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仙人の戯言 2012年

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悪いことは大人が教える

 人は生まれでたとき、無なのであろうか。釈迦は、生まれたとき、天を指さし地を指さし、天上天下唯我独尊、と言ったという。文字通り読むと、自分は世の中で唯一人賢き尊き者である、ということになる。もちろん、後世、誰かが演出構成したものであろうが、釈迦は、生まれたときから、何かを持っていたということであろうか。釈迦ならぬ凡人にも、生まれいずるときすでに、自分なりの何かが、その心身にあるのだろうか。

 人は生まれたとき、自分一人で生きていくことはできない。赤ん坊は、放っておかれたら、自ら動けず、食べる物を見つけることなどできず、死ぬだけである。しかし、普通、人は生まれれば、大人に、特に親に育てられる。哺乳動物は、母親が乳を与えることが、先ず第一の子育てである。そこから人は育ち、周囲の大人たち、周囲の同朋たちの真似をして、様々なことを覚えていき、成長していく。生きるための食欲は本能であり、そのためには、泣いてせがみ、甘えてねだり、従順にして、食べ物にありつく。時には、他人のものを横取りして、食べていかなければならない。

 しかし、子供は、自分だけが食べられればいい、とは感じてはいない。周囲の人も食べなければならない、周囲の生き物たちも生きていくためには食べなければならない、ということを知っていく。自分だけが食べていられればいいとは感じず、みんなが同じように食べていけなければ、気分は悪くなる。周りの様々な生き物たちも、自分と同じように生きているのであり、人間たちは、そのいのちを食べているのだと感じ取る。狐にも狸にも兎にも、バッタにも蛙にも土竜にも、生命がある。子供たちの童話の世界は、そのようにしてできている。

 しかし、人は成長するに従って、世の中の仕組みの中にはめ込まれ、生まれいでたそこの、その世界の、その社会の枠組みの中に、否応なしに引きずり込まれる。そこでは、大人の人間たちの、代々伝えられてきた、培われてきた、生きていくための知恵が教えられ、生きていくためのルールが教え込まれる。

 何時の頃からか、人は生きていくために、人は最も賢く偉いのだから、もっとたくさんの物を他の生き物から奪い取ってもいいと思い始め、周囲を、人間に都合のいい環境にしようとする。これまでは、獲物を仕留めたとしても、その奪い取ったいのちに敬意を払い、感謝の念を忘れなかったのが、さも当然として、心を痛めることもなくなる。

 そうして、遂には、人間同士が生きていくための争いをするようになる。我々が生きていくためには、食べるものが少ないと、他人の物を自分の物にしなければならないのだから、彼らと仲良く共存できない限り、相手はやっつけなければならないのだと思ってしまう。

 子供の頃の、周りの生きているもの、そうでないものも、みんな仲間で一緒に生きているのだ、という感覚は、生まれ育つに従って、失われていく。人間の邪魔をする大きな生き物は、退治しなければならない、退治していいのだと思わされていく。悪いことは、みんな、大人が教える。可愛くない小さな汚らわしい生き物は、踏み潰せばいいのだと教えられていく。競争に勝たなければ生きていけないのだから、負けていく者のことなど考えなくていいと教えられる。

 自分たちの部族は偉いのだから、他の部族を支配した方がいい。自分たちの民族は優秀なのだから、他の民族を啓蒙していかなければならない。刃向うならば、少々痛い目に合わせるしかない。悪いことは、みんな、大人が教える。あの国は悪いことをしているのだから、懲らしめなければならない。そのために、少々の人が犠牲になっても仕方がない。その責任は、相手の国にあるのだから。相手の国も、そう思っている。

 悪いことは、みんな、大人が教える。

  遠き山 明きに冬の 暮れなずむ

 

2012年  12月18日   崎谷英文


人間の進化

 人間は進化しているというのが、まっとうな一般的な考え方であろう。確かに、人はその寿命を古代からすれば途方もなく延ばし、地球の人口は古代からすれば、天文学的に増加している。原始からすれば、地球の人口は、一億人から七十億人に増加し、人の寿命は、三十代から八十才になっている。これを進化と言わずして何と言えるのかと言われれば、たいしたものだと言わねばなるまい。

 しかし、人間は、他の動物たちと比べて、それほど立派なのであろうか。二歩足で立ち、手を使い、道具を作り、火を操って、言葉を語り、狩猟採集の生活から、農耕、漁労、牧畜の生活へと進化し、部族から民族へと拡大し、社会を作り、国というものに成長させていく。確かに、素晴らしい進化なのであろう。しかし、人はまた、動物たちの持たない厄介な精神も抱え込んだ。

 産業革命は、人々の生活を一変させる。農業、漁業は機械化され、工業製品の大量生産が始まり、地球中の海を船が行き交い、世界中を文明化させていき、地方の住民は、労働力として都市に集まり、自らも文明の豊かさに浸っていく。

 そんな大きな世界のうねりの中で、日本も、西欧文明の渦に巻き込まれずにいられる訳もなく、文明開化、富国強兵、殖産興業の道を歩み始め、帝国主義の一翼に加わろうとする。そうすることが、日本の、日本人の生きるべく、生き残る唯一の方策と考えられた。それは見事に功を奏し、長い鎖国の閉じ込められていた国が、世界に伍する力を持つに至ったと錯覚し、大陸に侵入し、欧米に戦いを挑んでしまった。日本は敗れ、悲惨な戦中戦後から、再び、立ち直り、現在に至る。

 しかし、人の誕生から、現在に至るまで、人の世は、侵入、征服、搾取、戦争、殺し合いが続いてきたのではなかろうか。今も、世界のどこかで、内乱があり、戦争があり、殺し合いが続いている。文明は、常に、一部の人間の為にこそ存在価値があり、あまたの善良なる人々を犠牲にして、発展してきたのではなかろうか。

 文明というものが、どれだけの価値があるのか。他の生き物に較べて、突出したかと思われる人間の能力であるが、人は、それを本当に上手に、後ろめたくなく用いてきたのか、用いているのか。

 自由と平等という民主主義さえ、利用される。支配と被支配は、正当と思われる手続きを採りながら、現に進行している。豊かさを餌に、人々を釣り上げ、灰色の膜で覆われた煉獄に閉じ込め、さあ働けと放り出す。高度情報化してしまった現代社会では、マスメディアが、ポピュリズムを無意識の内に醸成し、政治家たちは、ただ世間の風向きを気にして、大衆の顔色をうかがい、メディアは、三百代言の人気者たちに迎合する。戦争をしたくてたまらない人間たちは、巧みに愛国心を利用して、民衆を籠絡しようとしている。

 自由主義、民主主義という経済も、自ら陥った拡大生産、拡大消費を続けなければならないという抜け出せない泥沼の中で、逃れられない繰り返す不況を、常に一部の人々を自己責任などと言うもっともらしい道徳を持ち出して犠牲にし、一時しのぎの取り繕いで乗り切ろうとするばかりである。グローバル経済になれば、一国の策が、効果を持続することなど有り得ない。そして、まだ、世界は一つではなく、何か事があれば、自分の国は自立が危うくなる。

 文明は、豊かさをもたらしたが、人々の心は貧しくなる。そんな世の中になりそうで、嫌だ。

  人の世を 笑うや土竜 霜柱

 

2012年  12月10日   崎谷英文


ポトラの日記 4

 どんよりとした冬の曇り空が続き、時折、冷たい雨が僕の身体を打つ。猫は炬燵で丸くなり、と人間が唄ったように、僕も、寒いのは苦手だ。寒いと動くことも少なくなり、食欲もなく痩せ細るというのは間違いで、逆に、この時季には、たくさん食べて体力を豊かに保たなければならない。外気の冷たさに負けずに、体温を維持するためには、たくさん食べて太らせておくのが、野生としての哺乳動物の鉄則である。

 家の中で飼いならされたペットとしての猫は、別である。彼らは、ぬくぬくとした部屋の中で食べすぎると、ただメタボになり、肉の塊のように醜くなる。僕は、半野良であり、相棒から食べ物を分けてもらっているのだが、時にそれでは足りなくなって、モグラなどを探したりする。

 そのモグラも、今頃になって、至る所に、土を噴火口のようにして盛り上げるいわゆるモグラ塚というものを拵えていて、やはり、冬に耐えられるように地中で餌を漁っているようだ。モグラは大食漢で、なかなか生存競争が激しいようで、時々、喧嘩で縄張り争いに負けたモグラが、地上でくたばっていることもある。

 少し以前に、相棒は、東京でモグラになったと言う。地下鉄の赤坂という駅で降りて、国立新美術館に行くとき、延々と地下の道を歩いたそうだ。東京には土がない、とかねてから相棒は言っていたのだが、土のないモグラ経験だったらしい。

 大地には、いろいろな生命がひしめいている。大地だけではない、大地の上にも、そして、空高くにも、様々な命が、ひっそりとあるいは悠々と、うごめき飛び交っている。僕は、畑の周辺をよく歩き回るのだが、僕の足下に、小さな生命が、がさごそと息づいているのが分かる。ミミズや蟻や虫の幼虫たち、冬眠をしようとする蛇、そしてモグラ、いろいろな生き物が、土の下で来たるべき厳冬に備えて、生命を繋ぎ育もうとしている。空には、雀、カラス、ジョウビタキ、トンビが、僕を見上げさせる。それは、動物たちだけではない。身を固くした、野の草花の種や根も、確かに、その生命を、冷たい土の中で、いつか訪れるであろう春の為に、じっと息をひそめて溜め込んでいる。

 大地は、生き物たちの共存する、生命を循環し合っている場なのである。自らの生命が、他の生命に支えられ、自らの生命が絶えるとき、他の生命を呼び覚ます。自然は、そうやって、その始まりの時から、現代まで繋がっているのである。

 人間たちは、そのことを忘れてしまっているようだ。人間たちだけで生きていけるのだと、傲慢にも錯覚しているかのようである。

 僕たちは、言葉を語らない。しかし、僕たちは、語らなくとも分かり合える。家族である母のダラや兄であるウトラに対しても、ニャーニャーという声だけではない、目に見えない耳にも聞こえるのでもない、お互いの生命の響き合いを感じ取っている。きっと、昔の人間たちも、言葉というものがなくても、理解し合えたのではないかと思う。もしかしたら、言葉というものが、野生としての人間の元々持っていた能力を、削ぎ剥がしていったのかも知れない。語らずとも共感しうる心、というものが、古代の人間にはあったのではなかろうか。小賢しくも、理屈をこねるようになって、互いの生命が同じであることを、忘れてしまった。

 突き詰めれば、人間と他の生き物との間にも、そういった言葉にしないで共感し分かち合う心というものが元々あったのだ。僕は今、相棒と言葉を交わさなくとも、解り合っていると思っている。

 畑の野菜も寂しがり屋で、人間の足音を聞くのが好きだという。

  冬草を 刈りぬ千鳥の 舞い降りぬ

 

2012年  12月1日   崎谷英文


忘れ物

 雨が降るという予報だったのが、朝起きた時には、太市には雨は降っていなくて、大丈夫かなと思っていたとたんに、ポツリポツリと雨が降り出し、家を出る頃には、結構な雨脚になっていた。新幹線は、その雨雲を追い越して、名古屋を過ぎる辺りからは、空は薄暗いものの、刈り取られた田に淡い光が漂う。富士山は、絵に描いたようにぽっかりと横にたなびく雲の上に、円錐台の冠雪を見せて美しい。もちろん、品川に着いても、雨など降っていない。慎重に、ビニール傘を忘れることなく手にして、降りた。

 ところがである、大崎駅の宿泊するホテルに少しばかりの荷物を預けた後、小さなカフェでコーヒーを飲んで、店員に、赤坂に行くにはどう行けばいいだろう、と問うと店員に代わって、注文を待っていた若い女性が恵比寿駅まで行って、そこで地下鉄に乗るのがいいと教えてくれる。山猿は、そんな上手い行き方があったのかと感心し、その女性に丁寧にお礼を言って、山手線に乗り恵比寿まで行く。傘は、しっかりと手に持っていた。そして、恵比寿駅のプラットホームで柴田に携帯で電話して、会場に居ることを確かめ、改札口を出たのであった。

 そして気が付いた。傘がない。さっき、電話をした時に、ホームの階段の降り口に傘を置いたことを思い出す。忘れた。どうせビニール傘なのだから、かまやしない、雨も降っていないし、もう何本も列車が来ていて誰かが持っていっている可能性も高い、などと考えてみたが、家に帰った時の、妻の、やっぱりね、という言葉が胸に浮かび、その声を聞くのは癪なので、踵を返して改札口に戻る。駅員にプラットホームに傘を忘れたと言うと、意外にもあっさりと、どうぞ、と通してくれた。やさしいお兄ちゃんだった。

 子供の頃から、忘れ物ばかりしてきた。小学生の低学年の時、夜遅く、母の自転車の後ろで大事な風呂敷包みを持っているように言われていたのが、目的地に着くと何故かない。自分では、しっかりと持っていたつもりだったのだが、いつの間にかすり落ちたのであろう。母は怒らなかった。ただ、呆れていた。高校の時には、学校帰りに雀荘によって遊んだはいいが、鞄をその雀荘に置き忘れ、郁郎に指摘され、慌てて取りに戻ったこともある。

 傘など忘れることは、日常茶飯事で、新しく買い与えられた傘は、その日のうちにどこかに行ってしまうのであった。ついに、母は、僕には、雨が降っていても、傘を持たせないようになってしまった。妻は、そのことを母から聞いていて、いつまでも僕をからかう種にする。今朝も、どうせ忘れるからビニール傘にしなさいね、と言われてきたのである。

 人間は忘れるようにできているんだよ。だから、何度も繰り返さないと覚えられないんだよ。だいたい、あらゆることを全部覚えていたら、煩わしくてたまらんだろう。ややこしくてたまらない。嫌なことなど忘れなきゃ、いつまでも頭の中に残っていたら、心が蝕まれる。だから、人間は忘れるようにできているんだ。しかし、また、嫌な事でも覚えていなきゃならないこともある。だから、覚えてなきゃならないことは、繰り返し覚え直さなきゃいけない。子供たちに、得手勝手なことを言いまくってきた。自分自身は、忘れ物ばかりしてきたくせに。

 忘れ物は、忘れていたと思い出したとき、忘れ物になる。忘れたと気付かないうちは、忘れ物ではない。忘れ物をいっぱいしてきたが、まだまだ、気が付いていない忘れ物がたくさんありそうだ。これからは、先に求める物は少なく、忘れ物をいっぱい思い出したい気分になる。

 無事、ビニール傘は、ホームにあった。

  忘れ得ぬ 人の影かや 冬木立

 

2012年   11月20日  崎谷英文


僅か五十年前

 1955年、アメリカのアラバマ州の黒人女性、ローザ・パークスさんが逮捕された。その頃、アメリカでは、白人と黒人とで、多くのことが差別され、区分けされ、ホワイトオンリー、ブラックオンリーの公衆トイレがあり、水飲み場があり、バスの座席も、黒人の席と白人の席とが分けられていた。ローザ・パークスさんは、仕事帰りのバスの中で、白人の運転手の、その席を白人の男性に譲れ、と言う言葉に従わず、警察に逮捕されたのである。

 そのことを、きっかけに、キング牧師が中心となり、バスのボイコットが始まり、黒人差別撤廃の大きな運動がアメリカに広がっていった。そして、1963年、リンカーン記念館で、有名な’ I have a  dream.` いう演説が行われた。

I have a dream. One day the sons of former slaves and the sons of former slave-owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.

 それから僅か50年、アフリカ系アメリカ人のバラク・オバマ氏が、アメリカ大統領に再選された。僅か50年である。僅か50年前には、アメリカには、凄まじい差別があったのである。奴隷と奴隷所有者という黒人と白人との長い歴史は、南北戦争を経てのリンカーンの奴隷解放宣言から100年を経ても、アメリカの国内に目に見える差別として色濃く残っていたのである。

 アメリカは、僅か50年の間に、見事に変身し、その差別意識を払拭し、黒人の大統領まで登場する立派な国なのである、ということが言いたいのではない。人は、何と傲慢で、自分勝手で、偏見に満ち溢れているのか、と言いたいのである。僅か50年前、白人たちは、黒人たちへの差別を正当化する法律を持っていたのだ。そのことが、何と奇妙でおかしなことか、ということに、多くの白人たちが気が付いていなかったのだ。あるいは、おかしいと思いながら、多くの白人たちは、そんなものかぐらいに思っていたのではなかろうか。そこには、隠された差別意識があったとしか言いようがない。

 バラク氏の当選の演説を聞いていると、その差別への闘いは、未だ続いているようであり、その隠れた差別の対象が、アジア系アメリカ人、ヒスパニック、さらには、同性愛者に移っているようである。

 アメリカは移民の国である。元々、イギリスを中心としたヨーロッパからの移民が、ネイティヴアメリカンの土地を奪い、追い散らして、建設した国なのである。そうして、アフリカから多くの黒人奴隷を移入させ、働かせていたのだ。黒人たちは、白人と同じ人間と思われていなかった。それが、ようやく、黒人は白人と伍する立場になった。

 人間とは、何と精神の貧しいものか。生まれ育った環境の中での先入観、偏見から逃れることは難しい。刷り込まれた無意識は、容易に我が身から離れない。あらゆる人は、その生まれ育った環境からの束縛を受けている。生きていく世界が広がっていくにつれて、その被拘束性は、緩やかになっていくように見えるが、ただ、逆に別の環境に拘束されていくだけのこともある。人間の精神の、何と愚かなことか。

 人が、社会というものを作って生きていかなければならないとしたら、その社会に存在するあらゆる人々は、社会的に意味を持つのではないか。あらゆる人々は、社会の中で、存在の意義を持っているのではないか。国民主権、民主主義ならば、なおさら、人は、自らの作り上げた社会の中のあらゆる人々に、責任があるのではなかろうか。だとしたら、人間社会に限ってみても、社会を作っているあらゆる人々に、少なくとも自分にと同じように、関心を持ち敬意を払わねばならない。交換可能な人間同士である。不平等な感覚など有り得ない。障害者を助けないことなど有り得ない。老人を労らないことなど有り得ない。貧困を、自己責任と切り捨てることなど有り得ない。

  畑中に 柿の実一つ 残りけり

 

2012年  11月7日   崎谷英文


哲学の道

 京都の山は僅かに紅葉しているようだが、未だ夏の風情を帯びたままである。時代祭が一昨日に終えたばかりだというとき、京の街中には、秋の涼しさは訪れない。京都盆地は、姫路よりも寒いだろうと上着の下に薄いセーターを着込んできたのだが、歩いていると暑くなり、セーターを脱いで手に持たねばならなかった。西大谷本廟に久しぶりにやってきて、ぶらっと入った京都陶磁器会館の前の四十五年間一人の女性がやっているという小さな喫茶店のコーヒーがとても美味しくて、二杯飲んで、コーヒー豆を所望する。

 それでも、東山に沿った疎水横の通り、いわゆる哲学の道に入ると、さすがに冷んやりとした山からの涼風が心地よい。疎水の水は、透き通り、ゆっくりと流れる。幾枚かの先導をきった黄と赤の落ち葉が、水の流れの向きを教えてくれる。南禅寺の山門から東に折れ、哲学の道に入ると、北に向かって登っていく感覚で歩いているのだが、疎水の落ち葉は、この道が下り坂であることを教える。琵琶湖疏水は、南禅寺の手前から、北と南に分かれて、京の町に水を送っている。北に流れる疎水に沿って、哲学の道は、銀閣寺まで続く。

 西田幾多郎が歩いていた当時は、どうだったのだろうかと思うが、今では、この道の西の斜面に沿って、ずらっと住宅が立ち並ぶ。幾多郎がこの道を歩きながら、人間と自然の対立しない純粋経験というものを、頓悟、体得したとしたら、きっとその頃は、周囲はもっと鬱蒼としていたに違いない。この辺りも東山というのであろうか、疎水沿いの東側には、所々、山道が上っている。そこを行けば、大文字山に辿り着くのか。その一つの道に繋がる橋の下に、おしどりの親子らしい三羽が仲睦まじい。野良猫なのか飼い猫なのか、様々な色模様をした猫たちが、歩いたり寝そべったりしている。

 銀閣寺の手前に、法然寺がある。その名の通り、浄土宗の寺であろうが、山門の入ったところで、僧侶らしき人が、分厚い蒲鉾板のように砂を堆く形作って、その上に造形をしている。水を撒き、すでに一方には、川の流れのような数本の曲線に、紅葉とイチョウの葉が刻まれている。僧侶は、もう一方をじっと見つめたまま、いかにも、さて、何を描こうかと、思案している。今頃の、山の中の寺は、苔が輝く。朝露に浸されて、山中の乾くことのない苔が、鮮やかに色づいている。

 ようやく銀閣寺に辿り着く。法然寺と比べるべきもない広さで、勢いの衰えつつあった室町幕府といえども、やはり、将軍の権威、威光は偉大であったことを示す景観である。大刈り込みの背の高い生け垣の参道を抜けると、直ぐそこに、銀閣がある。南禅寺まで乗ってきたタクシーの運転手によると、京都で三番目に観光参拝客の多い寺だという。確かに、哲学の道を来るときは、ちょうど良いくらいのまばらな人との出会いだったのが、慈照寺に来ると、一挙に人がひしめく。ちなみに、一番は、清水寺、二番は、金閣だそうだ。

 まだ紅くなっていない紅葉の木々の下を、池を巡り、庭を歩く。庭というよりも山と言っていいだろう。坂道を上り下りする。さらに上の方にも道は続くのだろうが、愚人たちは、手前で留め置かれる。人の造った庭というよりは、東山と渾然一体となった、人工と自然との境界線をぼやけさせ、知らず知らず、無明の自然の中に誘い融け入らせる。金閣が、浮世の栄華を象徴するものだとしたら、銀閣は、栄華の空虚さを表象する。どんな人生も、大いなる自然の中の小さな一欠けらに過ぎない。我々が死ぬように、この自然もいずれ滅するのだろうか。そうではなさそうだ。姿形を変幻自在にしようが、自然というものは、自ずから然りなのである。滅したと見えて、未だそこにある。

 わずか二キロ足らずの哲学の道を歩いて、爽やかな汗をかき、快い疲れに酔う。

  我もやな 緑微かに 紅みたり

 

2012年  10月28日  崎谷英文


絶望という希望

 思えば、生まれてこの方、絶望ばかりを繰り返して生きてきたような気がする。絶望を繰り返しながら、絶望するにはまだ早い、お前は何も解っていないではないか、何も解っていないくせに、と言う思いのみで、生きながらえてきたようだ。

 孔子の言葉に、「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」と言うのがある。人は、何も解らないままに生き続け、その時その時の思い付きの思い入れで、ただ解ったつもりになって生きているだけのような気がする。少し学び、少し経験し、さも、世の中はこうなのだ、などと悟ったような顔をして生きている。その実、心の深層は不安でいっぱいなのだろうが、虚栄と虚飾の中で生きている輩のなんと多いことか。

 高校時代に思いついたことがあった。世の中、人の世を知るのには、三つのことを極める必要があるのではないかと言うことである。一つ目は、物理的な宇宙、物質の構成を隅々まで知ること。二つ目は、生まれ必ず死んでいく人間にとっての、最大の難関、死を乗り越えるための宗教的、あるいは哲学的悟りを得ること。三つ目は、人間社会の歴史的進展の中にあっての人の世のあるべき姿というものを理解し、探究すること。

 一つ目のことは、物理、化学、生物、地学といったいわゆる自然科学にあたる。人間の到底目に見える世界ではない小さな小さな物質世界と、そして、同じように目に見えるはずのない広大な宇宙の世界への、限りない接近である。そして、実は、この小さな世界と大きな世界は、宇宙の創生において結びつく。むしろ二つの世界は、同じ問題とも言える。物質というものがどのようにして生まれてきたのかということを問えば、この宇宙の始まりを問うことになる。小さくて目に見えないものを知るには、広大な目に見えないものを探究していかなければならないのである。

 無限に小さいものはないのかと探ってみて、その小ささに限度があるようなことが説かれるが、それも、人の目、頭の中で、人の覚知しうる理屈の中での話であって、その限界的微小な世界は、さらに微小になり得る気もする。宇宙の大きさは、途方もないが、素朴に、宇宙の果ての先が何なのか、誰も答えられないのは、やはり、人間の知の限界とも言える。そうして、微小な世界と広大な世界の狭間に、地球があり、生き物がいて、人間が存在する。それらの仕組みを知ることも、また、自然科学である。

 二つ目は、死を越えた悟りである。人間というものは、その精神、その意識において、喜び、苦しみ、悲しみ、楽しむようにできている。しかし、そんなものは、生きている間だけの幻であり、もし、浮世の泡沫(うたかた)の喜怒哀楽でない死をも見据えたうえでの心の平穏というものが得られるならば、人は、あたふたと苦悶、苦闘することもなく、安らかになり得よう。全人に逃れられない死というものを乗り越えていく精神、心を与えようとするのが、宗教であろう。人の心というものが、脳で生産され、脳で変化し、それは、単なる脳内の物理的、化学的な反応でしかないのだ、と言い切ってしまう者もいるが、たとえ、あるところからは、物理的、化学的反応によるものだとしても、その物理的、化学的反応の根源の奥底には、何か潜むものがあるに違いない。それを、魂と呼ぼうが、神と呼ぼうが、仏心と呼ぼうが、人の心には、やはり、自然科学では解明できないものが残る。そうして、人は、宗教、あるいは哲学といったものを、信じ切るか、信じ込むか、信じたふりをするか、はたまた、何も信じないかしながらも、結局は、宗教的でしか有り得ない。人は、必ず死ぬのだから。

 人の世とは何なのか、生きるとは何なのか、自分とは何なのか、そんなことを考えながら、いつもいつも解らずに絶望してきていたのだが、解らないのは、まだ知識が足りない、思索が足りない、修行が足りないからだと、思い直して生きてきたのだが、今、考えてみれば、そうやって絶望のうちに絶望を克服しようとする希望があったのかも知れない。

  四方の山 円かになりて 天高し

 

2012年  10月17日  崎谷英文


秋茄子

 秋茄子は、夏の茄子の実り終えた後、その茎の上の三分の一、二分の一程を思い切って切り落としてやることによって、再び、青々とした葉を繁らせ花が咲いて、新しい実を着けることができるのだということを、今年の夏初めて知った。秋茄子は嫁に食わすな、と言う茄子は、そんな茄子だったのである。

 このことを、一軒隣りの吉田さんに教えて貰い、野菜を育てるには、土があり、種を蒔き、苗を植え、水を遣ればいいのだとばかり思っていた英太は、まさにコペルニクス的転回の感覚に襲われたのだから、英太の野菜作りの愚かしさは、お笑い草と言っていいだろう。

 しかし、そうやって、茄子の茎を切って、時々水を遣ったりして、茄子は幾つかの実を実らせてくれたのだが、ある時、その茎に、文字通りうじゃうじゃと、虫が這い回っているのを発見した。何と言う虫か、これが世間で言う野菜によく付くアブラムシーゴキブリではないーかと思っていると、どうやら、その虫は、茄子の葉やできかかった実などを食することが分かった。

 ある程度大きくなった茄子の実にも、小さな穴が開いたりしているのは、その虫のせいかもしれない。深窓の令嬢に虫が付く、とも言うが、茄子が若き乙女であるわけもなく、アブラムシがやくざな女衒であるわけもなく、騙し騙されているのではないのだが、さすがにこの場合、茄子の肩を持って、可哀そうだが、この虫には、退場してもらわなければならない。しかし、殺虫剤などを使う気は毛頭ないので、いつかどこかで漏れ聞いた、酢を水で何十倍かに薄めたものを、霧吹きで掛けることにした。

 野菜に虫が付くということは、何度も目にしている。キャベツやブロッコリーなどは、大半が見事に、蝶の、特にモンシロチョウの幼虫、つまり青虫に喰われてしまい、人の為ではない、万物の小さき命の為に種を蒔き苗を植えているという崇高なふるまい、と勘違いしなければやってられないことがたびたびだった。

 キャベツなどの上に網の覆いを掛けておけばいいのだが、英太はその姿形が好きではない。キャベツと青虫の関係に、人間が壁を作ることは、卑怯な気もして躊躇するのだ。キャベツと青虫とは、敵同士なのかとも思うが、切り離してしまっては、秋のモンシロチョウも見られなくなり、キャベツにとっても青虫は嫌いだけれど好きだ、などという訳の分からない間柄かも知れないではないかと、思ったりもする。

 昨日の敵は今日の友、などと言う麗しい言葉があるが、昨日の敵は昨日の友、今日の敵も今日の友、なのではないか。種が違えば、天敵などと言う関係も生じるのだろうが、その天敵だって、お互い絶滅するまで食い荒らすことはなく、どこかで実は助け合っているような、どこかでお互いに納得し合う折り合いをつけているのではないか。

 まして、同種の生き物では、仇のようにいがみ合い喧嘩をしていたとしても、嫌よ嫌よも好きのうち、と言うようなもので、お互い気になって仕方がないばかりのことも多いと推察する。喧嘩する方が無視されるより良さそうだ。いじめだって、陰湿な無視をして口も利かない、と言うようなものの方が、性質(たち)が悪いとも言える

 中国と韓国にとって、日本は、明らかに昨日の敵だったのだが、それが喧嘩していたことも忘れるほど親密になっていたのに、中国と韓国は、実は日本もであろうが、昔の怨恨が忘れ切れず、先入観あるいは偏見のようなものでしか、相手を見られなくなっているのではなかろうか。しかし、それも別れたいけど別れたくないという仲でもある。分かち合えばいいのだが、それができなければ、鎖国しかあるまい。

 どのようにして、秋茄子の話が、領土問題にまでなってしまったのか、自分で読み直してみても不可解なのだが、秋茄子に付いていた虫は、二・三日酢を薄めたのを吹きかけていたらいなくなったようで、きっとどこかで息災であることを望むが、秋茄子にとっては、手遅れだったようで、申し訳程度の小さな茄子が、三つ四つ採れただけだった。

  その下に 草伏くいのち 稲の波

 

2012年   10月7日  崎谷英文


小さないのち

 ようやく、周囲の田と似た感じに穂が実り色づいてきたのだが、それでも、獲れる米の量は、一般的なものと比べると、とんでもなく少ないだろうと思うが、収穫してみなければはっきりとはしない。一時は、こんな背の低い、緑の薄い稲で、ちゃんと実がつくのだろうかと思っていたほどだったのが、何とか実を着けたのだから、喜ばなくてはいけない。

