は夜ひらく。

 「俺は、やっぱり失敗したんだよな。だけど失敗したけど、どこかほっとしてるんだ。俺は、田舎からほとんど何も考えずに、東京に来ればどうにかなると思ったんだ。何とかなった気はしたんだけけど、辛抱できなかった。だんだん、こんな自分が惨めに思えてきたんだ。毎日、毎晩、稼ぎの薄い客商売をこつこつ続けるなんて、俺にはできないんだよ。女房、子供の為に我慢するなんてことは、俺にはできなかったんだ。だから、これから、もし一人で好き勝手生きていけるなら、のたれ死んだっていいと思っている。」

 居酒屋「まさ」の雅人は、英太にビールを注ぎながら、そう言った。

 「もしかすると、雅さんは、正直なのかも知れないね。今の世の中狂ってるからね。全うに生きなさいよ、と言われながら、苦労したら後でいいことあるよ、だから苦しくても逃げちゃだめだよ、と言いながら、実は、今の世の中でおとなしくしてなさいよ、と言っているのだから。」

 英太は、少しばかり、雅人の気持ちは分かるような気がしていた。人間なんて矛盾だらけで、自由だと言いながら自由などなく、平等だと言いながら平等なんかない。いつもいつも、自分をごまかしながら、適当な言い訳を作って生きているんだ。二十年以上前の話である。その後、二人は、新宿へ飲みに行った。

 新宿の東口から左に折れて、狭いガード下を潜り抜けると西口に出る。少し行くと、今は、思い出横丁と言われている、昔からある小さな呑み屋が数十軒並んだ一角がある。今や、ノスタルジックな名物場所になっているようだが、その頃は、まだ本当に汚らしい横丁であった。その中に、鰻の肝焼きの旨い店があった。

 藤圭子は、雅人、英太より一つ年上になる。

  倍ほどを 生きても空し 草かげろう 

 

2013年   9月4日    崎谷英文


古い桜の木

 日本の国のいろいろな所で豪雨が集中し、別の所では、長く雨が降らず猛暑になり渇水の心配がされるというような、訳の分からない天の仕打ちが続いていて、この太市でも、数週間とんでもない酷暑で雨が降らず、畑もからからに干上がって、毎日の水遣りに追われていたのだが、ようやっと、そのゲリラ豪雨的なものが、小規模ながらやってきて、また今度は、降り過ぎるなよと案じていたまだ雨の降り続く朝、門の外の古い桜の木の枝が、豪雨の為だろう数本が折れ落ちている。乾ききった枝に強い雨が降り注いで折れたのだろう。如何にも姥桜と言うような苔に覆われた大小の枝が、前の道を塞いでいた。

 桜の木というものが、どれぐらいの寿命を持っているのかは知らないが、桜の木にも定命というのがありそうだ。人間と同じで、それぞれの桜の木で、その定まった与えられたいのちの長さというものがあるのかも知れない。大事に手入れしていてやれば、もっと長く生きていけたのかも知れない。

 桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿という言葉があるが、桜は、その枝を切らずに自由奔放にさせておくのがよく、反対に、梅は、枝を剪定してやる方がよく花を咲かすのだそうだ。十数年前に、素人に庭の手入れを頼んだのだが、その人は、桜の木と知ってか知らずか、どうだきれいだろう、とばかり散髪してくれたのである。梅の木もあったのだが、そちらの方は、それこそ梅だと分からなかったのであろう、見事に、根元から切り取られていた。

 しかし、その後も、その桜の木は毎年、少し以前よりは少ないながらも、花を咲かせてくれた。この春も、老いた体に鞭打つように枝を伸ばし、桜の花を開かせた。いつの間にか、隣には、その自分の子であろう桜の木が育ち始めている。この夏には、病葉が多いものの、蝉たちの格好の住処となり、他にも様々な虫たちのいのちを育んできたと思われる。絡まる蔦を、気の付く限り切り払ってやってはいたのだが、苔むした幹には大きな洞が作られ、老いを感じさせている。

 あらゆるものは、あらゆる生まれ出でたるものは、必ず滅する。カゲロウのようにほんの僅かの一日も生きながらえないような生き物もいれば、何千年も生きるスギのような木もあり、そのいのちの長さは、種により、また同じ種のそのそれぞれの個体により異なる。何も長ければいいというものではなさそうだ。短くとも、一瞬でも、生きていたというきらめきがあれば、いのちは全うされる。土の中にうごめくいのちがあり、森の奥に寄り添ういのちがある。

 長いいのちもあれば、短いいのちもある。そのすべてのいのちは繋がっている。人の目に見えないようないのちも、その全身で生きようとしていのちを全うする。人もまた、そのいのちの仲間であり、永遠のいのちなど有り得ない。人も人で、そのいのちのありようはそれぞれで、それぞれのいのちを全うする。

 「どう生きたっていいよね。もういのちの半分は済んだんだから。どうせ俺のいのち、好きなようにさせてもらうよ。」

 居酒屋「まさ」の雅人は、英太の顔も見ずに、遠くを見るようにして毒づく。英太が東京を離れる頃、雅人は、うらやましそうに、「俺も、もう一度別の人生を送ってみたい。」と言っていたものだ。雅人にとって、それは、無責任な逃避であるが、そうなっても家族はどうにかなるし、自分もどうにかなると思っていた。英太が、太市に戻ってきて半年経った頃、東京に残っていた妻から連絡がきた。「雅人さん、出て行っちゃった。」

 ぼろぼろになって折れ落ちた桜の枝は、老醜にふさわしいと言えばふさわしかったのだが、全うしたいのちと見れば、神々しい。

  老醜の 影の葉陰の 蜻蛉かな 

 

2013年   8月24日    崎谷英文


墓参り

 前の日の日曜日に、妻と息子と三人で墓掃除をし、そのまま、盆の墓参りを済ませた。太市に戻ってきてからは、毎年、この八月の盆の頃に、やぶ蚊の飛び交う桜山から流れてくる太市川沿いの麓から、三十メートルほどの細い坂道を登ったところにある墓所の掃除と墓参りをしている。英太の家の墓は、多くの村の人たちの墓の集まる墓所とは別の、少し離れた所に、十数基、山の北側の斜面を台状に切り開いて設えてある。世間で好まれるような日当たりの良い見晴らしの利く墓所ではなく、鬱蒼とした森林と竹林に囲まれた昼なお薄暗いところに、北側に向かって墓が並べられているのである。

 英太の家は、代々浄土真宗本願寺派、いわゆる西本願寺の檀家として続いている。浄土真宗は、親鸞が開いた絶対他力の念仏宗教であり、禅宗のような厳しい戒律もなく、修行も必要としない。この世の空しさ、人の無力さを知り、ただ阿弥陀仏を信じ、南無阿弥陀仏と念仏することにより、仏の力によって、仏になれるとする宗教である。た易く、都合のいい教えのように聞こえるが、今は、禅宗においても、大衆に難行、苦行を強いたりしない。

 日本の仏教は、以前から言われているように、厳粛なる儀式とその教義を退かせるようなことはしないながらも、大方は、葬式仏教、仏事仏教、観光仏教になっていて、ただ檀家を確保し、その布施と賽銭を減らすまいとしている。

 通常、家というものに宗教は付いている。今でも、都会に散らばっている親族郎党が、近しい親族の三回忌、七回忌、十三回忌などの法要と言うことで田舎に集まることはよくある。これを古びた慣習、しきたりと切り捨てることもできない。煩わしいながらも、人のいのちの儚さと、今あるいのちのつながりを感じとるのには、適当な行事なのかも知れない。何も、その家の宗教を信じていなくとも、宗教心のようなものは、育ててくれそうだ。

 現代の都会では、もう法事のようなものは行われなくなっていたり、あったとしても、内輪の小さなものになっているのかも知れない。結婚しない若者も増え、結婚していたとしても故郷とは疎遠になっていく人が多い。昔、杉並区大宮に住んでいた頃、隣のおばあさんが亡くなった。独身の息子と一緒に居たのだが、何処からか坊さんを呼んできて、そのアパートで読経をして送りだしたのだが、参列したのは、英太と妻と近所の人二人だけだった。

 時代は変化している。英太の村では、人が死ぬと近所の人たち、いわゆる隣保の人たちが葬式の手伝いをする。みんな仕事を休み、女の人は通夜と葬儀の期間の料理を作り、ずっと以前は、男たちは亡くなった人の棺を担いで村の葬儀場、焼き場に運んでいく。人の死は、一大事なのである。そうやって、生きている者たちは死んでいった者たちに思いを巡らし、また生きていく。今では、隣保の人は、葬儀会館で受け付けをするだけになった。

 今日、英太は京都に来ている。英太の家には、京都にも墓がある。五条坂の大谷本廟にある団地のような墓のマンションである。小さな仏壇が一階から九階まで膨大な数整然と並べてあり、その一つが英太の家の墓で、祖父からの遺骨が、分骨されている。花を買い供える。線香は、電熱線で温められて煙を出す。

 姫路の街を歩いても、その人の多さに困惑するのだが、京都に来てみると、なおさら人の多さに辟易する。人の数が増えれば増えるほど、人のいのちも希薄されそうな気がして、自分一人の存在の無意味さをいっそう自覚する。家族というものは、面倒なしがらみであるかもしれないが、死んでいった人も含めて、人が生きていくうえでの支えになっていることも確かであろう。

 エスカレーターを昇りながら、直ぐ前の若い女の健康そうなおしりに煩悩をくすぐられ、暑いのに冷や汗をかきながら家路についた。

  提灯に 迷う狐や 夏祭り 

 

2013年   8月14日    崎谷英文


ツバメ

 「俺がいなくなったって、世の中少しも変わりはしない。女房も子供たちも、むしろ、俺がいない方が、ちゃんと生きて行ける。ここまで駄目になると、一緒に居ればいるほど、俺は家族に迷惑を掛けることになる。迷惑なんてものじゃないね。俺がいることによって、彼らは俺を責め、俺が悪者として彼らと繋がっていることによって、彼らの自由を奪ってしまう。俺がいない方が、周囲の人たちも彼らに同情し、世話を焼いてくれるってものだ。俺がいれば、手出し口出ししにくいだろう。女房の実家も、手助けしやすいだろうしね。」

 居酒屋「まさ」のマスター、雅人は、そう言って英太のコップに冷酒を注ぐ。

 「だけど、もう少し頑張れるのじゃないか。もうちょっと時間をかけて、対策を考えてもいいだろう。」

 「駄目だね。もう、子供たちも女房も、俺に愛想を尽かしている。今から挽回はできないね。」

 二十年以上前のことである。英太が、東京を離れる一年ほど前だっただろうか。

 今朝、太市中の公民館の清掃の役務が廻ってきて、同じ班の十五人程で、公民館の掃除をした。朝の七時から集まってきたのだが、もう、暑さがじんわりと滲み寄って来ていた。公民館の集会所の大きな扉を開けたとたんに、ツバメが三羽飛び込んできた。今頃のツバメは、親だけでなく、巣立った子ツバメも多くいるようで、公民館の外にも、四・五羽のツバメが飛んでいる。

