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椎間板ヘルニア

 椎間板ヘルニアになった。右足が痛くて、痺れる。ヘルニアというのは、一般的に臓器の一部が本来あるべきところから飛び出てくることを言う。小腸が腹の筋肉の隙間からひょっこり出てくることもヘルニアであり、その他様々なヘルニアがある。どんなヘルニアも、それぞれあるべきところから臓器がはみ出るのであり、痛かったり、身体の異常を感じることになる。

 椎間板ヘルニアは、椎骨と椎骨との間の椎間板が圧迫により、背中の後ろ側へ飛び出ることである。少々の飛び出しは平気なのだろうが、その飛び出た椎間板が、背中の脊髄神経に触れ、圧迫を掛けると、腰が痛くなったり、更には坐骨神経への障害になり、お尻から脚に掛けて痛みやしびれが起こる。

 なぜ椎間板ヘルニアになるのかは、人それぞれらしく、決まった原因は分からないと言われる。昔は、手術によってそのヘルニア部分を切除することにより治すことが主流だったらしいが、今は手術することは少ない。何故かというと、人の身体には自己治癒力というものがある、その自己治癒力により、ヘルニアが解消されると言われているからである。

 人の身体には、様々な異物が入ってくることがある。人の身体に対して、悪さをしない異物であればいいのだが、人の身体の能力を損なう異物であれば、そのために病気になる。その異物に対して、攻撃をしやっつけてしまうのが、白血球とかニュートラルキラーと言われる細胞とかマクロファージとかの異物攻撃隊らしい。

 椎間板ヘルニアのその飛び出た部分は、マクロファージというものがそれを本来あるべき所でない所の異物として感知して、攻撃し食べてしまうという。こういった異物を攻撃する仕組みを、言わば免疫力という。外から入ってきたばい菌は、異物として認知され攻撃対象になる。身体では日々、がん細胞が生まれているというが、それもまた異物として日々退治されている。免疫力の強い人は、病気に罹り難い。

 外からの異物も、身体で作られる異物も、あるべき場所を間違えた異物も、免疫機能により退治されて行って、人の身体は正常を保つようにできている。人の身体が持つ、自然治癒力である。その自然治癒力が衰えてくると、深刻な病になる危険がある。自然治癒力を越える異物の侵入、異物の産出が病気を深刻にする。そんな時、医療として抗生物質などを投与してその異物を迅速に退治することになる。

 しかし、また逆にその免疫機能が強力すぎて、異物でないものを異物として感知して、攻撃してしまうことがある。つまり人の身体に有効、有益であるものに対して、それを異物として攻撃してしまうことがある。自分自身の身体の一部であるものさえ異物として感知して攻撃してしまうこともある。それを自己免疫疾患という。潰瘍性大腸炎も、リュウマチも、そういった自己免疫疾患である。自分の身体を攻撃してしまう。

 人の身体というものは、とても巧妙に作られているのではないか。そう簡単には壊れないような仕組みが作られているのではないか。それが、外からのあまりに大きな侵襲により仕組みの能力を超える事態になって、怪我をし病気になる。人の本来の免疫力が、衰えたり、逆に亢進しすぎても病気になる。

 子供の頃、僕はそれほど丈夫な身体ではなかったようだ。赤ん坊の頃、いわゆる引き付け、高熱を出して身体が痙攣を起こすようなことがあったらしい。当時の医学状況ではとても生き延びるのが難しい状態だったのが、家が医者であることにより、何本も注射してやっと生き延びた、ということだ。その時に、頭がおかしくなった可能性もある。

 小学生の頃も、よく熱を出し、よく風邪をひいたような気がする。お腹もよく痛めていた。小学校の修学旅行の時、前日に風邪をひいて熱を出し、それでも親が修学旅行に行かせないのはかわいそうだと思ったのだろう、熱冷ましを呑み、時にみんなと別行動になったりして参加した。旅行の後半ではケロッとしてすっかり元気にはなった。僕は、あまり免疫力がないのかも知れない。