 十日程前には、田圃の五分の一程の広さに、何という雑草か分からないのだが、その赤茶けた茎をして地を這って拡がり、所々で天を目指すかのように伸びていたのが、稲の穂の黄色い波を覆い隠すようにしていて、それを三日間かけて抜き取り、ああ、きれいになったな、と思っていたのだが、今、またポツリポツリと、イヌビエらしきものが稲穂の背を越えて、島のように浮かんでいる。

 田の草取りをしていると、赤蜻蛉が群れを成して飛んでくる。雑草の中には、小さな虫が、それこそ、目にも止まらないような小さな虫たちが住んでいて、彼らは、その一部がバッタや蛙たちの餌食となりながらも、数において優に勝り、その種の保存にとって敵から逃れられる最適であろう稲穂の下の隠れ家に潜んでいたのが、草取りをされることによって、慌てふためき空中に飛び出してきて、赤蜻蛉に狙われたのである。

 都会に住む人、特に、土も見えないマンションに住み、舗装された道を歩き通って、地下鉄やJRでトンネルやビルの林立する間を縫って移動している人たちにとっては、地球が、人間以外の人間の数をはるかに凌駕する小さな生き物たちの住処であることを意識することなど、先ずないであろう。田舎に住んでいると、特に、田や畑に足繁く通っていると、地球が、人間のものではなく、むしろ小さな命のものたちにとってのものだと実感する。人間がその小さな命と比べて、どれほど立派なものなのか、ふと考えさせられる。

 小さな虫も、雑草も、多く春から秋にかけて、その暖かさの中で、自らの命を旺盛に生きる。その間に、花咲き、実を作り、あるいは卵を産み、自らの子孫たちを地に落として、自らは枯れ死んでいく。人は、人生八十年としても、オギャーと生まれて、無邪気な時代から成長し、食べ飲み眠り、活発に活動し、子孫を残して、やがて、身も心も衰えていって、いずれこの世を去っていく。

 小さな命たちと人間とに、如何程の差があるのか。そもそも、どうして、この世に生命というものが生じたのだろうか。三十七億年前に、生命は生まれたとされるが、それまでの荒涼たる無機物の地球では、どうしていけなかったのだろうか。この地球は、奇蹟の賜物と言われるが、その奇蹟の地球だからこその生き物の誕生は、それほど偉大なものだろうか。生命というものが生まれたからこそ、あくせくと生きねばならない。生まれなければ、静かに、争うこともなく、何もないが平穏無事なる世の中であったに違いない。ただ、何もなければ、世の中でないのかも知れないが、それでも、宇宙としては存在し、それも世であろう。

 生まれ生きるということが、何なのか。いずれ生命を失くしていく生き物としては、人も小さな命も、同じではないか。ただ、人は、生きていくためにはなくてはならないのだろうが、小さな生命たちが持ち合わせていないだろう厄介なものを持ち合わせている。欲望である。自分自身を意識し、他人を意識し、意識する自分を意識し、様々な欲望を、無意識にまた意識的に、抱え込み生きていく存在なのだ。そうして、いずれ死にゆくことを忘れ去って、欲望の渦の中で悶えながら生きる存在なのだ。小さないのちに思いを寄せる。

  天高し 揺れる光に 咲くいのち

 

2012年  9月28日   崎谷英文


相転移

 今、俄かに空が掻き曇り、大粒の雨が降り出した。空に上った水蒸気が、温度が露点以下に下がって、次々に水や氷となって雲となり、耐え切れずに一斉になだれ落ちてきたのだ。その水は、いずれまた、再び水蒸気となって空に上る。

 相転移とは、物理化学において、通常、例えば、水と言う液体が温度が凝固点に達し、つまり、0℃になって、氷と言う固体になったり、また温度が上昇して、水蒸気と言う気体になったりすることを言う。このように、物質の相、気体、液体、固体というものが、別の相に変化していくことを、相転移と言う。

 日頃、水の三態の変化は、日常的なものとして見ているが、考えてみれば、不思議なものである。固体とは、その物質の分子、原子が固まって全く動かない状態であり、液体とは、ある程度の自由を持って動いていて、気体とは、分子、原子が全く自由に飛び回っている状態だと考えられる。しかし、それが、いわゆる融解点温度によって、また、沸点温度によって、一斉にその相、状態を変化させるのである。化学現象的には、陽子、中性子、電子などでない、通常の物質というものは、あらゆるものが、その相転移をするものと認められている。鉄でさえ、2750℃において、気体になる。また、あらゆるものは、理論的には、絶対温度−273℃で、その分子、原子の動きを失くし、固体となると言われる。

 相転移は、人の世で言えば、革命のようなもので、例えば、フランス革命の時には、第三身分の平民が、それまでの不自由から、一気に自由を獲得した。もちろん、その後、反革命的状態になったりもして、自由が再び失われたりもするのだが、それでも人間たちの自由への渇望は、継続し、実行されていくことになる。人間たちの自由は、気体のような全くの自由というものは、限られた世界の中では望むべくもなく、互いに接触し、干渉しあいながらも、自由を分かち合う液体の世界のようなものであろうか。もちろん、固体のような凝り固まった不自由な世界は、問題外である。

 しかし、この液体的自由な世界も、そう簡単ではなく、エネルギーが上手に分散されていないと、実現されない。人間社会において、下層の者たちのエネルギーを奪い取って、上層の者たちばかりにエネルギーが集まり、豊かな者たちは、ますます自由になり、貧しい者たちは、徐々にその動きを失くしていく。そのような世界であっては、ならないのであって、並べて、0℃から100℃、いや5℃から30℃(人間には快適だろう。)の間の液体の自由が望ましい。水も、水蒸気や氷では、人間は吸収できず、水の時に、豊潤な栄養素もその中に含んで消化、吸収できるのである。固体の不自由な世界に佇む者たちには、エネルギーを与え、自由を与えなければならない。気体の奔放すぎる自由を持つ者は、そのエネルギーを放出して、固体を融かし、静かにならねばならない。

 人の心も、時に相転移をする。穏やかな心根であったと思われる人が、時に突然、癇癪を起こし、怒鳴り散らし、周囲を破壊し始めたりする。また、今まで、元気だった人が、急に、その勢いを失くし、閉じこもり、一歩も外へ出たがらなくなったりする。まるでそれは、水が水蒸気になったり、水が氷になったりするのに似ている。

 その昔、柔道の古い極意書なるものを読んだのだが、その中に、水の性、というものがあった。水は、その形を持たず、融通無碍にあらゆる容器の中にきちんと納まる。水だからこその柔軟性であり、いかなる状態においても平常心を保てるのだと。騒がず、焦らず、水蒸気のように舞い上がることもなく、氷のように肩肘張ることもなく、水のような柔らかな心性が、大切なのかも知れない。

 などと言う寓話を作ってみたのだが、面白くもなかったか。

  いずれ無と なりゆく身なり 秋の雨

 

2012年   9月18日   崎谷英文


ポトラの日記3

 相棒が、家の東の畑地に、その直ぐ北側には、もう実を着けそうもないトマトの萎れかかったのがあって、その隣には、青々とした大豆の葉の連なりが、その実をまだ小さく固くしている所に、遊び半分に、三畳程の広さに、そこはもう畑地というより野原のようになっていて、とても水田とはなり得ないのだが、耕して水を撒き泥々にしたところに、六月の中頃、余った中生稲のヒノヒカリの苗を植えていたのが、ようやく穂を出し始め、白い粉のような花が、咲いたのだった。こんなやり方でも、米は作れるのかと感心する。陸稲というものもあるようで、相棒は、毎日水を遣っていたのだが、何も、常に水に浸かっていなくとも、稲はある程度は育ってくれるようだ。刈り取りは、まだ一か月先になる。

 この夏は暑かった。去年より暑かった。猫は暖かいのが好きだと思われているようだが、それにも限度があり、この夏のような酷暑では、堪ったものではない。ようやく、朝晩の涼しい風が、爽やかさを与えてくれるようになったが、それでもまだ、真昼の残暑は厳しい。僕は、暑いとき、その稲の植えられているその中によくいる。日差しが遮られ、それに、稲草の匂いが心地よかったのだ。

 その昔、ヨーロッパで、動物と人間とは、全く異なるものであって、動物は、生まれ持って与えられた本能のようなものしか持たず、人間のような精神はなく、ただ、あらゆることに機械的に反応しているだけだという動物機械論、という考え方があったそうだ。それは、完全に間違っている。動物にも、精神、魂のようなものがあることは、今では、当然のように思われているのだろうが、以前は、何の為か、それはきっと、人間の優秀さ、特別に選ばれた者である、ということを言いたいが故であろう、動物は、機械のようなものであって、更にあろうことか、動物が傷つけられて泣くのも痛みを感じているのではなく、そのように反応するように作られているだけなのだ、と考えた者たちがいたようだ。

 それは進化論的にも誤っていて、もし、そんなことが言えるのなら、逆に、人間も動物の延長としての機械でしかないことにはならないのか。人間は、思考するということが人間の特権であるかのように言うが、それもまた、単なる反応でしかなくなろう。人間は、動物であり、今や、むしろ、人間が動物であることより、機械に近づいていきつつあるやも知れない。

 進化してきた頂点にある人間だとしたら、逆に、動物たちは、人間の祖先であり、生みの親とも言えるのではないのか。そうして、あらゆる生命は、自然のたまものであり、あらゆる生命が繋がりあって、この世はできている。もしかしたら、何に生まれてくるのかと言うことは、たまたまであって、それぞれの生命が、それぞれの役割を持って、この世を作っているのかも知れないのだ。つまり、何に生まれるか、と言うことは、大したことではなく、人間は人間の、僕たち猫は猫の、やるべきことをやるだけなのだ。だから、人間として生まれた人間も、人間だからと言って、偉いのではない。僕たち猫も、猫だからと言って、偉そうにするのでもなく、まして、卑屈になることもない。

 自然の中の食い食われるという生存競争は、この世に生まれでたものが、その役割を果たしている、ということになろうか。それが、調和なのだ。しかし、賢しらな人間たちは、牛たちから全く自由を奪い、閉じ込めて太らせて殺して食べるという、おぞましき所業をやらかすようになった。そこには、他の生命に対する敬いと畏れが、欠如してはいないか。突き詰めれば、そんな人間の傲慢さが、人間同士の奪い合い、殺し合いに繋がっているのではなかろうか。僕は、猫だから、猫のやることをやるばかりだ。

 稲の間から、挿し木をしたまだ小さな50cmにもならない木に、百日紅の白い花が、この夏初めてきれいに咲いているのが見える。少し離れたところには、大きな3m程の木に、赤い百日紅が数本の枝先に華やかだ。おっと、相棒が、稲に水を遣りに来た。

  その下に 草臥くいのち 稲の花

 

2012年  9月8日   崎谷英文


生きてきた時代

 1952年、日本が戦争に敗れて七年、平和主義、基本的人権の尊重、国民主権を三つの柱とする日本国憲法の成立から六年、サンフランシスコ平和条約調印から一年、第三次吉田内閣の時代に、英太は生まれた。第二次大戦後の破壊され疲弊しきった生活に、大凶作も加わった食料不足の貧しい配給の時代から、朝鮮特需により日本の経済復興が始まり、この時から、日本は、劇的な変貌を成し遂げていく。今、還暦の者たちは、戦争を知らず、戦後のみじめさを知らず、新しい日本の復興、成長の中で育ってきたのだ。

 日本は、太平洋戦争において、壊滅的に崩壊した。日本の大都市は、多く空襲、空爆を受け、広島、長崎に原子爆弾が落とされて、敗れたのである。日本兵、230万人以上、民間人、80万人以上の死者とされる。だからこそ、日本国憲法において、二度と戦争を起こさないという戦争放棄、軍隊を持たないという平和主義を宣言し、諸国民の公正と信義に信頼して、名誉ある地位を占めたいと言ったのではなかったのか。日本国憲法の制定経緯から、それは、GHQの押し付けであり、自主憲法の制定をしなければならないという動きもあるが、少なくとも、その日本国憲法の制定された時、ほとんど多数の日本人が、その平和主義を好ましいと思ったのではなかろうか。

 しかし、米軍は、サンフランシスコ条約後も、日米安保条約により、極東の平和と安全の為、ということで駐留を続け、1952年、日米行政協定により、日本は米軍に基地を提供し、米軍の経費を分担することとなり、それが、東西冷戦終結に至りながら、今なお、継続している。さらには、警察予備隊が自衛隊の前身である保安隊となったのも、1952年である。日米安全保障条約、自衛隊という、日本国憲法の平和主義をなし崩しにしていくものに対して、激しい抵抗運動も起きたが、結局は、一時的な抵抗でしかなく、効を奏することもなく、かつての闘士たちは、企業戦士に転身したのだった。

 今では米軍基地の沖縄への集中に対することばかりが問題となり、日米安保は当然のこととして受け止められ、自衛隊が違憲であるなどと言う主張は、雲散霧消してしまったかのようである。大戦後、今に至るまで、世界のどこかで戦争は続いてきている。決して使うことのできない核兵器を、大国は多額の費用を持って保持し続け、また、新しい国が核兵器を手に入れようと、資源とエネルギーを費やしている。

 戦後の、産官共同による成長路線は、確かに、日本を豊かにしてきた。自由民主党と社会党の議員数、二対一で推移する、いわゆる55年体制は、1955年に始まり、細川政権の誕生まで、約40年間続いた。その間の政府と大企業による経済発展への共同作業は、着実に成果を上げ、日本はアメリカに伍する経済大国になっていく。我々の生きた時代は、そんな時代であった。

 十八世紀に始まった産業革命は、瞬く間に世界に拡がり、戦後の日本は世界の中の優等生として大発展してきた。しかし、今、世界が流通革命、IT革命を経て、経済がグローバル化して、真に豊かな世界になったのだろうか。繁栄の収穫は、ただ、上位1%者たちに集まり、99%の者は、ただ、そのおこぼれをいただいて喜んできただけではなかろうか。今、また、不況の中で、貧しい者たちがますます、割を食っているような気がする。

 いくら、世界がグローバル化しても、国家は残り、国には領土があり、国民は自国のオリンピック選手の活躍に湧く。今、問題となっている竹島を韓国の領土とする李承晩ラインが引かれたのも、1952年であった。グローバル化した世界では、国民主権の危機さえもたらす。グローバル化の中で、ほどくことのできない世界経済の結びつきは、国民の選択肢を、明らかに狭くする。グローバル化と言いながら、国家の肥大と統制は、閉塞感、無力感を抱かせる。

 1952年、日本人の平均寿命は60才程度だったそうだ。もう、その寿命に達している。後は、これからの世の中の変化の様を、じっくり眺めていることにしよう。

  法師蝉 もらいなきして 法師蝉

 

2012年   8月30日  崎谷英文


夏祭り

 「ああ、どっこいまかせ、どっこいせい」播州音頭の掛け声に、太鼓が呼応して、外側に浴衣を着た女性たちの輪が、内側に個性を出した男踊りをして廻る男たちが、八月十五日の夜、破磐神社の境内で盆踊りが繰り広げられる。余りにカラフルなアロハシャツを着て、麦藁帽のようなものを被ったまるで場違いな格好で、真二はその巨体をゆすぶって男踊りの輪に割って入るのだが、男踊りなどというものは、阿波踊りでも同じように、基本的なリズムが合えば、自由に踊っていいように、決まりきった型はなく、いくら真二が周囲の真似をして踊ろうとしても、そう簡単にできるものではない。英太も、久しぶりに踊ってみるのだが、やはり難しい。それでも、懸命に踊ろうとしている真二を見ていて、脚の具合も大分良くなっているのだな、と安堵する。

 太市村の保存会の男たちによって、古く天正八年、豊臣秀吉の焼打ちによって死んでいった峰相山鶏足寺の僧侶や氏子たちの供養に始まるとされる奉点燈祭、いわゆる火祭りが、復活したのは昭和六十年、まだ、英太が東京に居た時で、英太は、帰ってきたときに初めて年男として参加していた。その、松明を持って男たちが気勢を上げる火祭り、の前に行われる盆踊りであった。中川君は、踊りの輪に入ることはなく、音頭の歌詞を懸命に聞き取っていた。それは、播州や姫路城の歴史を語るものだった。

 秋の十月十八日には、収穫祭としての秋祭りがあるのだが、今では、この八月十五日の奉点燈祭の方が賑やかになっている。太市村のほとんどの人が稲作で生計を立てていた時代とは異なり、今では、農業をやっているとしてもほとんどの人が片手間の兼業でしかなくなっていて、収穫祭などと言っても、実感の伴うものではない。盆踊りがあり火祭りのあるこの奉点燈祭の方が、賑わいを見せる。

 この日の昼過ぎから、英太は、高校時代からの友人たちと酒盛りをしていた。お母さん元気か。我々の子供の頃は、夏こんなに暑かったか。日本は亜熱帯化している。朝早く目が覚めて、散歩してるよ。毎朝、ジムに行っているよ。血圧は高くないか。食事が大事だな。薬を飲む方が楽だよ。俺も、痛風になったよ。年取ると、みんな軽い脳梗塞になるんだってな。入れ歯の人、何人いる。差し歯二本だけだ。などと、この年代の者たちの話題が続く。

 九州も暑いか。嫁さんが月の半分来てるよ。この腹は、相変わらずだな。何時フィリピンへ戻るのだ。今まで、海外に頻繁に出張していたのが、閑職になり、家に居て飯を食うと言えば、煙たがられ、出ていくと怪しまれる。また、仕事しようかと思っている。嫁さんと帰って来て、今、嫁さんが実家で母親と一緒にいる。などと、それぞれの個人の事情が分かってくる。

 TPPは仕方がないが、米だけは除外しなければ駄目だ。日本の田んぼがなくなる。田んぼがなくなれば、いざというとき、日本人は食えなくなる。それでは鎖国してはどうか。江戸時代、鎖国してても、食えたじゃないか。江戸時代は、三千万人だった、今とは違う。しかし、農業生産技術も発達している。現に、米は、余っているではないか。宮沢賢治のように、一日玄米四合と味噌と少しの野菜で生きていくなら、充分可能だ。グローバル社会と言いながら、地産地消が叫ばれるおかしな時代だ。変な時代だ。領土問題なんて、すんなり、すっきり、解決する訳がない。みんな、お互いに経済的に持ちつ持たれつに繋がっているから、何とかやっていけるのに、これでは、何時孤立するか解らない。だとすれば、やはり、鎖国か。もはや、それも難しいか。などと、偉そうなことを言い合う。

 妻の作った高級食材の一つもない料理、おいしく食べてくれたかな。三十年物のナポレオン、おいしく飲んでくれたかな。

  老妻の 浴衣姿の 輪の中に

 

2012年  8月18日  崎谷英文


病葉(わくらば)

 桜の花のすべて散り落ちた今、桜の木は、青々とした葉に包まれて、陽光を身に浴び、キラキラと輝く。しかし、その枝葉の中に黄色く色褪せた縮んだような葉が、ポツリポツリ、幾つかぶら下がっている。青々とした枝葉の下の地や木の根元には、茶色く乾いた葉が、点々と、あるいは重なり合って、まるで、頭上の青葉に日差しから守られ抱かれているように、しかし、もはや、息を失って風に身を任せている。秋を待たず、つまり、正当なる新しい息吹きのための継承の時を待たずして、早くも、真夏の炎熱の中で生命を捨て去らねばならない病葉。

 病葉は、酷暑の中で、耐え切れずに力尽きるのか、それとも、自らの生命を、若き生命のために、生贄として差し出すのか。いずれ散りゆく運命ながら、時に、理不尽に、仲間に先んじて、生命を縮めていく。

 何故、病葉は生命を縮めなければならないのか。何故、君たちが選ばれたのか。沈黙の中で、何も答えることもなく骸となった病葉は、雨に打たれ、あるいは、風に吹かれ粉々になって、いずれ、大地に戻っていく。それは、幾千年、幾万年も続いた、種また個の存続のための生命の継承の掟なのだろう。存続せんがために、生き残るために、死なねばならない病葉。生き残りし青葉も、まっとうに寿命を保てども、何時か、間違いなく、次なる芽吹きのために、その身を捧げる。

 生き残りし青葉は、病葉の悲哀を知っているのか知らないのか、ただ、平然と褪せ落ちる病葉を見ている。残りし葉も、この炎暑の中に、潤いを分かち合えない限り、また一つ、また一つ、選ばれし病葉となっていく。そしてまた、夏をのりきった残りし青葉も、いずれ、冬の寒さを前にして、その場を若き芽に譲る。

 死に行きし者も、ただ、死ぬのではない。自らが、先人たちの死を目の当たりにし見つめながら生き続けたように、後に残る者たちに世の無常を知らせんがために、死に行く。青き生命が、枯れ落ちる生命に、後生の夢を託されるのと裏腹に、若き生命は、死に臨む生命に敬意を払い、その犠牲を糧として生きていることに頭を垂れる

 人は、今を生きている。しかし、ただ、今を生きているのではない。生を得てからの浮世の見、聞き、触れしことの全てが、重なり合って今があり、その今を生きている。過去を御破算にした今など有り得ないだろう。

 もしかすると、生まれる以前からの、身に覚えのない過去もあるやも知れぬ。そうでなければ、生まれついて、生き続け、生命を繋ぐ営みの仕組まれていることの説明も難しくなる。だとすれば、人の生命も、宇宙の根源に遡らざるを得まい。三十七億年前の生命の誕生から始まって、今の人の生命もあるということか。単細胞のバクテリアの生命が、人の生命の根源となる。

 現代の齢、六十など、昔に比べれば、若いのだろう。しかし、いくら医学が発達しても、いくら栄養状態が良くなっても、限りなき生命など有り得ず、老いも年相応に確実に忍び寄る。若き生命の散っていくのを、何度か見てきたし、直近の親たちの死も看取ってきた。彼らは、死にたもうたれど、その人たちの生と死は、間違いなく今の自分の中にある。

 病葉は、今日も一つ、目の前で落ちていった。

  病葉の 自在となりて 天に舞ふ

 

2012年   8月6日  崎谷英文


老化と成熟

 蝉の声が聞こえるのか、耳鳴りがするのか分からない。どうやら、アブラゼミがジージーと鳴き続けてはいるらしいのだが、部屋の奥に入り戻ってきても、それらしき音が耳から離れない。こんな奥の方に入ってきても、外の蝉の声が響いているのだろうと思ってはみたが、どうやら、それだけではなさそうだ。だいたいが、蝉の声らしきものが大きく聞こえるのは、左耳の方ばかりで、右耳には、あまり聞こえていないような気もするのだが、それもまた、はっきりしない。

 多分、老化であろう。聞くということは、耳の鼓膜を震わせたものが、脳の神経を伝わって音の受容器官に流れていくのだろうが、考えてみれば、何も鼓膜を震わせたものが脳神経に伝わらなくとも、音を感じる脳の所が、勝手に、音を聞いたと反応したって、音は聞こえてくることになるであろう。切断した脚が痒くなること、と同じ理屈である。正常な状態にあっても、何も聞こえていなくとも、モーツアルトのジュピターが、頭の中を駆け巡ることはあるし、それができなければ、音楽家にもなれまい。思わず口ずさむ鼻歌は、口に出る以前に、脳で作られている。

 しかし、そうではなく、雑音のようなものが、常態的に聞こえてくるのは、老化なのだろう。脳の中の耳の近くの血液の流れのようなものに対して、敏感に反応しているだけだ、という考えもあるようだが、そんな反応自体が、老化なのではなかろうか。確かに、現実にうるさい音を聞いているような時には、耳鳴りはなさそうな気もするが、耳鳴りに集中すると、いつも耳鳴りはする。

 この間、古い水道管が破裂して、断水を広範囲にもたらした事故があったらしいが、それは、水道管の老朽化、劣化なのであって、機械、設備が老化するのと同じように、人の身体も老化する。ロンドンオリンピックも始まるのだが、スポーツは、若者の競技である。特に、身体を激しく動かすスポーツにおいては、年寄りは若者に勝てる訳がない。身体は、確実に老化していくのである。その身体と同じようにではあるが、それでも、身体の老化とは少し遅れて、脳も老化する。記憶、認知能力などは、二十代、三十代の若い頃がピークで、そこから衰えていくらしいが、やはり、脳も、老化していくのである。

 しかし、機械が老化するのとは異なり、人の身体、脳は、再生を繰り返しながらの成熟への道を辿っている、とも言いたい。機械は放っておいたら、間違いなく摩滅し、外部から侵食を受け、機能は低下する。しかし、人は、その細胞が、数日、数週間、数か月の間に、自らを破壊しながら再生していくという過程があるのであり、それは、経験と知恵の積み重ねが、老化ではない成熟と繋がっているのではないかという希望を抱かせる。

 若年性アルツハイマーの男性を題材とするテレビドラマを見る機会があったが、若年性でなくとも、人は、長生きすればする程、どうしても、痴呆に近くなるのではなかろうか。「年寄り笑うな行く道じゃ」と言う言葉があるが、年を取るということは、呆けることでもありそうだ。年を取れば、しっかりしているようで、どこか抜けてくるのである。健康寿命、健康であり続けることができる平均年齢は、七十才程度らしい。英太は、六十才になろうとしているところで、まだまだ元気だとは思っているが、何時、どうなるかは、知れたものではない、とも思っている。

 人は、長生きし過ぎるようになったとも言われ、確かに、身体、脳の老化、障害を抱えた老人たちは、若者たちに迷惑、苦労をかけることになっているのかも知れない。

 しかし、老化は、成熟に繋がる。もはや、現実の強欲にまみれた醜い世界を離れて、老境に至る。ぴょんぴょんと飛び跳ねるような身体は失われていき、物忘れが酷くなったとしても、それは、俗世からの離脱への道なのである。見ざる、言わざる、聞かざる、という言葉がある。それは、悪や醜いものに近づかない、という、教育的なものとされている。すれば、耳鳴りが酷くなり、目が掠れてきたということは、見ざる、聞かざる、醜い世の中を離れて生きなさい、と言うことなのだと思っておこう。

  アメンボは この世と点で つながりぬ

 

2012年  7月24日  崎谷英文


鹿

 稲の苗を、鹿に食べられた。山沿いの小川を挟んだ北側にある僅か四畝程の田圃に、キヌヒカリと言う早稲を6月8日に植えていたのだが、7月の初め頃の朝、まだ、高さが30cmにもなっていなかった苗が、田圃の中程で、きれいなハート型の模様を作っていた。ハート型に鹿が、その苗の先を根元10cm程残して、食べていたのだ。その田圃の十分の一にも満たない広さだったのだが、鹿はその柔らかい苗の先だけをきれいに食べてしまっていた。

 英太は、10数年前にも、この田圃で、その頃は、この小さな田圃だけで、それこそ遊びのように米を作っていたのだが、その時にも、もっと広範囲に渡っていたと思うのだが、同じように、苗の先が無くなっていたのを見つけ、訳が分からず、農協の人に来てもらって、これは鹿です、と言われ、初めて、鹿に食べられた苗というものの実体を知ったのだった。

 筍の収穫時にも、鹿には、筍を、それもやはり、下の皮を残した中身だけを食べられてしまうということが、かなりあったのだが、同様の手口である。しかし、筍と違うことは、筍は、そうやって食べられてしまった後は、もう、再生してくることはないが、稲の苗は、先が食べられても、直ぐにまた、再生するということである。苗が鹿に食べられてから10日程経つが、食べられた苗は、今では、周囲の苗とほぼ同じ高さにまで生長している。

 不思議なもので、二回目に食べられてしまうと、もはや、再生しないと言う。その稲の生得的再生能力というものには感心するが、その力も、無尽蔵ではないらしい。それでも、その再生した苗は、周囲の稲と大差なく実をつけるのである。だとすれば、一度は、鹿に食べさせてやった方が、あの多分家族単位で移動しているだろう鹿たちを、飢えさせなくて良いのかも知れないとも、思ってしまう。

 今、この太市村の田や畑は、鹿対策として、周囲を網や糸やリボンで張り囲んでいる所が多い。それは、決して見た目の良いものではない。しかし、英太も、その食べられた田圃に、簡単な防御リボンを張り、もう一つのこれはまだ食べられていなかった田圃にも、その周囲の二分の一程に、同様の対策をした。英太のやることゆえ、適当なやり方で、風が強かったりすると倒れるので、時々、修理しなければならない。

 以前から、鹿はいた。草刈りに行って、その田圃に数頭の鹿が遊んでいるような風景に出合うことは、よくあった。迷い小鹿が一頭、真昼間に、幹線道路沿いの田圃にまで、出てきていたこともある。しかし、こんなにも、鹿への防御対策を施さなければならなくなったのは、ここ数年である。去年は、英太も、鹿対策はしなかった。鹿たちは、人間たちの領域に踏み入ってきているのである。このことは、全国の多くの所で見られる現象であろう。

 この太市付近での、鹿の出没の原因は、いろいろあるだろうが、大きな一つは、やはり、山の切り開きなのだろう。この太市の北と南と東には、高速道路、高架の国道バイパスなどが、山を切り崩した中を走っている。このことが、当然のことながら、鹿の居場所と餌場を奪っている。少し離れたところにあるゴルフ場なども、鹿や野生の動物たちの住処を奪い、その山から追いやっているのだろう。数十年前に、杉や檜などの植林ブームがあったと思うのだが、それも、日本の昔からの照葉樹の森を崩し去り、動物たちを追い払う結果になっている。

 野生動物の保護が大切などと言いながら、ほとんど、彼らの生活圏への侵入に対して、心を配ることをしなかった人間の、傲慢な開発が、人間と野生動物との共生を自ら破壊してきたのだ。

 竹林は、放っておくと、照葉樹の森にも侵入していくことが問題となっているのだが、英太の竹藪の上の森に侵略していく筍は、鹿にとって鹿の食べ物として重宝され、一石二鳥の効果になることを、期待している。

  稲苗の 揺るるに迷い 来るかな

 

2012年  7月14日   崎谷英文


ポトラの日記 2

 数日前、物凄い大雨があった。僕は、ガレージの入り口にある寝床で、昨夜、相棒が多めに用意した食事をたらふく食べて、もう満腹で気持ち良く眠っていたのだが、突然、いわゆるバケツをひっくり返したような激しい豪雨が襲ってきたのだ。幸い風はそれほど強くなく、僕の寝床にまで吹き込むようなことはなかったのだが、篠突く雨は、その勢いを増し、小一時間もしないうちに、相棒の畑の東隣の幅一mほどの溝から、一気に水が溢れ出したのだ。雨は、衰える様子もなく、それからも降り続け、僕は、危険を察知して、相棒の家の縁側に、居を移した。

