デイスクールてらこった
デイスクールてらこった デイスクールてらこった
Terracottaとは
活動内容
塾 てらこった
組織概要
アクセス
リンク集

 

 

仙人の戯言 2011年

* 2018 * 2017 * 2016 * 2015 * 2014 * 2013 * 2012
* 2011 * 2010 * 2009 * 2008 * 2007 * 2006-2005 *

勝者と敗者

 自由競争の中で、勝者となって生きていくことが、人生の目標になっている。英太のような落ちこぼれには、そんな殺伐とした心穏やかならざる生き方はできないのだが、世の中の人たちは、地位を求め、権力を得ようとし、名誉を願い、なかんずく、金銭的豊かさを渇望している。そのためには、勝者とならねばならないのだ。地位も権力も名誉も贅も、勝者にしか与えられない。

 しかし、常に、勝者は少数であり、敗者が多数なのである。夢を持ち、夢見ることは、人の世の空しさを実感することを忘れさせる特効薬のようなものなのかもしれないが、概して、それは勝者となることと重なる。しかし、常に、勝者は少数であり、多数のものが敗者となっていく。敗者あっての勝者なのだ。

 だからこそ、少数の勝者は、常に、多数の敗者たちのご機嫌を取り続けなければならない。多数の敗者に対して、その反乱を起こさせないように、懐柔していかなければならない。多くの敗者たちは、恨み、妬み、僻みを持つということなのだろう。蚊帳の外の英太にしてみれば、馬鹿馬鹿しい限りだ。しかし、勝者が敗者を、たらしこまなければ、今のグローバル金融資本主義、大衆ポピュリズム民主主義は、維持できないのだ。つまり、勝者と敗者が生まれていくこの社会において、もっともらしい、敗者を納得させる理屈と説明を、常に必要とするということだ。

 つつましくも、働き食べていくことが、人間としての素晴らしい生き方だ、ということを、多数の敗者たる大衆の心に根付かせ、その大衆の労働により生産された利益を、むさぼっていようとし続けるのが、少数の勝者たちなのである。多数の敗者たちは、自らの敗北を、自らの無能と無力にあると知らしめさせられ、少数の勝者に対して、敬意こそ持て、その不条理を恨みがましく訴えることなど、到底許されないのだと、教え込まされる。敗者は、常に、よくやったと慰められ、不条理に屈服していく。

 かくして、大多数の敗者たちは、血と汗と涙の労働の成果を、少数の勝者たちに収奪されながら、そのぬくぬくとしたソファーでふんぞり返る勝者たちに、幾らかでもあやかりたいと思わされていく。勝者たちは、勤労の倫理を大衆に染み込ませ、自らはその利益を搾取して、その後ろめたさを感じることもなく、時に傲岸不遜なる気持ちの裏返しとして、敗者たちへの施しを持って、思いやりのあることと自尊し、意気揚々と寝そべっているのである。

 少数の勝者たちは、恥ずかしげもなく、その贅を正当なるものと自負し、有り余る余暇と金銭を、自らの心の浄化のために、文化というものにつぎ込み、のめりこんでいったりもする。英太は、美というものは、真と善と同じものであり、汚れなき真実こそが美しく、素朴に善なるものこそが輝く美しさを持っている、と思っている。そうだとすれば、芸術というもの、美というものは、常に、真と善とに結びついていなければ、それこそ美しくないのであり、真と善からの程遠いところから生じる美と言われるようなものは、結局は、醜悪でしかない。意識してか、無意識か、心のやましさが、美を求めていくのではないかと推察するが、やましさからは、歪んだ美、虚飾の美しか生まれてこないだろう。

 真剣に恥を知りたる勝者は、微々たるものだ。市井の中にこそ、真、善、美は宿る。恨まない、妬まない、僻まない、覚悟した大衆の中にこそ、真、善、美は宿る。

  山際に 赤き月あり 夜半の冬

 

2011年   12月21日    崎谷英文


シンベー日記 27

 十二月四日、僕は、とうとう、ほとんど物が食べられなくなっていました。もう、すでに、足に力が入らなくなっていて、用を足さなければならない時に、ようやっと、立ち上がることができるだけになってしまっていました。あなたは、僕のことを心配して、いろいろな食べ物を用意してくれましたね。缶詰、乾いた固形粒、軟らかいレトルト食、ビーフジャーキー、ポッキーのような食べ物など、様々、僕の食事用の皿においていってくれました。奥さんも、僕のために、味のついたご飯を作ってくれました。

 あなたは、僕が家の中で横になったきりだったので、少しは動いた方が足腰にいいと思ったのですね。僕の肩を取って、立たせてくれましたね。だけど、その時はもう、これからやってくる運命に、はっきりと気付いていました。まもなくお迎えが来るということを。あなたたちが、僕のことを思ってくれているのが、とても嬉しかったです。

 十二月五日、もう、何も食べられなくなって、何とか、午前中に、水を少しだけ飲むことができたのですが、もう、動けない。夜の十一時頃、仕事から帰ってきたあなたは、僕の食事の皿に何も無いのを見て、喜んでくれましたね。違うんです。僕の食事は、近所の太った猫が、食べていってしまったのです。ダラやポトラではありません。何処かで飼われているらしい豚のようなペルシャ猫です。僕には、もう、食べる元気はなかったのです。

 そして、ずっと以前から、身体の何処か確かには分からないのでしたが、痛みが常に僕を襲っていました。あなたがいつものように、僕を立たせて、あなたが家の中に入って行った後、僕は、どうしようもなく、家の入り口に入ったとたん、崩れ落ちました。僕は激痛に、思わず、声を上げました。痛みに耐え切れず、何度もクウーンという唸り声を上げました。それを聞いて、あなたと奥さんは、直ぐに来てくれました。僕の身体を抱え上げ、下にたくさんの藁を敷いてくれましたね。上に毛布を掛けてくれましたね。僕が泣いていたのを知っていますか。あなたたちの優しさに涙したのではないのです。あなたたちと別れることが、悲しかったのです。

 僕は、ほら、あなたが見ている西の山の彼方の空にいます。コトラも隣にいます。あなたをずっと見ているのですよ。死があらゆるものに訪れると言うことは、覚悟していました。それは、乾物屋のハナ婆さんから聞いていたのではありません。あなたが、よく僕に、話をしてくれていたではないですか。長生きしろよ、長生きしろよと。それは、いつか死が来るということの証の言葉でもあったのです。

 一切衆生悉有仏性、生きているものすべてに、仏は宿っているのです。禅の公案に、犬にも仏性はあるのか、というのがあります。無という答も、有という答もあります。しかし、やはり、犬にも仏性はあるのです。犬の姿において修行しているのが犬なのです。そうして、修行している犬は、この世を去った後、再び何ものかとなって、この世に戻って、修行し続けるのです。この辺り、少し、親鸞聖人の往相と還相の意味が交じっていますが、僕も戻ってきます。そうなる前の今も、あなたのそばにいるのです。あなたをずっと見ているのです。

 十二月六日、僕は、とうとう、声も出なくなりました。痙攣を時々起こしながら、ただ、藁の上で、毛布の下で、横たわっているばかりでした。意識が遠くなってきました。もう、まもなくです。あっ、あなたが仏壇の前で、僕のために御経を唱えていますね。とっても安らかです。では、さようなら。

 こうして僕は、死にました。あなたと過ごした十六年余りの月日は、とても楽しかったです。走馬灯のように思い出されます。西の空を見てください。僕は、まだ、そこにいますから。

  死にてなお 夢を見つるや 冬茜 (シンベー)

 

2011年  12月12日  崎谷英文


馬鹿のイワン2

 ちび悪魔に妬みの心を植えつけられた太鼓腹のタラスは、他人の持っているものを、何でも欲しがるようになり、狙い通り借金漬けになり、逃げ戻ってきた。

 「今の世の中は、みんな、ちび悪魔に取り憑かれているようだ。他人の持っているものは、それが、ほんとに役に立つものか、必要なものか、余り考えずに、宣伝にも踊らされて欲しがる。無ければ無いで済むものを欲しがって、そのために金貨を求めている。」

 「いいじゃないか。その欲望が、現代の成長を支えているのだから。ろくでもないものを買い漁って、そのために働き、それで金貨が天下を回る。」

 イワンは、タラスをやっつけたちび悪魔に嫌がらせを受けながらも、畑仕事に打ち込み、そのちび悪魔から、樫の木の葉っぱから、金貨を作り出す方法を教わる。タラスはそれを知って、イワンに金貨を作らせて、再び商売を始め、大儲けをする。タラスの欲望は尽きることなく、もっと金貨を作れ、とイワンに言うが、イワンは、タラスがミハイロブナおばさんから、金貨三枚で雌牛を取り上げたから、もう、金貨は作らない、と言う。何しろ、イワンの国の人たちもイワンと同じように馬鹿で、必要なものは物々交換するか、働いて手に入れるしか、知らなかった。

 「今では、金貨の値打ちが、実体の無い架空の取引によって、上がったり下がったりして、物を作らない、生産しない連中が、物の価値、価格をもてあそんでいる様に見える。物を作っている者と、それを必要とする者との折り合いで価格というものは出来るのだろうが、今は、どこか別のところで、細工され操作されているように感じる。」

 「それが、現代資本主義というものだよ。大銀行や大企業がたくさん稼ぐことによって、大衆が仕事が出来、関連企業が潤い、働く人たちも金貨を手に入れることが出来、いろいろな買い物が出来るのだから、大企業や大銀行は潰せない。」

 大悪魔は商人となって、タラスの国に入って、タラスの持っている大金以上の大金で、何でも買って、人を雇っていったので、タラスの大金では何も買えなくなって、とうとうタラスは、食べ物も買えなくなった。タラスは、再び、逃げ戻るしかなかった。

 イワンの国では、みんな馬鹿で、金貨などは、珍しい物としての価値か、子供のおもちゃとしての価値しかない。大悪魔が紳士に化けて、タラスに仕掛けたように、たくさんの金貨でイワンの人たちをたらしこもうとしたが、イワンの国の馬鹿者たちは、首飾りにしたり、遊び道具にするだけで、それ以上金貨を欲しがらない。金貨では物が買えなくなり、人も雇えなくなった大悪魔の紳士は、ついには、自分が食べるものさえなくなる。大悪魔の紳士は、イワンの国の人々を順番に回って、神の恵みとしての食事を貰うまでになってしまう。

 「今の世の中は、札束をちらつかされて働く連中ばかりだ。そうやって、不況になると、真っ先に弱いところが打ち捨てられ、労働者が切り捨てられる。汗水垂らさない連中だけが、ソファーにふんぞり返って、葉巻を吸う。」

 イワンの妹は、大悪魔の紳士の豆の無いきれいな手を見て、怠け者だ、とテーブルに座らせず、残り物を与える。大悪魔は、痛くなるほど頭を使って働くことも出来るのだと言って、頭の使い方を教える、とやぐらの上で演説をする。イワンの国の人たちは、頭を使ってどうやってパンを手に入れるのか、興味津々だったが、紳士はただしゃべっているだけで、頭も使わず、パンも手に入れられないのを見て、徐々に誰も耳を貸さなくなっていく。大悪魔の紳士は食べることも出来ず、ふらふらになって転げ落ち頭を打ち付ける。手や背中を使って働くと、手や背中が痛くなるが、頭を使って働くことも痛いものだ、とイワンの国の馬鹿者たちは思った。

  秋山の 錦に向かひ 鍬を振る

 

2011年   12月1日   崎谷英文


馬鹿のイワン

 大悪魔が、父親とその三人の息子、軍人のセミョーン、商人の太鼓腹のタラス、畑を耕している馬鹿のイワン、そして、口のきけない妹とが、仲良く暮らしているのが気に食わなくて、彼らに大喧嘩をさせ、めちゃくちゃにしてやりたくなった。ちび悪魔たちに命じた。セミョーンの係りの悪魔は、セミョーンに勇気を吹き込み、戦争を仕掛けさせ、負けさせる。タラスの係りの悪魔は、タラスに妬みの心を起こさせ、何を見ても買いたくなるようにさせて、借金漬けにする。イワンの係りの悪魔は、イワンの腹を痛くさせ、土を固くして、畑を耕すことが出来ないようにする。

 「トルストイの民話だが、今の人間たちも、こんな三種類になるのではないか。戦争をしたいやつ、金持ちになりたいやつ、せっせと黙々と汗水垂らして働くやつ、だいたい、そんなものだな。」

 英太は、箱根の宿で、夕食の後、また、酒を飲みながら、もはや、還暦前後の元柔道部の仲間と話している。

 「だけど、戦争をしたい人間はいないだろう。一応、みんな、平和を願っているのではないのか。」

 セミョーンの悪魔の作戦は上手く行って、セミョーンは、戦いに負けて、領地を取り上げられ、戻ってきた。イワンは快く、セミョーンを迎え入れた。ちび悪魔の度重なる妨害にも、くじけることなくせっせと畑を耕していたイワンは、ちび悪魔から、藁から兵隊を作り出す方法を教わっても、その兵隊たちに楽器を演奏させ、歌を歌わせて喜ぶばかりだった。セミョーンは、イワンに兵隊をたくさん作らせ、また、戦争に行ってしまった。セミョーンは、国を攻め取っていったのだが、足りないから兵隊をもっと作れ、とイワンに言った。しかし、イワンは、戦争で人が死んだから、もう、兵隊は作らないと言う。

 「今でも、戦争をしたがっている人間はいるようだな。それに対抗するつもりで、ますます、軍隊を互いに増強しようとしている。結局、戦争が起こらなくても、無駄な出費だ。」

 「だけど、そうして、軍隊がにらみ合って、平和が、一応は続いているのではないか。」

 セミョーンは、更に兵隊を作って、逆らうものたちを押さえつけて、セミョーンを恐れさせ、必要なものは、すべて兵隊たちを使って、自分のものにしていった。セミョーンを失脚させたい悪魔は、隣の国を手に入れるために、ますます強い軍隊を作ることをそそのかし、セミョーンは、そのようにした。しかし、一度は上手く行ったが、インドの王が、セミョーンに真似て、更に強力な軍隊を作り、攻め込んできたセミョーンの軍隊をやっつけてしまい、セミョーンは、命からがら逃げ出した。

 大悪魔は、イワンをそそのかし、軍隊を作らせようとしたが、イワンは軍楽隊がいいと言い、大悪魔は自分で、イワンの国の人々に、ウオッカと赤い帽子が貰えるから兵隊になれと言っても、イワンの国の馬鹿者たちは、酒も帽子も自分たちで作れるからと言って、笑うばかり。遂に、兵隊にならないと死刑にするからと命じても、兵隊になっても殺されると言って、イワンに談判して、イワンがみんなを死刑に出来る訳がないと言って、みんな、兵隊にならなかった。