 椎間板ヘルニアのせいにして、田んぼが草だらけになってしまっている。何とかしなければならないのだが、マクロファージがまだしっかりヘルニアを退治するまで時間が掛かりそうだ。

 虫の音の 子守唄なる 野良寝   

2018年     9月17日     崎谷英文


秋霖

 太市では、今しとしとと雨が降っている。八月の気温35度を超えるような暑さが続いた後、急に朝晩ひんやりとして秋の気配が感じられる。それにしても、今の日本列島は、異常気象、異常な自然災害に次々と襲われているように見える。

 子供の頃、地震、台風に襲われたことがあっただろうか。昔の家は、今のように頑丈な家ではなかったように思う。我が家でも、大雨の時何処かで雨漏りがして、洗面器などを取って来てその雫を受けて、その音を楽しんだ記憶がある。

 何歳の時だっただろうか、確か年末の頃、この太市に大雪が降った時があった。その時初めて雪だるまを作ったりして遊んだ記憶がある。四方の山は一面に白く輝き、いつもの景色ではなかった。無邪気に近くの子供たちと、雪を転がし雪だるまを作って遊んだ。

 しかし、記憶にある限り、酷い自然災害に合った記憶はない。日本列島のどこかで、大きな台風、室戸台風、伊勢湾台風などで大きな被害が起きたところがあったのだろうが、この太市は、ほとんど無事であった。

 ただ、僕が東京にいた頃、台風だったのだろうか、大雨で大津茂川が氾濫して、我が家の床下まで水が入り込んだことがあったらしい。後で聞くと、大津茂川の橋に材木が引っかかって、それで氾濫したということらしい。その材木は、家の建築のために置いてあった材木が流されたものだったという。

 それでも僕が小さかった頃、よく停電などは起きていた。電気はずっと前からきていたのだろうが、その頃はまだ電力供給が不安定で、何かあるとよく停電をしていた。その度に、ろうそくを取り出してきて、みんなでその周りに集まって、大人たちは心配していただろうが、僕はそんなことが楽しかったように思う。

 今は、昔とは違った、よく想定外などと言われるが、人間の予測を超える自然の猛威が襲ってくる。現代は、人々はインフラ、電気、水道、ガスなどによって日常の生活を維持している。そして、鉄道、自動車、飛行機などの交通網によって生活が支えられている。現代の人々の生活は、そういったものが当たり前として成り立っている。

 僕も、電気のない時代は知らない。しかし、水道のない時代は知っている。ガスなどはもちろんなかった。井戸水を汲み上げて、薪を使って煮炊きをし、風呂を沸かしていた。

 そんな時代が、あっという間に文明の波に乗り、人々の生活は変化していく。

 旧約聖書に、バベルの塔の話がある。天に届くまでの塔を作り、神に近づこうとしたのだが、神はその人間たちの傲慢さに怒り、人々の言葉か通じ合えないようにした。今の時代、似たような状況かも知れない。文明は、自然を制御できる、自然の脅威は、文明で抑え込める、と人々は信じ込んでいるようである。人々は、文明を謳歌し、文明の中に生き続ける。

 しかし、文明は無敵ではない。豊かなる自然は、また恐ろしい自然でもある。どんなに文明が発達しようが、そんな文明を嘲笑うように、自然はその猛威を発揮する。大きなものを作れば作るほど、それが崩れると人々の生活は成り立たなくなる。文明は、何処までそれを克服することができるのか。

 文明に頼り切って生きている人々だが、本来人は自然の中で生きてきた。自然の恵みと自然の脅威の中で、折り合いをつけて生きてきた。電気もガスも水道もない時代を人は生きてきた。

 もはや昔の原始時代に帰ることはできないだろう。この文明の中で生きていくことしかできないだろう。しかし、この文明は当てにできない。人の作り出した文明は、大きければ大きいほど、それが崩れる時、人々は生き場を失う。

 これからも、天と地から、空と大地から、様々な脅威がやってくるだろう。それは何処にやってくるか分からない。幸運にも、といってはいけないのだろう。太市は今回の台風の被害はほとんどなく、地震の被害もない。しかし、それを運がいいとか悪いとかで済ませてはいけないだろう。

