しこたま呑んだ。記憶を失った。記憶の欠落が生じてしまった。徐々に、今思い出そうとしている。
ある人に言わせると、私に、盆と正月のようなものが一時にやってきて、興奮状態になっていたのではないかと言う。確かに、この二、三日の間に、息子との久しぶりの新幹線の旅、親子三人での横浜での食事、姪の結婚式、東京にいた頃の友人たちとの久しぶりの再会、高校の親友たちとの同窓会、と飲み続けであった。私の心は、常にうきうきしていたように思う。
そして最後になり、酩酊状態になり、泊まるホテルを思い出せず、親友のS君に連れられて行き世話になった。
徐々に、いろいろなことを思い出すのだが、まだ、ぼやけぼうっとしている。しかし、また、友人たちに何をしていたのかを聞くと、それぞれあやふやなことがおもしろい。聞いたところでは、飲んでいる間は、失礼な振る舞いはしていなかったらしいので、安心したのだが、楽しかったところを具体的に覚えていないのが悔しい。
友人から聞いて、ある行動について、そんなことがあった記憶はある。しかし、それを聞いたとき、そのことは、ずっと以前に経験していたような感覚であった。つまり、デジャヴ、既視感覚のような感覚であった。
記憶には、短期記憶―ほんの数秒の記憶、中期記憶―数日、数ヶ月の記憶、長期記憶―一生保たれる記憶、と言うものに分類されるらしい。分類されると言うことは、それぞれの記憶の収集、獲得、保存を果たす役割の脳の分野が異なっていることを示すのだろう。
例えば、道を歩いていて、5秒前に何を見ていたかを問われても、判然としないであろう。しかし、何か特徴的な対象物だとしたら、それは、ある程度長く覚えていられる。感動的な経験は、長期に渡って頭に残る。
そして、それらは、通常、時間的な遠近の中で、整理されていく。しかし、私の経験したデジャヴのような感覚は、その近接経験が何故か、遠い過去の記憶の神経の中に飛んでいってしまったかのようであった。もちろん、酒のせいである。
多分、あの楽しい三日間は、喜びの連続であったと思われる。世話になった友人たちには感謝せねばならない。
このようなことがあると、やはり、人間の生きている証しは、脳の働きを抜きにしては考えられないのだと解かる。意識、無意識と言うものが脳の中で統合され、整理されていく。極端に言えば、あらゆるものは、脳により作られ、展開していっている。
何が正しいのかと言うことは、脳の判断であり、脳が狂えば、その正しさも狂う。経験したことも、脳が獲得するのであり、獲得の仕方により、経験自体が異なってくる。養老孟司氏の「唯脳論」を読むことにする。
私の場合は、多分、一時的なただの酔っ払いの経験の空白でしかないのだろう。妻に叱られ、S君の世話になり、K君、Y君、T君にも迷惑をかけた。M君も心配をしてくれた。三日間、酒を抜いた。すっきりした。また、呑むだろう。
失くしたものはそれ程でもなさそうだ。ただ、気に入っていた帽子を紛失した。何処へ、行ったのだろう。
寒風や 尾を振る犬に 身は震う
2008年 11月21日 崎谷英文
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