 とうとう、隣国のゴキブリ王が、大悪魔にけしかけられて、イワンの国を攻めてきた。イワンの国の人々は、誰も抵抗しない。むしろ、ゴキブリ国の兵隊たちに、何もかも渡して、そんなに苦しいなら、一緒に暮らそうと勧める。ゴキブリ王が、家や穀物を焼き払い、家畜をすべて殺すように命じるが、イワンの国の馬鹿者たちは、泣いているばかりで、好きなだけ持っていけと言う。ゴキブリ国の兵隊たちは、嫌になってしまって、逃げていった。

 「戦争が起これば人が死ぬ。戦争が起こらなければ、無用の長物。そんな軍隊が何故必要なんだい。災害救助隊で、充分だ。」

  地を裂きて 地を潤して 葱の生ふ

 

2011年   11月22日   崎谷英文


珍道中

 姫新線の太市駅を八時四十四分発に乗ると、姫路駅には九時前に着く。姫路駅発九時四十四分発の新幹線に乗ろうとしたら、その列車が遅れている。一時間前の列車さえ、まだ到着していない。駅員によると、山口の方で信号システムが故障して、列車が止まっているのだと言う。英太は、小田原に行くのだが、新幹線ののぞみ号で名古屋まで行き、そこで、二時間に一本ほどある小田原に止まるひかり号に乗り換えて、予定では、昼の十二時半頃に着く段取りをして、新幹線の特急券、指定席券を購入していたのだが、その名古屋まで乗っていくはずののぞみ号が来ないのである。広島以東発の上りの新幹線は、ほぼ予定通りに動いているらしいのだが、その列車に乗っても、名古屋での乗り換えの時刻に到着しないことが分かった。

 仕方がないので、いつも通り、姫路銘菓「玉椿」二十個入りを買って、とにかく、最も早く姫路駅を出るこだま号に乗って、新大阪まで行くことにする。小さな新幹線の時刻表を見て、西村京太郎のミステリーのアリバイ崩しのように、不可能を可能にする方法がないかと知恵を搾り出すのだが、その小田原駅に止まるひかり号に乗ることは、どうしても無理だった。インターネットで検索すると、新横浜から引き返して小田原に行く方法が最も早いなどと結果を出していたので、新横浜、小田原間の料金を余計に払う必要があるのだが、そんな行き方でも、小田原で十三時半に待ち合わせて、旅館の送迎バスに乗っていく予定に間に合わないかと、時刻表とにらめっこしたのだが、やはり、そんな魔法はなかった。

 もう観念するしかなく、新大阪からこだま号に乗って、小田原に行くことにした。姫路駅で買った、まねきのおかめ弁当を食べて、新聞二紙を読みながら、ゆっくりとこだま号自由席に座っての旅も、また、良しとしよう。

 止まる駅によっては、二本三本ののぞみ号、ひかり号の通過待ちをして、十四時頃に、小田原に到着した。そこから、小田急線乗り入れのロマンスカーに乗って、箱根湯本に行き、更に、箱根登山電車に乗り換え、強羅まで行く。と、登山電車に乗って扉が閉まった途端、鞄を持っていないことに気付く。もう一つの紙袋と寒いかも知れないと持ってきていたコートだけが、足下にあるではないか。次の駅、塔ノ沢で降りて、箱根湯本まで引き返すはめになる。

 思い出してみて、鞄は確かに、小田原に着いた時は持っていた。小田原駅の改札を出る時、親切な駅員が、ひかり号ではないこだま号で遅れて到着したことによる千八百円程の払い戻しをしてくれたのだが、その時、鞄からポケットティッシュが転げ落ち、また別の親切な女性の駅員が拾ってくれた時、確かに鞄は持っていたのだ。だから、鞄は小田原から箱根湯本までの列車の中に忘れたのだ。

 箱根湯本に戻り駅員に尋ねると、折り返し列車は、その都度、車内清掃点検をするから、きっと、二階の駅事務所にあるのではないか、との有り難いご託宣をしてくれた。なむさん、鞄はあった。手続きをして貰い受け、再び、登山電車に乗り込む。

 箱根登山電車は、山の中、途中三回のスイッチバックをして登って行く。強羅駅に着いたのは、午後四時過ぎだった。そこから、タクシー乗り場で列の後ろに並んだのだが、今度は、タクシーが来ない。紅葉を目当てにした観光客が多く道が込んでいるのか、一向にタクシーがやって来ないのだ。もう宿に着いて、ビールを飲み始めている大学柔道部同期の仲間に連絡して、旅館の人からタクシー会社の電話番号を聞き、タクシーを呼び出して、ようやく旅館に着いたのは、午後五時近くであった。

 紅葉には、まだ少し早かった。

  弥次喜多の 箱根越えかや 薄紅葉

 

2011年  11月14日   崎谷英文


シンベー日記 26

 先日まで、裏の小さな柿の木は、緑の葉と緑の実で、まるで全体が緑色をしたスペードのマークのようになって生い茂っていたのだが、今、柿の実は黄金色にたわわに実り、地面に届きそうにもなっている。秋晴れの空は、真っ青に色濃く見えながら、その実、宇宙の彼方まで見通せる程に透き通っても見える。真北にある破磐神社の裏に控える山の端にある木々の一本一本が、くっきり見える程に感じる。直ぐ前の畑では、オクラや胡瓜やトマトなどの夏の野菜が役目を終えて、ほうれん草や春菊や小松菜などの秋、冬の野菜に席を譲っていく。

 秋も深まり、朝晩の涼しさは、人間には、昼との寒暖差の大きさも相俟って、肌寒くも感じさせるのだろうが、犬の僕にとっては、ようやく夏の残暑を逃れた絶好のすがすがしさを感じさせるものとなる。この夏の暑さは、老犬の僕には厳しすぎた。老い衰えた僕は、この二ヶ月程、散歩に出るのもおっくうになった。主人がリードを着けて散歩に誘うのだが、脚が動かない。やっと涼しくなって、以前よりは、身体が動くようになり、食欲も出てきたとは言え、やはり、まだ、散歩する程の体力、気力にはならない。

 猫のダラが、三匹の子猫を産み、主人がダラを含めて、四匹を順繰りに、獣医さんの所に連れていって避妊手術を受けさせた。ダラの子供の三匹ともオスだった、と言って主人はびっくりしていたのだが、そのうちの一匹、ウトラがいなくなった。もう、身体の大きさは、親と変わらない程になっていて、その小さい頃と比べると、かわいらしさも薄らいではいたのだが、その鳴き声は、まだまだ、子猫のそれだった。いなくなったからと言って、何処をどう捜していいのかも分からない。元々、野良猫だから、何処かで、逞しく生きているに違いない、と主人は、自分に言い聞かせているようだった。

 しかし、事件が起きる。金曜日の雨のそぼ降る夜だった。主人が仕事から帰ってきた十一時前頃、僕は主人の泣き声を聞いた。ダラの三匹の子供のうち、一匹だけブロンドの毛に白の交じった体色をしていたコトラが、道に倒れていたのだ。主人は、それをガレージの手前で見つけたらしく、車を止めると、飛び出してコトラに声を掛けるが、もはや、冷たく硬くなっていた。冷たい雨がブロンドの毛を濡らし、身体には傷があるようには見えず、血も出ていなかった。

 しかし、やはり、自動車にはねられたに違いない。主人は、今まで、何度も、道に倒れ、それも無惨に血まみれに潰された小さな動物たちを見てきたらしいが、まさか、コトラがそんな目に合うとは、思ってもいなかっただろう。コトラが、道に倒れたまま、朝まで放って置かれたとしたら、きっと、別の車に轢かれ潰されていただろう。主人が見つけてくれるように、コトラは倒れ、それを主人が見つけた。僅か、六ヶ月ほどの命だった。僕の命をあげたかった。

 翌日、主人と奥さんと息子さんの三人で、柿の木の横に穴を掘って、コトラを埋葬していた。野の花が手向けられ、線香の煙が立ち、小さな墓石が置かれた。

 その夜は、透き通るような空で、満天の星が輝いていた。   満天の 星に光るや 墓の露 (シンべー)

 

2011年  11月2日   崎谷英文


昼寝

 ほんの少しの鶏糞を撒いただけの、化学肥料などは全く使わずに育てた稲は、苗を植えてからずっと、隣の田んぼの稲の濃い緑と違って、薄緑のまま生長していったのだが、更に、除草剤も一切使わない田んぼでは、いくら頑張って草取りをしたとしても、どうしてもいろいろな草が、稲苗の間に蔓延って、元々栄養の少ない土の養分を、雑草は正当な権利と思っているのだろうが、英太からすれば横取りしていき、周囲の人からは、笑われるような背の低い出来の悪い稲になってしまうのだが、そんな普通の単位面積あたりの採れ高の二分の一ぐらいの収穫であった稲も、それでも、ようやく、天日干し、脱穀、籾摺りが終わり、一息ついている英太だった。もはや、稲木に稲束を干している景色は、この村では、英太の田んぼだけになってしまっていた。英太は、収穫をした後も、稲木を二本残して、稲わらを干しておく。

 午前中は、秋の草刈り、畑の野菜の種まき、植え付け、水遣りの日々が、暫く続くことになる。英太の作る野菜も、稲と同じように発育が悪い。しっかり耕し、しっかり草取りをし、しっかり肥料を与えればいいのだが、英太の畑は、英太の根っからの怠け者の性分のせいで、適当に耕され、適当に雑草が生え、十月と言うのにキャベツの周りにモンシロチョウが舞い飛ぶという始末で、地球上の生物にとっては極楽のような世界になっていて、野菜は、小さく、ゆっくりと育つしかない。英太の野菜は、周囲のものよりも遅れて出来る。英太のまぬけを辿っているかのようである。

 午後は、英太は専ら本を読む。本川達雄氏の「生物学的文明論」によれば、ハツカネズミの寿命は二〜三年、インドゾウの寿命は七十年と違うのだが、一生に心臓が拍動する数は、共に十五億回だと言う。人間の心臓が十五億回拍動するのは、四十一年程度だと言う。だとすれば、人間の寿命も、本来は四十年ぐらいなのかも知れず、その後は、おまけのようなもので、今さら悩み苦しむことなどちゃんちゃらおかしく、心静かにお迎えを待っていればいいのだ。麒麟も老いぬれば、駄馬にも劣る。年を取って、強欲の増す人間の何と多いことか。

 ナマコの話が面白い。一例を出せば、ナマコは触られたり、つつかれたりすると、ものすごく硬くなって、敵の侵入を阻もうとするのだが、更に強く噛まれたり、つねられたりすると、逆に、どろどろに溶けて腸を吐き出し、敵に食べさせて、その隙に逃げるのだと言う。硬軟自在の、見事なサバイバルである。もちろん、腸は、後に再生する。実は、iPS細胞もそうなのだが、人間にも、再生する力は元々はあったのだろう。傷口がきれいになるのも、再生であることに違いはない。しかし、人間は、生物的にも進歩しすぎて、徐々に再生能力が衰えてきたのだろう。敵のいない頂上に立つと、再生されるべき事故や事件はなくなるということだ。

 植物の種というものには、寿命はないらしい。何千年も昔の種が、芽生えることもある。ということは、種は生きているのかと言えば、やはり生きている。ただ、眠っているだけなのだ。目覚めさせさえすれば、生き生きと動き出すということだ。

 英太は、夜は、睡眠薬の助けを借りてもいるのに、昼間、本を読みながらうとうとするのが常である。目覚める時、自分が何処にいるのか、自分が誰なのかさえ、ふと、見失う。こうやって、英太は、日々、再生していくのだ。そんな訳はないか。

  秋茄子の 小さくなりて 日の暮るる

 

2011年   10月22日   崎谷英文


落ち穂拾い

 天日干しをしてから二週間、この期間、長雨、大雨、また、台風もなく、英太の稲は、めでたく、脱穀、籾摺りを終えることが出来た。今、英太のおやつは、稲の落ち穂の籾から、籾殻を爪で剥いだ玄米である。机の上にある稲穂から、籾を一つ採っては籾殻を剥ぎ取り、その硬い米をおやつ代わりにしている。江戸時代ならば、干し飯というようなものであろうか。フランスの十九世紀の画家、ミレーの描いた「落穂拾い」が、実は、貧しい農民たちが、貴族や豊かな地主たちが刈り取った後の落ち残った穂を、拾い集めているのだということを思い出す。

 今も昔も、世の中の基本構造というものは、同じなのではないか。豊かな者たちが、大きな利益を得て、貧しい者たちが、その利益に与る。そんな構造が、ずっと今も続いているのではなかろうか。自由自立、自己責任という旗印は、豊かなる者たちの自己防衛の策略である。一所懸命働いて、賢く生きれば、君たちも我々のように成功するのだから、頑張れ、と彼らは言う。しかし、現代においても、生まれついての格差というものが、厳然とある。遠い昔からあって、今はもうないのだよと欺かれている格差が、しっかりと今もある。貧しい者たちは、金持ちのお恵みのようなわずかなおこぼれに、まるで、ギブミーチョコレートのように、すがり付いていく。貧しい者たちが、恥ずかしいのではない。そうなるように、世の中が仕向けられているのだ。時に、成り上がり者がひょこひょこ出てくることも、体制の維持に役立つ。

 古代からの、まさしく、血と血で争う武力の権力闘争による覇権の争奪合戦の時代から、格差の中に、人々は、ずっと生きてきている。自由と平等が叫ばれて、見かけの上では、すべての人々が、その才覚により如何ようにも豊かになれるのだ、という幻想を抱かせて、近代から現代に歴史はつながる。

 しかし、そうした自由主義、資本主義は、農山村から労働者を大量に誘い込み、彼らに豊かさの一部を分け与えながら、豊かなる者たちは、ふんぞり返って、巨大な利益を、その働くものたちからふんだくっているのである。世界の資産は、その上位2%の資産家が、全体の50%を持っているのだ。上位5%が、70%を持っているのだ。

 グローバル資本主義の中、政府と結びついた民間大企業は、あまりに大きくなり過ぎ、巨大なゆえに、走り続けなければならなくなった。まるで、ハムスターが輪の中で、いつまでも、少しも進まないが、それでも走り続けなければならないように、走り続けなければならなくなっている。そうして、実体のない幻の金融資本主義の中にあって、確実に訪れる景気の波にもまれながら、裕福な者たちは、機嫌をとりながら、貧しい者たちを切り捨てて生き残ろうとする。景気が少し戻れば、労働者たちに甘い汁を与え、景気が悪くなれば、切り捨てる。その繰り返しでしかないことを、多分、みんなが知っているだろうに、小手先だけの策で乗り切り、繕おうとする。滑稽だ。