 乾坤の変は風雅の種である、と芭蕉は言った。それは、四季の変化にこころを通わせることを言っている。生きていくということは、この自然の中で、自然を畏れながら生きていくことだろう。今も静かに雨が降っている。

 天と地と 戦慄き迫る 秋の乱   

2018年     9月9日     崎谷英文


赤トンボ

 赤トンボがたくさん飛んでいる。今年の田んぼは、いろいろ事情があり草の生え放題のようになっている。その田んぼの上に、赤トンボが乱舞している。数十匹もいるであろうか、それは決まって僕の田んぼの上になる。赤トンボは、小さな虫を食べるという。小さな虫は、小さな草を食べるのだろう。水辺の小さな草を食べる虫を、赤トンボが食べる。

 僕の田んぼは、大きな草も小さな草も生えている。水田の水は、赤トンボが卵を産むのにも適しているだろう。しかし、今の水田は、除草剤を撒くのが普通である。除草剤を撒くと、草も生えず、虫も育たない。そんな所には、赤トンボの食べるものはなく、赤トンボは生きては行けないだろう。そんな所では、赤トンボは卵を産まないだろう。

 本当のところは知らないが、僕の田んぼの上に赤トンボが乱舞するのは、僕の田んぼが、除草剤も、化学肥料も使っていないからかも知れない。

 昔は、もっと赤トンボが至る所で見られたような気がする。今も、草茫々の畑の上を赤トンボは飛んでいるが、昔は、もっとたくさん飛んでいたように思う。

 昔は、除草剤もなく、化学肥料もなかった。僕の家には、牛がいた。毎日毎日、藁を切って牛に与えていた。牛は大きな糞をする。その牛の後ろに大きな鋤をつけて、田んぼまで鞭で叩いて、連れて行く。道には大きな糞が残る。田んぼでは、どろどろの中を裸足で素足で歩き、牛を叩いて田んぼを鋤いていた。

 それはいつの頃までだっただろうか、僕が小学校の低学年の頃までだっただろうか。確かな時は覚えていないが、その頃の農村は、太市は、牛を使って田んぼを鋤き、人の手で稲の苗を植え、人の手で田んぼの草を取り、実った稲を手で刈り、天日干しにして米を作っていた。その頃には、赤トンボなど至る所で飛んでいたように思う。

 僕も稲刈りを手伝い、天日干しを手伝ったりしたであろう。そんな頃を知るのは、もう僕の年代が最後になるかも知れない。祖父がいて、祖母がいて、みんなで田んぼの作業をしていた。麦を作っていた時もあり、寒い朝に、麦踏みをしたこともある。ほとんど、あらゆることが、人の手で行われていた。

 秋の稲刈りが終わると、田んぼは僕たちの遊び場だった。新聞紙を丸めたボールで野球をした。その頃は三角ベースなどと言って、ベースは本塁と一塁と二塁しかなかった。もちろん手作りのベースだったろう。野球と言っても、確かソフトボールのように下から投手は投げていた。敵と味方もはっきりしていなかったのではないか。何もかもが手作りだった。子供も、自分たちで遊びを工夫していた。

 そんな時代は、あっという間に過ぎていった。トラクターが普及し、牛は農家からいなくなった。テレビが家庭に入って来て、プロレスに夢中になった。上水道が太市にやって来て、井戸もあまり使わなくなった。それまで自転車で往診していた父が、自動車のダットサンというのを使うようになり、僕は、ダットサンというあだ名をつけられた。

 それから数十年、文明はますます太市に入り込み、どんどん農業は便利になり、楽になり、太市の人たちも豊かになっていく。

 しかし、何か失ってきたのではないか。ただ昔が懐かしいのではない。ただの郷愁、ノスタルジーではない。僕は今、パソコンを使ってこの文章を書いている。筆もペンも鉛筆も使わずに、この文章を書いている。とても便利である。もう少し前までは、原稿用紙に書いてからパソコンに打ち込んでいたのだが、慣れてくると直接パソコンに打ち込んでいくことができるようになった。