 清掃が終わり、さあ帰ろうとしたが、まだ、中にツバメがいる。彼らを出してやらなければならない。掃除中も、窓を開けていたのだが、一向に出て行かなかった。今、扉を閉めれば、彼らは生きられない。窓を開けておいても、出て行かないだろう。

 英太は、もう一人と、竹のほうきで彼らを追い出そうとした。しかし、彼らは、追えば追うほど、上の方に行ってしまって、一向に開いている下の窓の所には行かない。この公民館の中の高さは、十メートル以上もあり、上から追うこともできない。追えば追うほど、上の方へ行ってしまう。

 ツバメたちは、好き好んで公民館の中に入ってきたのかと言えば、そうでもなさそうで、虫を追いかけているうちに、みんなと遊んでいるうちに、開いた扉から迷い込んだのであろう。今も、外では、数羽のツバメが心配なのか中の様子を見るように飛んでいる。そのうちに、外の一羽が中に入って来て、館内のツバメは四羽になった。

 帰ろうとしていたおばさんたちも入って来て、みんなでほうきや棒を持ってツバメたちを追い出そうとしたが、ツバメはますます逃げ回るように天井辺りを旋回する。何度も追いかけ何度も旋回する。英太たちは、清掃以上に大汗をかく。ツバメにとっても、ストレスが重なる。

 境界のない大空では、上に上がれば上がるほどツバメの自由は広がるのであろうが、館内では、そうはいかない。人も、上を見て飛び立つのだが、人の世にも天井がある。人の世には、前にも後ろにも、右にも左にも境界がある。どこかに、広がる大空に抜け出す穴があるのだが、人の目は、決まって上を向いたまま下の方には眼差しを向けない。下の方には、大きな出口があるのに、気が付かないのだ。

 ようやっと、一羽が窓から出て、一羽が力尽きたのか、壁と机の間に落ちてくる。そうっとつかんで外に出してやると元気に飛んで行った。しばらくして、残りの二羽も、窓から飛んで行った。みんな、汗だくだった。

 英太は、もう一度、雅人に言った。「もう少し頑張ってみない。」

  踏みゆけば 鷺の舞い立つ 青田かな

 

2013年   8月4日    崎谷英文


ポトラの日記7

 今年の夏は暑い。などと言ってみても、僕にとっては、まだ三年目の夏だが、相棒の言うのを聞いていると、相棒の子供の頃からすると年々夏が暑くなっているらしい。あんたの年齢のせいだろう、とからかったりするのだが、この暑さは、僕たち猫にとっても、相当堪える。昼間は、縁の下や家の陰や木の間に入って寝ているしかない。

 家の裏の田の田植えも済み、蛙たちの喧しい夜の合唱の季節もそろそろ終わりにかかり、次は僕たちの番だとばかり、まだ鳴き方を習いかけの蝉が、下手くそな音色を奏で始めている。相変わらず相棒の畑は雑草だらけで、バッタが跳び、モンシロチョウが舞い、クロアゲハがゆったりと宙をたゆたい、コガネムシが無言で茄子の葉を齧っている。名も知らぬ小さな虫が地を這い、穴を掘れば、驚いたミミズが身をくねらせ、ムカデの子供のような小さな虫がちょこちょこと動く。

 冬の間は死んだように眠っていたあまたのいのちの、春泥の中で目覚め、土の中でうごめいていたのが、夏になると、大地をわがものとばかりに占領し、互いに生き残りの闘いをしているのだ。太陽のエネルギーを浴び、柔らかくなった大地の中の水と天から降りてくる水を、様々な小さないのちと共に分け合う。彼らは、いのちを削り合いながらも、確かに、共に生きようとしている。

 ギリシャ哲学から始まったとされる西欧の哲学は、人間とは何か、と言う問いから始まったようだ。そして、もちろん、そこからいのちとは何か、物質とは何か、などと疑いの目を拡げていくのだが、そこでは、どうしても、人間、人間の意識、人間の心というものが主題としてあり、人間と人間とのつながりというものを深く考えていくことになる。

 自分とは何か、自我とは何か、実存とは、などと、人間である自己というものを、自分自身と他人との意識とまなざしの交差していく中で、探究しようとしてきたのが、西欧の哲学の主流であったように思う。そこでは、人間と人間、人間社会の中の自己としての真実の姿を見い出そうとする。人間同士は、如何に共生していくのか。人間と人間との関係、人間社会とは何なのか。西欧の哲学は、どこまでも人間中心にできている。

 そんなことは、当然だろうという声が聞こえるが、それでは、君たち人間は、僕たち猫をどう思っているのか。この夏の大地にひしめきうごめいているあまたの種のあまたのいのちのことをどう思っているのか。雑草と言い、虫けらと言い、畜生と言って、ただ蹴散らす対象でしかないのか。時に愛玩し、時に平然といのちを奪い、時に太らせて食料とする。

 古代、人間は、他の生き物に敬意を払っていた。祈りのような願いの中で、人間はライオンにもなり、トラにもなり、ヘビにもなり、魚にもなり、鷹にもなった。山にも森にも海にも湖にも、畏怖すべきいのちがあると思っていた。古代、人は、自然の中で生かされているという実感を持って、生活を営んでいた。

 古の人間たちを、無知で愚かだと笑ってしまうのか。人間は特別であり、自然を支配し、自然を制御していく存在だと言い切るのか。人間もまた、自然の一部ではないのか。人間は、自然と対峙し、対決し、自然を克服するような存在ではない。地球上の、というより神秘的に言えば、地球を超えた宇宙の森羅万象との断ち切れないつながりの中でこそ存在できるのではないか。

 人間も僕たち猫も、他人や他の猫との関係だけでなく、自分自身のあらゆるものとの関係で実存している。だとすれば、人は亡んでも、自然は残る。

  刈り残る 雑草二本 すくと立ち

 

2013年   7月24日    崎谷英文


陰謀

 景気のいい時は、善良で従順な大衆も、少しは元気が出てくるのだが、その景気の良さというものも、単なる気分でしかなかったり、ただ、実体のない投機、投資、為替変動、株価上昇による見かけ上のマネーゲームの中での好景気だとしたら、そんなものは、時を経て、それこそ泡のように幻となり果ててしまう。目の前の輝くようなきらめきは、一瞬にして深くて暗い洞窟の中の闇と化し、人々を路頭に迷わせる。

 そんな時でも、資本家たち、金持ちたち、株屋、大企業、その役員たちは、計ったように、一時の暴利をむしり取った後始末を、巧みにやり遂げ、自らの利益を益々膨大なものにしていく。一方、大衆は、一時の夢に踊らされ、豊かになるという勘違いの思い込みで、なけなしの財産を欲望のままに消費し、祭りのごとき謳歌して、その祭りの後の何も残らない廃墟のような空しさを味わう。

 世の中は陰謀の渦の中にある。確かに、科学文明は、人々の生活を豊かにし便利にして、農村から多くの若者を都会に呼び寄せ、華やかな都会生活の夢を若者たちに喧伝し、もはや飢える恐れなどほとんどないというような人生を大衆に与えるまでになってきてはいよう。しかし、その庶民のささやかな生活の向上の陰で、自分たちは彼らを貧困の恐怖から救い、この大衆消費社会に参入させてやったのだという、実は、それは傲慢な思い上がりなのだが、それを、まるで高潔な優しい慈悲の心のごとき錯覚をして、自らは、もはや生涯かけてもどのように使えばいいのか分からないほどの大金を手に入れている度し難い連中がいる。

 「こんなになってしまったのは、当然、僕のせいだけど、世の中もおかしくないかい。景気のいい時は、貧乏人たちも少しは元気が出るんだけれど、その間に、金持ちたちは、僕たちとは桁違いの大儲けをしているんだよね。現代経済社会の仕組みは、大企業が大いに稼いで、そのおこぼれが、中小企業に落ちてきて、それから僕たちに回ってくるんだよね。そうなるまでに、気分だけで終わってしまうこともあれば、僕たちに少しはお恵みがあったとしても、どうせ、そんなバブルははじけ、金持ちだけは損失を最小限に抑え、大衆、労働者は、給料を減らされたり、リストラされたりしてしまう。僕たちのような小さな居酒屋が、やっていける訳がないよ。」

 二十年ほど前のことだが、この雅人の言葉は、今も通用する。「まさ」の客足は急激に衰えていた。バブルの崩壊で、若者たちの余裕はなくなり、東電の若い社員たちの足も遠のいて行った。近所の自営業者たちも、金銭のやりくりで精いっぱいの状況になっていた。

 今や、欲深くて狡猾な人間たちだけが生き残る時代なのかも知れない。一年の報酬が十億円ほどにもなる大企業の社長は、この報酬、これこそ世界基準とのたまい、こうでなければ、若者たちの夢は拓かれないとまで言っているそうだが、それはまるで、金を儲けることが、いわゆる出世、ステイタスなのだと公言しているのも同然で、むしろ憐れさえ感じる。それに対し、金持ちである評論家もマスコミの論者も、何も言わない。

 そろそろ、現代経済の仕組みに疑問を持たなければならない。科学技術を発展させ、様々な便利な商品を開発し、世界はグローバル化した。しかし、汗水垂らす働きを忘れさせ、ただ精神をすり減らし、すべて金で買えば整うようになり、分業は極端なまでに進み、何を作っているのか分からないような機械的労働が増え、さらには、接客における感情表現、表情さえ規範化され、人々は、生きていることの根源を失いつつある。

 札束で頬を叩く人間がいて、札束で頬を叩かれる人間がいる。狂気の沙汰だ。強欲な輩は、未来の地球、未来の人間に思いを及ぼすことなく、以前はマスコミがこぞって癒着を糾弾していた政官財の協力で、原子力発電を再起動させ、その上輸出までしようとし、戦争のできる国にしようとしている。やんぬるかな。

  日とともに 生きるも酷暑 身を削る

 

2013年   7月14日    崎谷英文


家族

 「家族って何なんだろう。確かに、僕だって家族は大事だ。僕が一番気にかかっているのは、睦美であり、智香であり、泰介だよ。だけど、どこか、僕の心の中に、家族も僕を縛り付けるしがらみの一つでしかないのではないかという、鬼のような邪悪な思いがよぎることがあるんだ。」