 真とか、善とか、美とか、そういったものにつながっていなければ、人は、もやもやとした苛立ちから、逃れられないのではなかろうか。美というものも、人間の有り様の真実とか、本質的なものを表すから、人は感動する。パラドクス的であっても、美は、真や善を示さねばならない。ミレーの絵は、今も人の世の真実として、鑑賞できる。落ち穂の米が、とても旨い。

  蒼天に 稲木残りて 烏鳴く

 

2011年  10月12日  崎谷英文


稲刈り

 先々週の金曜日、朝の九時から、英太は一人で、一反半ほどの田の稲を、バインダーで刈り取っていた。周囲の人たちは、みんな、コンバインを使って、刈り取った稲をそのまま脱穀していく。脱穀された籾は、直ぐに乾燥機に入れられ充分乾かされ、繋がれた籾摺り機に入って玄米として出てくる。

 米作りは、一年を通しての作業なのであるが、それを、昔の人は、機械の力を借りずにやってきた。しかし、今は、田を手で鍬を使って耕す人はいない。手で田植えする人もいない。手で稲を刈る人もいない。ほとんどの作業を、トラクター、田植え機、コンバインなどの機械でする。だからこそ、会社勤めをしながら、米作りができることにもなる。

 英太は、昔、もう三十五年以上も前、大学生だった頃、昔の国際電信電話公社のビルの食堂で、二週間ほど、ほとんど、皿洗い、飯炊き、鍋運びの雑用係のアルバイトとして働いたことがある。料理人、コックさんは、その仕事を、英太のやるような雑用以外は、全て、自分の手でする。材料の吟味、メニュー作り、野菜を切り刻むなどの下ごしらえなども、コックさんは、一人でする。当時は、スピードカッターなどという便利なものはない。しかし、そうして、一つ一つの料理を完成させるということは、まさしく、製品を自分自身で作り上げるということであり、達成感に繋がる。

 今、世の中は、分業社会である。一つの製品を一人で作り上げると言うことはなくなってきている。ベルトコンベアーに載せられた自動車の車体に、同じ作業を繰り返す。下請け会社は、電気製品の同じ部品を、来る日も来る日も、作り続ける。分業が悪いのではない。分業と言うものが製品作りに、効率的で合理的であることはよく解かる。しかし、もしかしたら、そんな分業が、人間の疎外感を生み出しているのではないか。生産物全体に関わっていないと言う疎外感。人は、何事にも、美とか真とか善とか、究極的には、そういったものを、生産、創造することによって、人間としての他者との共感、自然との共感が得られ、生きているという生きがいが、感じられるのではなかろうか。自分の作業、部品の製造というものが、きちんと役に立ち、一つの製品が生み出されていくのだが、丸ごと自分の力で作っていくという充実感、達成感は、そこでは希薄になるのではなかろうか。共同作業ならば、共同作業をしている者たちの共同意識の共有がなければならないと思うのだが、まるで、機械の部品と同じように、人もまた、取り換え可能の歯車のようになっていないだろうか。

 農業生産においても、その機械化と簡便化は、人は、まさに、その生産物に対して一部しか関わらないという分業状態となっているのであり、自然との共感を損ない、疎外感を感じさせ、充実感を少なくさせる。

 延々と、英太はバインダーを押して歩き続けた。バインダーの作業は、午後の二時まで掛かった。英太は、次の日の土曜日に、とんど焼きのために稲わらが欲しいという子供会の親たち数人の助けを得て、稲の束を稲木に干していく。短いのや、草まみれのや、出来の悪い稲束が、二三週間後には、脱穀される予定である。余り、雨が降らなければ、いいのだが。

  秋草の 萎れると見え 丈伸ばし。

 

2011年    10月3日    崎谷英文


台風一過

 台風が、ほんの十日前にやってきて、激しい雨を降らせて、各地に被害をもたらして通り過ぎて行き、この太市にも、かなりの降水量があり、英太の家の横の用水路の水が溢れ出しそうになったりして、心配したばかりだと言うのに、また、新しい台風がやってきた。

 そろそろ、稲刈りをしなければというときになって、全く、自然というものは、思い通りにならないものだ。英太の村では、と言うより、専業農家でないが幾ばくかの米を作っているような人々にとっては、農作業は、仕事を休まない限り、土日の休みに限られ、こう雨が降っては、思うように稲刈りができなくなる。雨が止んだからといって、直ぐ翌日では、田んぼに水が残っていたり、土が軟らかすぎてコンバインが入れなかったりして、稲刈りもしにくい。よく実っている稲などは、それだけでも倒れたりするのだが、この大風と大雨で見事に倒伏してしまう田んぼもある。まあ、英太の稲は、出来が悪く、倒れようにも倒れない。

 しかし、そんな気まぐれな自然の中で、人間たちは、ずっと生きてきたのだと、英太は思う。太陽の熱と光の恩恵で、また、雨のもたらす豊かな水で、人々は、作物を育て、生きてきたのだ。しかし、自然は、常に変化し、去年の一年は、今年の一年になるとは限らない。寒さの夏もあれば、暑すぎる夏もあり、雨の降らない夏もあれば、雨の降りすぎる夏もある。いつも、適当に日は照り、適当に雨が降ってくれるわけではない。人々は、いつも、自然と相談して生きてきた。

 人々は、もはや、忘れつつあるのではなかろうか。地球上のありとあらゆるものが、太陽のエネルギーを享受して、そのエネルギーが生きる糧となり、また、そのエネルギーが循環し、全てのものが循環しているということを。生きているものはほとんど、光合成により太陽の作り出すエネルギーを吸収している植物たちのエネルギーの蓄積に、その生命を負っている。そうして、物理法則と化学法則と生物の代謝法則とによって、そのエネルギーはあらゆる生物のエネルギーとして循環し、地球上を循環する。生と死もまた循環する。

 人の叡智は、物理を探究し、化学を探究し、生物を探究し、その循環の仕組みを解き明かしてきた。自然を分析し、自然のものの中から、そのエッセンスを取り出すことに成功してきた。しかし、自然は、特に生き物は、その一つの生命がまるごと自然なのであって、そのエッセンスは、自然ではない。分解はされても、やはりまるごとの命が循環しているのが自然である。しかしながら、そうして、人間は、自然にないものを作り出して、自然に対抗し、自然をコントロールできると錯覚してしまったのが、現代社会であるようだ。

 コンクリートで大地を覆い、コンクリートで囲まれた中に、無理矢理、風を作り、化学物質を食べ、分子的変化でしかない自然を飛び越えて、原子の火を作ってしまった。大地に足をつけ、大気を吸い込み、自然の恵みを食し、焚き火で暖まることは、もはや、できなくなっている。

 ようやく、台風が去り、英太は、田んぼを見て周り、何時稲刈りができるだろうかと、考えている。天日干しにするのだが、雨が邪魔をするかも知れない。自然と相談しよう。

  秋冷や ズボンのシミに 声かける

 

2011年   9月22日    崎谷英文


防犯パトロール

 日曜日の夜、今夜は、太市村の防犯委員によるパトロール。月に一度、村の防犯委員が、分担して、太市村のあらかじめ定められた警戒区域を、車で見て回っていく。八時集合なのだが、村の人たちの集まりは早い。八時十分前には、英太を含めて、もう四人の男女が、防犯と背中に墨書された蛍光反応する黄色いチョッキを着て、懐中電灯を持って集まっている。遅れて、駐在所の山脇さんが小さなパトカーでやってくる。英太は、防犯委員になって十一年目になる。

 集まって直ぐに、野菜泥棒の話になる。この太市村では、野菜を売るのではなく、自宅用として、それぞれいろいろ工夫をして、様々な種を育てている人が多い。以前から、スイカなど、良さそうな目立つものは、夜中にごっそりと盗まれたと言うことが、たびたびあったのだが、近頃は、キャベツやナスやトマトなど、家族用に作られて大量にあるはずのないようなものさえ、盗まれていると言う。シカやタヌキやアライグマなどの被害もあるというのに、困ったものだと言う話になる。

 東京にいた頃、英太は、二度泥棒の被害にあったことがある。一度は、駒場の寮にいた時で、元々その寮というものは、四五人部屋で、床というものが何処にあるのか分からないほどに物やゴミが散らかっていて、ベッドと机だけが、かろうじて人間の住処であることを示しているような具合で、英太は、泥棒に入られたというようなことに気が付かず、どうしてギターがなくなっているのか、どこかに置き忘れたのか、と思っていたぐらいであった。他のいくつかの寮室で、荒らされ、盗まれた金銭や物があるということで、どうやら、泥棒に入られたらしいという事が、分かった次第である。つまり、英太は、ギターを盗まれた。それだけだった。盗まれるものがなかっただけの話であった。数週間後、幸運にも、犯人が捕まり、ギターは戻ってきた。

 二度目は、まだ大学の七年生、二十四歳の頃、杉並区の大宮の六畳一間のアパートに、一人で住んでいた時だった。この時は、夕刻帰り着いて、部屋に入ったとたん、何かがおかしく、タンスが空き巣の手口宜しく階段状に開けられていて、駐車場に面した窓ガラスの一部が壊されていたので、泥棒だと直ぐに分かった。この時も、何か盗られたということは、なかった。やはり、盗られるものがなかった。

 昔は、田舎では、鍵を掛けるなどということは、なかったように思う。むしろ、開けっぴろげが犯罪を防いでいたような気がする。今は、監視社会である。高速道路を行き交う車は、常に見られている。街中の至る所には、監視カメラがある。駅にも、コンビニにも、商店街にも、マンションのビルにも。人は、見られていることを常に意識しながら生きていかなければならない世界に、今は、いる。

 このような社会では、逆に人は、隠れようとするのではなかろうか。こんな社会では、密かに事を成すことに、達成感をさえ抱くかも知れない。開けっぴろげの社会では、隠れてこそこそ事を為そうという気もなくなる。

 日曜の夜、めったに人はいないが、池の辺の暗がりに怪しい車。英太が、こわごわ覗く。若い男女、異常なし。公園で、トランペットを練習する人。ランニングする人。小学校の体育館でバトミントンの練習をするクラブ。異常なし。

 八ヶ所ほどパトロールして、一時間ほどで、公民館に戻ってくる。中秋の名月を明日に控えた月が、ようやく、雲の切れ間から、姿を現していた。

  赤とんぼ 止まると見えて 留まらず。

 

2011年  9月13日   崎谷英文


シンベー日記 25

 夏は暑い。暑い中、裏の田んぼでは、見事な稲穂が黄金色に輝き、すでに、雀除けの金銀のテープが周囲に張られ、日を浴びてキラキラと風に揺れている。

 季節は廻る。毎年、暑い夏は、約束したようにやってきて、一年一年、この老犬を衰弱させていく。一年は、春夏秋冬、その順番を間違えることなく、この地に訪れ、春は桜、夏はホトトギス、秋は月、冬は氷雨に冴えて、僕を楽しませてくれる。

 そうして、僕は十六年を生きてきた。思えば、京都で生まれ、わずか一ヶ月で、この家にやってきたのだった。その頃は、昔の家で、主人の子供も、小学校の低学年だった。主人のお母さんが亡くなって、暫く経った頃だったそうで、親子三人になった家に、僕は貰われてきたのだった。この家に来る前から、忍玉乱太郎からとったシンベーという名があった。その頃の僕は、今では想像もできないほど、本当にかわいらしかったらしい。犬も人間も、小さい頃のかわいらしさは、ひとしおなのだ。家の中には泊めてくれなかったが、土間に置かれた小さな小屋で、この家の住人たちを、僕は興味深く眺めていた。

 その頃の僕は、昼間もよく眠っていたように思い出す。お腹一杯にミルクを貰った後は、とたんに眠くなって、小屋の中の小さな布団の上で、うとうとする。小さい頃は、昼間よく眠ったとしても、たいていは、夜は夜で、また、よく眠っていた。それでも、時々、眠れない夜があり、暗闇が怖くて、心細く不安になったりして、くんくんと泣くと、主人が目を覚まし、起きて、僕を抱っこしに来てくれる。夜なんか、なければいいのにと思ったりした。

 数ヶ月経って、新しい家に引っ越してきたのだが、その時からは、僕の家は、主人の家の外に誂えられ、僕は、暗い夜を、どうしようもなく、独りで過ごすことになった。ようやく、僕も、一日の廻り合わせを、理解していく。朝、日が昇るまでは、薄暗くひんやりしていたのが、夜明けが近づくと、ぼんやりと周囲の山々が照らし出され、やがて、ほの温かく、空気が乾いていく。太陽は、決して赤くない。黄色い。僕も、まだ、眠気を感じながら、朝ごはんを待つ。

 僕は、もちろん、学校なんかには行かないが、主人は、何か、僕に教えようとする。「おすわり」、「お手」、意味は解かるが、面倒なので、あまり相手にするまいと思うのだが、主人もかわいそうなので、たまには、相手をしてやったりしていた。そうやって、一日一日が過ぎて、また、一年一年が過ぎて、僕は、十六才を過ぎてしまった。

 主人の手を、間違えて、縫うほどに噛んでしまったこともある。キツネが夜中にやってきて、びっくりしたこともある。カラスが、熟した柿の実を、目の前に落としていってくれたこともある。野良の源じいは、何時の間にか、いなくなった。数年前には、入院するほどの病気もした。

 今年生まれた、子猫が三匹、僕の餌をこわごわしながら、盗み取ろうとする。かわいいものだ。この子猫たちも、これから、僕がたどってきたように、一日一日を過ごしていくことになる。

 一日一日が廻っていき、一年一年が廻っていき、あらゆる命も廻り廻っていく。次の日に、次の年に、次の命に、つながれていく。

  誰を待つ 小枝を揺らす 秋の風(シンベー)

 

2011年  8月30日   崎谷英文


ごまかし

 今までずっと、いつか本心を見抜かれるかのではないかと、びくびくしながらも、平静を装い、周囲に目を配りながら、みんな偉いんだと疑いもせずに生きてきた。英太は、昔から怠け者で、中学時代も、高校時代も、大学時代も、本当に自分の信じることに一心不乱に打ち込んできたという思いがない。常に、こんなことをして何になるのか、ますます真実から遠のいていくのではないかということを感じながら、流れるままに生きてきたのではないかとふと思う。

 純情の衣服を纏い、正義の仮面を被り、優しさを演じながら生きてきただけではないか。その実、心の中に常に潜んでいる汚れた欲望から逃れられず、決して覚悟を持って悪に挑むほどの勇気のない臆病さを抱えもち、思いやりと見られるしぐさの中に醜い打算の混じっていることを薄々感じながら、それを笑顔で打ち消し錯覚を信じ込もうとして生きてきただけではないのか。