 便利だ、楽だ。しかし、何かを失くしていくような気がする。それは何なのか。それこそ、現代の人間の阻害の一つなのかも知れない。

 昔は、身体を使い、手を使い足を使い、素手で土に触れ、草の匂いを嗅ぎ、虫と戯れ、鳥の声を聞き、山を望み、川に遊び、そんなことが日常だった。

 今は、みんなわざわざ金を出してそんなことを求めている。

 僕が小さな子供の頃、僕はそんな中で生きてきたのだろうが、その頃は、そんなことは当たり前で、何もいいことだとは思いもしていなかっただろう。

 夏の雲 暮るるに連れて 血に染まる   

2018年     9月1日     崎谷英文


ヨイトマケの歌

 先日、美輪明宏のヨイトマケの歌を久しぶりにテレビの番組で聞いた。これまでも何度か聞いたことがあるのだが、いつ聞いても、彼の歌は心に沁みる。

 いじめられて母親に抱いてもらおうと、学校から泣きながら勝手に帰ろうとした子供が、その途中で、母親が男に交じって力仕事、今では見かけない光景だが、土を固めるために数人で重い石を引っ張り落とす仕事であっただろう、それを母親がエンヤコラと汗掻きながら頑張っているのである。お父ちゃんのためならエンヤコラ、子供のためならエンヤコラ。それを見た子供が、気持ちを踏ん張って学校に帰っていく。

 生きていくということは、過酷なことなのかも知れない。人は、自然の中に放り出されるのではないが、それでも、生きていくためには厳しい社会を生き延びていかなければならない。その意味では、野生の動物と同じかも知れない。

 人もまた、元々野生である。生きていくには、他の動物たちとの生存競争に勝たなければならなかった。共同生活の社会が作られても、その中で、人はまた人同士の生存競争に否応なしに巻き込まれていく。社会が進歩しても、人の闘争本能は残る。生きていくために、より豊かになるために、一番になるために、人はその闘争本能を燃やす。

 しかし、その結果どういう社会が作られたかというと、権力を持つ者と支配される者、豊かな者と貧しい者という身分社会、差別社会、格差社会であった。人は、そんな社会の中に生まれ出るのである。

 何時、何処で、誰の子として生まれるのか、その人の人生はそのことによって多く決められていく。自由と平等を声高に叫んだとしても、自由も平等もそう簡単には手に入らない。人は先ず、生きていくために懸命に生きていくばかりになる。子供のためにはエンヤコラと生きていかなければならない。

 僕は貧しい家に生まれたのではない。子供の頃、ひもじい思いをしたことはない。しかし、周りには貧しい家の子供も多かった。身体測定をする時、ズボンの下にパンツを穿いていなくて困っている同級生がいた。体重が計れない。友達の家に行くと、その父親が昼間から一升瓶を抱えている。推して知る。継ぎ接ぎの服ばかりの女の子もいた。

 しかし、その頃の僕は、それはきっとほかの子供たちの多くがそうだったと思うのだが、自分の家が貧しいとか裕福だとかには、全く無頓着であった。いや、貧しかった家の子供たちは、何となくこの世の不平等を感じ取っていたのだろうか。ただ、僕がそれを知らなかっただけなのだろうか。僕は、一時それはほんの短い日々だったが、いじめのようなことを受けたことがある。

 しかし、まだその頃は、そんな不平等の在り様は、大人も子供も仕方がないものと思っていたようにも思う。今、世界は豊かになって来たのだろう。しかし、この豊かな社会の中で、この自由であるべき競争社会の中でこそ、生まれながらにしての不平等社会、格差社会は再生産されているように思う。世の中は、豊かになっているのか、実は間違った豊かさに酔いしれているだけではないのか。

 僕は、小学校の頃勉強などしたことがなく、夏休みの宿題などは、いつも放ったらかしだった。家庭科の雑巾づくりは、母親が代わりにやってくれた。童話の本をジェットコースターのように並べ、ボールか何かを転がして遊ぶことに夢中になったりしていた。豊田佐吉やシュバイツァーなどの伝記を読んで感動したりもしていた。そして、通知表には、いつも注意散漫、注意力がない、などと書かれていた。