 僕にとっては、こんな大雨は初めてだったのだが、半野良とは言え、野性の心根は残っていて、さほど恐怖心はなく、こんなこともあるさ、という風に、畑を池のようにして、相棒の家の庭の土台の縁に辿り着かんとする水流を眺めて、自然の気ままさを実感していた。僕が、この縁側に来た時には、すでに母のダラと兄のウトラも自分たちの寝床から逃れてきていて、三匹で眠たい目を擦っていた。

 雨蛙が一匹、畑から流されてきたのだろう、畑と庭の境界の密生するドクダミの葉の上でじっとしている。雨蛙にとっては、水は喜びこそすれ、怖れるものではない。この大雨の中でも、嬉しそうに、水浴びしているかのようである。しかし、この雨は、日本の各地に大きな被害をもたらしたらしい。

 北側の田圃は、その植えたばかりの稲の苗が、すっかり水に覆われ、小さな湖状態になっている。しかし、水が引けば、稲の苗にとってさほどの害を及ぼすものではないことも分かる。時に、激しい水流で、根こそぎさらわれていく苗もあるが、概して、しっかりと根を張った苗は、蛙ほどではないが、その水に浸されることに満足しているようである。

 困るのは、畑の作物である。葉物の野菜や生り物のナス、キュウリなどは、まだ、被害は少ない。しかし、根もののジャガイモや人参などは、ちょうどその時、収穫時で充分に大きくなったイモや人参が土の中で水浸しになってしまう。相棒は、雨が止んで四・五日経って、天気の良くなった時に、ジャガイモを掘り出したのだが、その半数ほどが、ふにゃふにゃ、ぐちゅぐちゅになっていて、駄目だったらしい。そのジャガイモを見て、隣のおばさんから、いい勉強になったね、と言われ、豪雨の前日に畑上手の吉村のおじさんが、明日、雨が降りそうだから今日のうちにジャガイモを掘っておこう、と言っていたのを何の問題意識なく聞いていたことを思い出して、相棒は悔やむことしきりだった。人参も、豆腐のように柔らかくなっていて、とても食べられたものではなくなっていた。

 植物も動物も、そして人間も、生まれた途端に危険に晒される。自然の循環、摂理、恵みに縋りながら、自然の脅威の中で生きていくしかない。自然の恵みと脅威は、紙一重であり、太陽と水の恵みは、突如として、日照り、干害、洪水、土砂崩れに変貌する。

 生まれ出る者たちを、守り育ててくれる者もいれば、さらい尽くし追い散らそうとする者もいる。小さくて多く生まれる者たちは、その多くを犠牲にしながら、その種としての存続を図ろうとし、少なく生まれる者たちは、その力を持って、周囲にバリアーを張り、命を危うくする他者を排除して、数少ない子孫を残そうとする。

 陸の王者たる人間も、狩猟時代には、間隙を狙って襲い掛かる猛禽類に怯えながら命を削り、農耕時代に至っても、豊かであると共に気まぐれな自然現象の突然の暴挙に苦しめられてきたのである。さらには、同じ人間同士の、欲望と欲望のぶつかり合う中で、危険に晒されていく。

 その構図は、今も変わりはしない。生まれ出るということは、危険な場所に放り出されるということでもある。静かで穏やかだった彼の地に戻りたいと言う心情は、深く眠りながら残り続ける。

  黄揚羽の 青虫何処に 行ったやら (ポトラ)

 

2012年  7月6日   崎谷英文


予測不可能

 最近、コンプガチャとか言うインターネットサービスを使った遊びが問題となった。英太には、その内容がどんなものなのか、余り解ってはいないのだが、子供たち、若者がどうして、あんな訳の分からないものに熱中するのかと考えてみれば、人間とは、そんなものかも知れないなどと、自分自身の子供の頃からのふるまいを思い出している。

 子供の頃、メンコやビー玉と言ったものを競技して取り合う遊びが流行っていた。確かに、それらは、その遊びの技能の上手、下手というものが関係して、強い者が、多くのメンコやビー玉を手に入れることができ、多くを獲得した者は、優越感を持ち、満足感を得る。しかし、いつも、同じ者が勝つとは限らない。弱い者も、たまには勝つことがある。弱いくせに、負けん気の盛んな者は、負けても負けても、勝負に挑む。そして、たまたま勝った時の喜びが忘れられずに、負け続けながら競技をする。メンコやビー玉が、実質的に価値があるかどうかなどという吟味はすることなく、子供たちは、取り合いに興じる。遊びなどというものは、並べて、そんなものなのだろう。

 大人になっては、さすがに実質的利得が絡まないような射幸的な遊びは、余りしなくなるのだが、それだからこそと言おうか、どこかの大企業の御曹司がラスベガスのカジノで何十億円も使ったとまではいかなくとも、いわゆるギャンブルというものに、嵌っていく者が多くいる。英太も、若い頃、麻雀、パチンコ、競馬など、様々なギャンブルをやってきている。将棋や碁と違い、偶然の勝ち負けに、一喜一憂していく。宝くじももちろんそうだが、投機的株式売買なども、似たようなものであろう。

 人は、先がはっきりと分かるものに対しては、面白味を感じないのではなかろうか。予測可能で確実なことは、つまらないのではなかろうか。人は、本来、野性なのであって、狩りの時代から、予測の不可能なことに挑み続けて、そこに生きる感覚があったのではなかろうか。

 確かに、そんな感じはする。決まりきった同じ結果の出る予測の確実なことを、長い間、繰り返し行うことは、面白くない。どうなるのだろうかというわくわくした感覚が、人間にとって必要なのかも解らない。ヴェンチャー精神、パイオニア精神などにもつながるであろう。プロスポーツを見て、エキサイトするのも、その結果がどうなるかに興味が湧くからなので、結果の分かっている試合など、面白くなかろう。

 実は、人間の行状で、先の決まったものはない。この先どうなるか分からないのが、当たり前なのである。それを、無常と言ってもいいかも知れないが、人は、その無常の世界だからこそ、逆に生きていけるのではないか。こうすればこうなる、と決まっていないから、生きがいも生じる。

 しかし、また、逆に、人は、そんな無常の世界を生きることに苦しむ。先の予測ができないと不安になる。人類の文明とか文化とか言うものの進歩も、その不安を解消するため、という一面を持っていそうだ。学問をし、研究し、自然を探究して、その仕組みを解明し分析をして、予測がなるべく確実になるようにしようとしてきたのではなかろうか。

 しかし、苦しいが、その不安の中にこそ、生きる感覚はあるのであって、全くの平穏の中では、血湧き肉躍るような昂揚感は生まれない。予測不可能の中で、自分の目的とする結果を生もうと夢を持つのだ。だとすれば、自分の思うようにことが進めば達成感はあるのだろうが、たとえ、達成しなくとも、夢を見ている間は生きていける、ということになろうか。

 人は、この世を予測可能な全対応型に作ろうとして、文明、文化を進展させてきたのかも知れないが、そこに、落とし穴がありそうだ。所詮、人のやることに完璧はなく、予測可能にしようとすればするほど、管理し、監視しなければならなくなる。人の生きていく予測不可能な世界が、ただ、窮屈になっている。そんな気がする。

  宝石の 数多揺れたる 代田かな

 

2012年   6月23日  崎谷英文


ポトラの日記

 僕たち猫のことを、よく、人間たちは気ままな生き物だという。実際に、そうかも知れない。僕のような半野良の猫は、もちろん気ままで自由でありうるのだが、家の中で飼われている猫たちも、やはり、人間たちから見ると、気ままに見えるらしい。

 確かに、僕たち猫は、人間に飼いならされ賢そうに見える犬たちが、人間の言うことをよく聞き、走れと言われれば走り、待てと言われれば待ち、おあずけと言われればじっと我慢しているような、そんな芸当はほとんどしない。

 僕も、朝と夜のだいたい決まった時間帯での食事時には、僕たち三匹の食事場所になっている所に、通常は出向くことにしているのだが、気が向かないときは、行かないこともある。そんな時は、ちょっと遠出をして珍しいものに出会って追いかけていたり、途中で眠くなって横になったりしている場合で、何も、その相棒との暗黙の了解事項を忘れている訳ではない。覚えてはいるが、まあいいか、と言う気分なのである。

 もしかすると、僕たち猫は、犬たちより頭が良くないと思われているのかも知れないが、決してそうではない。僕たち猫は、犬と違って、飼われているからと言って、人間に養われているのではない、と言う意識がある。僕たちは、と言っても、程度問題で、ウトラのようにニャーニャーと泣くことによって相棒の気を引くようなしぐさをしたりする猫もいるのだが、本来は、猫は、独立独歩の精神を持っているのだ。獲物を自力で捕ってきて生きるのが本分だと心得ている。サザエさんの、魚を咥えて追いかけられている猫は、自立をしているのである。現に、今朝の食事には、ウトラと母のダラは、今の時期の獲物である蛙などを捕まえたのか、やってこなかった。

 猫たちは、自由を求めている。人間たちとべったりとした契約は交わさない。だからこそ、兄のウトラのように、ふいと居なくなったりして、自由を味わおうとする。まあ、僕は、相棒のだらけの精神に染まったのか、この家が気に入り、気楽さにかまけてしまっているのだが、その分、相棒に気を遣って、相棒が畑で何やらうろうろしているのを、そばで見てやったりするという気苦労もしている。相棒も、僕がいなくなると寂しがるだろうと思うし、今は、少し、相棒の情けない姿が可愛いとも思う。

 だけど、人間社会と言うものは、全く約束と言うものによって縛られているような気がする。はっきりとした文章で書いた契約書のようなものでなくとも、口約束で、今はメール約束かも知れないが、きちんと約束事を果たしていく。人間社会には、もっとたくさんの書かれない、語られない約束事があるようだ。まあ、それがなければ、人間社会が成り立っていかないのは理解する。

 人間は、どうやら一人では生きていけず、周囲の人間、小さな社会、大きな社会との関係で、確かな予測のできる中でないと、やってられないらしい。だからこそ、法もあり、規則もあり、約束もある。また、だからこそ、法破り、規則破り、約束破りに対して、罰があり、賠償が請求される。蜘蛛の糸のようにがんじがらめに繋がれた現代社会は、管理社会、監視社会にならざるをえないのだろう。しかし、また、だからこそ、そんな窮屈なことやってられるかと、無法者や、やんちゃ坊主が出現するのだろう。だからこそ、仙人になろうとする者もでてくる。

 僕たち猫は自由で、約束などしないのが普通だ。阿吽の呼吸で、お互いの心境を読み取って、適当に対応する。相棒とも、はっきりと約束したことはない。しかし、やはり、人間は約束しながら生きていくしかないのだろう。人間の現代組織社会では、否応なしの約束が多いと聞く。知らず知らずのうちに、自由を束縛され、嫌々ながら約束するのは、面白くなかろう。人間も、もっと自由に、気持ちのいい快い約束だけをしていくようにすればいいのだ。

 今、僕は、相棒と、少しばかり心の通う約束をしている気分である。

  花残す 疾しさ残し 朝草刈

 

2012年   6月16日  崎谷英文


 大津茂川の相野橋の北から、姫新線の太市駅のホームの東端に沿っての川土手は、両岸が桜並木になっていて、この四月の初めにも、艶やかに桜が咲いていたのだが、今日は、五月の最後の日曜日、桜並木はすっかり葉桜となり、その青々とした景色も、また、日中は見ものである。そんなことを思い出しながら、夜の八時頃、この土手に、英太は、缶ビールを片手に、家から二・三分歩いてきていた。

 蛍がいる。黄というか黄緑というか、仄かな小さな灯りではあるが、その灯りが五つ・六つ川岸に沿って、ゆらゆらと、あっちへ行ったり、こっちへ来たり、灯りと灯りが向かい合って動いたり、追いかけるように動いたり、灯っては、暫くして消え、また再び、暗がりの先に灯っていく。よく見れば、あっちにもこっちにも、かなり多くの蛍がいるようである。向こう岸に沿っての蛍は、よく見えるが、近くを覗き見れば、こちらの岸の草叢にも、たくさんいるではないか。草葉にとまりながら、点滅を繰り返す。英太は、久しぶりに、こんなに多くの蛍を見た。

 今朝は、相野地区の溝掘り作業だった。溝掘りとは、百姓にとって、とても大事なことで、今は堰き止めてある蓄えられた溜め池の水を、みんなの田に一斉に田植え時に放出するのだが、その水の通っていく溝を、地区の者みんなが、日を決めて、一緒にきれいにしていく。今は、田溝も、コンクリートで固められたり、U字溝で整備されたりしている所が多く、溝に溜まっている土や泥の量も、それほど多くなく、作業は、大分楽になっている。昔は、手造りの溝ばかりで、両側の草を刈りながら、溜まった土や泥を、畔に上げていく作業は、大変な重労働であった。しかし、田植えの水はとても大切で、この作業こそ、稲作を行う者にとって、欠かせない。こうして、英太も、今朝の七時から、その数人で担当する線路を挟んだ南北の溝掘りをした。

 秋には、稲刈り前に、道造りという同じような作業がある。これは、思うに、収穫した米を運ぶ道を、確保するためのものであろう。米作りというのは、協同作業であった。何よりも水が大切で、だからこそ、我田引水などという言葉も生まれるのだが、瀬戸内の水の少ないこの地域では、ことさら、仲良く溜め池の水を分かち合わねばならない。今や、太市では、専業農家など一軒もなくなってしまったと思われ、休耕田も増えているのだが、それでも、結構多くの年老いた村人たちが、米作りをする。休耕田にしても、草刈りはせねばならず、米作りとどちらが大変か分からないから、という理由もあろうが、それだけではない。今は、金があれば食べていける時代なのであろうが、実は、今も昔も、田があるから食べていけるのだ。多くの村人が、そこから遠ざかることに抵抗があるのだろう、と英太は思っている。

 その溝掘りの後、英太は、自分の田の畔シートを張る作業を行なった。やはり、水が大切で、いくら水が田にいっぱい入っても、直ぐに抜けてしまっては困る。そのため、畔に沿って、今は厚みのあるビニール製であろう長い、高さ三十センチほどの物を、モグラの穴などで水が抜けないように、田の周囲に張っていく。これが、また、重労働である。畔に沿って、スコップで溝を作り、そこに畔シートを押し込んで、また、その上に土を被せ、踏み固めていく。結局、仕上げるのに、夕方まで掛かった。岡林信康氏の山谷ブルースに言うように、本当に、今日の仕事は辛かった、後は焼酎をあおるだけ、という心境になる。

 そうして、朝の溝掘りの時に、川近くに住む山本さんから、蛍が飛んでるよ、ということを聞き、缶ビールを飲みながら、歩いてきたのだった。池田澄子氏の句に、「じゃんけんで 負けて蛍に 生まれたの」というのがあるが、実は、「じゃんけんで 勝って蛍に 生まれたな」ではないか、と英太は、考えていた。

  短くも いのちを照らす 蛍かな

 

2012年  6月1日   崎谷英文


文化の変容

 文化とは何か。単なる芸術、美術、芸能、音楽、祭り、建築、さらには、伝統などと言うものではなさそうだ。文化とは、人のふるまいの根底にある、精神的な生きるよすが、あるいは、心の無意識裏に潜む道標、のようなものではなかろうか。

 ただ単に、自分一人が俺はこうなのだ、と独自にふるまうことは、それも、たった一人の文化なのだと言ってしまえば、言えなくもないが、やはり、それは単なる個性、信条でしかあるまい。文化というものは、元来、地域社会の地域、階級社会の階級、民族、において、善くも悪くも生きる術としての、生命の糧を作り出し、生きる意味を与えるものとして、代々受け継がれてきたものではなかろうか。

 その象徴としての、芸術、芸能、祭り、慣習、しきたり、伝統、なのであって、それらは、世代を越えた、人々の生活の中に受け継がれていく精神の目に見える部分と言えよう。

 文化というものの根底には、宗教的、哲学的と言ってもいいような、生きていくための知恵があり、抑えきれない情念があり、限りある生命を生きる人間を見据えた中での、希望と諦観の入り混じった宇宙観が隠れている。

 英語の、文化、カルチャーには、元々耕作、耕す、という意味があり、農業、アグリカルチャーとは、大地を耕す、という意味である。文化は、本来、素朴な謙虚な、人間は人間としてだけでは生きていけず、自然と共にある姿としての、敬虔な祈りを備え持った心身の営みなのである。

 英太は、この五月に、村の葬儀に三回列席せねばならなかった。隣保と呼ばれる近所の十数軒で、葬式の手伝いをするというのが、この村の慣習であり、昔は、民間の葬儀場などもなく、その家で行われていたのだが、隣保の人たちが、村人のための食事を作り、道案内をし、経も読み、死者を火葬場まで運んだ。今は、ほとんどが、民間の葬祭場で葬儀を行い、隣保の仕事も、香料の受け付けぐらいになっている。このことを、古き煩わしい因習と思うか、良き温かき助け合いと見るか、で評価は変わろう。

 あらゆるものが変化していくように、文化も常に変容する。外的要因がなくとも、人が新しく生まれ変わるが故に、変容し続ける。それでも、長期の閉鎖的社会においては、その変容は緩やかである。

 しかし、人口の都市集中による地域の変貌、そして、科学技術の発達、生活の隅々にまで入り込んだ文明が、人々の生活を変えるように、文化も大きく変節せざるを得ない。

 そこでは、もはや、地域的文化というものの持続的存続、自発的継承、自然的伝承、というものは、困難となりつつある。グローバル化した文明は、世界から地域性というものを奪い去っていく。一国内の文化さえ、単なる観光の目玉に成り下がる。

 文化を守ろうとする動きも生じるが、文化を守るという言葉こそ、無理矢理の押し付けにより、伝統的文化として留めようとしている風があり、文化保護の名において、文化を陳腐なものに貶めていくことにもなり得る。

 文化は、根付いてこそ意味ある文化であり、人々が実感として溶け込んでいって受け継がれるべきものであり、無理矢理根付かせ押し留めようとしても、それは、記憶と記録の発掘でしかない。

 あらゆるものが変化していくのであり、当然、文化も変化していくのであって、新しい文化というものが、時々刻々、生まれていく。ただ、文明によってもたらされる文化の変容というものが、軽佻浮薄な欲望のみを助長し、人間としての孤独、社会の中の疎外に思いを致さないものだとしたら、そのような文化は、ただの流行で、次々と生まれては消えていく泡のようなものでしかない。

  春霞 何ものもなく 二日月

 

2012年  5月25日   崎谷英文


不自由のすすめ

 英太は、昭和二十七年生まれである。昭和二十七年と言えば、戦後の混乱期を過ぎ、朝鮮戦争特需などで、日本が経済的にも復興し始めた頃である。いわゆる団塊の世代より、一・二年遅れの世代であったが、それでも、その年の日本の出生数は、二百万人を超えていたであろう。今の日本の出生数は、百万人を少し超える程度になっている。

 英太が生まれたとき、この村はまだ揖保郡太市村であり、昭和二十九年に姫路市に合併された。英太の生まれた頃からすると、今の家の戸数は、一・三倍程になろう。英太の学年は、五十人、その当時は、一学級は五十人までとされていて、一学年一学級五十人の大所帯であった。しかし、今は、太市小学校の六学年全体で、ほぼ百人にまで減っている。それでいて、家の戸数は増えているのだから、村全体の人口は二千五百人程で増えてもいず、つまりは、子供の数が減り、老人が増え、老人の一人・二人世帯が、多く残っているという状況になる。これは、多分、日本の至る所で見られる現象であろう。

 英太の小さかった頃、電気は通っていたと思うが、まだ上水道もなかった。つまり井戸水を使っていたのだ。電気が通っていたと言っても、灯りとしての利用しかしていなかったのではないかと思う。いわゆる三種の神器、テレビ、冷蔵庫、洗濯機がやってきたのは、英太が小学校に入ってからだったろう。夏の暑いときも、ただ、汗だくになりながら過ごしていたのではなかろうか。扇風機もなかったろう。裸になり、大人たちは、あのステテコ姿で、団扇を扇いで暑さをしのいでいた。冬の暖房も、掘り炬燵の中に炭を入れ、テーブルで挟んだ蒲団を炬燵に掛けて、子供の頃は、その中に入り込んでいた。よく一酸化炭素中毒にならなかったものだ。昔の家は、隙間だらけなのである。

 それでも、子供たちや、おばあちゃんたちは元気だった。今や、夏はクーラー、冬は暖房エアコンで、閉め切った部屋の中でも、快適に過ごす。外に出る度に、夏は暑いと言って騒ぎ、冬は冷たいと言ってやかましい。

 きっと、英太の世代が、電気文明のない世界を知る最後の年代なのかも知れない。もちろん、電気の明るさは知っていたが、当時はよく停電もし、ろうそくの灯りにも慣れ親しんでいた。今、電気の供給量が、この夏、足りなくなるのではないかと騒がれているが、英太にとっては、どうってことはない。電気のない生活も、いざとなれば、昔を思い出せばやっていけそうだ。元々、人間は、暑い中、寒い中、生き続けてきたのだから。

 筍の季節は過ぎて行ったが、その筍を煮るのも、薪と釜でやっている。いざとなれば、釜で飯も炊けるだろう。どうってことはない。野山を行けば、食べられる野草や山菜もあるだろう。

 太市の筍は、今から約八十年前に、この村のある人が一本の孟宗竹を移植したのが始まりと言われる。英太の子供の頃の、まるで背比べをするような大きな筍と一緒の写真が残っている。文明が進んでも、筍は手で掘るしかない。藪の中に機械は持ち込めず、刃の長い鍬で、なるべく傷つけないように、上手に根っこの少し上を切っていくのだが、こつが要る。いつも上手くいくとは限らない。大変な重労働であり、老齢化した太市村では、放棄されざるを得ない竹藪も出てきている。

 電気エネルギーを利用した工場生産においては、電気不足はたまらないであろうが、そこは、助け合って、工夫せねばなるまい。現代のような、閉め切った高層ビルの部屋の中に住み、働く人たちにとっては、エアコンのない生活は、耐え難いかも知れない。しかし、日本は、暑い夏と寒い冬とがある、四季豊かな国なのである。文明に頼らない生活を、幾らかでも、やってみてはどうだろう。存外、どうってことはない。

  鋤きし田に 鳥集まるや 夏隣

 

2012年  5月16日   崎谷英文


半野良ポトラダイアリー 2

 僕はポトラである。生まれて多分一年程になると思うのだが、僕たち猫にとっては、一才というのは、もう、大人になる。その僅か一年という間に、僕は、様々な経験をし、いろいろな事を学んできた。

 生まれて暫くは、母親のダラのおっぱいを兄弟三人で貪るように飲んでばかりいたのだが、生まれて一か月もしないうちから、走り回ることを覚え、母親の後を付いて、跳ね回っていたように思う。

 猫というものは、生まれて直ぐに歩くことができる。哺乳類全般で、哺乳という子育て時期というものがあるのだが、一般の哺乳類は、生まれて直ぐに立つことができる。それに対し、人間の赤ちゃんは、生まれて直ぐには立つことはできないらしい。不便じゃないかと思うのだが、聞くところによると、それは、生理的早産というもので、両手を使って抱っこして哺乳できる人間の特徴らしい。そのことが、母子の情を自然に培っていることにもなる。

 でも、猫でも親子の絆がない訳ではなく、僕は、今でも、母親に助けられているし、時には、母親の胸をまさぐったりもしている。しかし、僕は、本来野良なので野良は自立して生きるしかなく、この一年間に、母親から本能としてのネズミ等の獲物の取り方や、時々襲ってくる野良犬、他の野良猫、茂みに潜む毒蛇らの危険を察知し上手く距離を取ることなど、勉強してきたのだ。

 僕は、今は、相棒と遊んでやることの代わりに、食事を貰っているので、野良というより、半野良と言っていいだろう。他の、人間の家の中で人間と一緒に住んでいる所謂飼い猫とも違い、相棒の家の中には入らない。

 三人兄弟と言ったが、弟のコトラは自動車事故で死んだ。兄のウトラは元気でいる。このウトラは、ちょうどコトラが死んだ直ぐ後に、突然にいなくなった。三か月ほど何処に行ったのか姿を見せなかったのだが、再び、ふと戻ってきた。僕より一回り大きく、逞しくなったように見えた。旅をしてきた間に、野生の本能を研ぎ澄ませてきたようでもあり、ニャーニャーと泣いて食べ物を要求するようなところは、世渡り上手になったようでもあり、とにかく、いい意味でも悪い意味でも逞しくなったと言えよう。ウトラは、今でも、時々、ふいと二三日いなくなり、また帰ってくる。まるで、フーテンの寅さんのような兄貴だ。

 夏近くなって、相棒が小さな耕耘機で畑を耕し、いろんな野菜の種を蒔いたり、苗を植えたりしている。しかし、自然に育てるのだと言って、実は、怠け者のせいで、雑草を取らない。そうすると、自然の摂理で雑草は蔓延る。雑草が蔓延ったままでも、ある程度成長してくれる野菜もあり、相棒は大いに喜んで、小さくしかできていない野菜たちを褒めている。

 だけど、そんないい加減な野菜の育て方に、相棒の奥さんは怒る。雑草が混じって採りにくい、採った野菜から雑草を取り除くのが面倒だと、相棒を詰る。隣の人の畑のように、きちんときれいにしろと、罵倒する。

 まあ、相棒ほどの怠け者はなく、それでいて、時に耕耘機を使わずに鍬で耕して腰が痛いと唸ってみたり、はたまた、小さなスコップを手にして、一所懸命畑の土を穿って、少しずつ苗を植えたりして、それでも、ご満悦の様子である。何処までもおちゃらけの相棒だ。

 相棒の怠け心がうつったのだろうか、僕も、本当は、野生の本能を磨き上げる修行をしなければならないのに、今のこの時季、縁側で寝そべってうとうとするのが、一番気に入っている。

  黙祈して 植えしトマトの 苗低し

 

2012年   5月7日   崎谷英文


夢に舞う

 目が覚めると、自分が何処に居るのか見失っていて、暫くして、ようやく東京のホテルの一室に居ることを思い出し、さっきの夢の中の世界の自分は、いったい何だったのだろうかと、一瞬の新生とも、逃れられない悶え苦しむ現実への回帰とも錯覚し、頭の痛みと胸の重苦しさに、やはり、この世に舞い戻ってきたのだ、と実感させられる。ホテルのバスタブの中でゆっくりと身体を沈めて、昨夜というよりこの日の午前一時まで、それこそ、昼の一時からすると半日の間飲み続けて、蒟蒻か、はたまた日干しのようになった頭と身体を癒そうとするのだが、年老いた身に、昔のような回復力はなく、用意していた二日酔いの薬瓶を一気に飲み干す。

 東京に帰って来て、帰って来てというのは、英太は一時二十年以上東京に居たからなのだが、いつも思うのだが、東京には土がない。昨日も、浅草寺に行ったのだったが、境内の奥に土はあったのかと思い出そうとするが、覚束なく、コンクリートの上ばかりを歩いていたような気がする。たとえ、土の上を歩いていたとしても、きっと、その下には、地下鉄が通っていたりもするだろう。

 今や、東京の一大新名物となったスカイツリーを見ている隣を、観光用の人力車が通る。科学文明の最先端への感嘆と、古の伝統への郷愁が入り混じった訳の解らない光景は、人の心を分裂させて、楽しんでいるかのようである。文化遺産を愛でながら、最新電子機器に日常を奪い取られていく人間たちは、きっと、器用なのだろう。文明を謳歌しながら、伝統文化を慈しむ。結構なことだ。

 ホテルを出ると、そこは、山手線の駅に直結していて、昨夜からの雨が本降りになりつつあるにもかかわらず、ほとんど、濡れることもなく駅に辿り着く。夥しい人の波が、駅から襲い掛かるように、英太の道を塞いでいく。ゆっくりと歩く人は、ほとんどいない。みんな早足で、笑っている顔もなく、きっと現代という魔物に取り憑かれているのだろうそんな能面のような顔で、英太の横を擦れ違っていく。

 現代というものは、人を自由にしてきた結果なのだと思われているのだろうが、この光景が、人々を自由に、おおらかにしてきたものとは、とても思えない。隊列を組んで、行く手を阻む者を追い散らかしているかとも見え、それは、ずっと以前、英太にとっての常日頃の情景だったのだが、今や田舎者で小心者の英太には、身構えさせ、パニック症状さえ起こさせかねない緊張させるものとなっている。そして、いつも思う。こんなに、人間はいたのかと。

 一時間近く待って、新幹線に乗る。英太のC席は三人席の通路側で、窓側には、青年がノートパソコンを抱えて、英太の前から入り込んできた。まだ、二十才そこそこの青年らしく思われたが、出張か、出張帰りか分からないが、車内で仕事をするらしい。文明は、人から仕事を奪いながら、人を休めさせてもくれない。英太は、さっき食べた蕎麦で、ますます気持ち悪くなって、寝ようとしたら、検札が始まった。車掌さんは女性である。現代というものは、女性を家庭から解放する時代でもある。

 それにしても、昨日の舞妓さんは可愛かった。浅草の老舗のうなぎ屋の二階で、二十人以上の還暦の男女の席に、二十才そこそこの、見事な日本髪を結った舞妓さんが二人、それこそ、英太は舞い上がり、鼻の下を伸ばして、下品にならざるを得なかった。文明というものがいくら進んでも、人間の止められないことは残る、と納得する。較べて姥桜などと揶揄された還暦の女性たちも、いつまでも恋心は大切、などとのたまう。夢ともつかないものだが、夢のようなものは必要なのかも知れない。そして、決して叶うことのない夢であれば、いつまでも夢見ていくことができる。夢は、叶ってしまえば、夢でなくなる。

 英太は、夢を見ていた。

  古(いにしえ)を 今に重ねて 春を舞う

 

2012年  4月24日   崎谷英文


ただの塊

 鏡の中の自分の顔を、今まで何度見てきたことだろう。大方、少なくとも一日に一度は、鏡の中の自分の顔を見てきていただろう。

 英太は、今朝もいつものように目を覚まし、洗面所の鏡の中に自分の顔を見つけた。この時、以前とは違うものを感じた。今まさに、その鏡に写っているのは、英太の顔である。しかし、ふと、その顔が自分のものではない、何か得体の知れないものとして英太の脳幹を刺激した。