 今夜も、テレビで評論家が、訳知り顔で、政治家たちの悪業を暴きたてるように罵っている。英太も、ようやっと、世間で偉そうにしている人たちが、その専門家も含めて、ただ偉そうにしているだけで、自らの内面を反省することもなく、聞いて見て覚えた知識と学識で、辻褄合わせのすり合わせの理屈をのたくっているだけなのかも知れない、と思い至る。彼らは、ただ、自分自身の誉れのために、本当は、何も解かっていないのに、解からないとは言えず、さもまっとうな社会的人間らしく聞こえる弁舌を、世評を意識しながら、あるいは、大勢に寄り添い、あるいは、世間をあっと言わせるためのような解にもならない解説を、ほざいているだけなのかも知れない、と思い知る。

 英太は、元々、自分自身、夢などと言うものを持ったことがあるのかも忘れてしまっているのだが、人々もまた、その純な情熱を膨らませ夢見ながらも、やがて、この世のもはや因習的とも言えるヒエラルヒーの中に追従していくしかない自分自身を見い出すしかないのだ。おかしいと思いながら、まやかしの社会の中で、自分をごまかしていくしかないのだ。傲岸不遜な輩は、恥じ入ることもなく、さも、私は知っているとばかりうそぶく。

 自由社会、とりわけ自由主義、資本主義というものが、自由なる競争において、自ずと神の手により、より正しいもの、より豊かなもの、より平等なものに近づくなどという幻想は崩れ去っているのだが、情報化、グローバル化したこの巨大な現代社会制度、現代社会組織に、取り込まれていかざるを得ない人間たちは、自由のために監視され、自由のために規制を受け、自由のために人を押しのけねばならない境遇に閉じ込められていく。平和のために戦争をし、戦争のために平和を言い訳とするように。

 現代社会が、ごまかし、まやかしを上塗りしながら形作られていくのと同じように、英太もまた、悶々としながら、その生来のひ弱さも相俟って、ごまかし、まやかしの世界に封じ込まれ、言い訳に終始する半生だった。

 英太は、自然の中に埋没してこそ、醜さから逃れ、ごまかしのない、手応えのある時が訪れてくれるのではないかと、微かな願いを隠し持っているのだが、この世に生きる限り、この世のごまかし、まやかし、煩わしさから逃れることは難しい。

  夏嵐 山を煙らせ 還相す

 

2011年   8月21日  崎谷英文


出穂

 下手くそに植えた英太の稲の苗だが、思ったよりも早く穂を出し始めた。例年通り、隣の田の稲と比べると、緑が薄く、背の低い稲が多い。

 稲の苗と言うものは、一点に三本から四本を田植えするのだが、一ヵ月半程もすると、分けつと言う作用で、その茎の数が二十本ほどにもなる。分けつをよくするためには、水を充分に与えてやる必要があり、田植えの後には、暫くは、苗が見えないほどにも水を満たしてやったりする。

 田植えをした直後は、大きな池に碁盤の目のような小さな苗が並び、昼間には、太陽の光が水に反射してきらめき、四方の山が水面に映し出される。夜には、月光が水の揺らぎにたなびかれながら、長い光を水の面に走らせる。

 充分に水に浸り続けた小さな苗は、日毎に、背を高くし、その単子葉の平行脈の葉を伸ばし、数を増やし、横にも拡がる。四方の山は、水面に届かなくなる。

 稲の苗というものも、人の子と同じようなもので、大事に育てていけば、順調に育つというようなものだが、水を充分に満たしてやるということは、周囲に雑草の生えるのを防ぐということでもあり、世間の悪害から守り育てるようでもある。英太の田は、水が入りにくく、その田自体も、高い所と低い所があり、高い所には、いくら長い間水を入れたとしても、土が隠れるようにならない所もある。そんな所では、まるで周囲の悪がきのような雑草に恐喝されるように栄養分を吸い取られ、青白い顔をした一見ひ弱そうな稲になる。

 英太は、化学肥料はもちろん、除草剤も一切使わないようにしている。除草剤を使うと、雑草という悪がきたちは、追いやられ、稲の苗が怖がることはなく、育っていくようになる。しかし、悪がきの洗礼を受けないような稲の米は、一見丈夫そうで元気そうに見えるのだが、英太は、過保護じゃないかと思ってしまう。悪がきのストレスに耐えながらも、しぶとく育った稲の米にこそ、味があるのではないか。ちやほやされて育つと、醜く太ったり、頭でっかちの鼻持ちならない米になる。

 実際、雑草の中にも、害草でないものもあり、除草剤は、それらもまとめて化学的に抹殺していくのであって、田の土の持つ豊かな文化というようなものも奪い去っていくのではないか。

 英太は、除草機と言う道具を使って、田植え後、除草をしていくのだが、それでも草は生えてくる。伸びた雑草は、手で引き抜いたり、むしり取ったりするのだが、それでも、草は生えてくる。それでも、稲は、育ってくれる。英才教育を受けたような子供ではなく、世間の荒波にもまれながら苦労して成長し、一人前の稲になっていく。

 稲の茎が、二十本を超える頃、田から一週間ほど水を抜く中干しという作業をする。それは、二十本以上に茎が分けつしても無効であり、また、土の中に空気を入れてやり、根を充分に根付かせるためである。人の数が増えると食糧危機が起こるように、それを防ぎ、そうして、ようやっと一人前になった稲が、自らの力で更に成長をするようにしていくのである。もはや、雑草も、大きく拡がった稲の葉の下で、日の光を受けられなくなり、余り悪さをしなくなる。

 後一ヶ月、英太は、深みのある味を持った熟女のような米ができるように祈る。

  熱射浴び 時を早めて 草枯れぬ

 

2011年   8月12日   崎谷英文


物忘れ

 英太は、今味噌汁を作っていたのだが、人参と大根と玉葱を煮ている間に、犬のシンベーに餌をやろうと外に出て、直ぐに戻ってくるつもりが、四五日姿を見せなかった三匹の子猫のうちの一匹、ポトラ(三匹には名前がつけてある)が、親のダラと一緒にいたので嬉しくて暫く見ていたので、家の中に戻ってきた時には、味噌汁の鍋の水はほとんどなくなっていて黒焦げになる寸前だった。

 物忘れが多くなってきた。幸い、この度は惨劇は起こらなかったが、最近、どうも一つのことをやりながら、別のことを考えたりしていたりすると、やっていたことを忘れてしまい、ほったらかしにすることがある。やっていることも考えていることも、どうせ大したことはないのだが、ほったらかしにして失敗をすることが、ままある。水の出しっぱなしとか、明かりのつけっぱなしとか、大いに無駄をしてしまうこともある。

 人の顔は分かるが名前を思い出せないのは、ずっと以前からのことだが、ものの置き場所が分からなかったり、何のためにこの部屋に来たのか忘れてしまったりすることが、以前に増して多くなってきているように感じる。ご飯を食べたかどうか、何を朝食に食べたかなどは、まだ忘れることはないので、もうろくには到ってはいないのだろうが、年を取ってきた証拠でもあろう。

 幸い、仕事に関しては、物忘れと言うようなことは、ほとんどない。過去の記憶、経験でも、反復、継続して頭に刻み付けられているようなことは、うっかり、ぼんやりとして忘れるようなものではなく、その引き出しから取り出そうとするときには容易に取り出せるのである。こういったものは、記憶力の範疇になろうか。

 過去の記憶、経験でも、反復、継続していなければ忘れることが多くなるのだが、何故か、大したことでもないのに、憶えていることもある。英太は、大学生で根津に住んでいた頃、大学は近くで、教室に行こうと思えば直ぐに行けるのだが、たいていは、大学を通り越して麻雀屋に行っていた。その店の名前が、どうしても思い出せなかったのだが、つい最近、ふと思い出した。確か、ジローと言う名の雀荘だった。だが、店の名は長く思い出せなかったのだが、その店のマスターの顔や、学部の違う麻雀仲間の学生たちの顔は、おぼろげながら憶えているし、様々なエピソードさえ、思い出す。一人の学生が、家庭教師をしていたのであろう、A black and a white cat, と A black and white cat,の違いは何なのだろう、と他の学生に尋ねていたことなど、何故か、三十五年以上経っても、よく憶えている。今考えれば、何も印象的なことではないのだが、憶えているのである。

 サバンと言われる人の中には、特殊な能力を持つ人がいて、例えば、一度見たものは、精密に憶えていて、それを、写真のように再現して描くことができるという。英太も、昔は、頭の中で教科書のページをめくりながら解答を探していたように思い出すのだが、人は誰でも、若い頃には、サバンに似た能力があったのではなかろうか。普通の人は、その能力は年と共に衰えていく。英太もその例外ではなく、今や、さっき見たものさえ、薄ぼんやりとした靄に包まれてしまうという始末である。

 英太は、眼鏡を探していた。妻が言う。頭にありますよ。そろそろ、観念しよう。

  光かと 見紛う夏の 夜の蜘蛛

 

2011年  8月2日  崎谷英文


カレーライス

 妻が入院、手術をして帰ってきたのだが、暫く、一日中ほとんど横になっているように言われ、余り立ち歩いてはいけないという状況になり、今、英太はカレーライスを作っている。妻の父親も、この家の離れに住んでいて、その父親の食事も娘である妻が、毎日作っていたので、さすがに、妻の入院、静養中は、英太の分も含めて副食の弁当の宅配を頼んでいるのだが、その薄味の野菜の多いバランスのとれた食事にも、少し飽きてきて、カレーライスを作っている。

 妻は、居間の奥の三畳間で横になったまま、オープンキッチンの間から、物珍しそうに英太を眺めている。カレーライスぐらいは、英太にもできる。今は、カレーのルウというものが市販されていて、適当な肉とタマネギとニンジンとジャガイモを炒め、水を入れ煮込み、ルウを入れて暫くするとできる。簡単なものだ。

 英太がカレーライスを初めて作ったのは、東京での大学三年生の時だった。根津の一軒家の離れを改造した下宿屋の二階に住んでいた。一ヶ月前には、その近くの三畳一間の学生アパートに居たのだが、女の子を連れ込んだと言うことで、大家のおばさんに、そんなふしだらな学生は困るということで、追い出されたのだ。次の下宿先が決まるまではということで、二週間後に、ここに引っ越してきたのだった。引越し自体は、友人たちが、当時でも東京では少なくなっていたリヤカーを近くの畳屋から借りて、まるで夜逃げのようにして手伝ってくれて、引越し費用はほとんど掛からなかったのだが、そんな時よくあるように、手伝ってくれた友人たちに椀飯振る舞いをしてしこたま飲んだので、その後、直ぐに懐が乏しくなった。米だけは田舎から送ってきていたので、カレーを作って、数日を食いつなごうとしたのだった。その頃、すでにカレーのルウというものがあったと思うが、小麦粉とカレー粉で作ったと記憶する。最も安い豚肉を使った大量のカレーだったろう。旨かったかどうかも忘れてしまったが、とにかく、それで、三日ほど腹を満たした。

 その後も、英太は、生存危機のたびにカレーを作っていた。結婚してからも、妻が留守にするような時には、父親の一つ覚えのようにカレーを作っていたのだから、食べさせられる息子も、さぞかしうんざりしていただろう。しかし、英太にとって、カレーライスというものは、大量に作って食糧危機に備えるものであり、貧乏で怠け者の英太にとっては、便利なものなのだ。

 鶏肉を買う。そして、本当なら英太の作ったタマネギが使えるはずだったのだが、掘り取った三十個ほどのタマネギを裏の畑の横に置いていたのが、何時の間にか、カラスか人かに盗られたらしく一晩で無くなってしまっていたので、仕方なく、淡路産のタマネギを一つの大きさが英太の作った二倍もありそうなのを三個買う。ニンジンは冷蔵庫にある。ジャガイモは、今年は何故かたくさん採れたのだが、皮を剥くのが面倒になり、使うのは止める。その代わりに、これも例年になく、英太にとってはよくできたトマトを潰して入れる。

 おいしいと自画自賛しながら食べる。一部は冷蔵にし、一部は冷凍にする。当分、昼飯は、カレーになる。

  今日の蝉 昨日の蝉に 同じからず

 

2011年   7月22日   崎谷英文


Let It Be

When I find myself ・・・・・・
私が悩んでいる時
聖母マリア様が私の所に来て
賢明な言葉を言われる
‘Let it be’
それはそのままにしておきなさい
‘Let it be’
そのままにしておきなさい

 ビートルズの有名な1970年に発表されたLet It Beの歌詞である。この後にも、

Let it be という賢い言葉をささやきなさい。
一つの答えがあるだろう。
Let it be だ。

 などと、Let it be が何回も繰り返される。

 聖母マリアの言葉として、Let it be がとりあげられているが、私は、キリスト教に詳しくもないが、Let it be 「そのままにしておきなさい」と言う言葉には、どうも東洋的な、日本的な感覚を覚える。西洋キリスト教は、自立的、自助努力的な感覚があり、そのままにしておいていいよ、などというのは、聖母マリアの言葉としては、異端に属するのではなかろうか。ビートルズのジョン・レノン、ポール・マッカトニーの作詞、作曲となっているが、彼らは、きっと、東洋的思想、老荘思想のようなものを垣間見たのではないかと推察する。

 Let it be、この意味は様々に汲み取れる。それは、そのままにしておきなさい。それは、それでいいではないか。悩むことなくそのままにしておきなさい。というような意味合いであろうか。その言葉は、確かに、悩める者たちにとって福音ともなりうる。そして、そこには希望が見える。後の歌詞には、Still a chance that they will see. それでも、まだ、再び会うチャンスがある、としていて、きっと、上手く行くよと言う希望が続く。

 しかし、‘Let it be’には、希望のない‘Let it be’ もある。後のことは分からない。策を弄しようが、如何に謀ろうが、上手く行くかどうかは分からない。世の中、そんなものだ。だからこそ、悩むことなど何もない。なるようになるしかない。悪い結果になろうが、苦しむことはない。上手く行くとは限らないのだから。老荘思想の無為自然は、結果を求めるものではない。自然の流れの中に、ゆったりと身を沈め、何が起ころうと、泰然自若して構えていればいい。

 ‘Let it be’確かに、人は、ちょっと考え方を変えれば、何を悩んでいるのかと言うような馬鹿馬鹿しいことに、心を痛めていることが多い。悪いことを予測して、それを避けようと苦しむ。しかし、悪いことが起きたとしても、どうってことはない。世の中、何が起こるか分かったものじゃない。何が起ころうが、全て、そんなものなのだ。今を守ろうとするから、これからを望むから、苦しむ。この世には、元々何もないと思っていればいい。

 ‘Let it be’なるようになるさ。放っておけ。

  四方の山 滴り喘ぐ 我があり

 