 多分、僕はおかしな子、だったのだろう。しかし、そんな子でも、ほとんど苦労なく子供時代を過ごしてこられたのは、ある程度恵まれた家に生まれたせいだろう。恵まれた家に生まれたおかげ、とは言わない。恵まれた家に生まれたからと言って、それがいいとは限らないのだから。

 しかし、それでも人は生きるため、食べていくために生きることが、まず初めにくる。子供のために、家族のために、エンヤコラと生きていく。

 少年の 欠片を掬う 氷水   

2018年     8月19日     崎谷英文


どうやって生きてきたのか

 桜山ダムの細道を車で走っていると、左の山から目の前に鹿が飛び出してきた。小さな鹿である。飛び出したところに車がいて驚いたというふうで、立ち止まりちらとこちらを見て、直ぐ取り直したように、右側のダムに至る茂みの中に走っていった。此方もびっくりして止まっていたのだが、走りだそうとすると、またもう一頭左側から鹿が飛び出してきた。やはり小さな鹿である。同じように、右の茂みの中に入って行った。

 小鹿である。生まれたばかりという程でもない、ある程度大きくはなっていたのだが、やはり子供の鹿だった。二頭が、親から離れ冒険の旅にでも出てきたのだろうか。小鹿と言えど、そのジャンプ力は大したもので、灌木の上を軽々と飛び越えていく。人間には到底できない能力である。鹿は生まれついて、鹿の能力を持って生まれ、野生の鹿は、自給自足の生存競争の中、自然の中で自分自身の力で生き延びていかなければならない。

 人はどうやって一人前として生きていくことになるのだろうか。人は決して自然の中に放り出されるのではない。母親の胎内から生まれ出でても、決して一人では立ち上がれず、大人たちに見守られ、母乳を与えられ、食べ物を与えられ、ゆっくりと育っていく。人としての能力は、潜在的に持ちながら、育つ環境の中で、その力は培われていく。

 人それぞれの能力は、千差万別であろう。得手不得手、得意不得意、あれはできるがこれはできない、絵は上手く描くことができるが、歌うことは苦手であるとか、本を読むのは好きだが、計算は速くできないとか、人は子供の頃から、千差万別、いろいろな子供になって育っていく。

 少し前、発達障害に関するテレビ番組があった。発達障害にもいろいろあるのだが、見ていて思ったのだが、人はそれぞれ何処か発達障害なのではなかろうかと思い至った。ある発達障害の人が、絵を描く時、人の姿を丸と棒五本で描いていたらしい。実は、僕は子供の頃、人の形をそんなようにして夢を見ていた。テレビを見ていて、ああ、僕は彼と同じだと思った。

 発達障害とか、何かの能力が低い、例えば識字能力が劣るとか、計算ができないとか、その他いろいろ、何とか社会生活は不都合なく送って来たとしても、人にはそれぞれ、何か欠けているようなところがあるのではなかろうか。

 そして、逆にそのような何らかの障害があるような人にこそ、特別な能力が備わっていることがある。サバン症候群とか言われたりするが、何らかの障害がありながら、視覚の記憶能力が特別にすごかったり、音の記憶がすごかったりする人たちがいる。

 人はそれぞれ、そんな個性を持って、それは多分その人が生まれついて持っていたものであり、そこに育てられていく環境が作用して、大人としてのその人の個性になっていく。

 完璧な人などいない。そもそも完璧な人というものが分からない。何をもって完璧というのか、そもそも人のありようとして、完璧な人というものは存在しないであろう。

 僕は、子供の頃、特に小学生だった頃、今もその教科があるのだろうか、図工、中学校では美術になるのだろうが、その図工の教科の評価が、極端に低かった。もう少し前までは、僕は、僕の描いた絵は誰も評価してくれないだけで、実はいい絵なのだと信じ込もうとしていた。しかし、今、人はそれぞれ能力が違い、やはり僕には作画能力がないことを納得するようになった。