 果たして、この鏡に写る顔は、自分自身なのか、自分自身とはとても思えない、まるで見知らぬ誰かのように自分に対峙している。この鏡の中の像は、俺なのか、否、俺ではない、この顔は俺ではない。鏡の中の顔は、今俺と対峙し、面と向かい合っているのであって、この俺は、この鏡の前に立つ俺であって、鏡の中の顔が、俺である訳がない。やはりそうだ。鏡の中の顔は俺ではない。鏡を見ているのが俺なのだ。

 では、鏡の中の顔は誰なのだ。誰の顔なのだ。英太の知らない見知らぬ顔だ。この不細工な皺だらけの顔は誰なのだ。果たして、この顔は人間なのか。生きている人間の顔なのか。違う、この顔のようなものは、ただの塊だ。命を持った、生きた顔などというものではない。目も鼻も口も、ただの塊だ。それらの集まった顔のようなものも、また、ただの塊でしかない。

 そうなのだ。人間などと言ったって、ただの塊でしかない。空間の一部を占めるあの河原や庭の石と同じだ。人間だからと言って、何の特別なことがあるのか。ただの石ころと同じではないか。サルトルの「嘔吐」の中のロカンタンが、マロニエの樹の根元を見て吐き気を覚えたように、あらゆるものの、そして、人間の、グロテスクな存在を見たようだ。あるいは、離人症のように、自分の肉体と自分の意識が離れて行ってしまったのか。

 鏡の中の英太の顔は、英太自身ではない。英太は鏡を見ているのであって、鏡の中の英太は、他人だ。ようやっと、鏡の中の顔を、人間だと思えた。しかし、自分自身ではない。他人として見ている。やはりそうなのだ。鏡の中の英太を、英太が他人として見ているように、生身の英太も、他人に見られている時、他人にとって、英太は他人でしかない。しかし、他人から見ると、先ずはただの塊として空間に位置している英太なのだから、そうすると、他人から見た英太は、人間として見られる前に、ただの塊としても見られている。

 しかし、英太にとって、自分も他人も、ただの塊でしかないのではなく、やはり、人間である。善い悪いの問題ではなく、英太も他人も、人間である。結局は、人間がただの塊であったとしても、そうして、究極的にはただの塊あるいは埃になるにしても、人間はただの塊ではない。

 あらゆるものは、究極的にはただの塊なのだ。そのただの塊がこの世を作っている。そのただの塊が、この世界に満ち溢れているのだ。英太は、人間としてこの世の空間の一部を占め、この世に存在するすべてのものは、英太と同じように、この世界に存在し、空間の一部を占めている。だとしたら、英太も他人も、あらゆる生物も、あらゆる石ころも、同じだ。ただの塊でありながら、ただの塊ではない。

 翌日の朝、英太は同じように、洗面所の鏡の中に、自分自身の顔を見つけた。その顔は、自分自身の顔だった。醜く汚い、年老いた顔だが、まぎれもなく自分自身の顔だった。少し、ほっとした。山川草木悉有仏性。

  群れ生きて 一つに還る 春の草

 

2012年   4月13日   崎谷英文


半野良ポトラダイアリー

 僕は猫である。名前は、ポトラと言う。などと書き出せば、漱石の二番煎じそのものであるかのようだが、僕が猫であることは、隠しようもなく、正直者の僕にとっては、こう書き始めるしかないのだ。

 どこで生まれたかは、人間への質問でも、人間はそれを知っているかのように話すが、実は知らない、ただ聞いて信じているだけで、誰も確たる返答ができないように、僕も知らない。しかし、物心ついたときには、この家の周囲を走り回っていたので、この近くであることは間違いない。僕は、三人兄弟の真ん中に生まれたのだが、一番下のコトラは、生まれて半年ほど経った頃、自動車にはねられて死んでしまった。僕の相棒が、涙を流してコトラを埋葬していたのを思い出す度に、僕も涙が出る。

 この地の夕景はきれいだ。僕は、招き猫の手を挙げていない正しい姿勢で、縁側に座って、ゆっくりと暮れなずむ空を見るのが、一等気に入っている。僕は、まだ、一才の手前にしかなっていないので、春の夕景を見るのは初めてだったのだが、昔の人が、「秋は夕暮れ」などとのたまうのは、この春のぼんやりとした長閑な情景を知らなかったのか、と思ったりする。もちろん僕も、この前の秋の、寂滅たる雰囲気の夕景に見とれてはいたのだが、この春の夕景も捨てたものではない。

 夕陽が朝日に較べて、眩しくないと書いたのは、「老人と海」でのヘミングウェイだったと思うが、この春の夕陽こそ、霞んだ空に煙り、淡い光をゆっくりと放射していて、全く眩しさを感じさせない。夜のしじまがようやく迫ってきて、山の端から闇が広がり一番星が輝く頃、僕もやっと、縁側から寝床に向かう。

 僕の相棒は、いつも夜遅く帰ってくる。何やら、学習塾といういかがわしい夜の商売らしく、本来、人間社会では、公の学校教育というものがきちんと機能していれば、不必要なはずの私塾で、親の弱みに付け込んで、金を取っているらしい。因果な仕事だ。

 しかし、今では、中学校や高等学校、いや小学校でも、教師たちが、算数教室、英語教室、学習塾や予備校のようなものを当てにしている風があり、そのことが、ますます、この格差社会の中で金を持つ者と持たない者との実社会での固定化を助長しているだろうことを不条理と思っていないらしい。このようなことが、ただ単に受験勉強だけはできる子供たちを鼻持ちならない青年に育て上げ、ひいては、実力のない馬鹿で、地位と権力と名誉だけにしがみついている指導者たる大人たちを作り上げているのだ。

 僕の相棒も、もう、還暦という年らしく、昔ならとっくに定年退職、現役引退というところなのだが、まだ、少しは命がありそうだということで、細々と子供たちを教えている。教えることは、長い間同じようなことをやってきているので、居眠りしていてもできるそうだが、自分で考えて解いていかなければ、意味もなく面白くもないだろうと、立ち往生して困った顔を見て、初めて手助けしているらしい。

 こんな時代に松下村塾のようなものが成り立つべくもなく、あったとしても、それは、憂国、憂世界の志を持つ者たちが集まるのではなく、権力への道程としての参集に過ぎないのではないか。相棒は、今の日本が、相棒が若かりし頃の自由と平等を渇望する革新的運動ではなく、保守的権力集中の動きになっていることを嘆いている。

 この間、僕はネズミを捕まえた。ネズミの捕らえ方など、誰に教わった訳でもない。僕の本能の中に、ネズミは少々懲らしめてやらなければならないという遺伝子があり、自然にその手口は修得した。僕が、捕まえたネズミを相棒のところに持っていったら、相棒は少し嫌な顔をしながらも、僕を褒めた。しかし、雀の子を捕まえたときは、褒めてくれなかった。

  暮れなずむ 光と影の 春の山

 

2012年  4月3日   崎谷英文


ケヤキ・クスノキ

 英太の家の裏庭に、大きなケヤキとクスノキが並んで立っている。

 ケヤキは落葉樹で、この時季、葉を落とし、滑らかなうす茶灰色の木肌の幹と枝を見せているのだが、決して、寒そうに身を縮こまらせているのではなく、餅つきの臼にも使われるというその根元は、直径1メートル近くもあり、三メートル上がったところから枝分かれして、そこからは、ほぼ二メートル毎に左右に主幹から立派な太い枝を広げている姿は、厳しさの中の無慈悲の力強さを誇示するかのようである。一年ほど前には、三十メートル近くもの高さになっていたのを、上の方を切り落として十五メートルほどの高さになっていたのだが、落ち葉や枝が周囲に迷惑を掛けることになるので、いっそ、根っこから抉り取って始末してしまおうかと思ったのだが、やはり、根の蔓延り具合からしても難しく、また、可哀そうでもあり、五・六メートルの高さにまで上部を切り落とすことにした。

 ケヤキから三メートルほど離れたところにあるクスノキは、常緑広葉樹で、ケヤキと同じように三十メートルから十五メートルほどに背を縮めていたのだが、切り取った太い枝の切り口から、幾本もの豊かな枝葉を上空に向かって伸ばし、裏庭の塀を乗り越えて広がり、全身を緑の葉で覆っている様は、自らもやさしく包み込みながら、あらゆるものへの慈愛を唱えているようで、隣のケヤキと好対照を見せていた。このクスノキも、五・六メートルまで切り落とすことにしたのだった。

 ケヤキもクスノキも、英太の小さい頃には、二・三メートルの若木であったろう。多分、英太の生まれる頃から、この家の裏庭の主として、育ってきたのだろうが、裏庭でもあり、気に留めることもなく、その成長を見ることなどほとんどなかったのだが、いつの間にか、並び立つ大木として、裏庭を占めていたのだった。

 植木屋さんは、大きな木を切る時、御祓いをする。木も生きている。木の命を縮めるのだから、それなりの償いをせねばならない。お神酒を掛け、人間の身勝手な自然への冒涜に対しての、謙虚なる謝罪をせねばならないのだ。

 思えば、このケヤキもクスノキも、英太のこれまでの生涯の同伴者だったのかも知れない。きっと、生まれも英太と同じ頃だったろうこのケヤキとクスノキは、英太がこの家に十八才まで育つのを間近に見ながら、その後は、英太とは遠くにありながら、しっかりとこの地に根を張り広げ、天に向かって枝葉を広げ、時々帰ってくる英太とこの家に起こる様々な滑稽とも言うべき出来事を、静かに見ていたのではなかろうか。

 この家で、五人の葬儀をしてきた。祖母、祖父、姉、父、母と。人の命は短い。その短さは、また、人それぞれである。人は、何時果てるとも知らず、幻影の中で、束の間の喜怒哀楽に身を浸しているばかりなのだ。

 人と他の動物、植物との違いは何なのか、様々な説かれ方があるが、他の動物や植物は、決して、人間の持ち物ではなく、生命を持った、同じ自然の中の生物であるということは、忘れてはならないのではないか。他の動物や植物も、決して、人と敵対するものでないのはもちろん、人の単なる愛玩物でもないのだ。一瞬の命から、遥かなる命まで、様々な寿命を持ちながらも、行き着く先は、みな同じような気がする。

 直径七・八十センチメートル、重さ数十キログラムもあるだろう太い枝を、ロープに結び付け別の切り取った枝の根元にくくって、電気のこぎりで枝を落とし、振り子のように支えて、ゆっくりと下ろしていく。植木屋さんが、命懸けの作業を何度もしながら、ようやく、二本の大木が五・六メートルの高さに収まっていく。生きている枝を数本、それぞれ残しておく。そうすれば、このケヤキとクスノキも、まだまだ、命を保つ。

  春泥や 還るいのちに 往くいのち

 

2012年   3月23日   崎谷英文


大地震から一年

 東日本大震災から一年が経つ。英太は、ちょうど一年前、テレビで何気なく古い推理ドラマの再放送を見ていたのだが、突然、そのドラマが中断して、東北での大地震の発生が伝えられ、映像が切り替わった。報道は、大地震からの大津波の警告を流し続けていたのだが、程なく、三陸沖からの大波のうねりが、大地に襲い掛かってきたのだった。その惨事は、改めて語るまでもない。

 死者、行方不明者を合わせて、二万人余り、倒壊、流出家屋、三十八万戸以上、という悲惨さであった。加えて、原子力発電の冷却装置の全壊による核燃料のメルトダウン、水素爆発で、大量の放射能物質が放出されたのだった。

 喉元過ぎれば熱さ忘れる、人間というものは忘れっぽい。あれほどの酷い災害であったのに、もはや、人の記憶では、遠い過去のものとして語られ、むしろ、これから起こるであろう関東、東海、南海の大地震の備えの方に関心が集まる。だいたいが、人間の叡智たる科学というものが、どれだけの予測能力を持つというのか。今後、三十年で、東京直下型大地震が、七十パーセントの確率で起こるという予測がなされるが、それが、どれほどの恐ろしさなのか、実感はない。だいたいが、そんな天災を怖れていては、おちおち寝ていられないのであって、その不安の心理こそ、有限の人間の時間を無駄にし、人の命をさらに縮めよう。

 天災は仕方がない、などと言えば、叱られるのであろうが、世の無常は、如何に文明が発達しようが、厳然たる事実であり、無常を止める術など、人間にはない。明日、明後日の天気さえ、人間は変えることなどできず、寒波、猛暑に、ただひれ伏すだけではないか。天災による被害を最小に抑えようとすることは必要だろうが、天災そのものを止めることなど、人間の能力の外なのである。

 天災に遭うか遭わないかは、その人の責任ではなく、たまたま、その人に起こったことなのだから、今度は、いつ何時わが身に降りかかるか分からない。だからこそ、天災からの復興は、被災者本人のみが負うべきでなく、社会全体で負わなければならないのだと思う。それにしても、金持ちは、貧乏人にとっての大金である自分にとってのはした金を寄付し、貧乏人は生活を削ってなけなしの金を寄付するのだが、金持ちは、こんな時こそ、自ら貧乏人になるまで金を出さなければならないのではなかろうか。

 あの原子力発電所の崩壊の時、多分、人はこぞって、あんな危険なものはもう要らない、と思ったはずだ。しかし、時間が経ち、少し落ち着いたら、もっと安全に作るべきだった、とか言って、安全さえ担保して、原子力発電は続けざるを得ない、というように風向きが変わる。文明の悪循環によるエネルギーを大量消費せねばならない状況を反省することもなく、相変わらず、文明を謳歌し、その発展を希求してやまないのだ。

 文明はリスクを生む。自動車があるから自動車事故で、人は五千人近く、毎年死ぬのであって、自動車がなければ、交通事故で死ぬ人は、ほとんどなくなるだろう。しかし、それでも、自動車事故による被害は、大量虐殺には至らないから、まだ、その利便が優先されるのだが、原子力と言うものは、大量の死者を呼び起こし、大地、大海原さえ死滅させ得る危険を持つものなのだ。自動車事故において、その機械の不具合、故障が原因になることもあれば、操作の誤りによるものもあるのと同じように、機械である原子力発電装置も、確実に、無常に劣化していき、たとえ、何重に安全性を確保しようとしても、そこに、絶対安全の神話などあり得ないのだ。人は、必ずミスをする。ミスを起こすことを前提に話さねばならないのであって、その人のミスによる事故が、大量の死者の危険性を持ち、将来に渡っての子孫への毒を撒き続けるのだとしたら、そんなものは、要らないのではないか。

 文明に浸り続けた人々は、文明を享受しなければ生きていけないのだろうか。そんなことは、あるまい。人は、電気などない、ガスなどない、自動車などない、そんな時代にもちゃんと生きていたのだ。ひやひやしながら生きていくのは、もういいではないか。不便でも、力強く身体を使い、工夫をし、助け合っていけば、生きていけるのだ。

 こんなことを述べても、現実を知らない愚か者の絵空事で、ちゃんちゃら可笑しい、と思われるだろうが。

  風に落つ 京の古刹の 残り雪

 

2012年   3月12日  崎谷英文


大道廃れて、仁義有り

 つい先日、―『老子』〈道〉への回帰―という神塚淑子氏の本を読んだ。神塚氏は、英太の高校の同級生で、現在、名古屋大学の教授をしておられる。高校時代から、もの凄く優秀な人で、今の中国哲学研究家とは畑違いの「そろばん」で日本一の腕前を誇られた方でもある。「そろばん」と言っても、何も「そろばん」がなくても計算できるのであって、数学の時間には、教師が、複雑な計算の正確であるかどうかを、彼女に確かめていたという伝説を持つ。さりながら、文系のクラスに在籍し、今の中国哲学に関連する漢文において、類まれなる才能を発揮されていたということは、理系のクラスにいて、愚鈍で遊び呆けていた英太の耳にも届いていた。その神塚さんの書かれた本があるということを、同じ高校の同級生であった手塚君の七回忌の京都での仲の良かった者たちの集まりで、たまたま聞くに及んで、インターネットの通信販売で手に入れた。

 老子という人が、実際にいたのかどうかさえ疑念がもたれているのだが、「老子」というわずか五千字余りの書は、古から、中国思想の原点として、その時代時代に、様々な思想、宗教、社会との関わりを持ちながら、今に読み継がれ、その言葉は、トルストイやシュバイツアーにも注目された。「老子」は、現代の文明に侵された人々にも、その目を覚まさせるに充分な、難解でありながら、深遠な思考を提供する。神塚氏の本から、いろいろ、教えられた。

 現実生活の仁、義、礼、智、信を重視する孔子の儒教に対して、「老子」は、無為自然を説き、この世は、無の宇宙から始まり、結局は、その無に帰するのだという。その宇宙の始まりを道と言い、道から一が生まれ、一から二が生まれ、二から三が生まれ、万物が生じる。無から、陰陽渾然たる一つの気が生まれ、陰と陽の二つの気に分かれ、その二つの気を中和する気が生じて、万物は調和したものとして存在していく。まさに、現代の宇宙物理学の宇宙創生論を見るようでもある。英太にとっては、ヘーゲルの弁証法よりも、解かり易い。

 道が万物を生じ、徳がそれを養う。道徳ではない。道は、万物の始原たる無であり、その道は、万物が生じても消えることなく常にあり、徳は、その道の及ぼす作用、働きのようなものと言う。根源に立ち返ることが、また、道の動きであり、柔弱であることが、道の働きである。そして、万物は有から生じ、有は無から生じる。つまりは、あらゆるものは、無である道に帰るのである。

 大道廃れて、仁義有り。智慧出でて、大偽有り。六親和せずして、孝慈有り。国家混乱して、忠臣有り。

 大いなる道が衰えて、仁愛と正義が強調され、人間の小賢しい知恵が出回って、大きな虚偽が始まる。親族に不和が生じて、親への孝行、子への慈愛が説かれ、国家が乱れて、忠義な臣下があらわれる。

 儒教観による、仁義、孝慈、忠義などというものは、自然のままに、大きな道に則って生きていれば、おのずから守られるのである。大道が廃れたからこそ、強制的に、規範として、それらは、強調されるのであって、人間は、本来あるがままにおいて、秩序正しく、平穏が保たれるはずなのだ。むしろ、何も為さずにいてこそ、平和で、穏やかになる。おのずからならざる、規範としての、仁、義、忠、孝などは、虚になろう。愛さずにいられないのが愛であり、愛を誓うとはにせものの愛を引きずることである。

 英太は、思う。小細工は要らないのだ。知識も、言葉も、道具も、機械も、もちろん金銭も。考えてみれば、人間社会は、人間の作り出したものによって、苦しめられているのではないか。様々な現象を知ることにより、また余計なものを作ることによって、相対的にしかものごとを見ることができなくなり、欲望し、妬み、戦争をして、命を無駄にする。一見価値のありそうな言葉を発することにより、惑わされ、差別を生み、心を乱される。便利なものによって、奪い合い、身体を損ない、自然から遠ざかっていく。

 自然とは、自ずから然りであり、人工も、人の口も、ただ、邪魔なものでしかない。内なる本質に沈潜していくことでこそ、無為にしてならざるは無し−何も為さないことが全てを為すことになる−という境地に至る。死は怖るるに足りないが、だからといって、命を無駄にすることなど有り得ない。

 考えてみれば、「老子」の言説は、運命論者のようでもあり、性善説論者のようでもある。孔子の儒教は、性悪説で、性悪だからこそ、規則、規範、義務のようなものを設けなければならない。性善ならば、放っておいてこそ、上手くいく。本来、人は、そのあるがままにおいて、調和のある現世に生まれ育つべきであったのだ。さかしらな人間の文化、文明が、本来素朴な人間を、いびつに変えてしまったのか。

  春浅し 野良の微睡む 窓の外

 

2012年   2月29日   崎谷英文


免疫

 免疫とは、自分の身体に、自己のものではないものが侵入してきた場合、それを排除する働きで、自分の身体の一部となり得ないものに対して、拒絶反応を起こすようなもの、と考えていいだろう。体内に生じた腫瘍のようなものにも、免疫機能は発令される。人の身体には、異物に対して、拒否反応を起こすという機能が、先天的に備わっていて、これを、自然免疫と言う。

 この免疫機能が働かないと、風邪をひいたり、インフルエンザに罹ったりする。先天的に、異物、毒物であると知らないものは、気安く受け入れてしまう。一度、それらの病気になると、その後、それらに対する抗体ができて、免疫機能が働く。そのための、ワクチン接種、予防接種でもある。こうやってできる免疫を、獲得免疫と言う。

 逆に、それほど怖がることはないのに、異物に対する免疫反応が過剰になって症状をもたらすのが、花粉症やアレルギー疾患だと言える。花粉やアレルギー抗原に対して、異常に怖がり、拒絶反応が過剰になり、くしゃみが出たり、痒くなったり、発疹ができたりする。

 また、困ったことには、自分自身の大事な一部でありながら、それを異物だと勘違いし、攻撃、排除しようとする場合がある。そうなると、自分の正常な組織や細胞が侵食され、壊されていくので、大変なことになる。自己免疫疾患といい、バセドー病なども、その例である。

 こういった免疫機能は、身体の自律反応で、精神、心の持ちようで、簡単に制御できるものではない。

 しかし、心の免疫というものもありそうだ。子供や、大人にもある、人見知りというようなものも、免疫反応と同様かも知れない。出会った他人は、自分や家族といった自分たちではない異物であり、自分の中に取り込んでいいのか分からず、とりあえず、拒否反応を示す。過剰な免疫反応、と言えようか。

 人は、その生まれ育ちの中で、経験、学習し、安心できるもの、取り込んでいいもの、反対に、近づいてはいけないもの、危険なもの、触れてはいけないものを、意識的、無意識的に、身に付けていく。心の免疫反応というものは、経験の積み重ねと学習によって、徐々に、適度なものに、落ち着いていくのだが、その程度は、人、それぞれになる。

 人は、生まれ育った自分自身の外部環境に慣れ親しみ、安心できるものを抗原から外していくのであるが、また、目新しいものには、警戒しながらも、好奇心を持って近づく。無用心に、興味津々、深入りすると、毒牙にかかることにもなりかねない。一度、痛い目に合わなければ気付かないだろう、などというのは、痛い目に合って、後天的免疫を獲得するということになる。深窓の令嬢ほど、口先だけの安っぽい男に騙されるものである。

 心の免疫がありすぎても困るが、なさ過ぎても困る。毒でも何でも、食べてしまっては、たまらない。身体と違い、心に入り込んだ異物には、もはや、免疫機能は働かない。やはり、経験と学習によって、食べていいものかどうか、触れていいものかどうかの判断力、危険を察知する能力を、無意識のうちに身に付けておかねばいけない。

 逆に、自分自身を頑なに守り、凝り固まった信念を持っていると、あらゆるものに免疫反応を示すようにもなる。変な新興宗教、占い師に心酔してしまうと、社会性を失ってしまう。

 しかし、自己免疫のように、自分自身を異物のように感じて、不安に駆られることもある。免疫力が強すぎて、こんな自分ではないはずだと、自分自身を攻撃、排除するようになっても困る。自傷行為などというものは、一種の心の自己免疫疾患なのだろう。

  野良猫の 舞い戻りてや 春浅し

 

2012年  2月18日   崎谷英文


醜態

 還暦を迎えた正月の二日、飲みすぎて、足が床にまともに着くことが出来なくなっているのに、立ち上がって歩こうとしたために、ふらふらとした意識の中、足が宙を舞い、見事に前のめりに転倒し、頭がピアノの角か、ギターの柄の端にぶつかり、右目の上を五cmほど真一文字に切って、血が噴き出した。転倒した時、隣で、もうとっくに酔っ払って意識なく眠りこけていた吉川の頭を蹴っ飛ばして、入れ歯を吐き出させ、その上、眼鏡を踏みつけて壊してしまったらしい。

 正月二日と言えば、救急センターに行くしかなく、妻が良く効くと自慢する馬油を塗って、何枚ものティッシュペーパーとタオルで傷口を押さえつけたまま、朦朧としたまま、妻の運転する車に、吉川と宮田と一緒に乗り込んで、到着したのだが、吉川は、立ち上がったり寝込んだりして役立たず、宮田は、医者はどうしたとか、何か喚きながら、妻と周囲を困惑させ、英太は、トイレに入って、吐いた。

 そこには、何故か外科はなく、眼科で診察して貰ったのだが、眼には異常がないと言うことだったが、縫うような処置はできないと言われ、宮田が何とかしろとまた騒ぐが、馬油の効能か、血は止まっていて、ただ、薬を塗ってガーゼを当てただけで、帰ってきた。英太の家で、一人残っていた松井は、さすがに、その日のうちに名古屋に帰らなければならず、もう、いなかったが、妻が、しきりに、他の三人と対照的に、松井の冷静、紳士振りを褒める。

 縫った方がきれいに治りますよ、と言われていたのだが、翌三日にも、開いている外科などなく、自分で消毒液、化膿止めを塗って、四日になって、ようやく開いている医院を見つけ、処置をして貰おうとしたが、もうすでに傷口が固まっているので縫うことは出来ないと、再び、薬を塗ったガーゼを当てただけで、帰ってきたのだった。

 転倒した時に、庇い手をしたのだろう、突き指をして、右手の中指が動かせぬほど痛く、その第二関節が大きく腫れて、百姓の手がますます百姓らしくなっていたので、わざわざレントゲン撮影をして、骨の折れていないのを確かめて、その英太よりも十程も若いだろう医者が、次の日、指を固定するからまた来い、と言う。翌五日の日に行くと、熱い湯の中で、指の形に合わせて、取り外しの利く可愛らしいギブスのようなものを、医療器具の販売員らしいそれこそ若い男に付けられて、七週間付けているように、と医者が言う。

 年を取ると、傷の修復能力というものも衰えるのであろう、ようやく三週間ほど経て、毎日、眼の上の傷口に薬を塗って、ガーゼを取り替えていたのを、大丈夫だろうと判断して、それまで、まるで、弱いくせに強い相手に向かっていって、結局ノックアウトされて負けたボクサーの慰めにもならないようなまぶたに絆創膏を貼り付けた痛々しい容貌から、解放されたのだった。嫁入り前の娘ならともかく、英太にとっては、気にもならないほどの傷跡で、それも、徐々に色褪せていくだろうと、思われた。膨れていた指も、ゆっくりと癒えてきていたのだったが、まだ太く、痛みも残っているので、ギブスのようなものは、付けたままにしておく。

 その頃、東京では、田口の家で、数人が飲んだくれ、満田などは、終電に乗り遅れ、マクドナルドで、夜を明かしたと言う。英太もそうだが、もしかすると、年を取って、落ち着くよりも、若きを懐かしむのかも知れない。

 あれから、一ヶ月以上経つが、眼は以前から、症状として出ていた飛蚊症が、一時的に酷くなったぐらいで、それも慣れたのだが、指のギブスは、まだ、付けたままだ。

 正月二日、取って置きのスコッチやコニャックを持ち出して、浮かれすぎたようだ。

  断崖の へばりつきたる 寒椿

 

2012年   2月10日   崎谷英文


存在と真実と美

 存在は、そこにある。山も河も、リンゴも皿も、猫も人も、そこにある。見ていなくても、聞いていなくても、触れなくとも、そこにある。そこにある存在は、客観的に存在している。

 我々が、その存在を知るには、見たり、聞いたり、触れたりしなければならない。その存在を、視覚、聴覚、触覚などの五感を使って知ることになる。しかし、その存在を、見て、聞いて、触れたりすることで、その存在の全てを知ることが出来るのだろうか。我々は、その存在を知っているようで、知らない。ただ、その存在の存在することを知ることは出来るであろうが、その客観的存在の全てを知ることは、出来ない。

 人の五感の能力には限界があり、例えば、そのものの分子にまで至る微細な存在は、生の視覚等では、確知できない。固体は分子が全く動かない状態で、液体は分子がある程度動いている状態で、気体は分子が自由に飛び回っている状態だ、と言うことは、知識としては知っていても、生の視覚で確かめることは出来ない。色を感じるのは、その物から特に反射する波長の光を感じているのであって、それも、人間の可視光線の範囲の話でしかなく、犬も蝶も、別の色を感じているに違いない。また、逆に、宇宙のような大き過ぎるものも、確かには、目に入らず、推測するしかない。

 人間の感覚能力に限度があることは認めるとして、その見て、聞いて、触れた人間の知覚のみが、その存在であって、それがその存在の全てだ、とは言い切れまい。現に、目に見えないインフルエンザのウィルスが空気中を舞い、宇宙から、また原子力から飛び出た目に見えない放射線が、地に溜まり宙に飛び交っている。

 それだけではない。五感で知ることすら、客観的存在の一部の真実に適合するのかどうか、疑わしい。そこに在る物を見る時、それを見る者の目が間に入り、脳が間に入る。つまり、それは、全くの主観による知でしかない。我々が、物を見る時、自分の目で見た存在を知る。その対象物を悉く見たとしても、その見る目が正確なのか疑わしく、正しく見たとしても、それを受け入れる脳が正確に感知しているかどうかも疑わしい。

 さらに言えば、正しく同じ物を見たとしても、人、それぞれに、その物の見た目は違ってくる。同じ太陽を見て、輝く華やかさを見る者もいれば、眩しさの裏の暗黒の闇を感じとる者もいる。どちらも、真実であり、見た目の陰には、途方もない真実が隠されている。

 芸術、ここでは特に、絵画や彫刻等の具象芸術についてであるが、ある景色、ある人、ある静物を、作品として表現する時、写実に幾ら忠実であったとしても、全くの客観的存在を表すことなど出来ない。それは、その人の主観が入ると言うだけではなく、そもそも、その人が見た存在は、その人だけのものであって、客観的全てではありえないと言うことである。如何に、主観を排除して写し取ったとしても、必ず、そこには、その個人にしか見えないものがあり、また、その個人にこそ見えないものがある。如何に、写実に緻密に描き、作り上げたとしても、そこには、作者の意識的、さらには無意識的な個性が滲み出るしかない。

 しかし、また、芸術は、真実を表さなければならないだろう。真実があればこそ、芸術と言うものに、我々は精神の襞をくすぐられ感動する。心に隠された無意識の内に封じ込まれた奥底に潜む真実を抉り取られて、見入る。この世にあるものを、モデルとして作り上げられたとしても、芸術家は意識して、それを変形(デフォルメ)し、現実の見た目の陰に蠢く真実を掬い取ろうと、製作する。また、無意識だとしても、真実こそ美しく、美しいものこそ真実だとして製作する限り、その作者の、個性溢れた真実を垣間見せる作品が作られ、人の胸を打つ。