2011年  7月12日   崎谷英文


犠牲

 人は生きていくのだが、生きていく限り、何かの生命を奪って生きている。食べることにしても、人は、他の生命を食しているのであって、決して自分一人の力で食べているのではない。霞を食って生きられればいいのだが。

 ベジタリアンならばいいのかと言っても、植物にも生命はあろう。たとえ、ベジタリアンだとしても、植物の生命をもらっていることに違いはない。食べられる運命にある植物も、本来は、食べられることにより利益を得ているはずなのだ。花で誘って蝶を呼び、受粉をしてもらい、熊においしい栄養のある実を食べられて、種は遠くに運ばれる。畑仕事は、大地の恵みをいただきながら、その野菜たちを繁栄させていると思えば、罪の意識も薄められようか。野生の大地を奪われた野菜や、米、麦などの穀物は、人に育てられていき続けていくという生き方を手に入れたものたちなのかも知れない。それでも、やはり、人は、植物の生命をいただいていることに変わりはない。

 動物の肉を食うとなれば、まさしく、他の生命を食べていることになる。元々は、野生の動物たちとの闘いの中で、人は、その生命を手にすることができたのだが、その時代には、今もライオンが、ようやっと、一万頭の野牛の中から一頭をしとめることができるように、人もまた、多くの生命のうちの幾ばくかを、いただくしかなかった。

 しかし、今や、人は動物たちを育て大きくし、そして、食べることを覚えた。何十頭、何百頭の牛を、囲いの中に取り込み、九キログラムの餌を与えて、一キログラムの肉を切り取る。考えてみれば、おぞましい。一網打尽とばかり、底引き網で海の底をさらい、食せるものだけを懐に入れて、海の中の生命の住処を奪い去る。

 山川草木悉生有仏性、あらゆるものに生命としての価値があるとしたら、人は罪深く生きていくしかない。とすれば、人はいずれ地獄に堕ちるのは必定か。

 人は人同士、生命を奪い合ってもいる。古今東西、戦争というものが、他人の生命を奪って自分自身の生命を守っているということは、言うまでもないが、平時でもまた、豊かなる者たちは、貧しき者たちから何物かを奪っているに違いない。人類の歴史の始まりから、人は、生存競争の中、他人の生命、生活を奪いながら生きながらえてきた。繁栄というものが、一部の者たちのものである限り、その陰で生命の削られている者たちがいる。そうして、古今東西、繁栄は、一部の者たちのものでしかなかった。今も、豊かさの中で、犠牲になっている者たちが、あまたいる。弱き者、貧しき者たちを囲いの中に取り込んで、豊かなる者たちのために働かせる。そうやって、人類の歴史は綴られ、人間の文明は、そうやって、ますます、他の生命を奪うことに血道をあげることになる。

 考えようによれば、今生きているということは、何かを犠牲にして、誰かを犠牲にして、生き残っているということで、今もまた、何かを誰かを犠牲にして、生きているということなのかも知れない。今生きていることに、感謝するだけでは、足るまい。

  雨上がり ただ高く飛ぶ 燕二羽

 

2011年   6月29日   崎谷英文


シンベー日記 24

 梅雨入りしたらしい。ジメジメして嫌な天気が続き、僕のような老犬にとって鬱陶しい日々だ。北側の田んぼでは田植えが終わり、蛙の合唱が、また毎晩続く。本当に、蛙たちは何処に隠れていたのだろうかと思うのだが、この田植え時期、水を得てもう大変な音量で、夜中中鳴いている。毎年のことなので、慣れっこになってはいるのだが、以前ほど、その合唱を楽しむゆとりもなくなってきた。これも、年のせいだろう。

 雨が降っていても、主人と一緒に散歩する。少し前までは、雨の日は、主人は傘を差して、僕の上にもかざしてくれたりしていたのだが、最近は、主人は、濡れることなどほとんど気にしないようで、傘も差さず、帽子を被っただけで、雨の中、僕を散歩に連れ出す。僕は、割りと毛がふさふさしているので、少々の雨には堪えない。むしろ、散歩に連れて行ってくれないと、ウンチとおしっこが我慢できなくなって、直ぐ裏の空き地ですることになるので、雨が降っていても、散歩に行くことは歓迎している。若いときは、一日散歩に行かなくても平気だったのだが、これもやはり、年のせいかと思う。

 散歩に出て行っても、以前のように僕が主人を引っ張ったりはしない。僕の足も衰えてきたのだろう、もう、ゆっくりゆっくり足を踏み出し、主人の後を追うことになる。散歩は、近くの線路沿いから、線路を越え、川端を行き、田んぼの間の道を通って歩き、帰りに差し掛かり、坂道を上ってまた線路を渡って戻ってくるという、ぐるっと一周するコースなのだが、その帰り道の上り坂が辛い。平地もとぼとぼ歩いているのだから、その上り坂は、僕にとっては修行だ。この時期、水を張った田んぼには、山と空が映し出され、僕はなおさら、見とれながら、ゆっくり歩くことになる。

 野良猫のダラが、子猫を三匹産んだ。とてもかわいい。ダラはメス猫だったらしく、裏の離れの縁の下で、三匹の子猫を育てていたらしい。それを、奥さんから聞いた主人は、ダラに避妊手術を受けさせることにした。野良猫か飼い猫か判別はし難いのだが、餌をやっていることもあり、猫が増えて近所に迷惑をかけてもいけないので、避妊させたほうがいいとなったらしい。

 しかし、触れさせてもくれないダラを動物病院に連れて行くのは難しく、動物病院から借りてきた捕獲用の檻を使って、ダラを捕獲する。ダラは、その日のうちに捕獲され、僕も病気で入院したことのある病院で、避妊手術を受け、翌日帰ってきた。お腹を切って、子宮と卵巣を取り出されて、少し小さくなって帰ってきた。主人は、自分がダラに手術をさせておきながら、悲しそうだ。野良も、人間社会の軋轢の中、ただ、たくましく生きることは困難なのだ。

 もう、子猫たちも走り回っているので、ダラがおっぱいをやる必要はないのだろうが、それでも、親子の猫は、縁側で寄り添っている。子猫の三匹も、避妊手術を受けさせた方がいいと、主人は考えていて、動物病院から再び借りている捕獲檻も用意しているのだが、もう少し待ってやろうと思っているらしい。

 だけど、どうして、子猫というのは親に似ない毛並みで産まれてくるのであろう。三匹とも全く異なった毛並み、茶、グレイ、青と白のぶち、で三匹三様に、とてもかわいい。

  窓を開け カエルの声を 聞く夕べ(シンべー)

 

2011年  6月17日    崎谷英文


ポピュリズム

 ポピュリズムとは、民衆の利益、選択が政治に反映されるべきだという主張であり、ポピュラー、ポピュレイションと同じように、ラテン語POPULUS―民衆という言葉に由来する。それは、十九世紀の後半における、ロシア帝政時代の知識人に対する運動に始まる。アメリカにおいては、十九世紀からの、中央集権を嫌い、個人の自治、自由な生き方、努力によって成功するというアメリカンドリームの流れが、ポピュリズムと言われる。(ウィキペディア参照)

 しかし、現代においては、このポピュリズムは、大衆民主主義の中で、大衆の人気取りにあくせくする政治家たちを作り上げてきたように思う。政治家たちは、常に世論調査の動向を意識し、指導者として世論を導くのではなく、世論に迎合しようと右往左往して、世論に反しないようにいつも身構えている。時に、劇場型の英雄を装い、大衆の注目を浴びようとする。このような政治家たちの戦略は、大衆民主主義においては、如何に多くの票を得るかが、常に焦点であり、政権を得たり、また保持するため、ある程度は、致し方のないところでもある。

 過去においては、政党は、階級、職業、地域と結びつき、個人の党派性は、ある程度明確で変化の少ないものであった。しかし、現代においては、無党派層が大きくなる。そこには、党派による政策に違いが、それほど明白でないところから、どちらでも同じようなものだという感覚があるように思う。民衆は常に身近なことに敏感に反応し、単純な不利益を嫌い、単純な利益を求める。本当は、どういった国にするのか、どのような世の中にしていくのかという展望の中で、判断しなければならないことが、目の前のニンジンにより判断されていく。国民は、まるで、人気グループの歌手を追いかけるように、個人政治家、あるいは政党にまつわりつくかと思えば、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかり、忌み嫌ったりする。人の判断というものは、偏見に満ち満ちているのであり、一度好きになったり、嫌いになったりすると、その呪縛から逃れるのは難しい。とは言え、それも付和雷同であり、国民自身が、世論に踊らされ、見た目のいいのに飛び掛る。

 マスメディアの報道は、世論を形成していく大きな要素であるが、それがまた、世論との、どちらが鶏でどちらが卵かという関係になる。マスメディアもまた、偏見から逃れられてはいない。いつも世論を気にして、受けを狙う。政治評論家、ただの評論家、ただの批評家たちも、多分自分自身の人気取りであろう、偏見に満ちた聞こえのいい言葉に終始する。本来、ポピュリズム、人民主義というものは、民主主義の本質であるのだが、マスメディアも含めて、見かけにいいものに飛びつき、声の大きな方に耳を傾け、悪代官を仕立て上げて溜飲を下げているような現代の政治の有り様は、まさしく衆愚政治に近づく。悪者をやっつけることは、気持ちのいいもので、水戸黄門は常に大衆のヒーローだった。お前が悪いのだ、俺たちは悪くない。

 政権を保持しようとする者も、政権を獲得しようとする者も、形だけの論理性を装って政策を掲げ、権謀術策、政局こそが政治家の務めと息巻く。本来の、政治は行われない。

 国民は騙されてはいけない。マスコミが何を言おうと、どんなに政治家が心地良いことをしゃべろうが、いかに政治家が小気味よく相手の政治家を罵ろうが、世論調査がこうだからと、流されてはいけない。自分自身の知り得る確かな情報を、自分自身の頭で整理し、偏見がないかどうかをしっかりと見極め、判断しなければならない。シーソーの上を、右に左に行ったり来たりして遊んではいけない。

  芍薬の 紅き短き 華やかさ

 

2011年   6月6日  崎谷英文


慣れる

 慣性の法則というものがある。止まっているものは止まっていようとし、動いているものはそのまま動こうとする。列車の中で立っている人は、列車が急発進すれば、後ろにひっくり返り、列車が急停車すれば、前につんのめる。物理の法則であるが、人の世にも通用しそうである。今までと同じことを繰り返そうとし、同じことが繰り返されれば心が平穏になる。慣性を脅かすものがあると、うろたえる。個人も人の世も、同じような慣性の法則とそれを脅かす力との関係で動いているのかも知れない。

 如何なることにも、慣れることが大切であるとよく言われる。どんな仕事、どんな勉強、どんな芸事も、長い間やり続けていることにより、それが自分自身の中に宿り、習熟し、余裕を持って行うことができるようになる。自分自身の一部として取り込んでしまうまで、反復継続することにより、慣れ親しむことができる。先ずは、慣れることが肝心である。

 慣れるということは、こうすればこうなる、ああすればああなるというように、予測を裏切らない、不安のない世界を作ってくれるということであろうか。

 人には、同じことを繰り返すことが、平穏であり安心感に繋がるということがありそうだ。個人の習慣は、そういったたぐいのものであろう。毎朝、起きてすることなどは、たいてい、人は個人個人、まさしく習慣となって同じことを繰り返しているのではなかろうか。規則正しい生活は、健康であるために大切だとされるが、身体の健康のみならず、心の健康にも良いのだろう。日々、同じような繰り返しが、味気なさはあっても、安心をもたらしてくれる。

 個人を超えた集団の社会にしても、慣れるということが、大きな意味を持つ。それは、慣習、ならわしとして、その集団の安定性を保つ役割を果たす。多くの人々が、同じようなことをすることにより、その集団社会は、平穏が保たれ、諍いが減る。やはり、誰もが同じようなことをするという予測の蓋然性が、その集団の安定、安心、安全に繋がっていく。それは、礼儀になり、しきたりになり、規則になり、遂には法律にまでなっていく。

 しかし、個人の習慣にしても、集団の慣習にしても、崩れる。突然の事件は、毎日の習慣を狂わせ、集団の慣習を無効にし、不安におとしいれる。今までと同じようなことを繰り返すことができなくなると、たちまち、人は、不安になるのである。今までは、ほとんど身体と同一化したような予測を裏切らない慣れ親しんだ世界が、一変する。突然の状況変化が、人を苦しめる。解雇、理解の不能、事故、病気、災害などにより、これまで慣れ親しんできたことが通用しなくなる。生きているということも、また、慣れであり、病気や怪我や災害は、それを、根底から覆す。生き続けるはずの予測が狂ってくる。

 しかし、同じことが永遠に繰り返されることなどない。それは、人が必然的に死ぬということからも解かる。人の生活も、また、何時までも同じである訳がない。慣れ親しんだこともものも、いつかは、途切れ、なくなる。

 自然の世界も、人の世も、慣れながら、変化している。それが、慣性かも知れない。

  蜘蛛の巣を 払いて朝の 目覚めかな

 

2011年  5月27日  崎谷英文


シンベー日記 23

 僕は、十六才の誕生日を迎えた。犬にとっての十六才は、人間で言えば、八十才近くになるのではなかろうか。この年になると、目も耳も衰えてくる。僕たち犬は、元々狩猟動物であり、獲物を一直線に追いかけて捕らえるために、視界は狭くできている。だから、目の先に物を置かれないと見えないのだが、その近くを見る視力も衰えてきて困っている。鋭い嗅覚によって、周囲のものを追いかけるのだが、その嗅覚も、最近鈍くなってきていると感じる。

 よく眠ることにしている。というよりも、眠くて仕方がないので眠ってしまうのであるが、実のところ、立っているのも疲れるという始末である。年のせいではあるが、ライオンも、狩りをしないときは寝ている。だいたいが、僕たちは、食べていくことができれば、それで満足で、人間のように、余分な楽しみはそれほど必要ではない。水と食べ物があれば、生きていける。僕たちは、余計なもののために働いたりはしない。

 人間の戯れ言にも、「寝るより楽はなかりけり。巷の阿呆は起きて働く。」というのがあるそうだ。人間たちは、いつからそんなに欲深くなってしまったのだろうか。現代の人間は、働いて働いて、金を手に入れ、贅沢をすることが、幸せだと思っているふしがある。適当なところで、足るを知ればいいのに、もっともっと豊かになろうと働きすぎなのだ。そうやって、無駄にストレスを溜め、いらいらしているように思えてならない。僕たちのように、食べていけることに満足して、のんびり暮らしていけばいいのだ。