 雅人は、呑み屋のテーブルで、英太の向かい側に座って、日本酒を飲みながら英太に言ったのだった。

 「だけど、人間以外の動物たちだって、特に鳥や哺乳類たちも、自分の子供たちに対して、命懸けで守ってやろうとしているじゃないか。生きているものは、みんな、自分の家族が一番大事なんじゃないのかな。無条件で、子供は可愛いし、孫になると、もっと可愛いらしいよ。」

 英太は妻と一人息子の顔を思い浮かべながら、そして、田舎で一人いる母を想いながら応えていた。

 「だから、僕は、人間らしい、いや、動物らしい心さえ持っていないのではないかと思うんだ。掛け値なしに子供たちは可愛いし、子供たちの為なら、何だってできる気はしているよ。睦美にだって、一緒になる時は本当に嬉しかったし、こいつのために頑張らなければと思っていたんだよ。妻や子供たちは僕にとって一番大切で、もし、僕が死ぬことで彼らが幸せになるのなら、それでいいと思うよ。だけど、今、死んだって何にもならないしね。」

 「何も、死ねと言っているんじゃないよ。死ぬ気で頑張ればいいと言ってるんだよ。一所懸命、地道に、こつこつとやっていくことはしんどいけど、そうするしかないような気がするよ。」

 「もう、愛情だか、責任だか、義務だか、分かんないんだよね。妻や子供たちの為に生きていくことが。結局、僕は、自分で選び取ってきたことが、手に負えなくなって、もてあましているんだよね。僕には無理だったんだよ。家族というものを持つことが。俺は、そんな普通の人ができることのできない人間らしいね。田舎にも帰れないし。」

 雅人は、自嘲したように、冷酒を煽っていく。

 「むしろ、睦美や子供たちにしてみれば、俺のような夫や父親は、いない方がいいのかも知れないと思うこともあるよ。こんな無責任で、生活力のない夫や父親なんて、願い下げなんじゃないのかな。世の中には、いろんな人がいる。孤児で生まれてくる人だっている。そんな彼らにも、家族というものはできると思うんだよね。親代わりになって、本当の親より親身になって気にかけてくれ、可愛がってくれる人たちができるんだよ。俺がいなくなれば、彼らには、新しい、俺よりもずっといい人たちができるかも知れない。」

 人は、親の子として生まれてくる。そして、多くは子の親になる。その繰り返しなのだが、もし、人に愛情というものがあるのなら、それは先ず、その家族に注がれる。親の限りない愛情を受けて、次には、その限りない愛情を自分の子にかけていく。しかし、そこに、この世の常識というような無意識の中に植え付けられたものが、足枷をしていないだろうか。もし、人に、先天的に人を愛すると言う精神が宿っているとしても、それは、強制するものではない。誓うものでもない。家族だからと言って、愛さなければならないとはなるまい。愛さずにはいられないのだ。愛情と現実とが対立することもある。義務とか責任とかで覆われた愛情まがいのものも多くなる。

 「もう、行く所は決めてあるんだ。」

 雅人は、英太にそう言った。

  石塀の 陰を好みて 十字花

 

2013年   7月3日    崎谷英文


矜持

 「もう駄目だよ。一度借金をし始めると止まらない。まあ、みんな自分が悪いんだけどね。遊び好きで、辛抱ができないんだよね。金は天下のまわりものと思い込もうとしていたよ。何とかなると思ったんだけどね。」

 もう、二十年以上前になるが、英太は雅人と酒を飲んでいた。何処だったのか、今では思い出すこともできないのだが、英太が東京を離れる一年程前だっただろうか。雅人は、居酒屋「まさ」の経営に行き詰っていた。借金を重ねて、もうとっくに払い返す能力などないのだと言う。

 そのような状態だろうことは、英太もうすうす感づいていた。いっときは、近くの東電の寮の若い社員や、後で分かったことなのだが、慶応大学の医学部を出て国立のがんセンターに勤めているなどと言う大ぼら吹きの青年などが、夜ごと、入れ代わり立ち代わり飲みに来ていて、大いに繁盛していた「まさ」も、近頃は、夜遅く英太が行くと、客は二人か三人、一人もいない時さえあった。このような状態が、結構長く続いていた。

 「だけど、誰にも言っていないのだが、僕は、明治大学を卒業したんだよ。十年ほど前にね。何の意味もないのだけれどね。」

 何とか大学の学籍だけは残っていて、それこそ、家族にも誰にも言わず、大学に行って本を買って勉強して試験を受けて、何とか卒業したのだと言う。雅人の意地であろうか。考えてみれば、家庭を持ち仕事もある三十才前の男が、大学を中退だろうが卒業だろうが、人生に何の関係もないことだろうが、雅人の矜持というものであろうか。卒業ということが親への恩返し、自分自身の勲章のようなものだったのかも知れない。

 人には誇りというものがある。誇り、英語で言えばプライドであろうか、それは、他人によって傷つけられることがある。しかし、他人によって傷つけられない誇りというようなものがあるような気がする。人に馬鹿にされようが、何と言われようが、そんなことでは一つも傷つけられないプライドというものがあるように思う。英太は、そんなプライドに、矜持という言葉を与える。

 傷つけられる誇りというようなものは、人にどう見られるかということにかかっている。だから傷つけられる。しかし、矜持というものは、人にどう見られるかということではない。他人が自分のことをどう馬鹿にしようが、どう愚弄しようが、自分自身の矜持はびくともしない。人の言に左右されることのない矜持なのである。

 矜持とは、自分自身の力を信じることなのだと思う。などと安易に言ってみても、ただ、傍若無人に、自分勝手に、己の力を過信することではない。矜持を持つには、それだけの努力が必要となる。何も自慢することなど一つもなく、ただ、強く、深く、自分自身で考え、思い、勉強しなければならない。決して、自分自身が偉いのだと錯覚することではない。ただ、あらゆることに自分自身が心から納得できるような見方を、自分自身で責任を持って考える。

 他人に迎合するのではない。しかし、他人の言うことを聞かないのでもない。どこまでも謙虚で、他人の言うことをよく聞いて、しかし、迎合しない。相手が、傲慢で横柄な人間であれば、聞き流したっていい。いちいち、反論しなくたっていい。世の中には、そんな自分は偉いのだと傲岸不遜に錯覚している輩はたくさんいる。彼らのプライドを傷つけることなどすぐできるかも知れないが、わざわざ教えてやることもない。雅人にとって、大学卒業ということは、誇りになるものではないが、矜持を持つには、良いことだったのであろう。

 「親に言って、相続財産を先に貰ったんだ。一つの山を相続することになっていたのを、親が死ぬ前に、その山の財産分を貰うことにした。もうこれで、親とも縁が切れたみたいだ。」雅人は、そう言った。

  生きている 意味などいらぬ 夏の山

 

2013年   6月24日    崎谷英文


ラーメン屋「狸」

 ラーメン屋「狸」のマスター、生田は、英太より確か二才年上だったと思うのだが、結構若くしてこの店を始めている。千葉県出身らしいが、英太が、この大宮に移り住んだ時には、もう子供が三人いた。三十才を前にして、子供が三人いたのだ。千葉で知り合った女性に子供ができて、結婚して、ラーメン屋勤めから独立して、この大宮にやってきたのだと言う。

 少し細長い長方形の、広さにしてみれば六畳もない八人が座ればいっぱいになるカウンターだけの店で、その二階が住居であった。そこに親子、五人が住んでいた。英太が東京を離れる頃には、子供がもう一人増えていた。その頃には、上の子供たちも大きくなっていたのだが、三段ベッドのそれぞれの段が、それぞれの子供の生活空間で、板か机のようなものを置いて、そこで子供たちは、本を読んだり勉強したりしていたらしい。今考えてみれば、すさまじく生活環境は悪かったであろう。

 しかし、立って半畳寝て一畳、住めば都、至る所青山あり、とはよく言ったもので、衣食住、すべてのことに、優劣などあったものではない。汚かろうが、清潔だろうが、狭かろうが、広かろうが、安っぽかろうが、高価だろうが、大した違いはない。人は直ぐに慣れる。そんなものだ。人を羨むことなど一つもない。

 しかし、世の中は困ったもので、本当は、それがどんなに値打ちのある価値のあるものかなど関係なく、一見豪華で贅沢な暮らしや高級料理を見せびらかすようにして、知らなければ不満を持たない普通の人間たちを誘惑していく。そうやって人は、妬みを覚え、僻み根性を持ち、果てには恨んだりする。果てしない欲望に憑りつかれ、その欲望を満たすために働くようになる。

 かぐや姫の歌った「神田川」にある、せつなくてわびしいような三畳一間の生活が話題となったのも、その裏に、豪華な生活があるからであろう。みんながみんな、神田川のような生活をし続けているような社会では、そんな生活を歌っても、少しも、感動的、感傷的にはなるまい。今では、東京の学生たちも、銭湯に行くものは少ない。

 英太は、昔、三畳一間に居たことがある。机の下に布団を敷き、起き上がれば本が読めた。結婚した時も、四畳半に台所が付いただけのアパートだった。しかし、そんな生活がわびしいと思ったことはなかった。生田にとってもそうであろう。こんな小さな店の二階に、詰め込まれるように生活していながら、家族みんな、文句も言わず、生き生きとしていた。英太も、銭湯で何度も、元気な生田の家族に会っている。

 今は、風呂のついてないアパートはなくなりつつあり、この大宮の銭湯もなくなった。方丈記の無常の世界は、今も続いている。世の人は、さらに、この世は進歩し、進化していると思っているようなのだが、後の世界が前の世界よりいいとは限らない。文明のおかげで、便利で豊かな世の中になったのかも知れないが、その反面、人は、きたなく、醜く、いやらしく、意地汚くなっている。損得でしか動けない人間のなんと多いことか。

 などと言ってみても、世間が華やかになってくると、自分自身の惨めさが、どうしても思われてくる。比べなければいいのに比べてしまう見栄っ張りという人間の愚かさから、逃れられない。自分自身が納得できればそれでいいはずなのに、他人と同じようにしていなければ、との思いはとめどなく、周囲が豊かになればなるほど、自分自身の不甲斐なさを感じてしまう。生田は、見栄っ張りではなかった。

 久しぶりに会った生田は元気そうだった。英太は、ここに来る前に、永福町の鰻屋で、生田が奥さんに逃げられたようなことを聞いていたのだが、そのことは知らないふりをしていたら、生田も話さなかった。二十年経っても相変わらずの、狭いラーメン屋だった。居酒屋「まさ」の雅人は、自ら家族から去り、生田は、家族に逃げられた。だからと言って、人の生き方に、善悪はつけられない。

  漂いて 消えるか湧くか 夏の雲

 