 そのデフォルメの行き着くところには、抽象があり、幾何学模様になり、円になり、直線になり、立方体になり、球になる。それらも、やはり、何らかの真実を表そうとしていることは、間違いない。

 その存在の真実を、僕はこう見たのだ、という心意気が、美を作る。

  遠吠えの 薄暮に揺れる 枯木立

 

2012年   1月29日   崎谷英文


水仙

 門の前の少し開けた手入れもろくにしない縦長の前庭の桜の木が、春を待っているという風に、力を溜め込むようにして、その幹と枝をじっと固くしているその隣の水仙の一群の中に、五・六輪の花が咲いているのを、初めて見る。全く殺伐とした荒れ庭の枯木立、枯れ草の中で、隠れ潜むように、その水仙は咲いていた。暖かくなる春や夏に向かって咲くのではなく、わざわざ、厳寒を選んで咲く水仙は、その力強さを誇示するには、余りにさわやかに咲いている。真っ直ぐに伸びた緑の葉の先、中心の黄色い花冠の周囲に六片の白い花弁が配されたその寄り添うようにして咲く水仙は、庭の中央に数多の真紅の華やかな花を競い合うようにして咲く寒椿と、好対照をなす。

 水仙のように、過酷の中にあって、でしゃばるのでもなく、平気な顔をして生きていくのが、自分には合っているのだろうと、英太は思う。寒椿のような華やかさなど、到底求めるべきもなく、もはや、そういった華麗さに素直に感激する純情さも失せ果てた気がする。

 この間、子供の一人が、携帯電話より少し大きいだろうゲーム機を渡し、このゲームをやってみろと言う。何ということもない頭の体操のようなものだったが、何故か周囲の子供が、興味深く見ている。ゲームに慣れて進めている時、突然、画面一杯に、怪物のようなものが牙を剥き出しにして、襲い掛かる様に突き出てきた。英太は、これは何だと訝しい顔をする。。機械が壊れたのかと思ったりしたのだが、実は、これが子供たちの目当てだったのである。ああ、ここは、目を瞠って、声を上げて、身を引くように、驚愕しなければならなかったのだ。子供たちは、がっかりしたように、英太を見るしかなかった。怖くなかった?と聞かれても、年を取ると少々のことではびくともしないよ、と答えるしかない。

 六十才になろうかという今になって、ようやく、日常の困ったことなどや、ちょっとした災いや、さらには、生死に関わるかも知れないような病気や事故にあったとしても、憤慨することもあたふたすることもなく、なるようにしかならないのだと、平然としていられそうな気にはなっている。とは言え、実際に思いもかけぬような困難に遭遇したとしたら、どうなるか分かったものではない。しかし、慌てふためくようになったとしても、それはそれで、なるようになった、ということなのだと、得心するであろうほどに、世の中、また人生の馬鹿馬鹿しさは、実感しているつもりになっている。

 去年の暮れ、埼玉に住む田口から、大事件のようにメールが飛び込んできた。高校時代からの友人たちにも送ったものらしいのだが、田口は、電車の中で、初めて若者に席を譲るという申し出を受けたと言う。大事件なのである。今まで、電車やバスの中で、席を譲る側であったことに、微塵も疑わない身であったのが、このことで、自身の気持ちの若さと裏腹に、世間の見る自分へのまなざしの変化に、気付かされたのである。そんな時、「年寄り扱いするな。」というような老人の怒りの声があると聞くが、田口は、怒ることもなく、呆然としながらも、丁重に断わったと言う。

 紅顔の美少年も、いつの間にか、老いさらばえていくのは、世の道理である。自分自身を知っているようで、自分自身を見ていないのである。他人のことはよく見ているのだが、自分の姿、顔など、めったに見るものでもない。鏡で、ちらと見ることはあっても、しげしげと、自分の容貌、容姿の変化を確かめるほど見ることは、英太もない。

 心は、若いつもりであっても、身体や外見は、それなりに衰える。ふとした動作の時に、衰えを感じることはよくある。身体が衰えるとしたら、脳も、例外なく、衰えているだろう。だとしたら、心も、ただ、若いつもりであるだけなのかも知れない。感動する心も、いつか、萎びていくように思われる。

  荒れ庭の 岩陰に潜む 水仙

 

2012年   1月20日   崎谷英文


1952年から

 1952年、昭和二十七年の9月に、英太は、この太市の里で、産婆さんの手で取り上げられて、誕生した。その年は、十干十二支で、壬(みずのえ)辰(たつ)の年で、それが今年、廻り廻って再び、壬辰の年になる。つまり、還暦である。昔は、六十才まで生きると言うことは、実に、めでたいことだったのだろう。明治の初めの平均寿命は、四十五才ぐらいで、昭和二十七年の平均寿命も、六十才そこそこであったらしい。しかし、今では、男で平均寿命は、八十才に近く、還暦を過ぎることなど、珍しくも何ともない。

 それでも、昔からの儀礼として、赤いちゃんちゃんこを着たり、特別な儀式をする人たちも、この田舎では、結構いるらしい。英太は、何も祝うこともなく、飲んだくれて、転倒し、怪我をしただけだった。

 思うに、この六十年間の世の中の移り変わりの激しさは、もの凄いものであった。1952年の、一年前に、太平洋戦争終結のサンフランシスコ平和条約が調印されていて、その前年には、朝鮮戦争が勃発していて、大戦の反省から平和主義に徹しようとしていた日本に、自衛隊の前身たる警察予備隊も、その年に設置されていたのだった。その前後、世界中の様々な地域で、民族自決に絡む紛争、戦争が起きていて、アジア、アフリカで、多数の独立国が生まれている。1949年には、中華人民共和国が建国される。そして、1949年の北大西洋条約機構、1955年のワルシャワ条約機構から、米ソの東西冷戦時代が始まったのだった。その後も、悲惨なベトナム戦争があり、ゴルバチョフのペレストロイカを経て、1991年のソ連の解体まで、東西冷戦が続いたのだった。

 世の中の大きな変動時期にあって、英太の生活様式も、大きく変化していく。子供の頃は、水道もなく、ガスもなく、かまどでご飯を炊き、五右衛門風呂に入り、田んぼを耕すために、農家にはたいてい、牛が一頭いた。鶏もヤギもいた。科学技術の発達はすさまじく、1963年に、東海村で原子力発電が開始された。1964年、東京オリンピックの年、ちょうど英太が小学六年生の時だったが、その年には、東海道新幹線が東京から新大阪まで貫通した。英太の生活も様変わりし、水道が通り、ガスで煮炊きをし、テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機という、三種の神器がもてはやされ、それは、やがて、3C、カー、クーラー、カラーテレビへと変わっていく。世の中は、どんどん便利に、快適に機械化されたのだった。1970年の安保闘争、三島由紀夫事件にも拘らず、文明の増殖は留まることを知らなかった。

 若者たちは、ますます都会に集まってきて、田舎はますます疲弊していくという経路が続いていく。医学の発達、食生活の安定が、高齢化を導き、明治維新には、三千三百万人だった日本の人口は、今や、その四倍に達する。大都市への人口集中は、地方の過疎化を進め、田園まさに荒れんとする状況になっていく。

 さらに、IT革命は、世界のグローバル化を推し進め、地球は、小さく狭くなりながら、情報と思惑が、宇宙と大気を突き抜けて、世界中を走り回ることになる。英太の子供の頃からすると、全く、別世界に生きているようなものだ。

 世はまさに、成熟しきっているのかも知れない。しかし、その成熟が良いのかどうかは、疑わしい。英太の子供の頃、この小さな村には、鍛冶屋さんも下駄屋さんも左官屋さんも大工さんも、いろいろな職業の人がいて、雑貨屋は二三軒あり、魚屋さんは、御津の港から自転車の後ろに大きな箱を積んで時々やってきていたし、みんな、自分で作れるものは自分で作っていた。言ってみれば、何とかその地域だけでも、自給自足できるような生活だったような気がする。良いかか悪いかは、即断しにくいが、今や、日本一国でさえ、自立できないではないか。

 そして何よりも、地域の共同体の中で、古い因習もありながら、人々が助け合ってきたのではなかろうか。安心できる人たちと、土と共に生きる生活があったのではなかろうか。農作業の帰りに、縁側に座って近所の人々とお茶を飲み、障子は開放して蚊帳の中で寝ていたのだ。

 今は、人々は、地球の裏側から食べ物を調達し、息のかからない会話をし、手書きでない手紙をやり取りし、温もりのない触れ合いをし、戸締りは厳重にし、監視カメラさえつける。如何に文明が進歩しようが、大地と大海原の恵みでしか、生きていくことのできない人間ではないのか。文明神話は、まだ続きそうだ。自然に生かされているという真実さえ、見失われていく。

  スカイツリーに 負けぬ劣らぬ とんど立つ

 

2012年  1月8日   崎谷英文


仙人の戯言

 自由は実は、苦しいのである。
自分自身で判断し、自分自身で責任を持つ
これは実に大変なことである。
勉強するのは、この考えること、判断すること
責任をもつことの前提としてある。


デイスクールてらこった 〜Day School Terracotta〜
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仙人の戯言

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哲学の道

 京都の山は僅かに紅葉しているようだが、未だ夏の風情を帯びたままである。時代祭が一昨日に終えたばかりだというとき、京の街中には、秋の涼しさは訪れない。京都盆地は、姫路よりも寒いだろうと上着の下に薄いセーターを着込んできたのだが、歩いていると暑くなり、セーターを脱いで手に持たねばならなかった。西大谷本廟に久しぶりにやってきて、ぶらっと入った京都陶磁器会館の前の四十五年間一人の女性がやっているという小さな喫茶店のコーヒーがとても美味しくて、二杯飲んで、コーヒー豆を所望する。

 それでも、東山に沿った疎水横の通り、いわゆる哲学の道に入ると、さすがに冷んやりとした山からの涼風が心地よい。疎水の水は、透き通り、ゆっくりと流れる。幾枚かの先導をきった黄と赤の落ち葉が、水の流れの向きを教えてくれる。南禅寺の山門から東に折れ、哲学の道に入ると、北に向かって登っていく感覚で歩いているのだが、疎水の落ち葉は、この道が下り坂であることを教える。琵琶湖疏水は、南禅寺の手前から、北と南に分かれて、京の町に水を送っている。北に流れる疎水に沿って、哲学の道は、銀閣寺まで続く。

 西田幾多郎が歩いていた当時は、どうだったのだろうかと思うが、今では、この道の西の斜面に沿って、ずらっと住宅が立ち並ぶ。幾多郎がこの道を歩きながら、人間と自然の対立しない純粋経験というものを、頓悟、体得したとしたら、きっとその頃は、周囲はもっと鬱蒼としていたに違いない。この辺りも東山というのであろうか、疎水沿いの東側には、所々、山道が上っている。そこを行けば、大文字山に辿り着くのか。その一つの道に繋がる橋の下に、おしどりの親子らしい三羽が仲睦まじい。野良猫なのか飼い猫なのか、様々な色模様をした猫たちが、歩いたり寝そべったりしている。

 銀閣寺の手前に、法然寺がある。その名の通り、浄土宗の寺であろうが、山門の入ったところで、僧侶らしき人が、分厚い蒲鉾板のように砂を堆く形作って、その上に造形をしている。水を撒き、すでに一方には、川の流れのような数本の曲線に、紅葉とイチョウの葉が刻まれている。僧侶は、もう一方をじっと見つめたまま、いかにも、さて、何を描こうかと、思案している。今頃の、山の中の寺は、苔が輝く。朝露に浸されて、山中の乾くことのない苔が、鮮やかに色づいている。

 ようやく銀閣寺に辿り着く。法然寺と比べるべきもない広さで、勢いの衰えつつあった室町幕府といえども、やはり、将軍の権威、威光は偉大であったことを示す景観である。大刈り込みの背の高い生け垣の参道を抜けると、直ぐそこに、銀閣がある。南禅寺まで乗ってきたタクシーの運転手によると、京都で三番目に観光参拝客の多い寺だという。確かに、哲学の道を来るときは、ちょうど良いくらいのまばらな人との出会いだったのが、慈照寺に来ると、一挙に人がひしめく。ちなみに、一番は、清水寺、二番は、金閣だそうだ。

 まだ紅くなっていない紅葉の木々の下を、池を巡り、庭を歩く。庭というよりも山と言っていいだろう。坂道を上り下りする。さらに上の方にも道は続くのだろうが、愚人たちは、手前で留め置かれる。人の造った庭というよりは、東山と渾然一体となった、人工と自然との境界線をぼやけさせ、知らず知らず、無明の自然の中に誘い融け入らせる。金閣が、浮世の栄華を象徴するものだとしたら、銀閣は、栄華の空虚さを表象する。どんな人生も、大いなる自然の中の小さな一欠けらに過ぎない。我々が死ぬように、この自然もいずれ滅するのだろうか。そうではなさそうだ。姿形を変幻自在にしようが、自然というものは、自ずから然りなのである。滅したと見えて、未だそこにある。

 わずか二キロ足らずの哲学の道を歩いて、爽やかな汗をかき、快い疲れに酔う。

  我もやな 緑微かに 紅みたり

 

2012年  10月28日  崎谷英文


絶望という希望

 思えば、生まれてこの方、絶望ばかりを繰り返して生きてきたような気がする。絶望を繰り返しながら、絶望するにはまだ早い、お前は何も解っていないではないか、何も解っていないくせに、と言う思いのみで、生きながらえてきたようだ。

 孔子の言葉に、「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」と言うのがある。人は、何も解らないままに生き続け、その時その時の思い付きの思い入れで、ただ解ったつもりになって生きているだけのような気がする。少し学び、少し経験し、さも、世の中はこうなのだ、などと悟ったような顔をして生きている。その実、心の深層は不安でいっぱいなのだろうが、虚栄と虚飾の中で生きている輩のなんと多いことか。

 高校時代に思いついたことがあった。世の中、人の世を知るのには、三つのことを極める必要があるのではないかと言うことである。一つ目は、物理的な宇宙、物質の構成を隅々まで知ること。二つ目は、生まれ必ず死んでいく人間にとっての、最大の難関、死を乗り越えるための宗教的、あるいは哲学的悟りを得ること。三つ目は、人間社会の歴史的進展の中にあっての人の世のあるべき姿というものを理解し、探究すること。

 一つ目のことは、物理、化学、生物、地学といったいわゆる自然科学にあたる。人間の到底目に見える世界ではない小さな小さな物質世界と、そして、同じように目に見えるはずのない広大な宇宙の世界への、限りない接近である。そして、実は、この小さな世界と大きな世界は、宇宙の創生において結びつく。むしろ二つの世界は、同じ問題とも言える。物質というものがどのようにして生まれてきたのかということを問えば、この宇宙の始まりを問うことになる。小さくて目に見えないものを知るには、広大な目に見えないものを探究していかなければならないのである。

 無限に小さいものはないのかと探ってみて、その小ささに限度があるようなことが説かれるが、それも、人の目、頭の中で、人の覚知しうる理屈の中での話であって、その限界的微小な世界は、さらに微小になり得る気もする。宇宙の大きさは、途方もないが、素朴に、宇宙の果ての先が何なのか、誰も答えられないのは、やはり、人間の知の限界とも言える。そうして、微小な世界と広大な世界の狭間に、地球があり、生き物がいて、人間が存在する。それらの仕組みを知ることも、また、自然科学である。

 二つ目は、死を越えた悟りである。人間というものは、その精神、その意識において、喜び、苦しみ、悲しみ、楽しむようにできている。しかし、そんなものは、生きている間だけの幻であり、もし、浮世の泡沫(うたかた)の喜怒哀楽でない死をも見据えたうえでの心の平穏というものが得られるならば、人は、あたふたと苦悶、苦闘することもなく、安らかになり得よう。全人に逃れられない死というものを乗り越えていく精神、心を与えようとするのが、宗教であろう。人の心というものが、脳で生産され、脳で変化し、それは、単なる脳内の物理的、化学的な反応でしかないのだ、と言い切ってしまう者もいるが、たとえ、あるところからは、物理的、化学的反応によるものだとしても、その物理的、化学的反応の根源の奥底には、何か潜むものがあるに違いない。それを、魂と呼ぼうが、神と呼ぼうが、仏心と呼ぼうが、人の心には、やはり、自然科学では解明できないものが残る。そうして、人は、宗教、あるいは哲学といったものを、信じ切るか、信じ込むか、信じたふりをするか、はたまた、何も信じないかしながらも、結局は、宗教的でしか有り得ない。人は、必ず死ぬのだから。

 人の世とは何なのか、生きるとは何なのか、自分とは何なのか、そんなことを考えながら、いつもいつも解らずに絶望してきていたのだが、解らないのは、まだ知識が足りない、思索が足りない、修行が足りないからだと、思い直して生きてきたのだが、今、考えてみれば、そうやって絶望のうちに絶望を克服しようとする希望があったのかも知れない。

  四方の山 円かになりて 天高し

 

2012年  10月17日  崎谷英文


秋茄子

 秋茄子は、夏の茄子の実り終えた後、その茎の上の三分の一、二分の一程を思い切って切り落としてやることによって、再び、青々とした葉を繁らせ花が咲いて、新しい実を着けることができるのだということを、今年の夏初めて知った。秋茄子は嫁に食わすな、と言う茄子は、そんな茄子だったのである。

 このことを、一軒隣りの吉田さんに教えて貰い、野菜を育てるには、土があり、種を蒔き、苗を植え、水を遣ればいいのだとばかり思っていた英太は、まさにコペルニクス的転回の感覚に襲われたのだから、英太の野菜作りの愚かしさは、お笑い草と言っていいだろう。

 しかし、そうやって、茄子の茎を切って、時々水を遣ったりして、茄子は幾つかの実を実らせてくれたのだが、ある時、その茎に、文字通りうじゃうじゃと、虫が這い回っているのを発見した。何と言う虫か、これが世間で言う野菜によく付くアブラムシーゴキブリではないーかと思っていると、どうやら、その虫は、茄子の葉やできかかった実などを食することが分かった。

 ある程度大きくなった茄子の実にも、小さな穴が開いたりしているのは、その虫のせいかもしれない。深窓の令嬢に虫が付く、とも言うが、茄子が若き乙女であるわけもなく、アブラムシがやくざな女衒であるわけもなく、騙し騙されているのではないのだが、さすがにこの場合、茄子の肩を持って、可哀そうだが、この虫には、退場してもらわなければならない。しかし、殺虫剤などを使う気は毛頭ないので、いつかどこかで漏れ聞いた、酢を水で何十倍かに薄めたものを、霧吹きで掛けることにした。

 野菜に虫が付くということは、何度も目にしている。キャベツやブロッコリーなどは、大半が見事に、蝶の、特にモンシロチョウの幼虫、つまり青虫に喰われてしまい、人の為ではない、万物の小さき命の為に種を蒔き苗を植えているという崇高なふるまい、と勘違いしなければやってられないことがたびたびだった。

 キャベツなどの上に網の覆いを掛けておけばいいのだが、英太はその姿形が好きではない。キャベツと青虫の関係に、人間が壁を作ることは、卑怯な気もして躊躇するのだ。キャベツと青虫とは、敵同士なのかとも思うが、切り離してしまっては、秋のモンシロチョウも見られなくなり、キャベツにとっても青虫は嫌いだけれど好きだ、などという訳の分からない間柄かも知れないではないかと、思ったりもする。

 昨日の敵は今日の友、などと言う麗しい言葉があるが、昨日の敵は昨日の友、今日の敵も今日の友、なのではないか。種が違えば、天敵などと言う関係も生じるのだろうが、その天敵だって、お互い絶滅するまで食い荒らすことはなく、どこかで実は助け合っているような、どこかでお互いに納得し合う折り合いをつけているのではないか。

 まして、同種の生き物では、仇のようにいがみ合い喧嘩をしていたとしても、嫌よ嫌よも好きのうち、と言うようなもので、お互い気になって仕方がないばかりのことも多いと推察する。喧嘩する方が無視されるより良さそうだ。いじめだって、陰湿な無視をして口も利かない、と言うようなものの方が、性質(たち)が悪いとも言える

 中国と韓国にとって、日本は、明らかに昨日の敵だったのだが、それが喧嘩していたことも忘れるほど親密になっていたのに、中国と韓国は、実は日本もであろうが、昔の怨恨が忘れ切れず、先入観あるいは偏見のようなものでしか、相手を見られなくなっているのではなかろうか。しかし、それも別れたいけど別れたくないという仲でもある。分かち合えばいいのだが、それができなければ、鎖国しかあるまい。

 どのようにして、秋茄子の話が、領土問題にまでなってしまったのか、自分で読み直してみても不可解なのだが、秋茄子に付いていた虫は、二・三日酢を薄めたのを吹きかけていたらいなくなったようで、きっとどこかで息災であることを望むが、秋茄子にとっては、手遅れだったようで、申し訳程度の小さな茄子が、三つ四つ採れただけだった。

  その下に 草伏くいのち 稲の波

 

2012年   10月7日  崎谷英文


小さないのち

 ようやく、周囲の田と似た感じに穂が実り色づいてきたのだが、それでも、獲れる米の量は、一般的なものと比べると、とんでもなく少ないだろうと思うが、収穫してみなければはっきりとはしない。一時は、こんな背の低い、緑の薄い稲で、ちゃんと実がつくのだろうかと思っていたほどだったのが、何とか実を着けたのだから、喜ばなくてはいけない。

 十日程前には、田圃の五分の一程の広さに、何という雑草か分からないのだが、その赤茶けた茎をして地を這って拡がり、所々で天を目指すかのように伸びていたのが、稲の穂の黄色い波を覆い隠すようにしていて、それを三日間かけて抜き取り、ああ、きれいになったな、と思っていたのだが、今、またポツリポツリと、イヌビエらしきものが稲穂の背を越えて、島のように浮かんでいる。

 田の草取りをしていると、赤蜻蛉が群れを成して飛んでくる。雑草の中には、小さな虫が、それこそ、目にも止まらないような小さな虫たちが住んでいて、彼らは、その一部がバッタや蛙たちの餌食となりながらも、数において優に勝り、その種の保存にとって敵から逃れられる最適であろう稲穂の下の隠れ家に潜んでいたのが、草取りをされることによって、慌てふためき空中に飛び出してきて、赤蜻蛉に狙われたのである。

 都会に住む人、特に、土も見えないマンションに住み、舗装された道を歩き通って、地下鉄やJRでトンネルやビルの林立する間を縫って移動している人たちにとっては、地球が、人間以外の人間の数をはるかに凌駕する小さな生き物たちの住処であることを意識することなど、先ずないであろう。田舎に住んでいると、特に、田や畑に足繁く通っていると、地球が、人間のものではなく、むしろ小さな命のものたちにとってのものだと実感する。人間がその小さな命と比べて、どれほど立派なものなのか、ふと考えさせられる。

 小さな虫も、雑草も、多く春から秋にかけて、その暖かさの中で、自らの命を旺盛に生きる。その間に、花咲き、実を作り、あるいは卵を産み、自らの子孫たちを地に落として、自らは枯れ死んでいく。人は、人生八十年としても、オギャーと生まれて、無邪気な時代から成長し、食べ飲み眠り、活発に活動し、子孫を残して、やがて、身も心も衰えていって、いずれこの世を去っていく。

 小さな命たちと人間とに、如何程の差があるのか。そもそも、どうして、この世に生命というものが生じたのだろうか。三十七億年前に、生命は生まれたとされるが、それまでの荒涼たる無機物の地球では、どうしていけなかったのだろうか。この地球は、奇蹟の賜物と言われるが、その奇蹟の地球だからこその生き物の誕生は、それほど偉大なものだろうか。生命というものが生まれたからこそ、あくせくと生きねばならない。生まれなければ、静かに、争うこともなく、何もないが平穏無事なる世の中であったに違いない。ただ、何もなければ、世の中でないのかも知れないが、それでも、宇宙としては存在し、それも世であろう。

 生まれ生きるということが、何なのか。いずれ生命を失くしていく生き物としては、人も小さな命も、同じではないか。ただ、人は、生きていくためにはなくてはならないのだろうが、小さな生命たちが持ち合わせていないだろう厄介なものを持ち合わせている。欲望である。自分自身を意識し、他人を意識し、意識する自分を意識し、様々な欲望を、無意識にまた意識的に、抱え込み生きていく存在なのだ。そうして、いずれ死にゆくことを忘れ去って、欲望の渦の中で悶えながら生きる存在なのだ。小さないのちに思いを寄せる。

  天高し 揺れる光に 咲くいのち

 

2012年  9月28日   崎谷英文


相転移

 今、俄かに空が掻き曇り、大粒の雨が降り出した。空に上った水蒸気が、温度が露点以下に下がって、次々に水や氷となって雲となり、耐え切れずに一斉になだれ落ちてきたのだ。その水は、いずれまた、再び水蒸気となって空に上る。

 相転移とは、物理化学において、通常、例えば、水と言う液体が温度が凝固点に達し、つまり、0℃になって、氷と言う固体になったり、また温度が上昇して、水蒸気と言う気体になったりすることを言う。このように、物質の相、気体、液体、固体というものが、別の相に変化していくことを、相転移と言う。

 日頃、水の三態の変化は、日常的なものとして見ているが、考えてみれば、不思議なものである。固体とは、その物質の分子、原子が固まって全く動かない状態であり、液体とは、ある程度の自由を持って動いていて、気体とは、分子、原子が全く自由に飛び回っている状態だと考えられる。しかし、それが、いわゆる融解点温度によって、また、沸点温度によって、一斉にその相、状態を変化させるのである。化学現象的には、陽子、中性子、電子などでない、通常の物質というものは、あらゆるものが、その相転移をするものと認められている。鉄でさえ、2750℃において、気体になる。また、あらゆるものは、理論的には、絶対温度−273℃で、その分子、原子の動きを失くし、固体となると言われる。

 相転移は、人の世で言えば、革命のようなもので、例えば、フランス革命の時には、第三身分の平民が、それまでの不自由から、一気に自由を獲得した。もちろん、その後、反革命的状態になったりもして、自由が再び失われたりもするのだが、それでも人間たちの自由への渇望は、継続し、実行されていくことになる。人間たちの自由は、気体のような全くの自由というものは、限られた世界の中では望むべくもなく、互いに接触し、干渉しあいながらも、自由を分かち合う液体の世界のようなものであろうか。もちろん、固体のような凝り固まった不自由な世界は、問題外である。

 しかし、この液体的自由な世界も、そう簡単ではなく、エネルギーが上手に分散されていないと、実現されない。人間社会において、下層の者たちのエネルギーを奪い取って、上層の者たちばかりにエネルギーが集まり、豊かな者たちは、ますます自由になり、貧しい者たちは、徐々にその動きを失くしていく。そのような世界であっては、ならないのであって、並べて、0℃から100℃、いや5℃から30℃(人間には快適だろう。)の間の液体の自由が望ましい。水も、水蒸気や氷では、人間は吸収できず、水の時に、豊潤な栄養素もその中に含んで消化、吸収できるのである。固体の不自由な世界に佇む者たちには、エネルギーを与え、自由を与えなければならない。気体の奔放すぎる自由を持つ者は、そのエネルギーを放出して、固体を融かし、静かにならねばならない。

 人の心も、時に相転移をする。穏やかな心根であったと思われる人が、時に突然、癇癪を起こし、怒鳴り散らし、周囲を破壊し始めたりする。また、今まで、元気だった人が、急に、その勢いを失くし、閉じこもり、一歩も外へ出たがらなくなったりする。まるでそれは、水が水蒸気になったり、水が氷になったりするのに似ている。

 その昔、柔道の古い極意書なるものを読んだのだが、その中に、水の性、というものがあった。水は、その形を持たず、融通無碍にあらゆる容器の中にきちんと納まる。水だからこその柔軟性であり、いかなる状態においても平常心を保てるのだと。騒がず、焦らず、水蒸気のように舞い上がることもなく、氷のように肩肘張ることもなく、水のような柔らかな心性が、大切なのかも知れない。

 などと言う寓話を作ってみたのだが、面白くもなかったか。

  いずれ無と なりゆく身なり 秋の雨

 

2012年   9月18日   崎谷英文


ポトラの日記3

 相棒が、家の東の畑地に、その直ぐ北側には、もう実を着けそうもないトマトの萎れかかったのがあって、その隣には、青々とした大豆の葉の連なりが、その実をまだ小さく固くしている所に、遊び半分に、三畳程の広さに、そこはもう畑地というより野原のようになっていて、とても水田とはなり得ないのだが、耕して水を撒き泥々にしたところに、六月の中頃、余った中生稲のヒノヒカリの苗を植えていたのが、ようやく穂を出し始め、白い粉のような花が、咲いたのだった。こんなやり方でも、米は作れるのかと感心する。陸稲というものもあるようで、相棒は、毎日水を遣っていたのだが、何も、常に水に浸かっていなくとも、稲はある程度は育ってくれるようだ。刈り取りは、まだ一か月先になる。

 この夏は暑かった。去年より暑かった。猫は暖かいのが好きだと思われているようだが、それにも限度があり、この夏のような酷暑では、堪ったものではない。ようやく、朝晩の涼しい風が、爽やかさを与えてくれるようになったが、それでもまだ、真昼の残暑は厳しい。僕は、暑いとき、その稲の植えられているその中によくいる。日差しが遮られ、それに、稲草の匂いが心地よかったのだ。

 その昔、ヨーロッパで、動物と人間とは、全く異なるものであって、動物は、生まれ持って与えられた本能のようなものしか持たず、人間のような精神はなく、ただ、あらゆることに機械的に反応しているだけだという動物機械論、という考え方があったそうだ。それは、完全に間違っている。動物にも、精神、魂のようなものがあることは、今では、当然のように思われているのだろうが、以前は、何の為か、それはきっと、人間の優秀さ、特別に選ばれた者である、ということを言いたいが故であろう、動物は、機械のようなものであって、更にあろうことか、動物が傷つけられて泣くのも痛みを感じているのではなく、そのように反応するように作られているだけなのだ、と考えた者たちがいたようだ。

 それは進化論的にも誤っていて、もし、そんなことが言えるのなら、逆に、人間も動物の延長としての機械でしかないことにはならないのか。人間は、思考するということが人間の特権であるかのように言うが、それもまた、単なる反応でしかなくなろう。人間は、動物であり、今や、むしろ、人間が動物であることより、機械に近づいていきつつあるやも知れない。