 去年から、主人に餌をもらっている野良猫のダラは、最近ますます図々しくなっている。まだ、二、三才だろうが、朝からうるさい。朝早くから、主人の寝ている部屋の外で待機しているようで、主人の目覚めた気配を察すると、すぐさまニャーニャー鳴き始めるのである。そうして、主人が、眠そうな目をこすりながら玄関から出てくるのを、玄関の直ぐ前で待ち構え、早く来いとばかりに、ニャーニャーとまさしく猫なで声で鳴く。主人が、玄関を出ると、いっそう声を大きくして、一声、ニャーと鳴き、ついて来いと言わんばかりに、自分の餌場に向かって、尾をピンと垂直に立て歩き出す。

 ダラは、僕の三分の一程の量を食べるのだが、それで充分でないのか、食べ終えると、横でじっと見ている主人に、また、ニャーニャーと催促する。憐れな主人は、まだ、ダラに触れることもできないのだが、なついていると錯覚しているのだろう、嬉しそうに、今度は、固形の餌をやる。ダラは、巧みに、つかず離れず、主人を操っている。

 乾物屋のハナ婆さんが言っていたのだが、人間たちは、大震災と津波、それに原子力発電所の事故とかで、困っているそうだ。自然への畏敬の念を忘れ、神の力などと勘違いして原子力という凶暴なエネルギーを人間がコントロールできると思ってしまったのが大きな誤算だったらしい。ささやかにでも、食べていくことのできる喜びというものを失い、大地と大海原の恵みに感謝することができなくなった人間たちの悲しい物語である。

 主人は、今日も、網の目になったキャベツの中の青虫と格闘している。

  涼し風 誘われ行く 松林

 

2011年  5月18日   崎谷英文


苦楽

 「人はこの世に生まれいずるとき、もがき苦しみながら、泣きながら生まれてくるのだが、周囲の人たちは、それを、喜び、楽しい笑顔で迎える。人がこの世を去るとき、それは、浄土の安らかな地に赴くのであり、死に行くものにとっては、喜びながらの旅立ちであるのだが、周囲の人たちは、嘆き悲しみ涙を流して送り出す。」以前、若く六十才ぐらいの従兄弟が急死したとき、その告別式で、僧侶が、概ねこのような弔いの経を唱えていた。

 人の生き死にに対する感覚と言うものは、見方により違ってくる。釈迦の言う、四苦は、生、老、病、死であるが、生まれることもまた生まれいずる苦しみであり、それはその時の胎内からの出現の苦しみもさりながら、この世に生まれてくること自体、娑婆へやってくること自体が苦しみであるということも意味しよう。

 そうして、生まれ出た後この世で生きていくこと自体、苦と楽の繰り返しのように思う。楽しいことばかりではないし、苦しいことばかりでもない。苦しいことばかりだと思っている人たちも多いと思うが、その苦しみの中にも、ささやかな喜びというものはある。その苦しみこそが、喜びを作り出す元となっている。苦しみがあればこそ、小さなことにも大きな喜びが生まれ、苦しみを経ていなければ、どんな大きな楽しさにも、心を満たされることがない。苦しみを知らなければ、何処までも物足りない気持ちが溢れ、貪欲になっていくだけなのだ。

 神は公平に人に苦楽を与えていると言われる。今の現実の世界を見ていると、そんなに公平でもなさそうだが、それでも、ずっと豊かで、贅沢な生活を暮らしているものたちにも、他人の知らない苦しみがありそうだ。悩みは尽きないのである。逆に、貧しく、汗水を垂らして働く人たちにも、それなりの喜びはありそうだ。生きていくということは、生まれついた苦しみを背負い、その苦しみがあればこそ、喜ぼうということのようだ。楽ばかりしようとしても、所詮苦しむのであり、苦しんだ人には、苦しんだだけの喜びというものが生まれる。

 厭離穢土欣求浄土(えんりえどごんぐじょうど)、徳川家康が晩年の旗頭に掲げていたという。穢れたこの世を嫌い、清らかな浄土を求めると言うことである。殺し合いをしていた家康だからこその、想いかもしれない。しかし、また、家康の晩年であり、家康にも、老いと病いが迫ってきていたのだろう。老いも病いも、生きていくことに対しての、避けられない障害であり、そのために、生きていくという喜びが途絶え、心身の痛みが楽しみを奪う。厭離穢土欣求浄土、この世の現実社会の醜さ、汚れから逃れ、清らかで安らかなあの世に生まれ変われるのだということで、それまでの苦しみとして、また、この世を楽しむこともできようか。そう、誰もみな苦しんでいる。その苦しみをいくらかでも和らげようと、また、苦しんでいる。

 この年になると、周囲でも老いと病いが目に付く。慢性的病気で薬を常用する者、検査を受けてポリープを切り取る者、骨を切り開き神経を繋げる者、内臓の筋肉を支える手術をする者、心房細動を抑えるため何度もカテーテル手術をする者。年を取ってくると、老いと病いは、それ自体、死にも繋がる苦しみであるのだが、また、その苦しみが生きるというささやかな喜びを知る機会となるやも知れぬ。やはり、苦は楽の種と銘ずべきか。

  緑背に 其処に華やぐ 白芍薬

 

2011年   5月7日  崎谷英文


太市の里

 太市の里は、筍の名産地である。太市の里は、狭い盆地で、六百世帯ほどの小さな村なのであるが、姫路市の中心地から西北西、約七、八キロメートルの位置にあり、鉄道の姫新線が通り、直ぐそこには、高速道路も縦横に走っていて、いたって交通の便は良いのだが、何故か、近代都市化から取り残されたように、平地には所々に不耕作地が目立ちながらも、田と畑が拡がり、周囲四方は低い山に囲まれ、その谷を縫って道路が異国と繋がっているというような、田舎なのである。近年、太市小学校の生徒は、全学年で百人足らずだと言う。僕の頃は、学年で五十人いた。過疎化、少子高齢化の典型的な集落でもある。

 この太市には、昔から、おいしい筍が採れる。誰が筍の栽培を始めたのかは、確としないが、江戸の終わりか明治の頃に、この地に孟宗竹を移植したのが始まりらしい。どなたの言説だったか知らないが、筍は、「姿、京都に、味、太市。」とも言われるそうだ。少々、手前味噌になるが、確かに、太市の筍は、旨い。土壌の良さであるとも言われ、鉄分を多く含む山の土が、筍のえぐみと言われるシュウ酸の少ない筍を作り上げているのではないかと推測する。

 毎年、四月から五月にかけて、竹山を持つ人たちの筍掘りが盛んになり、太市筍組合が、家々から運び込まれる筍を、その場で、また契約する商店に販売する。山のように積まれた有り余る筍は、缶詰工場で缶詰になって保存され、主に太市の人々に割り当て販売される。その筍の最盛期には、太市住民から多くの臨時の働き手が雇われ、おじさんたちは力仕事を、おばさんたちは缶詰製造の下ごしらえに追われ、その工場の辺りには、香り立つ筍の匂いが満ち溢れることになる。

 ところが、今年、筍は、太市全体において、その収穫量がとても少なくなっている。これは、以前から言われていることなのだが、前年の夏の降雨量が多いと筍は良く芽生え、それが、次の年に、にょきにょきと育つと言われていることと関連し、去年の夏は猛暑で極端に雨が少なかったことが原因であろうと言われる。毎年、筍の収穫量にいくらかの違いはあり、それも、主に前年の夏の降雨量によるものと言われていたのだが、今年は、その前年の夏の、余りにも少な過ぎる降雨が、この収穫量の激減に繋がっているらしい。筍の缶詰工場の機械は、今も動いていない。長老たちに聞いても、こんなに採れないことは珍しいらしい。

 しかし、希望としては、この春の冷たさ、桜の開花の例年からの遅れからしても、これから、少しは収穫できるのではないかとも思う。

 太市の人たちは、筍が採れない、大変だと、言いながら、しかし、怒ったりしない。自然の摂理の中で生きている限り、仕方がないのである。

 今、東北関東大震災、原子力発電所の事故で、多くの人が苦しんでいる。そしてまた、多くの人が、被災者に同情し、救いの手を伸べる。そしてまた、ジャーナリズムや、政治家たちは、怒りをあらわにする。この期に及んで、権力闘争をやっている様である。誰かを責めたいのであろうが、怒ったって仕方がないことの方が多い。怒る前に、わが身を削って、やるべきことをやらねばなるまい。

 太市の里では、筍が採れなくとも、誰も怒ったりしない。今夜も、星が、きれいだろう。

  ひょうひょうと 流れて行くや 春の雲

 

2011年  4月23日   崎谷英文


痛み

 痛みというものは、心で感じるものだろうか。しかし、痛みには、身体の痛みと心の痛みがあり、単純に、心で感じるというものではなさそうだ。それでは、やはり、脳で感じると言えばいいのだろうか。そうすれば、身体の痛みも心の痛みも、結局は脳で感じるということでいい。人間と言うものは、厄介なもので、身体の痛みから心が痛んだり、心の痛みから身体が痛くなったりもする。

 身体の痛みというものは、身体の異常を知らせてくれるシグナルでもある。痛みを感じるから、そのところが使えなくなったり、休んだり、治療をしたりする。痛みを感じないまま身体が異常になっていくことのほうが、たちが悪いと言える。年を取っていくと、身体のいろいろな所が痛む。痛むから、そこを庇って用心をする。年を取るということは、身体のそこかしこが弱ってくるのであって、痛みは、注意しなさいよと教えてくれる。

 しかし、痛みを乗り越えたところから、新しい力というものが生まれてくるということもある。若い頃の身体の痛みというものは、それに耐えながら痛め続けていけば、逆に大きな力になることもある。僕のような怠け者は、昔、柔道をやっていたのだが、身体が痛くなったり、少し苦しくなったりすると、直ぐさぼっていた。だから、強くなれなかった。苦しみ、痛みに耐えていれば、もう少し強くなっていたような気がする。心の痛みも、それを乗り越えたところに、強さが生まれるのだろう。

 東京で大学生をやっていた時、柔道部で、女子大生とコンパをしたことがある。可愛い子ばかりだったので、僕は嬉しかったのだが、数週間後、その女の子たちの内の一人が入院しているというので、みんなで見舞いに行くことになった。彼女は、甲状腺が悪かったらしい。その子の両親がベッドの横にいて、僕たちは、元気な女子大生たちと一緒に病室に入って、一応の見舞いの言葉をかけたのだが、その時の僕には、彼女の、そしてその両親の痛みは、感知できなかった。ぼうっと立って、愛想のない顔をしていたと思う。ただ、何故か、病室に入っていった時の、両親の嬉しそうな顔と透き通るような肌をした彼女の顔は、よく憶えている。

 それから暫くして、彼女が亡くなった、と聞いた。しかし、その時も、その時の僕にとっては、他人事だったと思う。今、そのことが気にかかり、思い出されて、今になって、その彼女と両親の痛みを感知できるような気がする。

 他人の痛みというものは、本当に感知できるのだろうか。自分自身が、その他人の痛みと同様のものを過去において経験していたとしたら、その痛みは、察知することはできそうだ。しかし、そのような痛みを経験したことがないとしたら、それは、想像するしかなく、実際にその他人の痛みを感じ取っているのかどうかは、怪しい。想像力豊かに、それは多分他の動物には難しい人間にしかできない尊いことなのだが、自分の身に置き換えてみたとしても、その痛みはこんなものだろうと思うか、もしくは解かったふりをするしかない。

 年を取ってくると、身体も痛むが、心も痛む。それは、他人の痛みというものが、よく解かってくるからではないかという気もしている。僕にしても、それはつまらない、くだらない、怠け者の人生なのだが、様々な苦しみ、痛みを経験して来たことが、少しは他人の痛みを感知させるのではないかとも思う。

 ずっと豊かだった者には、本当に貧しい者の痛みは解からない。痛みを経験してこなかった者には、他人の痛みは感知しにくいのではなかろうか。単に、想像力を廻らして察知するしかないとしたら、それは、本当に他人の痛みを知ることではなかろう。

 難しいことなのだとは思うが、他人の痛みを本当に知るということは、その他人の痛みが自分自身の痛みとなっていくことなのではなかろうか。つまり、他人の痛みが自分の痛みになる。他人の痛みは、もはや、他人の痛みではなく、自分自身の痛みとなる。仏様でないとできそうもない。しかし、かわいそうにだけでは、傲慢に過ぎる。

  花筏 行きつ戻りつ 留まりて

 

2011年  4月13日   崎谷英文


子供の特権

 この世は何が起こるか分からない。何が起こるか分からないのが、この世である。人は、予測しながら生きている。今、この直ぐ先に何があるか、本能的に、習慣的に、また時に熟慮して、今こうなっていて、こうすればこうなるだろうと言う予測を持って生きている。だからこそ、歩くこともできるのであり、電車にも乗り、野菜の苗を植え、受験勉強もする。しかし、そういったことが、全て御破算になることがあるのも、また人生なのだとつくづく感じる。

 人は、何才になっても、未来はあると思っているのだろう。本当は、たかだか百年の生命である。生命の終える先に何が待っているか、など誰も知らない。知っていると言う人は、ただ信じているに過ぎない。信じることにより、死への不安というものがなくなり、今、ここに生きていることを大事にしようと言うことになれば、それは大きな価値のある意味を持つが、所詮、百才の生命である。

 生まれついたる子には、過去はない。前世との繋がりを信じない限り、今、ここに生まれたる子には、過去はない。育つにつれて、年月を経ることにより、予測を身につける過去ができる。小さなうちは、過去ができると言ってみても、大した過去ではなく、ひたすら未来に向かっての現在があるばかりである。まだまだ、過去に囚われることのない、現在と未来がそこにはある。全ては新鮮で、好奇心をそそる、これからどうなるのだろうというわくわくしたものとなる。

 年を経るにつれて、過去ができる。過去が大きくなると、過去に囚われ、現在が窮屈になり、限られた予測の中で未来が狭まる。本当は、過去にさえ囚われなければ、執着するものはなく、何も窮屈なこともなく、未来は開けている。しかし、人は、過去からの繋がりの中で生きていくしかなく、変化があるとしても、予測のできるものでなければ、不安になり困る、と言うことになる。人は、生きて続けていけば生きていくほど、過去に囚われるようにできているのだろう。そうして、多分、未来永劫生きていくことのできるという錯覚に囚われていく。

 過去と同じように、現在も過去になり、やがて未来も現在となり、さらに過去となっていく。そうして、常に現在というものが存在していく。

 しかし、この世は、一寸先は闇なのだ。東日本大震災は、そのことをはっきりと気付かせる。人知の及ばないところで、この世は、時に大変革を起こす。運がいいとか悪いとかの問題ではない。わが身に起こらないから運がいいのではなく、全ての人は、何が起こるか分からない世界に生きているのであり、たまたま、自分が助かっただけなのであって、多くの失われた人命、多くの被災に合い苦しむ人々は、わが身の分身である。特に、人災とも言える原子力発電所の事故は、人類全体が責を負うべき罪である。