2013年   6月13日    崎谷英文


恒産なきものは恒心なし

 「雅さんに会った?」「いや、会ってないよ。」「野口さんが、広島で雅さんに会ったって言ってたよ。一杯飲んだようなことを言ってたけどね。会ってないの?」「えっ、広島に居るの。全然、知らない。」「聞いただけだけどね。」「元気にしているのかな。」「よく解らないけどね。」

 居酒屋「まさ」を時々休むようになって、雅人は、家賃も払うことができなくなって、借金をするようになった。世間から見れば、落ちていく者のお決まりのコースに入っていったことになる。雅人にしてみれば、借金をすることが、手っ取り早く金を手に入れる手段であっただけなのだ。

 こつこつと地道に、水商売の浮き沈みに耐えながら真面目に生きていくことが、できなかった。どうせ遅かれ早かれ死んでいく人間にとって、生の欲望を抑制して我慢して生きていくことに、どれだけの価値があるというのだろうか。幸せという言葉があるが、幸せとはいったい何なのか、雅人には、はっきりとは解らなかった。

 幸せなどと言う言葉は、まやかしなのではないか。放っておいたら何をするか分からない愚かな人間をおとなしくさせておくために、もっともらしい人の道などと言って、黙って働かせておくために作り上げた言葉なのではないか。成功した者が、成功しなかった者を納得させるために、ささやかな幸せなどと言う言葉を作って押し付けている。

 静かなる平穏な喜びを願って、耐え忍びながら誠実に生きることに、どれだけの価値があるというのだろうか。いや、静かな心の安らぎというものは確かにあり、それは、解らないでもないのだが、そのために、どれだけのことを我慢しなければならないのか。それができる人は立派だ。しかし、雅人にはそれができないのだ。

 生活の基盤を確かにもっている者だけが、心の安らぎを得られる。恒産なきものは恒心なし、とはよく言ったもので、生活の安定しない者には、恒心はないのだ。忍耐を持って生きるには、見える先に明るさがなければならない。しかし、雅人には、光は見えてこない。

 ギャンブルで、手っ取り早く金を得ることを覚えると、ちまちました居酒屋の仕事が嫌になる。それが落ちていく人間の常套の道だとは分かっていても、もしかしたら上手くいくかも知れないと、淡い期待に導かれて深みにはまってしまったのだ。

 パチンコで仕入れの金を使ってしまったのが店を休む始まりだが、次には、パチンコで大勝をしてやめられなくなって、店を休むことになる。一時、夜の客が少なくなったので、昼に定食のようなものを提供して店を開いたことがあるのだが、周囲には蕎麦屋、ラーメン屋、豚カツ屋などいろいろな店があって、客はやってこない。三週間で終わった。

 妻の睦美には黙って借金をしていた。その金を生活費として渡していたのだが、睦美もうすうすは訝しがっていたのだろうが、とうとう借金取りの兄ちゃんが店にやってくるようになって、はっきりとばれた。娘の知香は、中学を卒業する時期だった。息子の泰介も小学生になっていた。その後、妻は何度か実家に金の無心をすることになる。

 家庭の安らぎ、家族との喜びというものはあるだろう。雅人にしても、子供たちのことは気にかかっている。子供たちの笑顔のために働いてきたつもりだが、自分のだらしなさ、不甲斐なさで、それもできなくなりそうなのだ。家族のありがたみというものはよく分かっているつもりだった。

 ラーメン屋「狸」のマスターの生田は、夜の仕込みをしながら英太と話す。昔は、直ぐ近くに銭湯があって、英太も通っていたのだが、今はなくなり、少し離れた西永福近くまで風呂に入ってきたところだと言う。英太より二才年上のはずだが、その童顔は変わりなく、相変わらず競馬にも勤しんでいるらしい。生田も、借金を抱えているが、まだここにいる。向かいのテーラーの小田さんも、タクシーの中橋さんも死んでしまったと言う。英太は、生田から、雅人の消息を聞いたのであった。雅人が失踪してから二十年が経つ。

  ジャガイモの 花の揺れたる 朝なりき

 

2013年   5月31日    崎谷英文


バブル崩壊

 善福寺川の遊歩道を歩き、昔住んでいた風呂もないアパートを探し当てた後、表通りに戻ると、さっきは閉まっていた、昔の居酒屋「まさ」の二軒手前のラーメン屋「狸」のシャッターが開いている。マスターの生田が、今晩の仕込みをしている。「狸」もバブル景気の頃までは良かった。その頃は、常連客も多く、「まさ」から流れ出た何人かの客は、夜遅くまでビールを飲み、ラーメンを食べていた。濃厚な味噌ラーメンとカレーラーメンが美味かった。雅人も、英太たちと、店を閉めた後、よく食べに来ていた。

 雅人が子供の頃、みかん山には、多くの人手と時間が必要だった。何しろ、すべてのことを、人の力でやらなければならなかった。トラックなどもちろんなく、藁と縄で作った袋に、もぎ取ったたくさんのみかんを入れて、肩に担いで斜面を上り下りしなければならなかった。収穫時は、朝から晩まで、その繰り返しである。雑草も生える。雅人も、子供の頃、その雑草刈りを、よく手伝わされた。

 紀伊国屋文左衛門が、みかんで大儲けしたと言っても、本当に汗水たらして働いていたのは、財産も土地も何も持たない若者や男や女たちであった。彼らがいたからこそ、紀伊国屋文左衛門のみかん船は、江戸まで航海できたのだ。歴史というものは、事件や物語の頂点に立つ者のことしか伝えない。その陰で、懸命に働きながら、それでも生活に苦しみ、悶え、時には、飢え死にするような人たちがたくさんいたのだが、そんなことは、歴史上のエピソードにもならない。

 何しろ、そんなことは、日本人の歴史の始まりからずっと続いてきていて、今もなお、続いている恒常的なものなのだ。一握りの豊かな者と権力者の陰で、圧倒的に多数の貧しい者たちが、骨身を削りながらひっそりとささやかな喜びを糧として生きていると言う構造は変わっていない。変わらなくずっと続いていることは、歴史では教えられない。

 世界の歴史でも同じであろう。連綿と富者と権力者の興亡を綴りながら、そこには、常に虐げられた者たちがいたのだ。哲学を論ずる者は、ギリシャ哲学のプラトンやアリストテレスを評しながら、その手掛かりとなる文献に決して表れることのない、その都市国家を支えていた数多くの奴隷たちについては、ほとんど語ることもない。

 雅人は、大学受験で日本史の勉強をしていた時、教科書の山川の日本史をじっと睨みながら覚えていたのだが、ここに書いてあるのは、特別な人間たちだけなのだと思っていた。雅人のような人間たちは、まるで雑草のように、踏み倒され、刈り払われながら、生き残った者たちがしぶとく生き残っているようなもので、長年の習い性で、むしろ日の当たらないじめじめとした所を好む者も多くなる。みかん山を持っていると言っても、紀伊国屋などとは及びもつかず、家族総出の貧乏所帯なのだ。その二男坊が、夢と憧れだけで、大都会に出てきて、今、右往左往しているのだと思う。

 バブル景気が崩壊し始めていた。株価が瞬く間に、三分の二、二分の一に下がっていく。景気とはよく言ったもので、気分なのだろう。株価の上がり下がりなど、直接的には、庶民には関係がないのだろうが、株が上がった下がったという気分の変化が、馬鹿な大衆を操作している。そして、結局は、気分で一時的に景気が良くなったとしても、それが夢幻と気付くのは時間の問題なのであって、その時には、益々、金持ちと貧乏人との格差が広がっている。

 居酒屋「まさ」も、今までは、バブル景気のおかげで、客はまあまあ入ってくれていたのだが、このところ客が少なくなっている。午後五時に開店しても、午後八時まで一人も客が来ないことがある。そんな時は、気が焦るのだ。そうして、一晩の客数が、十人にもならない日も出てきた。

 そんな時、雅人は、麻雀、パチンコ、競馬に精を出す。本業でうまくいかない時こそ、日頃鍛えたギャンブルの腕を振るわねばならないのだ。麻雀に誘われれば、懸命に打つ。パチンコ屋には、睡眠時間を削って、開店前から並んだ。土、日は、朝から、ラジオの競馬中継を聞きながら、競馬新聞に印をつけ、呑み屋に電話する。ギャンブルに強いと思っていて、大きく儲けることの続くこともあった。しかし、そんなのは当てにならず、やはり、ずるずる徐々に負けが大きくなってくる。

 その日、今晩の仕入れ代を、遂にパチンコにつぎ込んでしまった雅人は、そのまま、パチンコ屋に居座ったまま、居酒屋「まさ」を無断で休店にした。

  回り道 せよと誘う 金鳳華

 

2013年  5月18日   崎谷英文


和田掘公園野球場

 大宮八幡神社は、由緒ある神社で、今年、九百五十年祭を迎えるということを、英太は二十年ぶりにこの神社にやってきて知った。その参道の商店街は、以前ほどの活気はないが、残っている店もある。大鳥居の前の道を北に折れると、直ぐに善福寺川を渡ることになる。善福寺川は、杉並区の北西の善福寺池を源とし、南東に曲がりくねって流れ、大宮神社の北側を通って、杉並区の東端で神田川に合流する、杉並区だけを流れる何とも不思議な川である。

 その川を渡ると、左手に和田掘公園、道を挟んで右手に小さなすり鉢のようになった、大水の時の水の排出場でもある、野球場がある。今日も、草野球チームの試合が行われている。英太は、昔、居酒屋「まさ」の雅人やラーメン屋「狸」の生田たちと草野球チームを作っていた。英太は、客人のような存在だったが、雅人たちとの早朝野球は面白かった。試合が終われば、決まって、和田掘公園の釣り堀の食堂で朝からビールである。野球チームの名前は、アウトローズ。

 世の中は、高度経済成長時代が石油ショックを経て終わり、一時低成長時代になりながらも、再び今度は、不動産価格、株価の暴騰するバブル経済時代に突入していた。雅人は、二人目の子供ができて、居酒屋の仕事も順調だった。上の娘、知香は可愛くて、愛媛から親を呼んで大宮神社で七五三参りもした。下の息子、泰介が生まれた頃も、仕事は順調だった。居酒屋「まさ」は夕方五時に開店する。直ぐに客が入ってくるようなこともあるが、通常、ゆっくりと客はやってくる。七時頃からは、近くの仕事帰りの男たちがやってくる。まだ、バブルの時代だった。

 雅人は、東京に来てから多くの遊びを覚えたが、麻雀もその一つで、よく客から麻雀を誘われる。雅人は、仕事の終わった後、裏の雀荘によく入っていくようになっていた。店の終了時間は決まっていない。パチンコも好きで、麻雀をしなかった日は、永福町駅前のパチンコ屋に昼前から行く。競馬も好きで、その頃は、インターネット投票などできないから、たまには、府中の競馬場に行くこともあるが、もっぱら、いわゆる呑み屋に電話して馬券を買う。雅人にとって、東京の生活は、ギャンブルを知ることでもあった。

