冬の間、凍てつく寒さにじっと耐えていた草花が、いっせいに芽を吹き出す。この春は、天候が不順だが、約束をしているように、木々は、青葉を輝かせ、草花は、緑を伸ばし、花を開かせる。
彼らは、動かない。自ら動くことができない。しかし、しっかりと大地に根を張って、日向ぼっこをしながら生きていく。冷たい雨に打たれることもある。時には、春の嵐に空を飛ぶこともある。しかし、彼らは嘆かない。冷たい雨は大地を潤し、自分たちの生きていく糧となっていく。春の嵐に飛ばされても、新しい住処を見つけるための、大旅行と楽しむ。
彼らは、誰も恨まない。踏まれても、折られてもじっと耐える。
彼らは、光合成によって、生きていく力を手に入れる。生物たちの吐き出す二酸化炭素と水を用いて、太陽の光を受けて、栄養分を獲得する。天気のいい日は、昼寝をしながら、エネルギーを作り出し、夜になると、すやすや眠りながら、そのエネルギーを身体中に蓄え、溜め込む。
動物たちは、光合成ができない。動物たちは、自分の身体の中で栄養分を作り出すことができない。だから、植物たちの作った栄養分を食べて、自分の身体に取り込まなければならない。しかし、食べる植物にも、その量に限界がある。自然の恵みを、動物たちで分け合わなければならない。植物を食べた動物を、食べる動物がいる。動物たちの争いが始まる。動物たちの世界は、限りあるエネルギーを手に入れるための争う世界となっていく。
人の世も、また同じ。限りあるものを奪い合い、争いながら生きている。働いて働いて、生きる糧を手に入れる。のんびりと日向ぼっこはしていられない。何しろ、食べなければ生きていけない。
さらには、人は、無駄に欲しがる。必要でもないものを、いかにもありがたそうに先を争って、また手に入れようとする。あくせくと働き、人の持っているものが欲しくなり、また、焦って働く。
昔、人は大地の恵を、ただ必要なだけもらっていた。けっして、大地をないがしろにしたり、見下したりはしなかった。大地のおかげで、自分たちの生命があることを、知っていた。人も昔は、草花と同じように、寒い時はじっとしていて、暖かくなるのを静かに待っていた。
漱石が作った句に、「菫(すみれ)ほどな 小さき人に 生まれたし」というのがある。醜い人の世で、できるだけ小さく、争いのないのんびりとした生を得たいということであろうか。人間は働きすぎだ。そろそろ、菫の花のように小さく、かわいらしく生きていくことを考えてもいい。いきがって、欲張って、見栄を張らずともいい。
いくら知識を詰め込んだって、結局は、世の中のことも、自分のことも解かりはしないのだから、勉強しすぎても困る。のんびりと考えて、妄想に浸る時間がないと、真実は見えてこない。人の生命が、菫の生命と、どれだけ違うものなのか。
仙人になって、霞を食って生きていけるか、と考えているのだが、どうやら、難しそうだ。しかし、まだ、あきらめないでいよう。昼寝をしながら、ゆっくり考えることにする。
春の雨 誰も居らぬか 烏の巣
2010年 4月22日 崎谷英文
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