 進化してきた頂点にある人間だとしたら、逆に、動物たちは、人間の祖先であり、生みの親とも言えるのではないのか。そうして、あらゆる生命は、自然のたまものであり、あらゆる生命が繋がりあって、この世はできている。もしかしたら、何に生まれてくるのかと言うことは、たまたまであって、それぞれの生命が、それぞれの役割を持って、この世を作っているのかも知れないのだ。つまり、何に生まれるか、と言うことは、大したことではなく、人間は人間の、僕たち猫は猫の、やるべきことをやるだけなのだ。だから、人間として生まれた人間も、人間だからと言って、偉いのではない。僕たち猫も、猫だからと言って、偉そうにするのでもなく、まして、卑屈になることもない。

 自然の中の食い食われるという生存競争は、この世に生まれでたものが、その役割を果たしている、ということになろうか。それが、調和なのだ。しかし、賢しらな人間たちは、牛たちから全く自由を奪い、閉じ込めて太らせて殺して食べるという、おぞましき所業をやらかすようになった。そこには、他の生命に対する敬いと畏れが、欠如してはいないか。突き詰めれば、そんな人間の傲慢さが、人間同士の奪い合い、殺し合いに繋がっているのではなかろうか。僕は、猫だから、猫のやることをやるばかりだ。

 稲の間から、挿し木をしたまだ小さな50cmにもならない木に、百日紅の白い花が、この夏初めてきれいに咲いているのが見える。少し離れたところには、大きな3m程の木に、赤い百日紅が数本の枝先に華やかだ。おっと、相棒が、稲に水を遣りに来た。

  その下に 草臥くいのち 稲の花

 

2012年  9月8日   崎谷英文


生きてきた時代

 1952年、日本が戦争に敗れて七年、平和主義、基本的人権の尊重、国民主権を三つの柱とする日本国憲法の成立から六年、サンフランシスコ平和条約調印から一年、第三次吉田内閣の時代に、英太は生まれた。第二次大戦後の破壊され疲弊しきった生活に、大凶作も加わった食料不足の貧しい配給の時代から、朝鮮特需により日本の経済復興が始まり、この時から、日本は、劇的な変貌を成し遂げていく。今、還暦の者たちは、戦争を知らず、戦後のみじめさを知らず、新しい日本の復興、成長の中で育ってきたのだ。

 日本は、太平洋戦争において、壊滅的に崩壊した。日本の大都市は、多く空襲、空爆を受け、広島、長崎に原子爆弾が落とされて、敗れたのである。日本兵、230万人以上、民間人、80万人以上の死者とされる。だからこそ、日本国憲法において、二度と戦争を起こさないという戦争放棄、軍隊を持たないという平和主義を宣言し、諸国民の公正と信義に信頼して、名誉ある地位を占めたいと言ったのではなかったのか。日本国憲法の制定経緯から、それは、GHQの押し付けであり、自主憲法の制定をしなければならないという動きもあるが、少なくとも、その日本国憲法の制定された時、ほとんど多数の日本人が、その平和主義を好ましいと思ったのではなかろうか。

 しかし、米軍は、サンフランシスコ条約後も、日米安保条約により、極東の平和と安全の為、ということで駐留を続け、1952年、日米行政協定により、日本は米軍に基地を提供し、米軍の経費を分担することとなり、それが、東西冷戦終結に至りながら、今なお、継続している。さらには、警察予備隊が自衛隊の前身である保安隊となったのも、1952年である。日米安全保障条約、自衛隊という、日本国憲法の平和主義をなし崩しにしていくものに対して、激しい抵抗運動も起きたが、結局は、一時的な抵抗でしかなく、効を奏することもなく、かつての闘士たちは、企業戦士に転身したのだった。

 今では米軍基地の沖縄への集中に対することばかりが問題となり、日米安保は当然のこととして受け止められ、自衛隊が違憲であるなどと言う主張は、雲散霧消してしまったかのようである。大戦後、今に至るまで、世界のどこかで戦争は続いてきている。決して使うことのできない核兵器を、大国は多額の費用を持って保持し続け、また、新しい国が核兵器を手に入れようと、資源とエネルギーを費やしている。

 戦後の、産官共同による成長路線は、確かに、日本を豊かにしてきた。自由民主党と社会党の議員数、二対一で推移する、いわゆる55年体制は、1955年に始まり、細川政権の誕生まで、約40年間続いた。その間の政府と大企業による経済発展への共同作業は、着実に成果を上げ、日本はアメリカに伍する経済大国になっていく。我々の生きた時代は、そんな時代であった。

 十八世紀に始まった産業革命は、瞬く間に世界に拡がり、戦後の日本は世界の中の優等生として大発展してきた。しかし、今、世界が流通革命、IT革命を経て、経済がグローバル化して、真に豊かな世界になったのだろうか。繁栄の収穫は、ただ、上位1%者たちに集まり、99%の者は、ただ、そのおこぼれをいただいて喜んできただけではなかろうか。今、また、不況の中で、貧しい者たちがますます、割を食っているような気がする。

 いくら、世界がグローバル化しても、国家は残り、国には領土があり、国民は自国のオリンピック選手の活躍に湧く。今、問題となっている竹島を韓国の領土とする李承晩ラインが引かれたのも、1952年であった。グローバル化した世界では、国民主権の危機さえもたらす。グローバル化の中で、ほどくことのできない世界経済の結びつきは、国民の選択肢を、明らかに狭くする。グローバル化と言いながら、国家の肥大と統制は、閉塞感、無力感を抱かせる。

 1952年、日本人の平均寿命は60才程度だったそうだ。もう、その寿命に達している。後は、これからの世の中の変化の様を、じっくり眺めていることにしよう。

  法師蝉 もらいなきして 法師蝉

 

2012年   8月30日  崎谷英文


夏祭り

 「ああ、どっこいまかせ、どっこいせい」播州音頭の掛け声に、太鼓が呼応して、外側に浴衣を着た女性たちの輪が、内側に個性を出した男踊りをして廻る男たちが、八月十五日の夜、破磐神社の境内で盆踊りが繰り広げられる。余りにカラフルなアロハシャツを着て、麦藁帽のようなものを被ったまるで場違いな格好で、真二はその巨体をゆすぶって男踊りの輪に割って入るのだが、男踊りなどというものは、阿波踊りでも同じように、基本的なリズムが合えば、自由に踊っていいように、決まりきった型はなく、いくら真二が周囲の真似をして踊ろうとしても、そう簡単にできるものではない。英太も、久しぶりに踊ってみるのだが、やはり難しい。それでも、懸命に踊ろうとしている真二を見ていて、脚の具合も大分良くなっているのだな、と安堵する。

 太市村の保存会の男たちによって、古く天正八年、豊臣秀吉の焼打ちによって死んでいった峰相山鶏足寺の僧侶や氏子たちの供養に始まるとされる奉点燈祭、いわゆる火祭りが、復活したのは昭和六十年、まだ、英太が東京に居た時で、英太は、帰ってきたときに初めて年男として参加していた。その、松明を持って男たちが気勢を上げる火祭り、の前に行われる盆踊りであった。中川君は、踊りの輪に入ることはなく、音頭の歌詞を懸命に聞き取っていた。それは、播州や姫路城の歴史を語るものだった。

 秋の十月十八日には、収穫祭としての秋祭りがあるのだが、今では、この八月十五日の奉点燈祭の方が賑やかになっている。太市村のほとんどの人が稲作で生計を立てていた時代とは異なり、今では、農業をやっているとしてもほとんどの人が片手間の兼業でしかなくなっていて、収穫祭などと言っても、実感の伴うものではない。盆踊りがあり火祭りのあるこの奉点燈祭の方が、賑わいを見せる。

 この日の昼過ぎから、英太は、高校時代からの友人たちと酒盛りをしていた。お母さん元気か。我々の子供の頃は、夏こんなに暑かったか。日本は亜熱帯化している。朝早く目が覚めて、散歩してるよ。毎朝、ジムに行っているよ。血圧は高くないか。食事が大事だな。薬を飲む方が楽だよ。俺も、痛風になったよ。年取ると、みんな軽い脳梗塞になるんだってな。入れ歯の人、何人いる。差し歯二本だけだ。などと、この年代の者たちの話題が続く。

 九州も暑いか。嫁さんが月の半分来てるよ。この腹は、相変わらずだな。何時フィリピンへ戻るのだ。今まで、海外に頻繁に出張していたのが、閑職になり、家に居て飯を食うと言えば、煙たがられ、出ていくと怪しまれる。また、仕事しようかと思っている。嫁さんと帰って来て、今、嫁さんが実家で母親と一緒にいる。などと、それぞれの個人の事情が分かってくる。

 TPPは仕方がないが、米だけは除外しなければ駄目だ。日本の田んぼがなくなる。田んぼがなくなれば、いざというとき、日本人は食えなくなる。それでは鎖国してはどうか。江戸時代、鎖国してても、食えたじゃないか。江戸時代は、三千万人だった、今とは違う。しかし、農業生産技術も発達している。現に、米は、余っているではないか。宮沢賢治のように、一日玄米四合と味噌と少しの野菜で生きていくなら、充分可能だ。グローバル社会と言いながら、地産地消が叫ばれるおかしな時代だ。変な時代だ。領土問題なんて、すんなり、すっきり、解決する訳がない。みんな、お互いに経済的に持ちつ持たれつに繋がっているから、何とかやっていけるのに、これでは、何時孤立するか解らない。だとすれば、やはり、鎖国か。もはや、それも難しいか。などと、偉そうなことを言い合う。

 妻の作った高級食材の一つもない料理、おいしく食べてくれたかな。三十年物のナポレオン、おいしく飲んでくれたかな。

  老妻の 浴衣姿の 輪の中に

 

2012年  8月18日  崎谷英文


病葉(わくらば)

 桜の花のすべて散り落ちた今、桜の木は、青々とした葉に包まれて、陽光を身に浴び、キラキラと輝く。しかし、その枝葉の中に黄色く色褪せた縮んだような葉が、ポツリポツリ、幾つかぶら下がっている。青々とした枝葉の下の地や木の根元には、茶色く乾いた葉が、点々と、あるいは重なり合って、まるで、頭上の青葉に日差しから守られ抱かれているように、しかし、もはや、息を失って風に身を任せている。秋を待たず、つまり、正当なる新しい息吹きのための継承の時を待たずして、早くも、真夏の炎熱の中で生命を捨て去らねばならない病葉。

 病葉は、酷暑の中で、耐え切れずに力尽きるのか、それとも、自らの生命を、若き生命のために、生贄として差し出すのか。いずれ散りゆく運命ながら、時に、理不尽に、仲間に先んじて、生命を縮めていく。

 何故、病葉は生命を縮めなければならないのか。何故、君たちが選ばれたのか。沈黙の中で、何も答えることもなく骸となった病葉は、雨に打たれ、あるいは、風に吹かれ粉々になって、いずれ、大地に戻っていく。それは、幾千年、幾万年も続いた、種また個の存続のための生命の継承の掟なのだろう。存続せんがために、生き残るために、死なねばならない病葉。生き残りし青葉も、まっとうに寿命を保てども、何時か、間違いなく、次なる芽吹きのために、その身を捧げる。

 生き残りし青葉は、病葉の悲哀を知っているのか知らないのか、ただ、平然と褪せ落ちる病葉を見ている。残りし葉も、この炎暑の中に、潤いを分かち合えない限り、また一つ、また一つ、選ばれし病葉となっていく。そしてまた、夏をのりきった残りし青葉も、いずれ、冬の寒さを前にして、その場を若き芽に譲る。

 死に行きし者も、ただ、死ぬのではない。自らが、先人たちの死を目の当たりにし見つめながら生き続けたように、後に残る者たちに世の無常を知らせんがために、死に行く。青き生命が、枯れ落ちる生命に、後生の夢を託されるのと裏腹に、若き生命は、死に臨む生命に敬意を払い、その犠牲を糧として生きていることに頭を垂れる

 人は、今を生きている。しかし、ただ、今を生きているのではない。生を得てからの浮世の見、聞き、触れしことの全てが、重なり合って今があり、その今を生きている。過去を御破算にした今など有り得ないだろう。

 もしかすると、生まれる以前からの、身に覚えのない過去もあるやも知れぬ。そうでなければ、生まれついて、生き続け、生命を繋ぐ営みの仕組まれていることの説明も難しくなる。だとすれば、人の生命も、宇宙の根源に遡らざるを得まい。三十七億年前の生命の誕生から始まって、今の人の生命もあるということか。単細胞のバクテリアの生命が、人の生命の根源となる。

 現代の齢、六十など、昔に比べれば、若いのだろう。しかし、いくら医学が発達しても、いくら栄養状態が良くなっても、限りなき生命など有り得ず、老いも年相応に確実に忍び寄る。若き生命の散っていくのを、何度か見てきたし、直近の親たちの死も看取ってきた。彼らは、死にたもうたれど、その人たちの生と死は、間違いなく今の自分の中にある。

 病葉は、今日も一つ、目の前で落ちていった。

  病葉の 自在となりて 天に舞ふ

 

2012年   8月6日  崎谷英文


老化と成熟

 蝉の声が聞こえるのか、耳鳴りがするのか分からない。どうやら、アブラゼミがジージーと鳴き続けてはいるらしいのだが、部屋の奥に入り戻ってきても、それらしき音が耳から離れない。こんな奥の方に入ってきても、外の蝉の声が響いているのだろうと思ってはみたが、どうやら、それだけではなさそうだ。だいたいが、蝉の声らしきものが大きく聞こえるのは、左耳の方ばかりで、右耳には、あまり聞こえていないような気もするのだが、それもまた、はっきりしない。

 多分、老化であろう。聞くということは、耳の鼓膜を震わせたものが、脳の神経を伝わって音の受容器官に流れていくのだろうが、考えてみれば、何も鼓膜を震わせたものが脳神経に伝わらなくとも、音を感じる脳の所が、勝手に、音を聞いたと反応したって、音は聞こえてくることになるであろう。切断した脚が痒くなること、と同じ理屈である。正常な状態にあっても、何も聞こえていなくとも、モーツアルトのジュピターが、頭の中を駆け巡ることはあるし、それができなければ、音楽家にもなれまい。思わず口ずさむ鼻歌は、口に出る以前に、脳で作られている。

 しかし、そうではなく、雑音のようなものが、常態的に聞こえてくるのは、老化なのだろう。脳の中の耳の近くの血液の流れのようなものに対して、敏感に反応しているだけだ、という考えもあるようだが、そんな反応自体が、老化なのではなかろうか。確かに、現実にうるさい音を聞いているような時には、耳鳴りはなさそうな気もするが、耳鳴りに集中すると、いつも耳鳴りはする。

 この間、古い水道管が破裂して、断水を広範囲にもたらした事故があったらしいが、それは、水道管の老朽化、劣化なのであって、機械、設備が老化するのと同じように、人の身体も老化する。ロンドンオリンピックも始まるのだが、スポーツは、若者の競技である。特に、身体を激しく動かすスポーツにおいては、年寄りは若者に勝てる訳がない。身体は、確実に老化していくのである。その身体と同じようにではあるが、それでも、身体の老化とは少し遅れて、脳も老化する。記憶、認知能力などは、二十代、三十代の若い頃がピークで、そこから衰えていくらしいが、やはり、脳も、老化していくのである。

 しかし、機械が老化するのとは異なり、人の身体、脳は、再生を繰り返しながらの成熟への道を辿っている、とも言いたい。機械は放っておいたら、間違いなく摩滅し、外部から侵食を受け、機能は低下する。しかし、人は、その細胞が、数日、数週間、数か月の間に、自らを破壊しながら再生していくという過程があるのであり、それは、経験と知恵の積み重ねが、老化ではない成熟と繋がっているのではないかという希望を抱かせる。

 若年性アルツハイマーの男性を題材とするテレビドラマを見る機会があったが、若年性でなくとも、人は、長生きすればする程、どうしても、痴呆に近くなるのではなかろうか。「年寄り笑うな行く道じゃ」と言う言葉があるが、年を取るということは、呆けることでもありそうだ。年を取れば、しっかりしているようで、どこか抜けてくるのである。健康寿命、健康であり続けることができる平均年齢は、七十才程度らしい。英太は、六十才になろうとしているところで、まだまだ元気だとは思っているが、何時、どうなるかは、知れたものではない、とも思っている。

 人は、長生きし過ぎるようになったとも言われ、確かに、身体、脳の老化、障害を抱えた老人たちは、若者たちに迷惑、苦労をかけることになっているのかも知れない。

 しかし、老化は、成熟に繋がる。もはや、現実の強欲にまみれた醜い世界を離れて、老境に至る。ぴょんぴょんと飛び跳ねるような身体は失われていき、物忘れが酷くなったとしても、それは、俗世からの離脱への道なのである。見ざる、言わざる、聞かざる、という言葉がある。それは、悪や醜いものに近づかない、という、教育的なものとされている。すれば、耳鳴りが酷くなり、目が掠れてきたということは、見ざる、聞かざる、醜い世の中を離れて生きなさい、と言うことなのだと思っておこう。

  アメンボは この世と点で つながりぬ

 

2012年  7月24日  崎谷英文


鹿

 稲の苗を、鹿に食べられた。山沿いの小川を挟んだ北側にある僅か四畝程の田圃に、キヌヒカリと言う早稲を6月8日に植えていたのだが、7月の初め頃の朝、まだ、高さが30cmにもなっていなかった苗が、田圃の中程で、きれいなハート型の模様を作っていた。ハート型に鹿が、その苗の先を根元10cm程残して、食べていたのだ。その田圃の十分の一にも満たない広さだったのだが、鹿はその柔らかい苗の先だけをきれいに食べてしまっていた。

 英太は、10数年前にも、この田圃で、その頃は、この小さな田圃だけで、それこそ遊びのように米を作っていたのだが、その時にも、もっと広範囲に渡っていたと思うのだが、同じように、苗の先が無くなっていたのを見つけ、訳が分からず、農協の人に来てもらって、これは鹿です、と言われ、初めて、鹿に食べられた苗というものの実体を知ったのだった。

 筍の収穫時にも、鹿には、筍を、それもやはり、下の皮を残した中身だけを食べられてしまうということが、かなりあったのだが、同様の手口である。しかし、筍と違うことは、筍は、そうやって食べられてしまった後は、もう、再生してくることはないが、稲の苗は、先が食べられても、直ぐにまた、再生するということである。苗が鹿に食べられてから10日程経つが、食べられた苗は、今では、周囲の苗とほぼ同じ高さにまで生長している。

 不思議なもので、二回目に食べられてしまうと、もはや、再生しないと言う。その稲の生得的再生能力というものには感心するが、その力も、無尽蔵ではないらしい。それでも、その再生した苗は、周囲の稲と大差なく実をつけるのである。だとすれば、一度は、鹿に食べさせてやった方が、あの多分家族単位で移動しているだろう鹿たちを、飢えさせなくて良いのかも知れないとも、思ってしまう。

 今、この太市村の田や畑は、鹿対策として、周囲を網や糸やリボンで張り囲んでいる所が多い。それは、決して見た目の良いものではない。しかし、英太も、その食べられた田圃に、簡単な防御リボンを張り、もう一つのこれはまだ食べられていなかった田圃にも、その周囲の二分の一程に、同様の対策をした。英太のやることゆえ、適当なやり方で、風が強かったりすると倒れるので、時々、修理しなければならない。

 以前から、鹿はいた。草刈りに行って、その田圃に数頭の鹿が遊んでいるような風景に出合うことは、よくあった。迷い小鹿が一頭、真昼間に、幹線道路沿いの田圃にまで、出てきていたこともある。しかし、こんなにも、鹿への防御対策を施さなければならなくなったのは、ここ数年である。去年は、英太も、鹿対策はしなかった。鹿たちは、人間たちの領域に踏み入ってきているのである。このことは、全国の多くの所で見られる現象であろう。

 この太市付近での、鹿の出没の原因は、いろいろあるだろうが、大きな一つは、やはり、山の切り開きなのだろう。この太市の北と南と東には、高速道路、高架の国道バイパスなどが、山を切り崩した中を走っている。このことが、当然のことながら、鹿の居場所と餌場を奪っている。少し離れたところにあるゴルフ場なども、鹿や野生の動物たちの住処を奪い、その山から追いやっているのだろう。数十年前に、杉や檜などの植林ブームがあったと思うのだが、それも、日本の昔からの照葉樹の森を崩し去り、動物たちを追い払う結果になっている。

 野生動物の保護が大切などと言いながら、ほとんど、彼らの生活圏への侵入に対して、心を配ることをしなかった人間の、傲慢な開発が、人間と野生動物との共生を自ら破壊してきたのだ。

 竹林は、放っておくと、照葉樹の森にも侵入していくことが問題となっているのだが、英太の竹藪の上の森に侵略していく筍は、鹿にとって鹿の食べ物として重宝され、一石二鳥の効果になることを、期待している。

  稲苗の 揺るるに迷い 来るかな

 

2012年  7月14日   崎谷英文


ポトラの日記 2

 数日前、物凄い大雨があった。僕は、ガレージの入り口にある寝床で、昨夜、相棒が多めに用意した食事をたらふく食べて、もう満腹で気持ち良く眠っていたのだが、突然、いわゆるバケツをひっくり返したような激しい豪雨が襲ってきたのだ。幸い風はそれほど強くなく、僕の寝床にまで吹き込むようなことはなかったのだが、篠突く雨は、その勢いを増し、小一時間もしないうちに、相棒の畑の東隣の幅一mほどの溝から、一気に水が溢れ出したのだ。雨は、衰える様子もなく、それからも降り続け、僕は、危険を察知して、相棒の家の縁側に、居を移した。

 僕にとっては、こんな大雨は初めてだったのだが、半野良とは言え、野性の心根は残っていて、さほど恐怖心はなく、こんなこともあるさ、という風に、畑を池のようにして、相棒の家の庭の土台の縁に辿り着かんとする水流を眺めて、自然の気ままさを実感していた。僕が、この縁側に来た時には、すでに母のダラと兄のウトラも自分たちの寝床から逃れてきていて、三匹で眠たい目を擦っていた。

 雨蛙が一匹、畑から流されてきたのだろう、畑と庭の境界の密生するドクダミの葉の上でじっとしている。雨蛙にとっては、水は喜びこそすれ、怖れるものではない。この大雨の中でも、嬉しそうに、水浴びしているかのようである。しかし、この雨は、日本の各地に大きな被害をもたらしたらしい。

 北側の田圃は、その植えたばかりの稲の苗が、すっかり水に覆われ、小さな湖状態になっている。しかし、水が引けば、稲の苗にとってさほどの害を及ぼすものではないことも分かる。時に、激しい水流で、根こそぎさらわれていく苗もあるが、概して、しっかりと根を張った苗は、蛙ほどではないが、その水に浸されることに満足しているようである。

 困るのは、畑の作物である。葉物の野菜や生り物のナス、キュウリなどは、まだ、被害は少ない。しかし、根もののジャガイモや人参などは、ちょうどその時、収穫時で充分に大きくなったイモや人参が土の中で水浸しになってしまう。相棒は、雨が止んで四・五日経って、天気の良くなった時に、ジャガイモを掘り出したのだが、その半数ほどが、ふにゃふにゃ、ぐちゅぐちゅになっていて、駄目だったらしい。そのジャガイモを見て、隣のおばさんから、いい勉強になったね、と言われ、豪雨の前日に畑上手の吉村のおじさんが、明日、雨が降りそうだから今日のうちにジャガイモを掘っておこう、と言っていたのを何の問題意識なく聞いていたことを思い出して、相棒は悔やむことしきりだった。人参も、豆腐のように柔らかくなっていて、とても食べられたものではなくなっていた。

 植物も動物も、そして人間も、生まれた途端に危険に晒される。自然の循環、摂理、恵みに縋りながら、自然の脅威の中で生きていくしかない。自然の恵みと脅威は、紙一重であり、太陽と水の恵みは、突如として、日照り、干害、洪水、土砂崩れに変貌する。

 生まれ出る者たちを、守り育ててくれる者もいれば、さらい尽くし追い散らそうとする者もいる。小さくて多く生まれる者たちは、その多くを犠牲にしながら、その種としての存続を図ろうとし、少なく生まれる者たちは、その力を持って、周囲にバリアーを張り、命を危うくする他者を排除して、数少ない子孫を残そうとする。

 陸の王者たる人間も、狩猟時代には、間隙を狙って襲い掛かる猛禽類に怯えながら命を削り、農耕時代に至っても、豊かであると共に気まぐれな自然現象の突然の暴挙に苦しめられてきたのである。さらには、同じ人間同士の、欲望と欲望のぶつかり合う中で、危険に晒されていく。

 その構図は、今も変わりはしない。生まれ出るということは、危険な場所に放り出されるということでもある。静かで穏やかだった彼の地に戻りたいと言う心情は、深く眠りながら残り続ける。

  黄揚羽の 青虫何処に 行ったやら (ポトラ)

 

2012年  7月6日   崎谷英文


予測不可能

 最近、コンプガチャとか言うインターネットサービスを使った遊びが問題となった。英太には、その内容がどんなものなのか、余り解ってはいないのだが、子供たち、若者がどうして、あんな訳の分からないものに熱中するのかと考えてみれば、人間とは、そんなものかも知れないなどと、自分自身の子供の頃からのふるまいを思い出している。

 子供の頃、メンコやビー玉と言ったものを競技して取り合う遊びが流行っていた。確かに、それらは、その遊びの技能の上手、下手というものが関係して、強い者が、多くのメンコやビー玉を手に入れることができ、多くを獲得した者は、優越感を持ち、満足感を得る。しかし、いつも、同じ者が勝つとは限らない。弱い者も、たまには勝つことがある。弱いくせに、負けん気の盛んな者は、負けても負けても、勝負に挑む。そして、たまたま勝った時の喜びが忘れられずに、負け続けながら競技をする。メンコやビー玉が、実質的に価値があるかどうかなどという吟味はすることなく、子供たちは、取り合いに興じる。遊びなどというものは、並べて、そんなものなのだろう。

 大人になっては、さすがに実質的利得が絡まないような射幸的な遊びは、余りしなくなるのだが、それだからこそと言おうか、どこかの大企業の御曹司がラスベガスのカジノで何十億円も使ったとまではいかなくとも、いわゆるギャンブルというものに、嵌っていく者が多くいる。英太も、若い頃、麻雀、パチンコ、競馬など、様々なギャンブルをやってきている。将棋や碁と違い、偶然の勝ち負けに、一喜一憂していく。宝くじももちろんそうだが、投機的株式売買なども、似たようなものであろう。

 人は、先がはっきりと分かるものに対しては、面白味を感じないのではなかろうか。予測可能で確実なことは、つまらないのではなかろうか。人は、本来、野性なのであって、狩りの時代から、予測の不可能なことに挑み続けて、そこに生きる感覚があったのではなかろうか。

 確かに、そんな感じはする。決まりきった同じ結果の出る予測の確実なことを、長い間、繰り返し行うことは、面白くない。どうなるのだろうかというわくわくした感覚が、人間にとって必要なのかも解らない。ヴェンチャー精神、パイオニア精神などにもつながるであろう。プロスポーツを見て、エキサイトするのも、その結果がどうなるかに興味が湧くからなので、結果の分かっている試合など、面白くなかろう。

 実は、人間の行状で、先の決まったものはない。この先どうなるか分からないのが、当たり前なのである。それを、無常と言ってもいいかも知れないが、人は、その無常の世界だからこそ、逆に生きていけるのではないか。こうすればこうなる、と決まっていないから、生きがいも生じる。

 しかし、また、逆に、人は、そんな無常の世界を生きることに苦しむ。先の予測ができないと不安になる。人類の文明とか文化とか言うものの進歩も、その不安を解消するため、という一面を持っていそうだ。学問をし、研究し、自然を探究して、その仕組みを解明し分析をして、予測がなるべく確実になるようにしようとしてきたのではなかろうか。

 しかし、苦しいが、その不安の中にこそ、生きる感覚はあるのであって、全くの平穏の中では、血湧き肉躍るような昂揚感は生まれない。予測不可能の中で、自分の目的とする結果を生もうと夢を持つのだ。だとすれば、自分の思うようにことが進めば達成感はあるのだろうが、たとえ、達成しなくとも、夢を見ている間は生きていける、ということになろうか。

 人は、この世を予測可能な全対応型に作ろうとして、文明、文化を進展させてきたのかも知れないが、そこに、落とし穴がありそうだ。所詮、人のやることに完璧はなく、予測可能にしようとすればするほど、管理し、監視しなければならなくなる。人の生きていく予測不可能な世界が、ただ、窮屈になっている。そんな気がする。

  宝石の 数多揺れたる 代田かな

 

2012年   6月23日  崎谷英文


ポトラの日記

 僕たち猫のことを、よく、人間たちは気ままな生き物だという。実際に、そうかも知れない。僕のような半野良の猫は、もちろん気ままで自由でありうるのだが、家の中で飼われている猫たちも、やはり、人間たちから見ると、気ままに見えるらしい。

 確かに、僕たち猫は、人間に飼いならされ賢そうに見える犬たちが、人間の言うことをよく聞き、走れと言われれば走り、待てと言われれば待ち、おあずけと言われればじっと我慢しているような、そんな芸当はほとんどしない。

 僕も、朝と夜のだいたい決まった時間帯での食事時には、僕たち三匹の食事場所になっている所に、通常は出向くことにしているのだが、気が向かないときは、行かないこともある。そんな時は、ちょっと遠出をして珍しいものに出会って追いかけていたり、途中で眠くなって横になったりしている場合で、何も、その相棒との暗黙の了解事項を忘れている訳ではない。覚えてはいるが、まあいいか、と言う気分なのである。

 もしかすると、僕たち猫は、犬たちより頭が良くないと思われているのかも知れないが、決してそうではない。僕たち猫は、犬と違って、飼われているからと言って、人間に養われているのではない、と言う意識がある。僕たちは、と言っても、程度問題で、ウトラのようにニャーニャーと泣くことによって相棒の気を引くようなしぐさをしたりする猫もいるのだが、本来は、猫は、独立独歩の精神を持っているのだ。獲物を自力で捕ってきて生きるのが本分だと心得ている。サザエさんの、魚を咥えて追いかけられている猫は、自立をしているのである。現に、今朝の食事には、ウトラと母のダラは、今の時期の獲物である蛙などを捕まえたのか、やってこなかった。