 麻雀もパチンコも競馬も、勝つこともあれば負けることもある。雅人も、時に大勝ちをし、時に大負けをする。それでも、その日の店の仕入れ代だけは使うことのないように、節度を守っていた。麻雀もパチンコも競馬も、負けた者が勝った者に支払うようになっている。時に、パチプロなどと言う輩がいるが、奴らは何の生産もせずに稼いでいることになる。人間の愚かさに付け込んで、その射幸心を刺激し、金銭を取り合っている。ギャンブルというものは、並べてそういうものだろう。土地や株などは、ギャンブルの類に違いない。そんなことが許されるのなら、汗水出して働いていることなど馬鹿らしく見えよう。

 しかし、普通の人間は、そんなやくざな生き方をしない。きちんとした生活を持っていて、麻雀もパチンコも競馬も、その合間に楽しむのが普通なのだろう。雅人もそう心得てはいた。火曜日の定休日以外、今までほとんど「まさ」を休むことはなかった。こういう店は、勝手に休むと、一挙に信用、信頼が落ちる。

 雅人は、時計を見て、パチンコ屋を出た。今日は、少し儲かった。これから、夜の仕入れを、目の前のスーパーでする。明日は、朝の七時から和田掘公園の野球場で、早朝野球の試合がある。寝ずに行くか、それとも少しは寝られるか。英太も来るはずだ。

  闇を裂く 光に薄し 柿若葉

 

2013年   5月9日    崎谷英文


杉並区大宮

 ここに、一人の妻と二人の子供と、二階を住居とし、一階を自らが経営する居酒屋として生活していた一人の男がいた。井の頭線永福町駅から北へ十分ほど、地下鉄丸ノ内線方南町駅から西へ十分ほど、信号から西二十メートル、今はシャッターが下りていて、昔の面影はない。英太は二十年ぶりに、その昔の居酒屋「まさ」の前に立っていた。英太が、この杉並区大宮に住んでいた頃、連日のように酒を飲み、見知った人たちと馬鹿話をしていたところである。

 その男は、名前を西山雅人と言う。愛媛県のみかん農家の兄とは十才離れた二男坊で、英太と同い年だった。東京オリンピックをテレビで見て、地元の中学、高校に進み、他の若者と同じように強烈に都会に憧れていた。みかん山に囲まれたそこの生活は、テレビで映し出される東京の別世界と比べれば、天国と地獄ほどの違いを、雅人に感じさせた。二男であり、小さな頃から、雅人自身も、親兄弟たちも、雅人は田舎を出て行くものだと思っていた。

 勉強は好きではなかったので、一浪をしたが、都会への憧れの気持ちの奮い立つなか、明治大学の経営学部に、何とか滑り込んだ。しかし、元来の田舎者で、見るもの聞くもの真新しく、大学の勉強に集中するどころではなく、とにかく遊ぶことが優先された。実家の仕送りですべてが賄えるほどの余裕はなく、吉祥寺の居酒屋にアルバイトを見つけ、酒も覚え、女も覚えた。三年ほどその店でアルバイトをしていて、学校の方にも足を向けることが少なくなり、単位ももちろん足りなくなっていたのだが、実家の方で退学処分にならないように、学費だけは払ってくれていた。

 同じ大学で、つい今しがた、彼と別れてきたという傷心の女を誘って一緒に生活をするようになった。九州出身の女で、雅人にはもったいないような、小柄で笑顔の可愛い、実直な女だった。初めは、吉祥寺の小さなアパートに住み、雅人は、時に学校に顔を出すこともあったのだが、もっぱら、居酒屋の仕事に精を出し、毎晩のように仲間と朝まで、飲んだり麻雀をしたりしていた。女は睦美と言った。睦美は、一年多くかかって大学を卒業し、住宅会社の事務員として就職したのだが、相変わらず、雅人との小さなアパート暮らしを続けていた。

 雅人は、ほとんど大学へは行くこともなくなり、居酒屋勤務のような生活をしていた。睦美が、妊娠したと言った時、雅人は嬉しかった。結婚しようと思った。しかし、今の自分が、妻子を養えるわけがないとも思った。ちょうどその時、仕事先の居酒屋の社長から、杉並の大宮の支店をやってみないか、という話があった。雅人は、アルバイトの身から、正社員になっていた。雅人は飛びついた。その大宮の店の二階は、住居として使える。睦美と子供と一緒に暮らせる。

 四国の実家には、兄貴の結婚した三年前に帰ったきりであった。睦美を連れて帰って紹介した。そこで、実家の方で、学費を払ってくれていて、まだ学籍のあることを知った。雅人はもう二十六になっていた。その足で、九州博多の睦美の実家にも行って挨拶をした。睦美の実家は、博多の商家で、兄がいた。結婚式は挙げなかった。

 雅人は、これも人生かなと思った。山に囲まれた田舎でおとなしく暮らす生活から、逃れるように、賑やかで猥雑な東京にやってきて、面白おかしく遊びながら、何とか仕事もやって、好きな女もできて、子供もできた。贅沢ではないが悪くもない。悪いことも覚え、遊びながらも、何とかやってきたではないか。杉並のこの店では、新しいメニューも開発し、常連も結構多くなってきた。まあ、悪くはない。

 そんな頃、雅人の店に、客の英太がやってきた。

  大鳥居 躑躅の色を 隠しけり

 

2013年   4月24日    崎谷英文


ポトラの日記6

 四月も半ば近くになってきているというのに、まだ、夜明け前の冷えは厳しい。さすがに霜が降りるようなことは、もうなくなってきてはいるが、冷たい露が足下の草を覆い、小さな虫たちは時にあらずと首を引っ込める。

 闇が徐々に明けてくる。西に拡がる笑っていた山が、笑い疲れたようにその花の色を落としかけているのを、今少し輝けとばかり、東の山あいから顔を見せ始めた光が、山頂にゆっくりとスポットライトを当てるように、山の麓に向かって下りてくる。

 朝の太陽は眩しい。それは闇を引き裂くという使命を持っているからであろうか、月のない夜はことさら、その夜明けの光は目に沁みる。見上げれば、満天の星がきらめいていたのだが、その一つ一つの星はささやかな光でしかなく、地上から見上げている者たちは、地上の闇との対比の中で、あこがれるように、夜空がまるで輝いているように錯覚するのだ。

 地上が闇だからこそ、天上は輝いて見える。地上が輝いていれば、天上は輝かない。地上が闇だからこそ、多くの生物たちは、夜眠る。いくら願っても天上のささやかな光に辿り着くことはできず、ただ、そのささやかな守護の下で、やがて訪れる朝の光を全身で受け留めるために、夜眠る。野花もチューリップも、夜の間は固くその花を閉じ、朝の光を待つ。シラサギ、トンビ、カラス、ツグミ、スズメ、鳥たちはまさしく、光と共に、闇と共に生きている。

 夜の間に、闇の中で活動する動物たちは、その厳しい生存競争の中で、あえて夜の闇で生きる道を選ばなければならなかった。しかし、彼らも、光を焦がれているに違いない。いつまでも輝き続ける光など有り得ず、光があるのは闇があるからであって、彼らには、闇の中に光があるのだ。その光は微かなものかも知れないが、彼らは、その微かな光を掬い取って生きている。

 やがて空全体がゆっくりと緩やかに白み始め、天頂から青い空が扇を広げるように下りてくる。山際に白い霧がかかり、一羽のトンビがひと鳴きし、雲雀が天上に感謝するように歌いながら舞い上がる。雀が野の草の実を漁り、ツグミが土の中の虫を突く。春の朝は、鳥たちが、光のバックミュージックを奏でる。光と共に生まれでたのか、モンシロチョウが三頭、ブロッコリーの上を行き交う。

 僕はようやく目覚め、伸びをして身体を整える。どうやら今日は、天気がよさそうだ。僕が朝の食事をした後、少し経つと、相棒が畑に出てくる。いつものように、缶コーヒーを片手に、やめられないのかやめようとしないのか、煙草を一本指に挟んで、古い丸太の椅子に座る。相棒は、春の光と音を満喫するように煙を吐く。挨拶しながら僕が寄って行くと、嬉しそうに朝の言葉をかけてくる。

 夜がなければ朝はない。昼間だけの世の中など有り得ない。南極、北極でも、一年を通せば、同じだけの昼と夜がある。闇があるから光がある。闇ばかりではたまらないが、光ばかりも面白くない。極楽の世界は、常に光り輝いていると言うが、闇のない光は、本当に輝けるのだろうか。闇がなければ、光は見えないのではなかろうか。輝くばかりの中にいると、光は光のままではいられないような気がする。光を、闇と勘違いして、さらなる光を求める。

 闇を知る者こそ光を知る。闇を知ればこそ、光しか知らないものにとっては光と言えないような僅かな光も、輝く光となる。心の痛みを知らないものが、心の安らぎを解らないように。死のないところに生がないように。

 沈む夕日も、朝日と同じ光を持っているのだろうが、それは闇に溶け込むように、ゆっくりと光を和らげるように、一瞬の眩しさを目に焼き付かせて、おもむろに色褪せていく。朝の光を予感させながら。

  足跡は 春の親子の 獣道

 

2013年   4月13日   崎谷英文


正義について

 正義とは何か。辞書で引いてみると、人の道にかなっていて正しいこと、正しい意義、正しい解釈、人間の社会行動の評価基準で、その違反に対し厳格な制裁を伴う規範、(大辞泉、小学館)とある。解ったようで解らない。人の道とは何か、正しいとはどういうことか、人間の社会行動の評価基準は、誰が決めるのか。

 しかし、多くの人は、その人なりに、正義というものを理解し、その人なりに、その正義から外れないように生きようとしている、と思う。不正義と分かっていながら、平気で行動できる人も、何らかの言い訳は用意している。その正義とは、その人の生きている社会の中で、すべての人とは言えないが、ある程度の多くの人と、その価値を共有できるものでなければならないだろう。そうでなければ、それは、全くの独善であるか、世の拗ね者か、秘密の結社かギャングのようなものである。

 とは言え、辞書にもあるように、人の道にかなっていなければならないのであり、その社会の多くの人が、道に外れた正しくないことを正義と思っているならば、自分自身の思っている正義こそ人の道に沿った正しいものと思えるならば、百万人ありとて我行かんの勇気をもって進まねばならない。とは言え、人は意志薄弱で、付和雷同で、牽強付会の言い訳をして、仕方がないと多数に迎合し、現状に妥協してしまうのが落ちである。