 僕は、子供の頃から、愚図な子で、何をしても下手だったのだろうか、父親からはあまり期待はされずにいた。しかし、母親は、そんな僕をよくかばってくれた。僕は母親のおっぱいを吸って抱っこしてもらうのが一番好きだった。

 そんな僕が、もう高齢者の仲間入りをしている。よくここまで生きてきたものだ。どうやって生きてきたのか、思い出せば、ずるずると気の遠くなりそうな過去にも感じるが、あっけない過去にも感じる。どちらにしても、もう過去は変えられないが、その過去の積み重ねで今の僕があることには違いない。僕はどうやって生きてきたのだろうか。

 病葉は 黙し語りて 土になる   

2018年     8月12日     崎谷英文


田舎の風景

 太市は小さな盆地である。播磨平野の一部分ではあろうが、太市はその西北部にあり、四方を小さな山に囲まれている。西の山を抜ければ龍野に行き、東の谷を行くと、飾西から青山、姫路へと繋がる。南に走れば、太子町から網干に向かう。北の谷を進むと山崎に至る。四方から閉ざされたように太市の盆地がある。

 この太市に帰って来たのは、もう二十数年前である。父は亡くなり、母が一人、残っていた。その二十数年で、太市は変化している。山を貫くように三方に高速道路が作られた。南に国道二号線のバイパスができ、北に山陽自動車道が走り、西に、その二号線と山陽道を繋ぐバイパスが作られた。三方を囲むように、高速道の高架が見えるのである。

 しかし、太市の山はどれほど変わったのか、あまり変化していないようだ。自動車道路が三方に走ろうと、山の景色にそれほどの違いはない。ただ何となく、文明の欠片が入り込んだように映り、街が都会が少し近くなっただろうか。今、夜帰る度に、東南のなだらかな山の上に、赤い火星が見える。

 この自動車時代に、姫新線の乗客数が格段に減ってきていることが、大きな変化かも知れない。姫新線は、太市にとってとても便利なものなのだが、高速道路がすぐ近くにできたことが、逆に自動車の便利さを助長する。しかし、そんな変化は、どの過疎地にもあることなのだろう。

 僕が生まれた頃は、集落以外は、ほとんど田んぼか畑だっただろう。我が家は、その頃には少ない開業医だったのだが、人を雇って田んぼで米を作り、畑で四季の野菜を作ってもいた。夏などは、ナスとキュウリばかりを食べさせられた。

 人は生まれ出ても、無力である。一人で立ち上がることもできず、誰かに育てて貰わなければ生きてゆけない。大人になるには時間が掛かる。子供を育てるのは、ほとんど親か家族、親族であったろう。

 思えば、人は生まれながらも、運命の拘束の中に放り出されるのだろう。僕にしても、この太市に生まれ、その中で育つこと、この家に生まれ、その家族の中で育つこと、それは抗えない運命だったとしか言いようがない。人は時に、遠い世界を夢想する。

 人は自由に生まれるのではない。自由、自由意志というものを潜在的に持っているのであろうが、未だ意志薄弱であり無力であり、年を経るにつれ、徐々に自己の意志を自己認識し、やがて自由のための闘争をする。

 人は幾つの頃からの記憶が、残るのであろうか。生理的早産でもあり、記憶として後に残るのは、せいぜい三才、いや五才ぐらいになるであろうか。赤ん坊の記憶があると言い張る人は、多分その頃のことを誰かに刷り込まれたからとも思われる。

 僕の小さい頃の記憶、最も若い頃の記憶として残っているのは、五才の頃のものであろうか。その頃には、まだ上水道もなく、井戸のある土間が台所になっていたと思うのだが、そこで母が何か洗いものでもしていたのだろうか、その母に、僕が言葉を発した記憶がある。それは、姉と遊んでいた僕が、その姉に言われたことをそのまま発した言葉だった。「もう、遊んでやんない。」