 震災の中で、子供たちは笑う。もちろん、激しく動揺しトラウマを持つ子たちも多い。だが、大人ほどの過去への執着に囚われることはなかろう。子供たちにとっても、大きな変化であり、悲しみ苦しみはあるのだろうが、まだまだ、小さな過去の喪失であり、子供たちには、ずっと大きな開けた未来が待ち受けている。子供たちは笑う。

 子供たちの特権である。特権を奪ってはいけない。

  花冷えを 破りて童の 声響く

 

2011年  4月4日   崎谷英文


文明神話

 天災は忘れた頃にやってくる。神話は、崩壊した。文明神話は、崩壊した。日本の原子力発電の安全神話は、崩壊した。

 文明の豊かさに耽り、文明の便利さに浸りきっている現代人は、余りに謙虚さを失くしてしまい、天に届けとばかり高く伸びる塔を欲望し、夜なお煌々と輝く街並みを謳歌し、渡り鳥よりも速く空を飛び、スイッチ一つで暖かくも涼しくもする。人間は、万能だと錯覚し、過信し、世の中は思うようにできるのだと思い込んでしまっている。天は、油断した人間の間隙を狙って、不条理に理不尽に、無辜の人々に襲いかかる。

 文明は、大惨状を、まるで第二次世界大戦の日本の状況を思わせるように、映し出す。揺れ動く大地は、大型爆弾の大衝撃であり、津波の洗い流した街並みの崩れ落ちた瓦礫は、大空襲を受けた街の焼け跡であり、夜の灯火は、灯火管制のように消える。政府、公の、原子力発電はそれでも安全、大丈夫だ、と言う報道は、戦時中の日本は勝っているという情報操作を思わせたりして、不安を募らせる。決死の放水を続ける消防隊員や自衛隊員は、あたかも特攻隊員のようにも見え、その勇気と使命感に、国民は、涙を流す。

 思えば、これまでの世界の文明も、一時栄えながらも、多くが、自然災害で滅亡し、あるいは、戦争で亡んできたような気がする。

 文明は、生活を豊かにさせる。しかし、一方では、新しい危険を作り出す。現代文明に必須たるエネルギーは、主に、水力、火力、原子力で作られる。しかし、それらは、何かを壊してエネルギーを作り出すしかない。水力発電は、山々を壊さなければならず、火力発電は、地中の眠っていた炭素を燃やすために、大気の成分バランスを壊している。

 原子力発電も、自然の中では、隠れた所でゆっくりと放射線を放出しているウランを、無理矢理、濃縮集約させ、瞬時に急激に核分裂を起こさせ、巨大エネルギーを作り出そうとするもので、自然の穏やかな摂理を壊すことに違いはない。その原子力は、巨大であるがゆえに、爆弾ともなり、広島、長崎に落とされたのだが、また、巨大であるがゆえに、制御を間違えば、大地や人々を壊滅させる。

 人の足は、歩くためにある。人の手は、物を持つために、字を書くために、大地を耕すためにある。人の手と足が、働いて生きていく、資源である。空間を動いているものは、手と足であり、人は、ずっと、それを頼りに生きてきた。ペダルを踏む足ではなく、健康のために歩く足ではなかった。機械のスイッチを押し、携帯電話、パソコンのキーを叩くために手があるのではなかった。

 昔から、夜は闇だった。時に、月の光が仄かに地上に降り注ぎ、時には、きらめく星たちが夜空を装う。それでも、夜は、暗かった。それを、人間は、光の夜にしてしまった。

 寒ければ、蓑虫のように重ね着をし、木を燃やして暖をとる。暑ければ、裸になって水を浴び、木陰に潜む。それを、人間は、スイッチ一つで快適になるようにしてしまった。

 文明は、文明のない社会に生きていくことのできない現代人を、作り出してしまった。

  荒神に 怒り鎮めと 祈る春

 

2011年   3月22日  崎谷英文


破壊と再生

 人の力というものはたいしたものではない、と言うことがよく解かる。天と地からの自然の脅威は、容赦なく、現代の文明社会に襲いかかってくる。人がどんなに賢くなろうとも、人は、決して、自然を操作できず、ましてや、自然を征服することなどできるはずもなく、ただ、天と地の間にひれ伏し、自然の怒りとも思われる破壊行為を、祈りによって鎮めるしかないのだ。

 今、太市の空は、青く澄み渡り、1000Km以上も離れた同じ日本列島に起こっている地獄図絵など、到底思いつかせないのだが、文明は、その遠くの惨状を、まるでパニック映画の大掛かりなセットの中で行われているとも錯覚させるように、「うそだ。」と叫ばせて、その現実を映し出す。アマゾン川で、一年に一度起こるといわれるポロロッカのように、海から一筋の大きく拡がった白い波先が、スローモーションビデオを見せるかのように、隊列を組み、海岸に押し寄せてくる。それは、楽々と堤防を越え、横に広がる滝のように大地に落ち流れ、目の前のあらゆるものを呑み込んで、なぎ倒しさらっていく。

 水は、上から下に流れるのではない。水は、下からも横からも、遥か彼方の未知の足下からも、眠りを覚ました蛇のうねりのように、湧き上がり、咆哮をあげて、襲い掛かってくる。

 自然は、循環する。しかし、ただ循環するのではない。生と死を繰り返さんがために、循環する。自然は、時に、自らを破壊し、自らを再生する。自然は、再生するために、自らを破壊する。破壊しなければ、再生できない。自然は、いつもは、穏やかな循環を繰り返しているように見えるが、それは、大いなる破壊への序曲として奏でられているに過ぎない。

 全てのものは、実は、破壊と再生を繰り返す。桜の花は、ただ、古くなって散るのではなく、芽生えてくる新しい息吹きのために、自らを破壊して散る。自らが破壊されなければ、新しい生はない。

 人の細胞は、常に破壊と再生を繰り返している。数週間の間に、細胞は、壊れながら新しくなっていく。細胞は、再生されるために死ぬように、プログラムが組み込まれている。新しく再生されなければ、活動する力は、停滞し衰える。死ぬことを忘れた細胞が、逆にガン細胞となって、本体を破壊する。

 人の世も、破壊と再生の繰り返しである。戦争で破壊し、ひとときの平穏がもたらされるが、いずれまた、戦争が起こり破壊されていく。その繰り返しで、人の歴史は綴られている。

 破壊と再生は、繰り返されながらも、再生は、元の姿を取り戻すのではなく、常に新しい姿となって現れる。少しずつ変化しながら、破壊と再生は繰り返されるのだが、それは、過去を再生するのではなく、新しい未来を再生していく。そうして、その未来も、またいつか、破壊され過去となる。

 バベルの塔を、人は造ろうとするが、造ろうとすると、自然は、嘲笑うかのように、平然と、その塔を崩していく。

  人壊し 春壊しつや 地の震う

 

2011年   3月13日   崎谷英文


もう、遊んでやんない

 「もう、遊んでやんない。」四才の頃だったろう。英太は、台所、当時は土間で、おくどさんと言っていた土でできたかまどがあり、その近くの流しに向かって水仕事をしていた母親の背中に叫んでいた。母親は、少し驚いていたようであったが、笑みを見せ振り返り、英太に、「どうしたの。」、と言って、全てを察したように、手を拭って英太を抱え上げ、「智恵子に遊んでもらえないの。」と言って、頬擦りをしてくる。

 人の記憶というのは、いつから始まるのだろう。生まれたとたんに、人は人として生きているのだろうが、いわゆる物心つくまでの赤ん坊というものは、反射的、本能的な行動によって生きているのであって、大人になって、生まれたばかりのことを憶えている者などいるはずもなく、もし、憶えていると思っているとしたら、それは、後から教えられたことを、頭の中にすり込まれているに過ぎないだろう。

 英太にも、本当の自分の記憶にないが、何度も周囲から言われて、自分の記憶と混同してしまいそうなこともあるが、それは、自分の経験した記憶ではない。もしかすると、母親の胎内にいる時から、記憶能力というものはあるのかも知れないが、大人になっても憶えている経験が、人としての記憶の始まりとして残るしかない。

 英太にとっての、記憶の始まりは、「もう、遊んでやんない。」だった。確かに英太は、今さっきまで、庭で、四才年上の姉の智恵子と遊んでいた。英太は、その頃よく智恵子の後を追ってくっついて遊んでもらっていたのだ。しかし、その時は、智恵子が自分の友達が遊びに来ていて、弟が煩わしくなったのだろう。だが、幼い英太に、そんな姉の事情など分かるはずもなく、何か英太が、その姉と友達とが仲良く遊んでいるところに割り込んで、邪魔をした。「もう、遊んでやんない。」と智恵子は弟に言ったのだ。だからと言って、英太は、寂しく悲しい思いは幼児なりに感じながらも、泣くこともなく、それ以上に、その言葉が頭に刻みこまれ、走り帰って、母親に同じ言葉をぶつけたのだった。

 その時から、十五年経て、英太は姉の智恵子と、東京の方南町近くの同じアパートに住むことになる。姉は、一浪して東京の医大に入っていて、英太も、東京の大学に入学し、経済的にも、生活的にも、合理的だというので、英太は、姉のアパートに居候することになったのだった。

 宇宙の誕生から、地球の誕生、生物の誕生、そして人類の誕生、そして現代まで、歴史は膨大ではるかでありながら、人は、ただ、五百万年前の人類の誕生からしても、その個人個人は、生まれ、生き、死ぬ、というわずか百年足らずの繰り返しを行っているに過ぎない。その個人個人の歴史は、その経験の中にしかない。憶えていることがその人の歴史であり、いくら教えられても、そのことは思い込みに過ぎない。経験したことが、その人の歴史なのである。

 その人の歴史の中に、別の人の歴史が紛れ込む。特に、同じ屋根の下で、同じ空気を吸い、同じものを食べてきた人の歴史は、自分自身の歴史に、明暗をもたらす。英太は、三十年前に死んだ姉の智恵子を、年を取ってなおさら思い出している。

  夕東風や ひとの恋しき 匂ひあり

 

2011年   3月2日    崎谷英文


余食贅行

 孔子は言う。(第二十四章)

 つま先で立つものは、長く立つことはできない。大股で歩くものは、長く歩くことはできない。自己宣伝し見せびらかすものは、すぐれていない。自分だけが正しいと主張するものは、物事の本当の善悪を明らかにできない。自分の手柄を誇るものは、功績を挙げられない。自分の能力を過信するものは、長く続かない。これを、余食贅行、「食べ残しと余計な行為」と言う。自然の中の生き物は、そんな余計なものを好まない。

 人は、余計な無駄なことに憂き身をやつし生きている。自然に帰れ、ということか。

 何時から、政治家たちは、自分のやったことを自慢するようになったのだろう。ずっと前から、そうだったのかも知れない。優れた政治家は、論争をしても、謙虚であり、相手に痛烈な批判を浴びせかけられても、泰然と受け流す。今は、互いに誹謗中傷、罵詈雑言の非難合戦である。情報社会の弊害であろうか、インパクトのある表現でないと受けないと思っているのであろう。国民は、それほど愚かなのか、愚かなのかも知れない。だとすれば、見極める目を持つしかない。

 何時から、物を売る者は、商品を自慢するようになったのだろう。百円のものを、二百円だと言って、それを百五十円にしたと言うようになったのだろう。ずっと昔から、そうだったのかも知れない。羊頭を掲げて狗肉を売るである。情報社会になると、宣伝が力を持つ。人は、他人の持っているものを欲しがる。他の人も持っているから、あなたも持った方がいいよと勧める。時には、あなただけの物だからと言って勧める。そうして、人は要らない物も買ってしまう。そうして、人は、贅沢にもなり、貧乏にもなる。

 人は、他人の自慢話に眉をひそめるが、自慢話が巧みだと、感心してその気になる。そうなると、良い政策なのか悪い政策なのか、はっきりと判らないまま、選挙で応援したり、投票したりする。投票した後、悪い政策だと判っても、後の祭りである。

 良い品物なのか、悪い品物なのか、必要な物なのか、必要でない物なのか、はっきりと分からないまま、買ってしまう。買った後、大した品物ではなかったり、役に立たない物だったりしても、後の祭りである。

 本当に良い政策は、自慢されなくとも、宣伝されなくとも、支持されねばならない。民主主義は、国民が試されている。

 本当に良い品物、本当に役に立つ物は、自ずと人々に受け入れられねばならない。人々の、操られない自由がそこにある。それが、本当の需要であろう。

 人の短を道(い)うこと無かれ、己の長を説くこと無かれ。(文選)

 自慢しない、宣伝されないが、良い政策、良い品物だと、見分けることができるような社会でありたいと思うのだが、絵空事か。

  春泥に 脚を取られて 猫は鳴き

 

2011年  2月22日   崎谷英文


光と闇

 光と闇は、繰り返される。周囲は山で囲まれ、遠くに人の営みの象徴のような人工の光の集まりが見える中を、英太の運転する自動車は、対向車もほとんどなく、周りの景色が見えない故か、その速さの遅いのか速いのかも判らないまま、なだらかな坂道を下っている。夜が死であり、朝が生であるとするならば、今は、まさに、死の真っ只中にいる。

 現代においては、夜の闇と昼の明るさは、較べようもなく、夜なお光り輝く世界が日常となっているのだが、英太の運転するその車の中も、その周囲も、その世界は、紛う事なき夜の闇の世界なのである。ただ一条、ヘッドライトの届く光は、死を脱する彼岸を照らし出すかのようであるが、それは、逆にその周囲の闇を際立たせている。

 生の先には死がある。生の隣には死がある。朝の来ない夜はないと言われるが、朝は、夜を経てこそ訪れるのであり、闇を伴わない光は、光として輝くことはあるまい。夜の闇は、魑魅魍魎の跋扈する世界であり、光の中でしか目の見えない人間たちの、その訳の分からないところ、不可知の世界への恐れを増幅させる。

 人は、生きていることを、至極当たり前のようにふるまい、その光の中に輝こうとする。しかし、闇の中にこそ生きる夜行性の生き物たちもいて、彼らにとって見れば、闇こそ生きる世界であり、夜にこそ生きる世界がある。闇と光は、対称的で、対照的な世界を作りつつも、その善悪は、量れるものではない。

 朝になれば、光の中に、様々な小鳥の鳴き声が、あちらからもこちらからも聞こえてきて、大鷲や鳶は、あるいは空高く、あるいは樹上で、地平を睥睨する姿が見られるのであろうが、今は彼らは眠り、夜の主人公たちが、その姿は英太に見えるはずもなく、しかし、闇こそ我が世と、生きる闘いを繰り広げている。狡猾に、また恫喝的に、昼の住人たちを尻目に闊歩する。対向車のヘッドライトかと錯覚したのは、妖しく光る獣の眼であっただろうか。