 正義というものが、時を越えて、場を問わず、普遍なものとして存在するのかどうか。孔子の言う、仁、義、礼、智、信、忠、孝、悌は、今も通用する正義なのかと問われれば、様々な異論、いろいろな反論があるだろう。宗教というものも、世の中の正義を説く面が大きいのだが、それもまた、それぞれの宗教により、正義の表現の仕方が異なり、何が正義なのかは、それぞれとなり、今も、正義の下の宗教的テロリズムの脅威が続いている。

 道徳教育を強化すべきだと言う政治家がいるようだが、道徳は、正義を教えるものだろうか。法というものは、最低の道徳を記したものだと、昔、聞いたことがある。だとすれば、道徳教育、倫理教育というものは、法を超えた法以上の行為規範を教えるということになるが、その正義は、誰が決めるのか、思想統制に繋がりかねない胡散臭い話である。過去において日本は、愛国精神の醸成が悲惨な結果を招いたのであって、自由な精神を尊重しない教育は、もってのほかである。

 それでも、人はその人なりに、その人の正義に拘って生きているように思うのだが、そもそも、何故、人は正義に則って生きようとするのだろうか。人は、獣の自由も持ち合わせているのだが、獣の自由を超えたところに、安息を見いだす。獣のような単純な弱肉強食の世界は好まない。人を殺め、人を傷つけ、人を欺き、人のものを盗むことは、人の心に苦しみをもたらす。自由競争といえど、勝った者は、負けた者を見下す自分にとまどわないであろうか。他人を害することは、とても心を痛める。己の欲せざるところを他人に施すことなかれ、自らの好むところを他人に施せ、という黄金律のようなものが、正義の根底にあるのではなかろうか。

 しかし、今、現代人は、このような正義を持っているだろうか。法に則り、経済原理に則って、能力を発揮して、権力を得、富を得、地位を登りつめることが、そんなに素晴らしいことだろうか。その陰に、必ず、地面を這いつくばる人がいて、ひもじい思いをする人がいて、絶望に胸塞がれる人がいる。

 今の世の中に蔓延する正義は、強い者がルールを決めて、さも自由を装いながら、弱い者たちをせいぜい柵の中に閉じ込めておこうとする。勝った者は、負けた者を平然と見下し、もはや、心を痛めることなどない。自由主義、資本主義に則り、民主主義に則っていれば正義なのだと。

 犯罪は正義に反するが、今の世の中こそが正義に反していないのか。疑う。

  大木の 陰で咲き散る 白木蓮

 

2013年   4月6日    崎谷英文


現代の自由

 自由とは、思い通りになること、とまではいかなくとも、強制のない圧力のない、自分自身で、多くの選択肢の中から、自分の意志で考え、判断し、選び取っていくことのできること、と言えようか。

 自由という観念は、日本に昔からあったかどうかは疑わしく、多分、明治以降に西洋からもたらされた概念であろう。しかし、日本の江戸以前においても、自由という言葉は使わずとも、余りに不合理で不条理な仕打ち、規範、秩序、強制に対して抵抗する意志というものが生じることはあったであろうから、その不条理、強制に対して戦う意志は、自由への闘争と呼べる。自由は、本来、強制への反発から意識される。

 閉鎖的社会においては、その社会内の伝統的秩序があり、その秩序が、その社会の構成員に対して、否応のない強制力を持っていて、その秩序が安定している限り、自由への闘争は有り得なかった。何しろ、その社会の人々は、その社会の秩序以外の方策を全く知らず、別の選択肢を全く持ち合わせていないのだから、その社会が平和で安定している限り、自由という観念は生まれない。そこでは、ただ、その社会の伝統を知り、その秩序を守っていく、ということになる。

 しかし、西洋における近代的人間観は、万民の自由と平等という概念を導き出す。それには、様々な理由、きっかけというものがあるが、人々の活動が活発化し流動的になったということが大きいであろう。人間の精神、行動の自由を妨げる古い伝統、秩序の中世社会から、人間回復(ルネッサンス)、産業革命を経て、人間の精神の自由と個人の活動の自由が、叫ばれたのである。

 このようにして、人間の自由は、基本的人権として、現代、ほとんどの国の憲法に記される。日本でも、大日本帝国憲法で、保留付きながら記され、日本国憲法では、その自由は法律によっても侵すことのできないものとして、国家権力を規制する。

 では、現代は、人々は自由であろうか。確かに、自由は尊重され、みんな自由だと唱えられる。しかし、本当の自由というものを人間は持っているだろうか。人間の精神の自由と言っても、それは何よりも、その人間個人の経験に拘束されている。如何に自由に思考したとしても、その思考は、その人の生きてきた社会の束縛の中で、偏見と先入観に満ち溢れている。老人が頑固で新しいことになじめないのは、自らの経験が思考を拘束しているからであろう。

 自由というものは、所詮そんなものだ。人間の考えることは、その経験から生まれるしかなく、その経験が如何ともしがたく限られたものでしかなく、そこから生まれる思考には限界がある。だとすれば、あらゆる思考が偏見に満ちているのだから、逆に言えば、如何に偏見に満ちていても、個人がそう思った限り、それが自由の結果なのだと言わざるを得ない。そうなのかも知れない。人間は、どう考えようが自由なのだから、どういう結論であろうが、強制のない限り、それは、自由の結果なのだと。

 果たしてそうであろうか。強制はなくとも、人は手なずけられるのである。飴と鞭により、そして何よりも、自由を道具として、人は操作され、管理される。情報は甘い言葉でささやかれ、自由を守る安全のためと、人は様々に管理され、監視され、国民の自由と平等のためと、教育は子供の心まで統制しようとし、管理される。自由だと言いながら、人々の選択肢は与えられたレールの上にしかなく、人々の生活全般が管理、監視されようとしている。

 権力者、富者、強者は、自らのために大衆を操作する。その操作は巧みであり、大衆自身が幻想を抱くまでに洗脳され、大衆は彼らに同調する。如何に格差をなくすなどと言う言葉を発していようとも、彼らは決して自らの持っているものを手放そうとはしない。何処までも、彼らのおこぼれを大衆に与えることしか考えていないのだが、おくびにもその真相を語りはしない。そうして、大衆は愚弄される。

 真の自由を得るには、遁世しかない。

  さて明日は 田打ちをせむか 空に問う

 

2013年   3月23日   崎谷英文


哲学について

 哲学というものがどういうものかと問われれば、世の真実を追究するもの、という答えが返ってきそうだが、それでは足りないであろう。すべての学問は、真実を追究するものであって、物理学、化学、数学、心理学、医学、地理学、社会学等、あらゆる学問は、それぞれの分野での世の真実を見究めようとする。政治学、経済学も、現実社会の真実を言い募るのであり、絵画、彫刻、詩、小説も、人間の真実を表現しようとする。自然科学は自然の、社会科学は社会の、人文科学は生きている人間の真実を見つけようとする。

 哲学とは、直截に、人間とは何なのか、を問う学問と言えようが、もう少し掘り下げて言えば、この世に生きている意味は何なのか、を問うている。あらゆる学問が、温度差はあるが、真実を見究めながら人は何をどうなすべきかという、当為に関わってくる。自然科学は、人の当為と最も遠い所にあり、その成果は、直接に人の行為の善悪には及ばない。それでも、現代社会において、自然科学の利用の在り方は、今、エネルギー、原子力の利用の在り方が争われているように、また、遺伝子の利用、情報管理社会の電子工学の利用においても、人の当為に関わってくる。政治学、経済学などは、最もその学問と人の当為が近い所にある。哲学は、そういった学問の基盤を提供する重要なものとなり得る。さらに言えば、哲学的理念が、あらゆる学問に必要となる。

 哲学自身も、その学問と言う名を持ちながら、人の当為に関わっていかざるを得ない。ただ、哲学は、希望を見出すこともあれば、絶望を導くこともある。生きる喜びを教えてくれるかもしれないし、生きることの無意味を知らしめるかも知れない。生きる喜び、生きている価値を教えてくれるとしても、やはり、そこには、どう生きるべきなのかという当為は働く。能天気に、いつも心から笑って暮らしていることなど、余程の達人でないと難しい。生きる価値を見いだせず、悩み、苦しみ、常に死の淵と隣り合わせに暮らす人も多い。

 哲学は、学問の中で、最も、その語られる真実というものの証明が難しい。もちろん、自然科学においても、本当の真実など何も解っていないのだが、昔に比べると、その解析度は著しい。人文科学の中の、芸術、文学などは、本来、証明不要のものであり、社会科学は、元々、現実の世の中に応用されるものであって、その真実の証明は、現実生活の中であらわになる。

 哲学は、また、他の学問と違い、いわゆる哲学の専門家だけのものではなさそうだ。人生哲学と言われるように、それぞれ人は、自分自身の生き方について、何らかの意識的な、また無意識的な、独自の哲学を身に付けている。人は、生まれついた環境と育ちの中で、無意識の内に納得した生き方をしたり、何とか折り合いをつけて、意識的に、自分自身のありように、幸、不幸とは関係なく、自己満足をして生きている。

 しかし、所詮、人は何がしかの自己矛盾の中に生きているのであって、それは、究極的には、いずれ死ぬ身であるという逃れられない結末を控えているからでもあろう。死というものの衝撃は、老人だけのものではない。誰しもが、その子供時代、青春時代に、死の恐怖という洗礼を受けているのではなかろうか。(その恐怖は、その後、一時忘れ去られる。)そこに、絶望の哲学の生まれる一つの素因がある。

 その根源的な生と死という抗うことのできない矛盾の解消の先には、宗教がある。哲学は、昔、ヨーロッパでは神を前提とし、神から離れることはなかった。神が死んだのも、神がいたからである。日本では、仏が前提となっていたであろうか。哲学は、無宗教の宗教になり得る。

  初蝶の 初蒲公英に とまりたる

 

2013年  3月10日    崎谷英文


ピアス

 県立高校の一年生の男子が、勉強をしに来ている。彼は、両耳にピアスをし、時には、唇にも一本の金属を通している。彼は、どうしてそんなことをするのか、彼は、決していわゆる不良とか遊び人とか暴走族とかの類ではなく、ただ少し、突っ張ったところのある高校生である。ただ、単に粋がっているのか。

 彼が、そのような格好をすることを、本当に好きでやっているとは思わないが、僕の高校時代と比べてみれば、時代として、そのような装飾をすることが、それほど突拍子もない異形ではなくなってきているということも作用していると思われ、彼のその顔の造作は、今の彼の彼なりの自由の標榜であり、大人たちへの反発なのであろう。