 人は一人では生きていけない、と言われたりする。確かに小さな頃は、一人では生きられない。親や家族、誰かの力がなければ生きていけない。成長して初めて、一人で生きていく可能性を持つ。しかし、人は一人では生きていけない、という言葉は、大人になってからでも、人は一人では生きていけない、と言っているのだろう。果たしてそうか。

 現代社会においては、もはや一人では生きていけないと思うのが当然だろう。この今の時代においては、遁世をし、世捨て人として生きるにしても、全くの自給自足の生活をすることは難しい。ジャングルで見つかった小野田少尉のように生きることは、無理なのだ。

 むしろ、人が一人では生きていけない、ということは、人が社会的生き物であり、互いに関わりながら、助け合いながら生きていくしかないということを言っているのだろう。

 しかし、それは、人の世が、しがらみであり、不自由であることも示唆していないか。人は、空を飛ぶ鳥のようには生きていくことができないにしても、人のこころは、この世のやるせなさを感じ続けているに違いない。

 また、つまらないことを書いてしまった。

 夏の日に 静かに朽ちる 野辺の花   

2018年     8月5日     崎谷英文


久しぶりに筆を執る

 久しぶりに筆を執る。筆をとる、と書こうとして、さて、昔ならいいが、今はペンをとるではないか、いや、このパソコン時代には、キーを叩くが常識的なのではないか。しかし、僕は、今も一度原稿用紙に書いて、それをパソコンに書き直すのだから、やはり、ペンをとる、なのだろう。しかし、ペンをとる、とはあまりに情緒がない。やはり、ここは、筆をとる、がいいだろう。

 さて、筆をとる、にしたはいいが、筆をとる、のとるとはどんな漢字なのか迷った。馬鹿である。取る、で良さそうな気がしたが、やはり似合っていない。暫く悩んだのだが、辞書を調べれば簡単に分かるのだろうが、頭の体操のつもりで考えた。ようやっと、執筆という熟語を思い出し、筆をとるは、筆を執るだ、と得心した。

 久しぶりに筆を執った。その久しぶりであることの訳は言わない。いろいろ、心身の疲れ、ということにしておこう。

 実につまらないことを書いている。これまでも、つまらないことを書いてきたと思うのだが、それをまるで、つまらないことでないように書いてきていただけであろう。つまらないとは、意味がない、馬鹿々々しい、面白くない、ということである。

 しかし、つまらないことなのかどうかは、その人によりそれぞれであろう。阪神タイガースのファンならば、阪神タイガースが勝つか負けるかは、とても気になることで、わくわくしながらその試合を見、その試合の結果が気になる。しかし、野球というものに興味を持たない人も多く、そういう人にしてみれば、阪神タイガースが勝とうが負けようが、どうでもいい、そんなことはつまらないことだ。

 僕は、この太市で生まれた。漱石の、「吾輩は猫である」の猫と同じで、生まれた時、所など覚えている訳はないのだが、物心ついた時から、この太市で生まれたと言われてきたので、この太市に生まれたのだろう。僕を取り上げたのは、森川君江さんという産婆さんで、この実家で生まれたということだ。

 また、つまらないことを書いている。僕が何所で生まれたかなど、誰が興味があるであろうか。僕自身にとっても、大した意味はない。

 しかし、この世に生まれてきたこと自体、つまらないことではなかろう。それは、僕が生まれようが、他の人が生まれようが、この世に生まれ出づるということは、それだけで、価値があり、意味があり、大したことで、面白いことではなかろうか。

 この世に生まれ出づることにより、その人の人生は始まる。生まれ出た途端、この世はつまらない、などと思う人はいない。生まれ出た人は、きっと生まれ出たこの世を、生きるに値するものとして、その中で必死に生きようとする本能に満ち溢れているのではなかろうか。決してこの世はつまらないものではない。うきうき、わくわく、どきどきする、そんな世に放り出されるのである。

 あらゆることが新鮮で、初めて見、初めて聞き、初めて触れ、初めて嗅ぎ、初めて味わうもの。人は、他の生き物、他の哺乳動物たちと比べて、ほぼ一年早く生まれ出る。それは生理的早産とも言われる。他の哺乳動物たちは、生まれてしばらく経つと、自力で自らの四本脚で歩く。人は生まれてほぼ一年、寝たきりである。その間、母親、父親、家族に見守られながら、育てられる。