 英太は、学生だった頃、同じような光景に出合ったことを思い出す。姉の智恵子と二人で後部座席に座り、運転しているのは姉の同僚で、助手席にその愛人、彼女もまた姉の同僚だったのだが、埼玉の山奥から、夜遅く、何かのパーティーの帰りに、四人で帰京を急いでいたのである。そのときと同じように、闇の中、遠くに人家を垣間見ながら、車内には、クラッシックギターの音色が、心臓の音を速くしたり遅くしたりするようなテンポで響き、それは英太を、そしてそのときは四人共々、闇の中の闇に落とし込む幻影に囚われさせるものだった。前部座席の二人のなさぬ仲を、思いやり暗示させるものだったのだろうか。この闇は、抜けることのできぬものと感じられ、四人は黙って、その運命に従うかのように坂道を下っていたのだった。

 ヘッドライトか獣の眼か、向こうから迫ってくる光は、四人を誘うように、運転手のハンドルを切らせた。

  明け見れば 時無きを知る 雪の花

 

2011年   2月13日   崎谷英文


シンベー日記 22

 寒い日が続いていた。老犬の僕には、この冷たさは、身に堪えるのだが、主人が、僕の家に筵を被せてくれて、木枯らしが板の隙間から入り込むのを防いでくれたので、大分楽になった。

 何しろ、この冬の寒さというのは、尋常ではない。毎朝のように、僕の飲み水には、氷が張る。毎朝、主人がその寒がりの為に毎晩湯たんぽを布団の中に入れていて、その冷め切らない湯を氷の上にかけてくれて、やっと、水が飲めるというあんばいだ。厚く張った氷を、一度、北側の庭に放り出してくれたのだが、それは、氷ったまま円い形を保ったまま、何日も、そのままになっている。

 日本の北側、特に北陸の方では、1メートル以上の大雪で混乱しているし、逆に、九州では、火山が爆発して火山灰で困っていて、更には、溶岩流の心配もあるというのを、野良猫のグレから聞いた。全く、地球というのは、寒いのか熱いのか分からないではないか。人間がいくら賢くなったとしても、この自然の不可思議な脅威を取り除くことはできまい。

 僕が山を見て、空を見て、鳥を見て、草木を見て、その変化を読み取るように、自然を知り、自然を探求することは、とても大事なことで、そのことが、災害を小さくし、自然の力を利用させてもらうことに繋がるのだが、決して、自然に対抗しようとか、自然を変えてやろうとか思わないことだ。人間も、僕たちも、自然の恩恵で生きていることを忘れてはいけない。驕り高ぶった人間は、自らを亡ぼすことに成りかねないのだ。

 この間、主人と散歩していた帰り道、隣に住む川中のおばあちゃんに会った。八十五才だというおばあちゃんは、会えばいつもにこにこして、主人に話しかける。二年程前に、ご主人のおじいちゃんを亡くされ、今は、一人で住んでおられるおばあちゃんは、上品で、優しい。自分のことを、物忘れも多くなってきて、などと言われるが、先日、近所の同年代のおばあちゃんが突然亡くなられて、残されたおじいちゃんのことを心配され、自分の場合、私の主人が一人残されるよりも良かったのかも知れませんね、などと、述懐される。僕の主人は、おばあちゃんに、百才まで元気でいて、一ヶ月ほど寝込まれて、亡くなられてはどうですか、などと、畏れ多い、訳の分からないことを言っている。

 今、ちょうど、夜中の南の空に、オリオン座が見える。三ツ星を中に、四つの星が少し縦長の四角形を作っている。右下に青白いリゲル、左上に赤みがかったベテルギウスが光る。そのベテルギウスを一つの頂点として、左に行くとこいぬ座の黄色い星、プロキオン、左下にある、夜の恒星としては最も明るいおおいぬ座の白っぽいシリウス、が冬の大三角を形作っている。

 太市の夜空はきれいだ。特に、冬の澄み切った空気を通しての満天の星は、太市の宝であろう。僕も、時々、うっとりする。気の遠くなるような宇宙の広大さと時間を思えば、地球上の争い、ごたごたなど、馬鹿馬鹿しく見える。

 乾物屋のハナ婆さんによると、以前、太市の星はきれいだよ、と言われて、お嫁に来た人がいたそうだ。

  川水の 氷りて千鳥 遊びおり(シンベー)

 

2011年    2月1日     崎谷英文


同窓会 三

 世界は一つである。人種が異なろうが、民族が異なろうが、信仰する宗教に違いがあろうが、人間は人間として同じであり、世界の人々は、お互いに理解しあい、協力しながら、仲良く発展していけるはずだ。宮田剛は、そう考えてずっと生きてきていた。その思いに、今も変わりはなかった。

 西高二十三回生の四十周年の同窓会が終わる頃、剛は、その会場の入り口にまでたどり着いた。同窓会には、出るつもりはなく、二次会、あるいは三次会から合流するつもりでやってきたのだった。しかし、そこで、西高野球部の仲間でもあった櫛川保司に出会い、いいから、挨拶してくれ、と頼まれる。照れくさくもあったのだが、断わる理由もなく、宴会の中に引きずり込まれ、懐かしい山下先生を目の前にして挨拶をしたのだった。

 フィリピンのミンダナオ島に行って、十年余り、様々な事業を企画してきたのだが、ここに来て行き詰まりを見せ、一旦日本に帰ってきたのだが、再び世界の中に跳んでいくつもりであった。同窓会の演台の「跳べ アラ還ウエスト23」の文字は、剛にとっての心持ちでもあった。諦めずにやり続ければ、為せば成る、その信念に揺るぎはなかった。

 同窓会の一次会が終わる時、柔道部員が中心となって、校歌、応援歌を歌う。僕も、元柔道部員であり、山野真二、熊井芳樹、中田隆也、松木充信、菅井直木と共に、演台に立ち、西高野球部から借りてきた太鼓と共に、みんなで歌う。「あらしに破れ火に焼けし 祖国よついに よみがえれ」第二次世界大戦直後に作られた、大先輩阿部知二氏の歌詞の思いは、今では古くて遠いのかも知れないが、様々な人生の苦楽、悲哀を経て、六十才に近くなった僕たちにとっては、勇気をもう一度奮い起こすことを思い出させる契機にもなろうか。

 歌の後は、恒例の真二によるエールが送られる。いくらか脚が弱っているようだが、相変わらずの迫力のあるその声に、みんな嬉しく呼応する。

 一次会が終わり、二次会の会場に移る。昔の面影を求めながら、僕も、柴川や松木と共に、円形の小さなテーブルが二十ほども並ぶ部屋の、後ろの席に座り、酒を飲む。播但線の山奥出身で、今は、地元で産婦人科医をしている岩谷信三は、自分の娘の子、つまり、自分の孫をとりあげた話をする。彼にとっては、気恥ずかしい経験なのだろうが、それはまた、親子の信頼感、絆のようなものを感じさせ、家族の様々な繋がりのあることを思わせてくれる。

 前面に、以前の同窓会のビデオが映じられる。その顔は、確かに彼であり、彼女なのだが、二十年前の彼らは、今の彼らではない。しかし、それはまた、今の彼らを創り上げてきた、消すことのできない昔の彼らなのである。その二十年前の彼らが、今の彼らの元型としてあり、今の彼らがある。いや、高校時代の僕たちこそ、それはもはや、記憶、記録でしかないのだが、今の僕たちの元型になる。人生のどれだけにあたるのかということ以上に、その時代の日々は、その時の、そして、その時からの僕たちの生き様を形作る大きな時代であった。時代が移り変わろうと、その日々に培われた気概、気魂は残り続けている。

 「ここに集いて 友を得ぬ」僕は、間違いなく、友を得た、と思っている。

  雪嵐 老犬の小屋に 筵掛け

 

2011年  1月23日   崎谷英文


同窓会 二

 人というものは、もの心ついてからは、自分自身の選択というもので生きている。外部的にいろいろな要因はあろうとも、自分自身の引き受けねばならない選択によって生きてきたのだ。

 この姫路西高等学校に入学したということも、個人個人には、それぞれの様々な要因があろうとも、やはり、自分自身の選択なのである。しかしまた、選択をした先に何が待ち受けているのかと言えば、そこには、もはや、自分自身の選択とは言えない出会いが待っている。そこで出会う同級生、教師たちとは、出会わずにいられなかった縁があったとしか言いようがない。

 松本氏の講演が終わり、乾杯のための鏡割りを、井上謙太郎先生、大倉女史らの五人で仰せつかる。鏡割りなどしたことがなかったのだが、思いっきり叩けということなので、「せいの」で叩くと、酒のしぶきが飛び散る。よく見ると、その樽は見事な上げ底で、上の方、十センチメートル程しか酒は入っていなかった。

 乾杯の後は、宴会にうつる。三百二十人以上もいた同級生のうち、百人ほどが集まっているのだが、それでも、顔と名前が一致しない。皆、名札をつけているのだが、その名を見ても思い出せない者たちも多い。元々知らない、別人の姿になった、僕の記憶力が悪い、のどれかである。

 大倉女史は、隣に座っている加藤君に、私、あなたのこと好きだったのよ、と言っている。東京での、西高二十三回生の集まりで、彼女は別の誰かにも、そんなことを言っていたのを思い出す。困ったものだ。上手に年を取るということは、正直になるのか、うそつきになるのか、それとも恥じらいをなくすということなのか。たまたま、七吹女史の近くに座った時の、七吹女史のよくしゃべること。思わず大阪のおばちゃんかと聞いてしまいそうになるのだが、誰かに聞くと、彼女は昔からよくしゃべっていたということなので、変わらないものは変わらないものなのか、とも思い知る。

 社会を教えてもらっていた井上博道先生が、僕の隣にやってきて、どうやら僕のことを思い出せないまま話しかけてくる。もうずいぶん前にリタイアーされ、今は、畑で、野菜作りを楽しんでおられるという。後で、やっと、僕のことを思い出してくださった。僕が憧れていて、言うことを聞かない生徒たちを前に、唇を噛んで睨みつけ、英語を熱心に教えてくださった山下先生は、変わらずお美しく、今は、姫路城の外国人の案内をボランティアでやっておられるという。

 僕が、時々煙草を吸っていた美術室で、いつも絵を描いていた柴山俊貴の作った記念品は、姫路城を俯瞰するものであったが、今も、現役の画家である美術の高原先生の最近描かれた絵葉書の絵も、また、姫路城を俯瞰するものであった。それは、イーグレ・姫路の七階からの俯瞰で、柴山とは北と南で方向が違うのだが、共に、姫路城の森を意識したアングルの相似に不思議なものを感じる。

 高校時代が、それまでの人生の十八分の三、つまり、六分の一だとすれば、今の三年間は、六十分の三、つまり、二十分の一にしか過ぎない。高校時代の六分の一は、古くて遠いが、年を取ったからといって、二十分の一にはならない。今も、六分の一として残る。

 面影は、今も、目の前に漂う。

  底冷えの 四畳半でも 春は春

 

2011年  1月14日  崎谷英文


同窓会

 田口良郎は、埼玉のマンションの居間で胡坐をかいて、テレビの横に飾ってある鏡餅を見ながら、今頃、姫路のホテルの宴会場で繰り広げられているであろう姫路西高二十三回生の四十周年の同窓会に思いを馳せていた。この時間は、先輩の松本さんの講演が始まっていて、みんな静かに聴いてくれているだろうか、崎山英太は、つまらない顔をしていないだろうか、などといろいろ頭の中で思いを廻らせてみる。

 五日前に、仕事から帰ってきて悪寒が走った。昼頃から熱っぽく、少しおかしいなと思っていたのだが、家に着く直前には、身体のだるさが募ってきていた。体温を測ると、三十七度五分もある。それでも、一晩寝れば治るだろうと思っていたのだが、翌朝にはますます熱が上がり、三十八度五分にまでなり、妻に近くの病院に連れて行ってもらわねばならなかった。心配した通り、インフルエンザA型で、タミフルを処方され、一週間の外出を禁止された。姫路の同窓会には出られそうもなかった。

 元スチュワーデスで、英語ペラペラ、これからはケア・マネージャーとして頑張ると言う鶴田女史と元野球部、自衛隊の教官だった三澤高志の司会で始まった同窓会は、松本氏の講演へと進んでいた。世界経済、日本経済の経緯、現在の情勢、これからの見込みなど、さすがの話であったのだが、還暦を前にした西高二十三回生達にとって、三十年前の五十五歳の平均余命が、今の六十五歳の平均余命と同じであり、幸福度は、生まれてからU字型をたどり、年寄りは幸せになっていく、という話が、最も心に残り、力づけてくれたであろう。

 櫛川保司は、演台の上に大書された「跳べ アラ還ウエスト23」という幕を見ながら、動き回ったこの一年を振り返っていた。田川と三澤と、そして姫路の先輩、哲人、和辻哲郎の孫筋に当たる佐藤女史と、東京と姫路とを何度も往復して、この同窓会の企画を行ってきた。この幕も、佐藤女史の製作である。多くの同級生に協力してもらいながらも、上手く進行したと、ほっとする。これで終わるのかと思うと、むしろ力が抜けてくるようだ。インフルエンザで来られない田川良郎の無念さを思い、東京に帰ったら、良郎こそ慰労してやらなければと考える。

 僕は、四十年という年月の移ろいを思う。移ろいといっても、衰えるだけではない。六十歳近くにもなれば、人の姿かたちは、様々となる。高校時代を彷彿とさせる姿もあれば、別人となる者もいる。男は概して、頭が薄くなるが、変わらぬ黒々とした髪を持つ者もいる。太ったやつもいれば、痩せたやつもいる。ガンになったが治ったという者もいれば、今も苦しんでいる者もいる。しかし、僕には、女の子?たちが、みんなきれいに見えた。G君などは、Nさんに、高校時代好きだったと言われ、破顔して喜び、帰りには、投げキッスさえしていた。丸田貞子さんは、これから婚活だと言う。

 恨み、つらみ、妬み、嫉み、嫌み、僻み、やっかみの七味の時代なのかもしれないが、もしかすると、希みの一味を忘れなければ、まだまだ、生きていけそうだ。

 僕は、ずっと面影を追い続けていた。

  庭の木の 闇を経てこそ 雪残れ

 

2011年    1月4日  崎谷英文


仙人の戯言

 自由は実は、苦しいのである。
自分自身で判断し、自分自身で責任を持つ
これは実に大変なことである。
勉強するのは、この考えること、判断すること
責任をもつことの前提としてある。