 思えば、若者たちは、そうやって大きくなっていく。昔から、常に若者は放埓であった。大人たちから見れば、若者の一種の麻疹のようなものだったであろう。しかし、それは、人のただ単なる成長していく通過点としてあるのではない。単なる反抗期の行動として捉えるべきものでもない。

 社会は、常に大人たちの規範が優先し、その枠組みの中に子供たちを嵌め込むことによって、その社会を維持させようとする。しかし、大人たちの作ってきた仕組みとか、制度とか、倫理とか、そういったものは、常に大人たちの独善であり、どこまでも大人たちのものであって、真に子供たちの為に存続させねばならないものかは、疑わしい。

 若者たちは、そのような大人の押し付けがましい伝統、制度、道徳に対して、本能的に、そして人間的に反応する。たとえ、いくら大人たちが、子供が主役でありその成長を手助けするものだと言い張っていても、保守的で窮屈であることは間違いなく、大人自らが自分自身を疑うことを知らない横暴になり得る。そして、若者たちのそういった素朴な、純朴な社会に対する異議申し立てこそ、世の中を新しく変えていく。

 僕も、高校生の時、大人たちの大人たちの価値観の押し売りに反発を感じながら生きていた。それは、幼く、拙い精神であったかも知れないが、どうして大人の言うことを聞かなければならないのか、勝手な大人たちの世界に何故服従しなければならないのか、そのような事ばかり考えながら生きていたような気がする。

 こういうようなことは、時代の風潮、流れ、雰囲気にも左右されるのだが、僕の高校時代には、社会の大きな動きとしての既成社会への反乱のようなものがあり、少なくはない若者たちが、その動きに呼応していたように思う。いわゆる、安保闘争、団塊世代から始まる大学紛争、高校紛争の時代だった。

 しかし、結局世の中は変わらなかった。昔の闘士たちも、生きていかなければならず、社会組織にはまり込まなければならず、野生の犬が手なずけられるように去勢されていったのである。そうやって、中年を過ぎ老年になった世代の作り上げてきた世の中が、今の世である。変わったようで、変わってはいない。むしろ、僕の若かった頃より、保守的で窮屈になっているであろう。

 そんな今の時代にも、純真な若者たちは、大人たちの身勝手さ、醜さに気付き反発する。大人たちは、子供たちに、君たちは自由だよと言いながら、その実、それは檻の中の自由であり、子供たちを絡め取り枠に嵌めようとし、道徳を押し付ける。大人たちは、今の世の不条理を自らの倫理観の不条理によることを、知ってか知らずか、その倫理観を子供たちに教え込もうとしている。

 今の若者たちは、僕らの頃よりずっと豊かになった分、小さな時から牙を抜かれているようであるが、それだけに、逆に、成長するにつれて、内心の葛藤は大きいのではなかろうか。

  一雨の やわらぐ春や 土光る

 

2013年   2月28日   崎谷英文


ポトラの日記5

 梅の花の蕾が、ようやく柔らかく膨らんで、今、一つの花が咲きそうにその白い花弁を見せかけているところに、冷たい雨がひとしきり降りそそぎ、まだ、早すぎたとばかり、顔を引っ込めるようにしているのを、木の下から眺めている。春は立ったと言うのに、雪交じりの雨が大地を濡らす。

 今年の冬から春にかけて、やけに小鳥が多い。スズメはもちろん、千鳥、ツグミ、ムクドリ、ジョウビタキなど、いろいろな鳥が、この庭と畑にやってきて、縄張り争いをしているようだ。この間などは、アオサギが一羽、庭の中をゆっくりと歩いているではないか。相棒も、アオサギは、田んぼでよく見てはいるのだが、さすがに、庭にまで入って来ているのを見るのは、初めてらしく、驚き感動していた。空高くには、トンビの小次郎さんが、ときどき、笛を吹きながら、まあるく眠たそうに輪を描いいている。

 それでも、季節は遅刻しながらも、確実に廻り廻ってくるようだ。梅の花も、まもなく、一つ一つ咲き出すのだろう。春泥とはよく言ったもので、朝、霜で固められた畑の土も、昼ごろになると融けて、輝く。きれいな水なのではないが、それが、春の土の中に浸み込んでいって、小さないのちを育むことになるのだ。もう、ミミズたちも、冬の厳寒の中のように小さくはなく、一人前の大きさになってくる。

 今年の鳥たちは、野菜を食べる。去年までは、鳥たちは、野菜をあまり食べなかった。今年、相棒が育てていた白菜は、元々、出来の悪い中途半端なものだったのだが、やっと大きくなってきたと思っていたら、その葉の上の方を、きれいに鳥が食べてしまい、同心円状の花のように、まるで白と緑の葉牡丹らしくなってしまったのだが、これも、自然の造形かと思ってみれば、美しい。野菜はよく虫に食べられるのだが、虫の来ないこの時期に、鳥に食べられても困るので、相棒は急いで一部の野菜に網をかけていた。

 僕は、半野良の猫なのだが、相棒が気前よく奢ってくれるので、少し太っている。母親のダラも少し太っていて、兄のウトラに至っては、猫というよりも子豚のようになっている。ウトラは、元々僕より一回り大きいのだが、それにしてもよく食べる。食べ物を相棒から貰っても、その一人前を平らげたのち、さらに、執拗に相棒にねだるのである。ゴロニャンと相棒の前で寝転がって見せたり、窓の縁の木を擦ってみたりして、もっと食わせろと言う。それを、相棒は甘やかすからいけない。奥さんや息子さんから、メタボにさせて良くないよと、いつも言われている。

 相棒は、この間、高校の同級生だった外里君と会ったそうだ。彼は、中学校の教師を定年になる身なのだが、彼は、昔は、バスケットボールの選手だったのが、今は、体重が90sもある見事な腹をしていたそうだ。体脂肪は、40程らしい。僕の体脂肪はどれくらいなのだろう。兄のウトラ程ではないにしても、結構多いと思う。僕は、最近少し食べる量を減らしている。相棒にも、奢るなら美味いものを少しだけくれと言っている。それでも、痩せるのは難しい。

 人間たちの中には、豪勢な食事をして喜び、それでいて太っちゃいけないと、せっせとスポーツジムに通っている輩が多いと聞く。まるでマッチポンプであり、無駄なことをしているのだと思うのだが、豊かになると節操がなくなるのであろう。欲望だけは盛んになって、欲を満たして、不安になって身を削るなど、笑止だ。

 美味いものを腹いっぱい食べて、すやすや眠って暮らすのが気楽なのだろうが、それが、生きている値打ちでもあるまい。腹いっぱい食べられない人々に対して、後ろめたく思わないのか。鳥や虫たちは、食べ過ぎて死ぬことはない。多分、人間だけが、食べ過ぎて死ぬのだろう。しかし、人間と仲良くなり過ぎた犬や猫は、食べ過ぎで死ぬかもしれない。僕も注意しよう。

  梅の花 一輪ばかり 空に映え (ポトラ)

 

2013年   2月20日   崎谷英文


散る桜残る桜も散る桜

 人は忘れられた時に死ぬ。死んでいった人は、その人のことを、生きている人が忘れてしまわないでいる限り、生きている。カナダのイヌイットの部族の言葉にある。

 僕も六十才を過ぎ、この年になると、多くの人たちの死に遭遇せねばならないことは当然、当たり前のことで、誰にとっても、そうなのであろう。僕も、子供の頃から、多くの人の死に出合ってきた。祖父、祖母、父、母、姉、伯父、叔母、従兄弟、従兄弟の子、親友、先輩、近所の人、様々な人が、僕の現実世界の中から、その形を失くして、黄泉の国に去っていった。もう、彼らと親しく話すことができない、飲み語ることができない、一緒に笑うことができない、悩みを打ち明けることができない、苦しみを聞くことができない、そんな風に、僕の目の前から、親しい人たちは去っていった。

 しかし、僕の心の中では、彼らは消えない。僕が、彼らを忘れ去ってしまわない限り、彼らは、僕の心の中にいて、今も生きている。僕が死ぬまで、彼らは、僕の心の中に生き続ける。

 しかし、例えば、僕の祖父の兄は、僕の生まれる二年前に亡くなっているのだが、その彼の存在は、祖父や父から、例えば、トイレに行くときもドイツ語の辞書を持って入るほど勉強家だった、というようなことは、何度も聞いているのだが、それは、僕の現実世界の中の形を持った人としての記憶ではない。僕にとっては、彼は、僕に関係する歴史上の人物であり、伝説であり、伝記でしかない。

 祖父や父が生きていたときは、彼は、彼らの心の中にいて、まだ、生きていたのであろうが、祖父、父が死んでしまい、祖父の兄を知る者がいなくなってしまうと、彼は、本当に死んでしまったのである。記録としては残っていても、記憶としては、この世から消え去る。

 人の世とは、そんなものであろう。生きている以前のことは、歴史であり、生きている間のことは、現代社会である。今の若者、子供たちにとっては、東京オリンピックは歴史であり、太平洋戦争を経験していない僕には、その戦争は歴史なのであるが、東京オリンピックは、僕にとっては現実であり、戦争を知る人にとっては、その戦争は現実であろう。去りゆくものは日々に疎し、世代が変われば、それは、加速する。だからこそ、歴史は、学ばなければならないとも言える。

 僕が生きている限り、僕に先立って死んでいった僕の親しかった人たちは、決して、死なない。彼らは、しばしば、僕を彼らが生きていた頃に引き戻し、懐かしさを覚えさせ、生きていることの意味を考えさせてくれる。彼らが生きていてくれたらと思う。何故、彼らは、そんなに早く逝ってしまったのだろうと思う。生命の長短だけの問題ではない。

 無常であることは、あらゆるものにとって、仕方のないことではあるが、どうして、その無常の風が、彼らになびき、僕にはなびかなかったのか。善悪の問題ではない。彼らが悪かったわけでは決してなく、生き残った僕こそ極悪人なのかも知れず、むしろ、極悪人だからこそ、もっと苦しめと、煩悶の浮世に取り残されているのかも知れない。いずれ、僕にも、無常の風は吹く。

 僕は、彼らがいたからこそ、今、生きているのだと思う。良しきにつけ、悪しきにつけ、彼らのおかげで、今生きているのだと思う。こんなことは、若い頃は、少しも考えたことはなかった。年のせいだろう。衰えたものだ。

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛
  何処より 呆けた身にも 春の風

 

2013年  2月9日   崎谷英文


冬の朝

 年を取ったせいなのか、この冬は一段と寒さが厳しく感じられる。毎朝のように、蹲には氷柱が、それを用いれば推理小説に出てきそうな消えた凶器になりそうに垂れていて、猫用の鉢の水も固く凍っていて、世間一般、寒い冬なのだろうと、心得る。地球温暖化、暖冬傾向、はどこへ行ったのか、自然の懐の深さは計り知れず、あるいはこの厳寒も織り込み済みの自然の気まぐれかとも思われ、偉そうに解説する人間たちをあざ笑っているやも知れない。