 猫たちは、自由を求めている。人間たちとべったりとした契約は交わさない。だからこそ、兄のウトラのように、ふいと居なくなったりして、自由を味わおうとする。まあ、僕は、相棒のだらけの精神に染まったのか、この家が気に入り、気楽さにかまけてしまっているのだが、その分、相棒に気を遣って、相棒が畑で何やらうろうろしているのを、そばで見てやったりするという気苦労もしている。相棒も、僕がいなくなると寂しがるだろうと思うし、今は、少し、相棒の情けない姿が可愛いとも思う。

 だけど、人間社会と言うものは、全く約束と言うものによって縛られているような気がする。はっきりとした文章で書いた契約書のようなものでなくとも、口約束で、今はメール約束かも知れないが、きちんと約束事を果たしていく。人間社会には、もっとたくさんの書かれない、語られない約束事があるようだ。まあ、それがなければ、人間社会が成り立っていかないのは理解する。

 人間は、どうやら一人では生きていけず、周囲の人間、小さな社会、大きな社会との関係で、確かな予測のできる中でないと、やってられないらしい。だからこそ、法もあり、規則もあり、約束もある。また、だからこそ、法破り、規則破り、約束破りに対して、罰があり、賠償が請求される。蜘蛛の糸のようにがんじがらめに繋がれた現代社会は、管理社会、監視社会にならざるをえないのだろう。しかし、また、だからこそ、そんな窮屈なことやってられるかと、無法者や、やんちゃ坊主が出現するのだろう。だからこそ、仙人になろうとする者もでてくる。

 僕たち猫は自由で、約束などしないのが普通だ。阿吽の呼吸で、お互いの心境を読み取って、適当に対応する。相棒とも、はっきりと約束したことはない。しかし、やはり、人間は約束しながら生きていくしかないのだろう。人間の現代組織社会では、否応なしの約束が多いと聞く。知らず知らずのうちに、自由を束縛され、嫌々ながら約束するのは、面白くなかろう。人間も、もっと自由に、気持ちのいい快い約束だけをしていくようにすればいいのだ。

 今、僕は、相棒と、少しばかり心の通う約束をしている気分である。

  花残す 疾しさ残し 朝草刈

 

2012年   6月16日  崎谷英文


 大津茂川の相野橋の北から、姫新線の太市駅のホームの東端に沿っての川土手は、両岸が桜並木になっていて、この四月の初めにも、艶やかに桜が咲いていたのだが、今日は、五月の最後の日曜日、桜並木はすっかり葉桜となり、その青々とした景色も、また、日中は見ものである。そんなことを思い出しながら、夜の八時頃、この土手に、英太は、缶ビールを片手に、家から二・三分歩いてきていた。

 蛍がいる。黄というか黄緑というか、仄かな小さな灯りではあるが、その灯りが五つ・六つ川岸に沿って、ゆらゆらと、あっちへ行ったり、こっちへ来たり、灯りと灯りが向かい合って動いたり、追いかけるように動いたり、灯っては、暫くして消え、また再び、暗がりの先に灯っていく。よく見れば、あっちにもこっちにも、かなり多くの蛍がいるようである。向こう岸に沿っての蛍は、よく見えるが、近くを覗き見れば、こちらの岸の草叢にも、たくさんいるではないか。草葉にとまりながら、点滅を繰り返す。英太は、久しぶりに、こんなに多くの蛍を見た。

 今朝は、相野地区の溝掘り作業だった。溝掘りとは、百姓にとって、とても大事なことで、今は堰き止めてある蓄えられた溜め池の水を、みんなの田に一斉に田植え時に放出するのだが、その水の通っていく溝を、地区の者みんなが、日を決めて、一緒にきれいにしていく。今は、田溝も、コンクリートで固められたり、U字溝で整備されたりしている所が多く、溝に溜まっている土や泥の量も、それほど多くなく、作業は、大分楽になっている。昔は、手造りの溝ばかりで、両側の草を刈りながら、溜まった土や泥を、畔に上げていく作業は、大変な重労働であった。しかし、田植えの水はとても大切で、この作業こそ、稲作を行う者にとって、欠かせない。こうして、英太も、今朝の七時から、その数人で担当する線路を挟んだ南北の溝掘りをした。

 秋には、稲刈り前に、道造りという同じような作業がある。これは、思うに、収穫した米を運ぶ道を、確保するためのものであろう。米作りというのは、協同作業であった。何よりも水が大切で、だからこそ、我田引水などという言葉も生まれるのだが、瀬戸内の水の少ないこの地域では、ことさら、仲良く溜め池の水を分かち合わねばならない。今や、太市では、専業農家など一軒もなくなってしまったと思われ、休耕田も増えているのだが、それでも、結構多くの年老いた村人たちが、米作りをする。休耕田にしても、草刈りはせねばならず、米作りとどちらが大変か分からないから、という理由もあろうが、それだけではない。今は、金があれば食べていける時代なのであろうが、実は、今も昔も、田があるから食べていけるのだ。多くの村人が、そこから遠ざかることに抵抗があるのだろう、と英太は思っている。

 その溝掘りの後、英太は、自分の田の畔シートを張る作業を行なった。やはり、水が大切で、いくら水が田にいっぱい入っても、直ぐに抜けてしまっては困る。そのため、畔に沿って、今は厚みのあるビニール製であろう長い、高さ三十センチほどの物を、モグラの穴などで水が抜けないように、田の周囲に張っていく。これが、また、重労働である。畔に沿って、スコップで溝を作り、そこに畔シートを押し込んで、また、その上に土を被せ、踏み固めていく。結局、仕上げるのに、夕方まで掛かった。岡林信康氏の山谷ブルースに言うように、本当に、今日の仕事は辛かった、後は焼酎をあおるだけ、という心境になる。

 そうして、朝の溝掘りの時に、川近くに住む山本さんから、蛍が飛んでるよ、ということを聞き、缶ビールを飲みながら、歩いてきたのだった。池田澄子氏の句に、「じゃんけんで 負けて蛍に 生まれたの」というのがあるが、実は、「じゃんけんで 勝って蛍に 生まれたな」ではないか、と英太は、考えていた。

  短くも いのちを照らす 蛍かな

 

2012年  6月1日   崎谷英文


文化の変容

 文化とは何か。単なる芸術、美術、芸能、音楽、祭り、建築、さらには、伝統などと言うものではなさそうだ。文化とは、人のふるまいの根底にある、精神的な生きるよすが、あるいは、心の無意識裏に潜む道標、のようなものではなかろうか。

 ただ単に、自分一人が俺はこうなのだ、と独自にふるまうことは、それも、たった一人の文化なのだと言ってしまえば、言えなくもないが、やはり、それは単なる個性、信条でしかあるまい。文化というものは、元来、地域社会の地域、階級社会の階級、民族、において、善くも悪くも生きる術としての、生命の糧を作り出し、生きる意味を与えるものとして、代々受け継がれてきたものではなかろうか。

 その象徴としての、芸術、芸能、祭り、慣習、しきたり、伝統、なのであって、それらは、世代を越えた、人々の生活の中に受け継がれていく精神の目に見える部分と言えよう。

 文化というものの根底には、宗教的、哲学的と言ってもいいような、生きていくための知恵があり、抑えきれない情念があり、限りある生命を生きる人間を見据えた中での、希望と諦観の入り混じった宇宙観が隠れている。

 英語の、文化、カルチャーには、元々耕作、耕す、という意味があり、農業、アグリカルチャーとは、大地を耕す、という意味である。文化は、本来、素朴な謙虚な、人間は人間としてだけでは生きていけず、自然と共にある姿としての、敬虔な祈りを備え持った心身の営みなのである。

 英太は、この五月に、村の葬儀に三回列席せねばならなかった。隣保と呼ばれる近所の十数軒で、葬式の手伝いをするというのが、この村の慣習であり、昔は、民間の葬儀場などもなく、その家で行われていたのだが、隣保の人たちが、村人のための食事を作り、道案内をし、経も読み、死者を火葬場まで運んだ。今は、ほとんどが、民間の葬祭場で葬儀を行い、隣保の仕事も、香料の受け付けぐらいになっている。このことを、古き煩わしい因習と思うか、良き温かき助け合いと見るか、で評価は変わろう。

 あらゆるものが変化していくように、文化も常に変容する。外的要因がなくとも、人が新しく生まれ変わるが故に、変容し続ける。それでも、長期の閉鎖的社会においては、その変容は緩やかである。

 しかし、人口の都市集中による地域の変貌、そして、科学技術の発達、生活の隅々にまで入り込んだ文明が、人々の生活を変えるように、文化も大きく変節せざるを得ない。

 そこでは、もはや、地域的文化というものの持続的存続、自発的継承、自然的伝承、というものは、困難となりつつある。グローバル化した文明は、世界から地域性というものを奪い去っていく。一国内の文化さえ、単なる観光の目玉に成り下がる。

 文化を守ろうとする動きも生じるが、文化を守るという言葉こそ、無理矢理の押し付けにより、伝統的文化として留めようとしている風があり、文化保護の名において、文化を陳腐なものに貶めていくことにもなり得る。

 文化は、根付いてこそ意味ある文化であり、人々が実感として溶け込んでいって受け継がれるべきものであり、無理矢理根付かせ押し留めようとしても、それは、記憶と記録の発掘でしかない。

 あらゆるものが変化していくのであり、当然、文化も変化していくのであって、新しい文化というものが、時々刻々、生まれていく。ただ、文明によってもたらされる文化の変容というものが、軽佻浮薄な欲望のみを助長し、人間としての孤独、社会の中の疎外に思いを致さないものだとしたら、そのような文化は、ただの流行で、次々と生まれては消えていく泡のようなものでしかない。

  春霞 何ものもなく 二日月

 

2012年  5月25日   崎谷英文


不自由のすすめ

 英太は、昭和二十七年生まれである。昭和二十七年と言えば、戦後の混乱期を過ぎ、朝鮮戦争特需などで、日本が経済的にも復興し始めた頃である。いわゆる団塊の世代より、一・二年遅れの世代であったが、それでも、その年の日本の出生数は、二百万人を超えていたであろう。今の日本の出生数は、百万人を少し超える程度になっている。

 英太が生まれたとき、この村はまだ揖保郡太市村であり、昭和二十九年に姫路市に合併された。英太の生まれた頃からすると、今の家の戸数は、一・三倍程になろう。英太の学年は、五十人、その当時は、一学級は五十人までとされていて、一学年一学級五十人の大所帯であった。しかし、今は、太市小学校の六学年全体で、ほぼ百人にまで減っている。それでいて、家の戸数は増えているのだから、村全体の人口は二千五百人程で増えてもいず、つまりは、子供の数が減り、老人が増え、老人の一人・二人世帯が、多く残っているという状況になる。これは、多分、日本の至る所で見られる現象であろう。

 英太の小さかった頃、電気は通っていたと思うが、まだ上水道もなかった。つまり井戸水を使っていたのだ。電気が通っていたと言っても、灯りとしての利用しかしていなかったのではないかと思う。いわゆる三種の神器、テレビ、冷蔵庫、洗濯機がやってきたのは、英太が小学校に入ってからだったろう。夏の暑いときも、ただ、汗だくになりながら過ごしていたのではなかろうか。扇風機もなかったろう。裸になり、大人たちは、あのステテコ姿で、団扇を扇いで暑さをしのいでいた。冬の暖房も、掘り炬燵の中に炭を入れ、テーブルで挟んだ蒲団を炬燵に掛けて、子供の頃は、その中に入り込んでいた。よく一酸化炭素中毒にならなかったものだ。昔の家は、隙間だらけなのである。

 それでも、子供たちや、おばあちゃんたちは元気だった。今や、夏はクーラー、冬は暖房エアコンで、閉め切った部屋の中でも、快適に過ごす。外に出る度に、夏は暑いと言って騒ぎ、冬は冷たいと言ってやかましい。

 きっと、英太の世代が、電気文明のない世界を知る最後の年代なのかも知れない。もちろん、電気の明るさは知っていたが、当時はよく停電もし、ろうそくの灯りにも慣れ親しんでいた。今、電気の供給量が、この夏、足りなくなるのではないかと騒がれているが、英太にとっては、どうってことはない。電気のない生活も、いざとなれば、昔を思い出せばやっていけそうだ。元々、人間は、暑い中、寒い中、生き続けてきたのだから。

 筍の季節は過ぎて行ったが、その筍を煮るのも、薪と釜でやっている。いざとなれば、釜で飯も炊けるだろう。どうってことはない。野山を行けば、食べられる野草や山菜もあるだろう。

 太市の筍は、今から約八十年前に、この村のある人が一本の孟宗竹を移植したのが始まりと言われる。英太の子供の頃の、まるで背比べをするような大きな筍と一緒の写真が残っている。文明が進んでも、筍は手で掘るしかない。藪の中に機械は持ち込めず、刃の長い鍬で、なるべく傷つけないように、上手に根っこの少し上を切っていくのだが、こつが要る。いつも上手くいくとは限らない。大変な重労働であり、老齢化した太市村では、放棄されざるを得ない竹藪も出てきている。

 電気エネルギーを利用した工場生産においては、電気不足はたまらないであろうが、そこは、助け合って、工夫せねばなるまい。現代のような、閉め切った高層ビルの部屋の中に住み、働く人たちにとっては、エアコンのない生活は、耐え難いかも知れない。しかし、日本は、暑い夏と寒い冬とがある、四季豊かな国なのである。文明に頼らない生活を、幾らかでも、やってみてはどうだろう。存外、どうってことはない。

  鋤きし田に 鳥集まるや 夏隣

 

2012年  5月16日   崎谷英文


半野良ポトラダイアリー 2

 僕はポトラである。生まれて多分一年程になると思うのだが、僕たち猫にとっては、一才というのは、もう、大人になる。その僅か一年という間に、僕は、様々な経験をし、いろいろな事を学んできた。

 生まれて暫くは、母親のダラのおっぱいを兄弟三人で貪るように飲んでばかりいたのだが、生まれて一か月もしないうちから、走り回ることを覚え、母親の後を付いて、跳ね回っていたように思う。

 猫というものは、生まれて直ぐに歩くことができる。哺乳類全般で、哺乳という子育て時期というものがあるのだが、一般の哺乳類は、生まれて直ぐに立つことができる。それに対し、人間の赤ちゃんは、生まれて直ぐには立つことはできないらしい。不便じゃないかと思うのだが、聞くところによると、それは、生理的早産というもので、両手を使って抱っこして哺乳できる人間の特徴らしい。そのことが、母子の情を自然に培っていることにもなる。

 でも、猫でも親子の絆がない訳ではなく、僕は、今でも、母親に助けられているし、時には、母親の胸をまさぐったりもしている。しかし、僕は、本来野良なので野良は自立して生きるしかなく、この一年間に、母親から本能としてのネズミ等の獲物の取り方や、時々襲ってくる野良犬、他の野良猫、茂みに潜む毒蛇らの危険を察知し上手く距離を取ることなど、勉強してきたのだ。

 僕は、今は、相棒と遊んでやることの代わりに、食事を貰っているので、野良というより、半野良と言っていいだろう。他の、人間の家の中で人間と一緒に住んでいる所謂飼い猫とも違い、相棒の家の中には入らない。

 三人兄弟と言ったが、弟のコトラは自動車事故で死んだ。兄のウトラは元気でいる。このウトラは、ちょうどコトラが死んだ直ぐ後に、突然にいなくなった。三か月ほど何処に行ったのか姿を見せなかったのだが、再び、ふと戻ってきた。僕より一回り大きく、逞しくなったように見えた。旅をしてきた間に、野生の本能を研ぎ澄ませてきたようでもあり、ニャーニャーと泣いて食べ物を要求するようなところは、世渡り上手になったようでもあり、とにかく、いい意味でも悪い意味でも逞しくなったと言えよう。ウトラは、今でも、時々、ふいと二三日いなくなり、また帰ってくる。まるで、フーテンの寅さんのような兄貴だ。

 夏近くなって、相棒が小さな耕耘機で畑を耕し、いろんな野菜の種を蒔いたり、苗を植えたりしている。しかし、自然に育てるのだと言って、実は、怠け者のせいで、雑草を取らない。そうすると、自然の摂理で雑草は蔓延る。雑草が蔓延ったままでも、ある程度成長してくれる野菜もあり、相棒は大いに喜んで、小さくしかできていない野菜たちを褒めている。

 だけど、そんないい加減な野菜の育て方に、相棒の奥さんは怒る。雑草が混じって採りにくい、採った野菜から雑草を取り除くのが面倒だと、相棒を詰る。隣の人の畑のように、きちんときれいにしろと、罵倒する。

 まあ、相棒ほどの怠け者はなく、それでいて、時に耕耘機を使わずに鍬で耕して腰が痛いと唸ってみたり、はたまた、小さなスコップを手にして、一所懸命畑の土を穿って、少しずつ苗を植えたりして、それでも、ご満悦の様子である。何処までもおちゃらけの相棒だ。

 相棒の怠け心がうつったのだろうか、僕も、本当は、野生の本能を磨き上げる修行をしなければならないのに、今のこの時季、縁側で寝そべってうとうとするのが、一番気に入っている。

  黙祈して 植えしトマトの 苗低し

 

2012年   5月7日   崎谷英文


夢に舞う

 目が覚めると、自分が何処に居るのか見失っていて、暫くして、ようやく東京のホテルの一室に居ることを思い出し、さっきの夢の中の世界の自分は、いったい何だったのだろうかと、一瞬の新生とも、逃れられない悶え苦しむ現実への回帰とも錯覚し、頭の痛みと胸の重苦しさに、やはり、この世に舞い戻ってきたのだ、と実感させられる。ホテルのバスタブの中でゆっくりと身体を沈めて、昨夜というよりこの日の午前一時まで、それこそ、昼の一時からすると半日の間飲み続けて、蒟蒻か、はたまた日干しのようになった頭と身体を癒そうとするのだが、年老いた身に、昔のような回復力はなく、用意していた二日酔いの薬瓶を一気に飲み干す。

 東京に帰って来て、帰って来てというのは、英太は一時二十年以上東京に居たからなのだが、いつも思うのだが、東京には土がない。昨日も、浅草寺に行ったのだったが、境内の奥に土はあったのかと思い出そうとするが、覚束なく、コンクリートの上ばかりを歩いていたような気がする。たとえ、土の上を歩いていたとしても、きっと、その下には、地下鉄が通っていたりもするだろう。

 今や、東京の一大新名物となったスカイツリーを見ている隣を、観光用の人力車が通る。科学文明の最先端への感嘆と、古の伝統への郷愁が入り混じった訳の解らない光景は、人の心を分裂させて、楽しんでいるかのようである。文化遺産を愛でながら、最新電子機器に日常を奪い取られていく人間たちは、きっと、器用なのだろう。文明を謳歌しながら、伝統文化を慈しむ。結構なことだ。

 ホテルを出ると、そこは、山手線の駅に直結していて、昨夜からの雨が本降りになりつつあるにもかかわらず、ほとんど、濡れることもなく駅に辿り着く。夥しい人の波が、駅から襲い掛かるように、英太の道を塞いでいく。ゆっくりと歩く人は、ほとんどいない。みんな早足で、笑っている顔もなく、きっと現代という魔物に取り憑かれているのだろうそんな能面のような顔で、英太の横を擦れ違っていく。

 現代というものは、人を自由にしてきた結果なのだと思われているのだろうが、この光景が、人々を自由に、おおらかにしてきたものとは、とても思えない。隊列を組んで、行く手を阻む者を追い散らかしているかとも見え、それは、ずっと以前、英太にとっての常日頃の情景だったのだが、今や田舎者で小心者の英太には、身構えさせ、パニック症状さえ起こさせかねない緊張させるものとなっている。そして、いつも思う。こんなに、人間はいたのかと。

 一時間近く待って、新幹線に乗る。英太のC席は三人席の通路側で、窓側には、青年がノートパソコンを抱えて、英太の前から入り込んできた。まだ、二十才そこそこの青年らしく思われたが、出張か、出張帰りか分からないが、車内で仕事をするらしい。文明は、人から仕事を奪いながら、人を休めさせてもくれない。英太は、さっき食べた蕎麦で、ますます気持ち悪くなって、寝ようとしたら、検札が始まった。車掌さんは女性である。現代というものは、女性を家庭から解放する時代でもある。

 それにしても、昨日の舞妓さんは可愛かった。浅草の老舗のうなぎ屋の二階で、二十人以上の還暦の男女の席に、二十才そこそこの、見事な日本髪を結った舞妓さんが二人、それこそ、英太は舞い上がり、鼻の下を伸ばして、下品にならざるを得なかった。文明というものがいくら進んでも、人間の止められないことは残る、と納得する。較べて姥桜などと揶揄された還暦の女性たちも、いつまでも恋心は大切、などとのたまう。夢ともつかないものだが、夢のようなものは必要なのかも知れない。そして、決して叶うことのない夢であれば、いつまでも夢見ていくことができる。夢は、叶ってしまえば、夢でなくなる。

 英太は、夢を見ていた。

  古(いにしえ)を 今に重ねて 春を舞う

 

2012年  4月24日   崎谷英文


ただの塊

 鏡の中の自分の顔を、今まで何度見てきたことだろう。大方、少なくとも一日に一度は、鏡の中の自分の顔を見てきていただろう。

 英太は、今朝もいつものように目を覚まし、洗面所の鏡の中に自分の顔を見つけた。この時、以前とは違うものを感じた。今まさに、その鏡に写っているのは、英太の顔である。しかし、ふと、その顔が自分のものではない、何か得体の知れないものとして英太の脳幹を刺激した。

 果たして、この鏡に写る顔は、自分自身なのか、自分自身とはとても思えない、まるで見知らぬ誰かのように自分に対峙している。この鏡の中の像は、俺なのか、否、俺ではない、この顔は俺ではない。鏡の中の顔は、今俺と対峙し、面と向かい合っているのであって、この俺は、この鏡の前に立つ俺であって、鏡の中の顔が、俺である訳がない。やはりそうだ。鏡の中の顔は俺ではない。鏡を見ているのが俺なのだ。

 では、鏡の中の顔は誰なのだ。誰の顔なのだ。英太の知らない見知らぬ顔だ。この不細工な皺だらけの顔は誰なのだ。果たして、この顔は人間なのか。生きている人間の顔なのか。違う、この顔のようなものは、ただの塊だ。命を持った、生きた顔などというものではない。目も鼻も口も、ただの塊だ。それらの集まった顔のようなものも、また、ただの塊でしかない。

 そうなのだ。人間などと言ったって、ただの塊でしかない。空間の一部を占めるあの河原や庭の石と同じだ。人間だからと言って、何の特別なことがあるのか。ただの石ころと同じではないか。サルトルの「嘔吐」の中のロカンタンが、マロニエの樹の根元を見て吐き気を覚えたように、あらゆるものの、そして、人間の、グロテスクな存在を見たようだ。あるいは、離人症のように、自分の肉体と自分の意識が離れて行ってしまったのか。

 鏡の中の英太の顔は、英太自身ではない。英太は鏡を見ているのであって、鏡の中の英太は、他人だ。ようやっと、鏡の中の顔を、人間だと思えた。しかし、自分自身ではない。他人として見ている。やはりそうなのだ。鏡の中の英太を、英太が他人として見ているように、生身の英太も、他人に見られている時、他人にとって、英太は他人でしかない。しかし、他人から見ると、先ずはただの塊として空間に位置している英太なのだから、そうすると、他人から見た英太は、人間として見られる前に、ただの塊としても見られている。

 しかし、英太にとって、自分も他人も、ただの塊でしかないのではなく、やはり、人間である。善い悪いの問題ではなく、英太も他人も、人間である。結局は、人間がただの塊であったとしても、そうして、究極的にはただの塊あるいは埃になるにしても、人間はただの塊ではない。

 あらゆるものは、究極的にはただの塊なのだ。そのただの塊がこの世を作っている。そのただの塊が、この世界に満ち溢れているのだ。英太は、人間としてこの世の空間の一部を占め、この世に存在するすべてのものは、英太と同じように、この世界に存在し、空間の一部を占めている。だとしたら、英太も他人も、あらゆる生物も、あらゆる石ころも、同じだ。ただの塊でありながら、ただの塊ではない。

 翌日の朝、英太は同じように、洗面所の鏡の中に、自分自身の顔を見つけた。その顔は、自分自身の顔だった。醜く汚い、年老いた顔だが、まぎれもなく自分自身の顔だった。少し、ほっとした。山川草木悉有仏性。

  群れ生きて 一つに還る 春の草

 

2012年   4月13日   崎谷英文


半野良ポトラダイアリー

 僕は猫である。名前は、ポトラと言う。などと書き出せば、漱石の二番煎じそのものであるかのようだが、僕が猫であることは、隠しようもなく、正直者の僕にとっては、こう書き始めるしかないのだ。

 どこで生まれたかは、人間への質問でも、人間はそれを知っているかのように話すが、実は知らない、ただ聞いて信じているだけで、誰も確たる返答ができないように、僕も知らない。しかし、物心ついたときには、この家の周囲を走り回っていたので、この近くであることは間違いない。僕は、三人兄弟の真ん中に生まれたのだが、一番下のコトラは、生まれて半年ほど経った頃、自動車にはねられて死んでしまった。僕の相棒が、涙を流してコトラを埋葬していたのを思い出す度に、僕も涙が出る。

 この地の夕景はきれいだ。僕は、招き猫の手を挙げていない正しい姿勢で、縁側に座って、ゆっくりと暮れなずむ空を見るのが、一等気に入っている。僕は、まだ、一才の手前にしかなっていないので、春の夕景を見るのは初めてだったのだが、昔の人が、「秋は夕暮れ」などとのたまうのは、この春のぼんやりとした長閑な情景を知らなかったのか、と思ったりする。もちろん僕も、この前の秋の、寂滅たる雰囲気の夕景に見とれてはいたのだが、この春の夕景も捨てたものではない。

 夕陽が朝日に較べて、眩しくないと書いたのは、「老人と海」でのヘミングウェイだったと思うが、この春の夕陽こそ、霞んだ空に煙り、淡い光をゆっくりと放射していて、全く眩しさを感じさせない。夜のしじまがようやく迫ってきて、山の端から闇が広がり一番星が輝く頃、僕もやっと、縁側から寝床に向かう。

 僕の相棒は、いつも夜遅く帰ってくる。何やら、学習塾といういかがわしい夜の商売らしく、本来、人間社会では、公の学校教育というものがきちんと機能していれば、不必要なはずの私塾で、親の弱みに付け込んで、金を取っているらしい。因果な仕事だ。

 しかし、今では、中学校や高等学校、いや小学校でも、教師たちが、算数教室、英語教室、学習塾や予備校のようなものを当てにしている風があり、そのことが、ますます、この格差社会の中で金を持つ者と持たない者との実社会での固定化を助長しているだろうことを不条理と思っていないらしい。このようなことが、ただ単に受験勉強だけはできる子供たちを鼻持ちならない青年に育て上げ、ひいては、実力のない馬鹿で、地位と権力と名誉だけにしがみついている指導者たる大人たちを作り上げているのだ。

 僕の相棒も、もう、還暦という年らしく、昔ならとっくに定年退職、現役引退というところなのだが、まだ、少しは命がありそうだということで、細々と子供たちを教えている。教えることは、長い間同じようなことをやってきているので、居眠りしていてもできるそうだが、自分で考えて解いていかなければ、意味もなく面白くもないだろうと、立ち往生して困った顔を見て、初めて手助けしているらしい。

 こんな時代に松下村塾のようなものが成り立つべくもなく、あったとしても、それは、憂国、憂世界の志を持つ者たちが集まるのではなく、権力への道程としての参集に過ぎないのではないか。相棒は、今の日本が、相棒が若かりし頃の自由と平等を渇望する革新的運動ではなく、保守的権力集中の動きになっていることを嘆いている。

 この間、僕はネズミを捕まえた。ネズミの捕らえ方など、誰に教わった訳でもない。僕の本能の中に、ネズミは少々懲らしめてやらなければならないという遺伝子があり、自然にその手口は修得した。僕が、捕まえたネズミを相棒のところに持っていったら、相棒は少し嫌な顔をしながらも、僕を褒めた。しかし、雀の子を捕まえたときは、褒めてくれなかった。

  暮れなずむ 光と影の 春の山

 

2012年  4月3日   崎谷英文


ケヤキ・クスノキ

 英太の家の裏庭に、大きなケヤキとクスノキが並んで立っている。

 ケヤキは落葉樹で、この時季、葉を落とし、滑らかなうす茶灰色の木肌の幹と枝を見せているのだが、決して、寒そうに身を縮こまらせているのではなく、餅つきの臼にも使われるというその根元は、直径1メートル近くもあり、三メートル上がったところから枝分かれして、そこからは、ほぼ二メートル毎に左右に主幹から立派な太い枝を広げている姿は、厳しさの中の無慈悲の力強さを誇示するかのようである。一年ほど前には、三十メートル近くもの高さになっていたのを、上の方を切り落として十五メートルほどの高さになっていたのだが、落ち葉や枝が周囲に迷惑を掛けることになるので、いっそ、根っこから抉り取って始末してしまおうかと思ったのだが、やはり、根の蔓延り具合からしても難しく、また、可哀そうでもあり、五・六メートルの高さにまで上部を切り落とすことにした。

 ケヤキから三メートルほど離れたところにあるクスノキは、常緑広葉樹で、ケヤキと同じように三十メートルから十五メートルほどに背を縮めていたのだが、切り取った太い枝の切り口から、幾本もの豊かな枝葉を上空に向かって伸ばし、裏庭の塀を乗り越えて広がり、全身を緑の葉で覆っている様は、自らもやさしく包み込みながら、あらゆるものへの慈愛を唱えているようで、隣のケヤキと好対照を見せていた。このクスノキも、五・六メートルまで切り落とすことにしたのだった。

 ケヤキもクスノキも、英太の小さい頃には、二・三メートルの若木であったろう。多分、英太の生まれる頃から、この家の裏庭の主として、育ってきたのだろうが、裏庭でもあり、気に留めることもなく、その成長を見ることなどほとんどなかったのだが、いつの間にか、並び立つ大木として、裏庭を占めていたのだった。

 植木屋さんは、大きな木を切る時、御祓いをする。木も生きている。木の命を縮めるのだから、それなりの償いをせねばならない。お神酒を掛け、人間の身勝手な自然への冒涜に対しての、謙虚なる謝罪をせねばならないのだ。

 思えば、このケヤキもクスノキも、英太のこれまでの生涯の同伴者だったのかも知れない。きっと、生まれも英太と同じ頃だったろうこのケヤキとクスノキは、英太がこの家に十八才まで育つのを間近に見ながら、その後は、英太とは遠くにありながら、しっかりとこの地に根を張り広げ、天に向かって枝葉を広げ、時々帰ってくる英太とこの家に起こる様々な滑稽とも言うべき出来事を、静かに見ていたのではなかろうか。

 この家で、五人の葬儀をしてきた。祖母、祖父、姉、父、母と。人の命は短い。その短さは、また、人それぞれである。人は、何時果てるとも知らず、幻影の中で、束の間の喜怒哀楽に身を浸しているばかりなのだ。

 人と他の動物、植物との違いは何なのか、様々な説かれ方があるが、他の動物や植物は、決して、人間の持ち物ではなく、生命を持った、同じ自然の中の生物であるということは、忘れてはならないのではないか。他の動物や植物も、決して、人と敵対するものでないのはもちろん、人の単なる愛玩物でもないのだ。一瞬の命から、遥かなる命まで、様々な寿命を持ちながらも、行き着く先は、みな同じような気がする。

 直径七・八十センチメートル、重さ数十キログラムもあるだろう太い枝を、ロープに結び付け別の切り取った枝の根元にくくって、電気のこぎりで枝を落とし、振り子のように支えて、ゆっくりと下ろしていく。植木屋さんが、命懸けの作業を何度もしながら、ようやく、二本の大木が五・六メートルの高さに収まっていく。生きている枝を数本、それぞれ残しておく。そうすれば、このケヤキとクスノキも、まだまだ、命を保つ。

  春泥や 還るいのちに 往くいのち

 

2012年   3月23日   崎谷英文


大地震から一年

 東日本大震災から一年が経つ。英太は、ちょうど一年前、テレビで何気なく古い推理ドラマの再放送を見ていたのだが、突然、そのドラマが中断して、東北での大地震の発生が伝えられ、映像が切り替わった。報道は、大地震からの大津波の警告を流し続けていたのだが、程なく、三陸沖からの大波のうねりが、大地に襲い掛かってきたのだった。その惨事は、改めて語るまでもない。

 死者、行方不明者を合わせて、二万人余り、倒壊、流出家屋、三十八万戸以上、という悲惨さであった。加えて、原子力発電の冷却装置の全壊による核燃料のメルトダウン、水素爆発で、大量の放射能物質が放出されたのだった。

 喉元過ぎれば熱さ忘れる、人間というものは忘れっぽい。あれほどの酷い災害であったのに、もはや、人の記憶では、遠い過去のものとして語られ、むしろ、これから起こるであろう関東、東海、南海の大地震の備えの方に関心が集まる。だいたいが、人間の叡智たる科学というものが、どれだけの予測能力を持つというのか。今後、三十年で、東京直下型大地震が、七十パーセントの確率で起こるという予測がなされるが、それが、どれほどの恐ろしさなのか、実感はない。だいたいが、そんな天災を怖れていては、おちおち寝ていられないのであって、その不安の心理こそ、有限の人間の時間を無駄にし、人の命をさらに縮めよう。

 天災は仕方がない、などと言えば、叱られるのであろうが、世の無常は、如何に文明が発達しようが、厳然たる事実であり、無常を止める術など、人間にはない。明日、明後日の天気さえ、人間は変えることなどできず、寒波、猛暑に、ただひれ伏すだけではないか。天災による被害を最小に抑えようとすることは必要だろうが、天災そのものを止めることなど、人間の能力の外なのである。

 天災に遭うか遭わないかは、その人の責任ではなく、たまたま、その人に起こったことなのだから、今度は、いつ何時わが身に降りかかるか分からない。だからこそ、天災からの復興は、被災者本人のみが負うべきでなく、社会全体で負わなければならないのだと思う。それにしても、金持ちは、貧乏人にとっての大金である自分にとってのはした金を寄付し、貧乏人は生活を削ってなけなしの金を寄付するのだが、金持ちは、こんな時こそ、自ら貧乏人になるまで金を出さなければならないのではなかろうか。

 あの原子力発電所の崩壊の時、多分、人はこぞって、あんな危険なものはもう要らない、と思ったはずだ。しかし、時間が経ち、少し落ち着いたら、もっと安全に作るべきだった、とか言って、安全さえ担保して、原子力発電は続けざるを得ない、というように風向きが変わる。文明の悪循環によるエネルギーを大量消費せねばならない状況を反省することもなく、相変わらず、文明を謳歌し、その発展を希求してやまないのだ。

 文明はリスクを生む。自動車があるから自動車事故で、人は五千人近く、毎年死ぬのであって、自動車がなければ、交通事故で死ぬ人は、ほとんどなくなるだろう。しかし、それでも、自動車事故による被害は、大量虐殺には至らないから、まだ、その利便が優先されるのだが、原子力と言うものは、大量の死者を呼び起こし、大地、大海原さえ死滅させ得る危険を持つものなのだ。自動車事故において、その機械の不具合、故障が原因になることもあれば、操作の誤りによるものもあるのと同じように、機械である原子力発電装置も、確実に、無常に劣化していき、たとえ、何重に安全性を確保しようとしても、そこに、絶対安全の神話などあり得ないのだ。人は、必ずミスをする。ミスを起こすことを前提に話さねばならないのであって、その人のミスによる事故が、大量の死者の危険性を持ち、将来に渡っての子孫への毒を撒き続けるのだとしたら、そんなものは、要らないのではないか。

 文明に浸り続けた人々は、文明を享受しなければ生きていけないのだろうか。そんなことは、あるまい。人は、電気などない、ガスなどない、自動車などない、そんな時代にもちゃんと生きていたのだ。ひやひやしながら生きていくのは、もういいではないか。不便でも、力強く身体を使い、工夫をし、助け合っていけば、生きていけるのだ。

 こんなことを述べても、現実を知らない愚か者の絵空事で、ちゃんちゃら可笑しい、と思われるだろうが。

  風に落つ 京の古刹の 残り雪

 

2012年   3月12日  崎谷英文


大道廃れて、仁義有り

 つい先日、―『老子』〈道〉への回帰―という神塚淑子氏の本を読んだ。神塚氏は、英太の高校の同級生で、現在、名古屋大学の教授をしておられる。高校時代から、もの凄く優秀な人で、今の中国哲学研究家とは畑違いの「そろばん」で日本一の腕前を誇られた方でもある。「そろばん」と言っても、何も「そろばん」がなくても計算できるのであって、数学の時間には、教師が、複雑な計算の正確であるかどうかを、彼女に確かめていたという伝説を持つ。さりながら、文系のクラスに在籍し、今の中国哲学に関連する漢文において、類まれなる才能を発揮されていたということは、理系のクラスにいて、愚鈍で遊び呆けていた英太の耳にも届いていた。その神塚さんの書かれた本があるということを、同じ高校の同級生であった手塚君の七回忌の京都での仲の良かった者たちの集まりで、たまたま聞くに及んで、インターネットの通信販売で手に入れた。

 老子という人が、実際にいたのかどうかさえ疑念がもたれているのだが、「老子」というわずか五千字余りの書は、古から、中国思想の原点として、その時代時代に、様々な思想、宗教、社会との関わりを持ちながら、今に読み継がれ、その言葉は、トルストイやシュバイツアーにも注目された。「老子」は、現代の文明に侵された人々にも、その目を覚まさせるに充分な、難解でありながら、深遠な思考を提供する。神塚氏の本から、いろいろ、教えられた。

 現実生活の仁、義、礼、智、信を重視する孔子の儒教に対して、「老子」は、無為自然を説き、この世は、無の宇宙から始まり、結局は、その無に帰するのだという。その宇宙の始まりを道と言い、道から一が生まれ、一から二が生まれ、二から三が生まれ、万物が生じる。無から、陰陽渾然たる一つの気が生まれ、陰と陽の二つの気に分かれ、その二つの気を中和する気が生じて、万物は調和したものとして存在していく。まさに、現代の宇宙物理学の宇宙創生論を見るようでもある。英太にとっては、ヘーゲルの弁証法よりも、解かり易い。

 道が万物を生じ、徳がそれを養う。道徳ではない。道は、万物の始原たる無であり、その道は、万物が生じても消えることなく常にあり、徳は、その道の及ぼす作用、働きのようなものと言う。根源に立ち返ることが、また、道の動きであり、柔弱であることが、道の働きである。そして、万物は有から生じ、有は無から生じる。つまりは、あらゆるものは、無である道に帰るのである。

 大道廃れて、仁義有り。智慧出でて、大偽有り。六親和せずして、孝慈有り。国家混乱して、忠臣有り。

 大いなる道が衰えて、仁愛と正義が強調され、人間の小賢しい知恵が出回って、大きな虚偽が始まる。親族に不和が生じて、親への孝行、子への慈愛が説かれ、国家が乱れて、忠義な臣下があらわれる。

 儒教観による、仁義、孝慈、忠義などというものは、自然のままに、大きな道に則って生きていれば、おのずから守られるのである。大道が廃れたからこそ、強制的に、規範として、それらは、強調されるのであって、人間は、本来あるがままにおいて、秩序正しく、平穏が保たれるはずなのだ。むしろ、何も為さずにいてこそ、平和で、穏やかになる。おのずからならざる、規範としての、仁、義、忠、孝などは、虚になろう。愛さずにいられないのが愛であり、愛を誓うとはにせものの愛を引きずることである。

 英太は、思う。小細工は要らないのだ。知識も、言葉も、道具も、機械も、もちろん金銭も。考えてみれば、人間社会は、人間の作り出したものによって、苦しめられているのではないか。様々な現象を知ることにより、また余計なものを作ることによって、相対的にしかものごとを見ることができなくなり、欲望し、妬み、戦争をして、命を無駄にする。一見価値のありそうな言葉を発することにより、惑わされ、差別を生み、心を乱される。便利なものによって、奪い合い、身体を損ない、自然から遠ざかっていく。

 自然とは、自ずから然りであり、人工も、人の口も、ただ、邪魔なものでしかない。内なる本質に沈潜していくことでこそ、無為にしてならざるは無し−何も為さないことが全てを為すことになる−という境地に至る。死は怖るるに足りないが、だからといって、命を無駄にすることなど有り得ない。

 考えてみれば、「老子」の言説は、運命論者のようでもあり、性善説論者のようでもある。孔子の儒教は、性悪説で、性悪だからこそ、規則、規範、義務のようなものを設けなければならない。性善ならば、放っておいてこそ、上手くいく。本来、人は、そのあるがままにおいて、調和のある現世に生まれ育つべきであったのだ。さかしらな人間の文化、文明が、本来素朴な人間を、いびつに変えてしまったのか。

  春浅し 野良の微睡む 窓の外

 

2012年   2月29日   崎谷英文


免疫

 免疫とは、自分の身体に、自己のものではないものが侵入してきた場合、それを排除する働きで、自分の身体の一部となり得ないものに対して、拒絶反応を起こすようなもの、と考えていいだろう。体内に生じた腫瘍のようなものにも、免疫機能は発令される。人の身体には、異物に対して、拒否反応を起こすという機能が、先天的に備わっていて、これを、自然免疫と言う。

 この免疫機能が働かないと、風邪をひいたり、インフルエンザに罹ったりする。先天的に、異物、毒物であると知らないものは、気安く受け入れてしまう。一度、それらの病気になると、その後、それらに対する抗体ができて、免疫機能が働く。そのための、ワクチン接種、予防接種でもある。こうやってできる免疫を、獲得免疫と言う。

 逆に、それほど怖がることはないのに、異物に対する免疫反応が過剰になって症状をもたらすのが、花粉症やアレルギー疾患だと言える。花粉やアレルギー抗原に対して、異常に怖がり、拒絶反応が過剰になり、くしゃみが出たり、痒くなったり、発疹ができたりする。

 また、困ったことには、自分自身の大事な一部でありながら、それを異物だと勘違いし、攻撃、排除しようとする場合がある。そうなると、自分の正常な組織や細胞が侵食され、壊されていくので、大変なことになる。自己免疫疾患といい、バセドー病なども、その例である。

 こういった免疫機能は、身体の自律反応で、精神、心の持ちようで、簡単に制御できるものではない。

 しかし、心の免疫というものもありそうだ。子供や、大人にもある、人見知りというようなものも、免疫反応と同様かも知れない。出会った他人は、自分や家族といった自分たちではない異物であり、自分の中に取り込んでいいのか分からず、とりあえず、拒否反応を示す。過剰な免疫反応、と言えようか。

 人は、その生まれ育ちの中で、経験、学習し、安心できるもの、取り込んでいいもの、反対に、近づいてはいけないもの、危険なもの、触れてはいけないものを、意識的、無意識的に、身に付けていく。心の免疫反応というものは、経験の積み重ねと学習によって、徐々に、適度なものに、落ち着いていくのだが、その程度は、人、それぞれになる。

 人は、生まれ育った自分自身の外部環境に慣れ親しみ、安心できるものを抗原から外していくのであるが、また、目新しいものには、警戒しながらも、好奇心を持って近づく。無用心に、興味津々、深入りすると、毒牙にかかることにもなりかねない。一度、痛い目に合わなければ気付かないだろう、などというのは、痛い目に合って、後天的免疫を獲得するということになる。深窓の令嬢ほど、口先だけの安っぽい男に騙されるものである。

 心の免疫がありすぎても困るが、なさ過ぎても困る。毒でも何でも、食べてしまっては、たまらない。身体と違い、心に入り込んだ異物には、もはや、免疫機能は働かない。やはり、経験と学習によって、食べていいものかどうか、触れていいものかどうかの判断力、危険を察知する能力を、無意識のうちに身に付けておかねばいけない。

 逆に、自分自身を頑なに守り、凝り固まった信念を持っていると、あらゆるものに免疫反応を示すようにもなる。変な新興宗教、占い師に心酔してしまうと、社会性を失ってしまう。

 しかし、自己免疫のように、自分自身を異物のように感じて、不安に駆られることもある。免疫力が強すぎて、こんな自分ではないはずだと、自分自身を攻撃、排除するようになっても困る。自傷行為などというものは、一種の心の自己免疫疾患なのだろう。

  野良猫の 舞い戻りてや 春浅し

 

2012年  2月18日   崎谷英文


醜態

 還暦を迎えた正月の二日、飲みすぎて、足が床にまともに着くことが出来なくなっているのに、立ち上がって歩こうとしたために、ふらふらとした意識の中、足が宙を舞い、見事に前のめりに転倒し、頭がピアノの角か、ギターの柄の端にぶつかり、右目の上を五cmほど真一文字に切って、血が噴き出した。転倒した時、隣で、もうとっくに酔っ払って意識なく眠りこけていた吉川の頭を蹴っ飛ばして、入れ歯を吐き出させ、その上、眼鏡を踏みつけて壊してしまったらしい。

 正月二日と言えば、救急センターに行くしかなく、妻が良く効くと自慢する馬油を塗って、何枚ものティッシュペーパーとタオルで傷口を押さえつけたまま、朦朧としたまま、妻の運転する車に、吉川と宮田と一緒に乗り込んで、到着したのだが、吉川は、立ち上がったり寝込んだりして役立たず、宮田は、医者はどうしたとか、何か喚きながら、妻と周囲を困惑させ、英太は、トイレに入って、吐いた。

 そこには、何故か外科はなく、眼科で診察して貰ったのだが、眼には異常がないと言うことだったが、縫うような処置はできないと言われ、宮田が何とかしろとまた騒ぐが、馬油の効能か、血は止まっていて、ただ、薬を塗ってガーゼを当てただけで、帰ってきた。英太の家で、一人残っていた松井は、さすがに、その日のうちに名古屋に帰らなければならず、もう、いなかったが、妻が、しきりに、他の三人と対照的に、松井の冷静、紳士振りを褒める。

 縫った方がきれいに治りますよ、と言われていたのだが、翌三日にも、開いている外科などなく、自分で消毒液、化膿止めを塗って、四日になって、ようやく開いている医院を見つけ、処置をして貰おうとしたが、もうすでに傷口が固まっているので縫うことは出来ないと、再び、薬を塗ったガーゼを当てただけで、帰ってきたのだった。

 転倒した時に、庇い手をしたのだろう、突き指をして、右手の中指が動かせぬほど痛く、その第二関節が大きく腫れて、百姓の手がますます百姓らしくなっていたので、わざわざレントゲン撮影をして、骨の折れていないのを確かめて、その英太よりも十程も若いだろう医者が、次の日、指を固定するからまた来い、と言う。翌五日の日に行くと、熱い湯の中で、指の形に合わせて、取り外しの利く可愛らしいギブスのようなものを、医療器具の販売員らしいそれこそ若い男に付けられて、七週間付けているように、と医者が言う。

 年を取ると、傷の修復能力というものも衰えるのであろう、ようやく三週間ほど経て、毎日、眼の上の傷口に薬を塗って、ガーゼを取り替えていたのを、大丈夫だろうと判断して、それまで、まるで、弱いくせに強い相手に向かっていって、結局ノックアウトされて負けたボクサーの慰めにもならないようなまぶたに絆創膏を貼り付けた痛々しい容貌から、解放されたのだった。嫁入り前の娘ならともかく、英太にとっては、気にもならないほどの傷跡で、それも、徐々に色褪せていくだろうと、思われた。膨れていた指も、ゆっくりと癒えてきていたのだったが、まだ太く、痛みも残っているので、ギブスのようなものは、付けたままにしておく。

 その頃、東京では、田口の家で、数人が飲んだくれ、満田などは、終電に乗り遅れ、マクドナルドで、夜を明かしたと言う。英太もそうだが、もしかすると、年を取って、落ち着くよりも、若きを懐かしむのかも知れない。

 あれから、一ヶ月以上経つが、眼は以前から、症状として出ていた飛蚊症が、一時的に酷くなったぐらいで、それも慣れたのだが、指のギブスは、まだ、付けたままだ。

 正月二日、取って置きのスコッチやコニャックを持ち出して、浮かれすぎたようだ。

  断崖の へばりつきたる 寒椿

 

2012年   2月10日   崎谷英文


存在と真実と美

 存在は、そこにある。山も河も、リンゴも皿も、猫も人も、そこにある。見ていなくても、聞いていなくても、触れなくとも、そこにある。そこにある存在は、客観的に存在している。

 我々が、その存在を知るには、見たり、聞いたり、触れたりしなければならない。その存在を、視覚、聴覚、触覚などの五感を使って知ることになる。しかし、その存在を、見て、聞いて、触れたりすることで、その存在の全てを知ることが出来るのだろうか。我々は、その存在を知っているようで、知らない。ただ、その存在の存在することを知ることは出来るであろうが、その客観的存在の全てを知ることは、出来ない。

 人の五感の能力には限界があり、例えば、そのものの分子にまで至る微細な存在は、生の視覚等では、確知できない。固体は分子が全く動かない状態で、液体は分子がある程度動いている状態で、気体は分子が自由に飛び回っている状態だ、と言うことは、知識としては知っていても、生の視覚で確かめることは出来ない。色を感じるのは、その物から特に反射する波長の光を感じているのであって、それも、人間の可視光線の範囲の話でしかなく、犬も蝶も、別の色を感じているに違いない。また、逆に、宇宙のような大き過ぎるものも、確かには、目に入らず、推測するしかない。

 人間の感覚能力に限度があることは認めるとして、その見て、聞いて、触れた人間の知覚のみが、その存在であって、それがその存在の全てだ、とは言い切れまい。現に、目に見えないインフルエンザのウィルスが空気中を舞い、宇宙から、また原子力から飛び出た目に見えない放射線が、地に溜まり宙に飛び交っている。

 それだけではない。五感で知ることすら、客観的存在の一部の真実に適合するのかどうか、疑わしい。そこに在る物を見る時、それを見る者の目が間に入り、脳が間に入る。つまり、それは、全くの主観による知でしかない。我々が、物を見る時、自分の目で見た存在を知る。その対象物を悉く見たとしても、その見る目が正確なのか疑わしく、正しく見たとしても、それを受け入れる脳が正確に感知しているかどうかも疑わしい。

 さらに言えば、正しく同じ物を見たとしても、人、それぞれに、その物の見た目は違ってくる。同じ太陽を見て、輝く華やかさを見る者もいれば、眩しさの裏の暗黒の闇を感じとる者もいる。どちらも、真実であり、見た目の陰には、途方もない真実が隠されている。

 芸術、ここでは特に、絵画や彫刻等の具象芸術についてであるが、ある景色、ある人、ある静物を、作品として表現する時、写実に幾ら忠実であったとしても、全くの客観的存在を表すことなど出来ない。それは、その人の主観が入ると言うだけではなく、そもそも、その人が見た存在は、その人だけのものであって、客観的全てではありえないと言うことである。如何に、主観を排除して写し取ったとしても、必ず、そこには、その個人にしか見えないものがあり、また、その個人にこそ見えないものがある。如何に、写実に緻密に描き、作り上げたとしても、そこには、作者の意識的、さらには無意識的な個性が滲み出るしかない。

 しかし、また、芸術は、真実を表さなければならないだろう。真実があればこそ、芸術と言うものに、我々は精神の襞をくすぐられ感動する。心に隠された無意識の内に封じ込まれた奥底に潜む真実を抉り取られて、見入る。この世にあるものを、モデルとして作り上げられたとしても、芸術家は意識して、それを変形(デフォルメ)し、現実の見た目の陰に蠢く真実を掬い取ろうと、製作する。また、無意識だとしても、真実こそ美しく、美しいものこそ真実だとして製作する限り、その作者の、個性溢れた真実を垣間見せる作品が作られ、人の胸を打つ。

 そのデフォルメの行き着くところには、抽象があり、幾何学模様になり、円になり、直線になり、立方体になり、球になる。それらも、やはり、何らかの真実を表そうとしていることは、間違いない。

 その存在の真実を、僕はこう見たのだ、という心意気が、美を作る。

  遠吠えの 薄暮に揺れる 枯木立

 

2012年   1月29日   崎谷英文


水仙

 門の前の少し開けた手入れもろくにしない縦長の前庭の桜の木が、春を待っているという風に、力を溜め込むようにして、その幹と枝をじっと固くしているその隣の水仙の一群の中に、五・六輪の花が咲いているのを、初めて見る。全く殺伐とした荒れ庭の枯木立、枯れ草の中で、隠れ潜むように、その水仙は咲いていた。暖かくなる春や夏に向かって咲くのではなく、わざわざ、厳寒を選んで咲く水仙は、その力強さを誇示するには、余りにさわやかに咲いている。真っ直ぐに伸びた緑の葉の先、中心の黄色い花冠の周囲に六片の白い花弁が配されたその寄り添うようにして咲く水仙は、庭の中央に数多の真紅の華やかな花を競い合うようにして咲く寒椿と、好対照をなす。

 水仙のように、過酷の中にあって、でしゃばるのでもなく、平気な顔をして生きていくのが、自分には合っているのだろうと、英太は思う。寒椿のような華やかさなど、到底求めるべきもなく、もはや、そういった華麗さに素直に感激する純情さも失せ果てた気がする。

 この間、子供の一人が、携帯電話より少し大きいだろうゲーム機を渡し、このゲームをやってみろと言う。何ということもない頭の体操のようなものだったが、何故か周囲の子供が、興味深く見ている。ゲームに慣れて進めている時、突然、画面一杯に、怪物のようなものが牙を剥き出しにして、襲い掛かる様に突き出てきた。英太は、これは何だと訝しい顔をする。。機械が壊れたのかと思ったりしたのだが、実は、これが子供たちの目当てだったのである。ああ、ここは、目を瞠って、声を上げて、身を引くように、驚愕しなければならなかったのだ。子供たちは、がっかりしたように、英太を見るしかなかった。怖くなかった?と聞かれても、年を取ると少々のことではびくともしないよ、と答えるしかない。

 六十才になろうかという今になって、ようやく、日常の困ったことなどや、ちょっとした災いや、さらには、生死に関わるかも知れないような病気や事故にあったとしても、憤慨することもあたふたすることもなく、なるようにしかならないのだと、平然としていられそうな気にはなっている。とは言え、実際に思いもかけぬような困難に遭遇したとしたら、どうなるか分かったものではない。しかし、慌てふためくようになったとしても、それはそれで、なるようになった、ということなのだと、得心するであろうほどに、世の中、また人生の馬鹿馬鹿しさは、実感しているつもりになっている。

 去年の暮れ、埼玉に住む田口から、大事件のようにメールが飛び込んできた。高校時代からの友人たちにも送ったものらしいのだが、田口は、電車の中で、初めて若者に席を譲るという申し出を受けたと言う。大事件なのである。今まで、電車やバスの中で、席を譲る側であったことに、微塵も疑わない身であったのが、このことで、自身の気持ちの若さと裏腹に、世間の見る自分へのまなざしの変化に、気付かされたのである。そんな時、「年寄り扱いするな。」というような老人の怒りの声があると聞くが、田口は、怒ることもなく、呆然としながらも、丁重に断わったと言う。

 紅顔の美少年も、いつの間にか、老いさらばえていくのは、世の道理である。自分自身を知っているようで、自分自身を見ていないのである。他人のことはよく見ているのだが、自分の姿、顔など、めったに見るものでもない。鏡で、ちらと見ることはあっても、しげしげと、自分の容貌、容姿の変化を確かめるほど見ることは、英太もない。

 心は、若いつもりであっても、身体や外見は、それなりに衰える。ふとした動作の時に、衰えを感じることはよくある。身体が衰えるとしたら、脳も、例外なく、衰えているだろう。だとしたら、心も、ただ、若いつもりであるだけなのかも知れない。感動する心も、いつか、萎びていくように思われる。

  荒れ庭の 岩陰に潜む 水仙

 

2012年   1月20日   崎谷英文


1952年から

 1952年、昭和二十七年の9月に、英太は、この太市の里で、産婆さんの手で取り上げられて、誕生した。その年は、十干十二支で、壬(みずのえ)辰(たつ)の年で、それが今年、廻り廻って再び、壬辰の年になる。つまり、還暦である。昔は、六十才まで生きると言うことは、実に、めでたいことだったのだろう。明治の初めの平均寿命は、四十五才ぐらいで、昭和二十七年の平均寿命も、六十才そこそこであったらしい。しかし、今では、男で平均寿命は、八十才に近く、還暦を過ぎることなど、珍しくも何ともない。

 それでも、昔からの儀礼として、赤いちゃんちゃんこを着たり、特別な儀式をする人たちも、この田舎では、結構いるらしい。英太は、何も祝うこともなく、飲んだくれて、転倒し、怪我をしただけだった。

 思うに、この六十年間の世の中の移り変わりの激しさは、もの凄いものであった。1952年の、一年前に、太平洋戦争終結のサンフランシスコ平和条約が調印されていて、その前年には、朝鮮戦争が勃発していて、大戦の反省から平和主義に徹しようとしていた日本に、自衛隊の前身たる警察予備隊も、その年に設置されていたのだった。その前後、世界中の様々な地域で、民族自決に絡む紛争、戦争が起きていて、アジア、アフリカで、多数の独立国が生まれている。1949年には、中華人民共和国が建国される。そして、1949年の北大西洋条約機構、1955年のワルシャワ条約機構から、米ソの東西冷戦時代が始まったのだった。その後も、悲惨なベトナム戦争があり、ゴルバチョフのペレストロイカを経て、1991年のソ連の解体まで、東西冷戦が続いたのだった。

 世の中の大きな変動時期にあって、英太の生活様式も、大きく変化していく。子供の頃は、水道もなく、ガスもなく、かまどでご飯を炊き、五右衛門風呂に入り、田んぼを耕すために、農家にはたいてい、牛が一頭いた。鶏もヤギもいた。科学技術の発達はすさまじく、1963年に、東海村で原子力発電が開始された。1964年、東京オリンピックの年、ちょうど英太が小学六年生の時だったが、その年には、東海道新幹線が東京から新大阪まで貫通した。英太の生活も様変わりし、水道が通り、ガスで煮炊きをし、テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機という、三種の神器がもてはやされ、それは、やがて、3C、カー、クーラー、カラーテレビへと変わっていく。世の中は、どんどん便利に、快適に機械化されたのだった。1970年の安保闘争、三島由紀夫事件にも拘らず、文明の増殖は留まることを知らなかった。

 若者たちは、ますます都会に集まってきて、田舎はますます疲弊していくという経路が続いていく。医学の発達、食生活の安定が、高齢化を導き、明治維新には、三千三百万人だった日本の人口は、今や、その四倍に達する。大都市への人口集中は、地方の過疎化を進め、田園まさに荒れんとする状況になっていく。

 さらに、IT革命は、世界のグローバル化を推し進め、地球は、小さく狭くなりながら、情報と思惑が、宇宙と大気を突き抜けて、世界中を走り回ることになる。英太の子供の頃からすると、全く、別世界に生きているようなものだ。

 世はまさに、成熟しきっているのかも知れない。しかし、その成熟が良いのかどうかは、疑わしい。英太の子供の頃、この小さな村には、鍛冶屋さんも下駄屋さんも左官屋さんも大工さんも、いろいろな職業の人がいて、雑貨屋は二三軒あり、魚屋さんは、御津の港から自転車の後ろに大きな箱を積んで時々やってきていたし、みんな、自分で作れるものは自分で作っていた。言ってみれば、何とかその地域だけでも、自給自足できるような生活だったような気がする。良いかか悪いかは、即断しにくいが、今や、日本一国でさえ、自立できないではないか。

 そして何よりも、地域の共同体の中で、古い因習もありながら、人々が助け合ってきたのではなかろうか。安心できる人たちと、土と共に生きる生活があったのではなかろうか。農作業の帰りに、縁側に座って近所の人々とお茶を飲み、障子は開放して蚊帳の中で寝ていたのだ。

 今は、人々は、地球の裏側から食べ物を調達し、息のかからない会話をし、手書きでない手紙をやり取りし、温もりのない触れ合いをし、戸締りは厳重にし、監視カメラさえつける。如何に文明が進歩しようが、大地と大海原の恵みでしか、生きていくことのできない人間ではないのか。文明神話は、まだ続きそうだ。自然に生かされているという真実さえ、見失われていく。

  スカイツリーに 負けぬ劣らぬ とんど立つ

 

2012年  1月8日   崎谷英文


仙人の戯言

 自由は実は、苦しいのである。
自分自身で判断し、自分自身で責任を持つ
これは実に大変なことである。
勉強するのは、この考えること、判断すること
責任をもつことの前提としてある。