 しかし今朝は、今は晴れているが、ついさっきまで雨が降っていたらしく、縁側が濡れていて、いつもよりずっと暖かい。雨の朝は、暖かくなる。半野良の猫が三匹、縁側で、僕の起き出した気配を感じて、餌をねだって朝の挨拶をしてくる。少し多めに、三匹が一緒に食べられる大きな皿に、食事を入れてやる。飲み水も凍っていない。

 その後、いつものように、トラックで近くのコンビニへ、新聞を買いに行く。朝食の前に、缶コーヒーを飲みながら、畑を一巡りする。いつもなら、霜が白く降りて、小さなホウレンソウが、益々小さく押し潰されたようになっているのが、今朝は、小さいながらも、しっかりとその色を留めて輝いている。さて、この冬を乗り切って、少しは大きく育ってくれるものやら、見守ってやるしかない。

 この時季、畑の野菜も数は少ない。去年からの人参が、まだ残っているが、ソラマメやサヤインゲンなどは、小さいままで、まだ、支柱を立ててやるには及ばず、タマネギも、植えたままの苗の大きさからそれほど違ってはいない。それでも、彼らは、晩秋に植えられ、この寒い冬を経て、甘みを増すという。

 朝まで降っていた雨のせいであろう、四方の山は霧がかかり、その麓から尾根近くまで白く覆われて、僅かに山頂付近に裸木の並んでいるのが見える。青い空が、山の端に迫る。一羽のトンビが円を描く。日の昇るに連れて、ゆっくりと霧は晴れる。

 毎日、山を見ている。山は、僕の周りに、それは、信州の山のように聳え立つのでもなく、雄大で華麗な姿でもないのだが、何時もある。山は、四季、それぞれの顔を見せる。桜に彩られ、青葉に輝き、紅葉に染められ、今は、色を失って静まりかえっている。山は、常に変化している。ふと気が付くと、春を演出し、夏を思わせ、秋を感じさせるのだが、山は、一日一日、一刻一刻、変化している。国破れて山河あり、と言うが、その残った山も、昔のままにそこにあるのではない。一時たりと、同じ山であったことはなく、これからも同じ山ではあり得ない。今朝の山は、この時しか見られない。

 などと言いながら、僕は、狭い所で生活している訳で、現代のグローバル社会の中では、まるで古代の化石のようなしみったれた存在だと自分でも思うことがある。こんな田舎での閉じ籠りのような生活が、時に僕にどうしようもない苛立ちを与えることがある。そんな時、煩悩の塊であることを自覚するのだが、還暦を過ぎながら覚悟のできないと言うよりも、まだまだ精神が若いのだと良い方に理解しようとしたりもするが、何の慰めにもなるまい。無常は、我が身のものでもある。

 などと言ってみても、いくら世界が小さくなり、夢が大きくなり得るとしても、器の小さな僕が何かできるとは思いも及ばず、これからも、土を弄くって遊び、猫と語って戯れ、太市の山を毎日眺めながら、その変化を楽しむしかないのかと、忸怩たる思いのまま、何時果てるとも知らぬ身と、諦観するしかなさそうだ。

  能面の 無常の色に 冬の山

 

2013年  1月30日  崎谷英文


巡礼

 よく知っている同業の学習塾を運営してきた人が、六十五才になる今年、塾を閉鎖すると言う。かねてから、その人は、仕事を辞めたら、歩いて四国の八十八箇所巡りをするのだと言っていたのだが、遂にその時が、この四月という現実的な日にちを持って、目の前にやってきたのだと言う。

 四国八十八箇所巡り、西国三十三箇所巡り等、日本人は、かなりの人々が、その人生の岐路、あるいは、終点に近づくに連れて、その行脚に惹きつけられていくようだ。関西の人は、四国とか西国とかの巡礼になるのだが、関東にも、坂東三十三箇所があり、秩父三十三箇所もあるようだ。小豆島には、ミニ八十八箇所もある。キリスト教にも、エルサレムへの巡礼があり、イスラム教にもメッカへの巡礼がある。

 神は死んだ、とニーチェは言った。限りある生命しか持たない人間にとって、死を超えた永遠の生命に縋らねばならない時、神への信仰が生まれ、神の語るべき精神とふるまいが、人々の生活を規律するのだが、もはや、神は死んだのである。欲望は解放され、力のある者、権力のある者、豊かなる者が、この世を支配し、支配するための支配される者たちへの道徳の押し付けがまかり通り、それが、さも神の説く善であるかのように教え込まれ、自らもまた、その実はいびつな秩序形成の中に陶酔し浸りきっていく。

 日本でも同じようなもので、仏教においては、既に平安時代から、末法と叫ばれ、悟りも修行もない表面的な経典の字面だけが残っている、と言われ続けている。やはり、権力と武力と財力を持つ者たちが、この世の秩序を形成し続けてきたのである。

 神や仏は、利用されるに過ぎない偶像になる。大衆を支配するための金科玉条のテキストであり、自らの支配を正当化し慰撫する道具として利用される。力のあるものが秩序を作り、力を持てば思うようになり、それが正義になるのだとしたら、そこに闘争が生まれるしかない。爾来、闘争社会が繰り広げられ、終わりなき闘争が、将来に渡って繰り返されることになる。

 かくして、人は、知らず知らず、罪を犯しながら生き続ける。如何に善良に暮らしていると仮装しても、現実社会の汚れた仕組みと仕掛けの中で、また、神や仏になり得ない醜い心の業を抱え込んで、権力者たちの作り上げた価値観を植え付けられ、煩悶しながらも、思わず、他人を傷つけながら生きているのだ。

 ニーチェの言うように、神は死んだのかも知れなくて、権力者の陰謀にはまり込んだ善なのかも知れないが、一縷の望みを持って、人間の性善を信じ、死しても、きっと先立って死んでいった僕の親しい人々に会えるのではないかと思って、今のこの生命を生きている僕などは、全くのお笑い草の間抜けな大馬鹿者の道化師なのだろう。

 現代の巡礼というものは、何なのだろう。人は、存外、この世の不合理な有り様を熟知しながら生きているのではなかろうか。殺し合い、奪い合い、傷付け合い、騙し合って生きているという現実社会を、実はよく知っていて、純情そうにふるまいながら、不合理に抵抗しきれず、世の中のせいにして、我が身は無責任と、無関心に生きるしかないとごまかしながら、どっぷりと、現実社会の悪に加担している。

 しかし、どこまでもニヒルにはなり切れず、懺悔せざるを得ず、自己を罰し、心の免罪符を願い、心の自己満足を得んと、思わずにはいられない。聖地に価値があると言うよりも、聖地への過程が大事なのかも知れない。巡礼は、自らの足で赴かなければならない。

  冬山の 霞の上に 光あり

 

2013年  1月18日   崎谷英文


三匹の子豚

 ブー、フー、ウー、という兄弟三匹の子豚がいた。母親に、内の家は貧しいから、みんなそろそろ、自分で家を建てて暮らしなさい、と言われ、三匹は、それぞれ家を造ることになった。

 一番上がブー、ぶうぶうぶうのブツブツ屋、怒ってばかりで文句ばっかりのせっかちのめんどくさがり屋だ。農家の人から藁を貰って、一番簡単な藁の家を建てた。

 二番目がフー、ふうふうふうのくたびれ屋、寝るより楽はなかりけりの性分で、働くことが嫌でたまらないへこたれ屋だ。それでも、木こりのおじさんから木を貰って、木の家を建てた。

 三番目がウー、ううううううの頑張り屋、文句も言わず、少々のことではへこたれない真面目屋さんだ。橋を造っている人からレンガを貰って、こつこつと、レンガの家を建てた。

 オオカミがやってきて、藁の家のブーに、寒いから入れておくれと言うが、ブーは僕を食べる気だと知って、駄目だよと追い返す。オオカミは、大きな息をして、ふうーと藁の家を吹き飛ばしてしまった。ブーは急いで逃げて、フーの家に隠れた。

 オオカミは、フーの木の家に来て、寒いから入れておくれと言うが、フーは、僕たちを食べる気だと思って、駄目だよと言って、入れてやらなかった。オオカミは、フーの家に火をつけて燃やそうとした。ブーとフーは、急いで逃げて、ウーの家に隠れた。

 オオカミは、ウーのレンガの家に来て、寒いから入れておくれと言うが、ウーは入れてやらなかった。オオカミは、ウーの家を吹き飛ばそうとしたができなかった。火をつけて燃やそうとしたができなかった。オオカミは、あきらめて、森に帰っていった。

 三十年経った。ブーは何度も何度も、大風や洪水で藁の家を、吹き飛ばされたり、流されたりしながら、その度、藁の家を、また建てて、住んでいた。何しろ、藁の家は、とてもたやすく建てられるのだから。

 ブーは、山火事の延焼に合うこともなく、それでも、少しずつ傷んでくる木の家を直し直ししながら住んでいた。

 ウーは、昔とそれほど変わらない外見のままのレンガの家で、ゆったりと過ごしていた。

 そこに大地震がやってきた。ブーは、ちょうど、大海原を航海する夢を見ていたのだが、大きな台風に揺らされて目が覚めた。藁の家は、跡形もなく、ブーは一人で大地に寝そべっていた。

 フーは、大きな揺れで目を覚まし、障子を蹴破って外に飛び出したが、倒れてきた柱で大きなけがをした。

 ウーは、直ぐに気が付き外に出ようとしたが、扉が開かず、レンガが少しずつ崩れ、下敷きになってしまったが、一命だけは取り留めた。

 その後、三匹は、三匹いっしょに、大きな藁の家を建て、三匹いっしょに住んでいる。オオカミも、森から出てきて、いっしょに住んでいる。ウーは、レンガの家を作るのをやめた。レンガの家は、頑丈でいいのだが、壊れてくるととても危ない。藁の家なら、何が起こったって、藁の家が、失くなるだけだから、どうってことはない。何しろ、藁の家が失くなったって、直ぐに作り直すことができるのだから。大地が、割れない限り、生きていけると、仲良く暮らしたとさ。

 立派なものを持っていると、失くすとき、とっても、損した気分になるが、大したものを持っていなければ、失くしたって大したことはないのだ。

  大三角 三色三つ星 事もなし

 

2013年  1月5日  崎谷英文


仙人の戯言

 自由は実は、苦しいのである。
自分自身で判断し、自分自身で責任を持つ
これは実に大変なことである。
勉強するのは、この考えること、判断すること
責任をもつことの前提としてある。