 そうやって育てられながら、這い這いをし、二歩足で立てるようになっても、身の回りのあらゆるものは、その人にとって、新鮮で瑞々しいものであろう。この世の全てのこと、全てのものは、決してつまらないものではない。善いものにも悪いものにも、敵か味方かも分からずに、本能的に近づいていく。現在と未来しかない世界である。

 年を取ると、一年の過ぎるのが、一週間の過ぎるのが、とても早くなる。ときめきがなくなるからだ、などとさっきテレビで言っていた。あらゆるものに、新鮮さがなくなり、わくわくしなくなったということか。そうかも知れない。

 夏嵐 荒ぶる神の 旅の痕   

2018年     7月20日     崎谷英文


田植えが近い

 どんよりとした天気である。そろそろ梅雨に入るのだろう。田植えは近い。田植えが近づくと、いろいろ忙しい。田んぼを耕し、水を入れる準備をしておかなければならない。畔の草を刈り、水口(田んぼに水の入る所)を整え、必要な畔沿いに畔シートを敷いて水漏れがしないように準備をする。昨日、二十八日、稲の苗が一部届いた。キヌムスメと言う品種の苗である。農協から毎年買う。

 稲の苗の、まだ10cmにも足りないほどのキヌムスメで、まだ黄色っぽい。このキヌムスメは、南を山に遮られた僅か二畝程の田んぼで育てる。しかし、その田んぼは全く耕してもなく、準備はこれからである。畔の草も刈り、田んぼの隅や端っこは、手で刈ることになる。

 キヌムスメは、六月の十日頃に田植えする予定である。小さな田んぼではあるが、やはりそれなりに面倒臭い。何しろ、この田んぼは、水がすぐ抜ける。いくら畔シートを丁寧に敷いたとしても、隣の田んぼ(休耕田である)にどんどん水が漏れていき、隣の溝にも、モグラの穴から勢いよく水が出ていく。さて今年はどうなることやら、まあ、なるようにしかならない、適当にやっていくしかなさそうだ。

 大きな田んぼには、キヌムスメではなくヒノヒカリと言う品種を予定している。これも農協から苗を買う。昔ながらの農家では、去年の米の籾を使って、それを苗箱に撒いて苗から自分の手で育てるものだったのだが、近年、農協から苗を買う人が多くなっているようだ。このヒノヒカリは、三十日に届くと農協から連絡が入る。

 苗箱に行儀よく並んだ苗、これには毎日のように水を遣らなければならない。田んぼの一部を使って、そこで苗を育てる人もいるが、僕は家の前の原っぱで苗を育てる。以前は、日に何度も水を遣っていたのだが、ビニールシートを敷いて、苗箱を中に置き、外側のシートの下に長い木を入れて窪みを作って水が保つようにすることを覚えた。そうすることによって、水を撒く回数を減らすことができる。苗は、水がたっぷりないと良く育たない。

 小さな田んぼの方は、全く手入れをしていないと言ったが、本当は、少し有機肥料(鶏糞)を入れてやる予定だったのだが、面倒臭くてやめた。まるっきりの自然栽培になる。二畝程の田んぼで、去年は45kg程の米ができただろうか。果たして今年は、どれだけできるだろうか。どうせ草茫々になることは分かっているので、やはり今年も、どれだけ草取りができるかに掛かっていそうだ。

 実にいい加減な米作りである。それでも、大きな田んぼの収穫だけで、友達に少しづつ分けても、家族が一年食べていくことのできる米はできる。

 それにしても徐々に体力は衰えていく。庭の草刈りでも、去年ならば、半日でやってしまっていたのだが、今年は、二・三日に分けてやることになった。

 それにしても、今の世の中、おかしなことが多すぎる。日本の政治は、誰かの私物になってしまったようで、嘘つきばかりが蔓延っている。驕る平家は久しからずで、いずれ退治されるだろうが、権力に擦り寄る輩が多く、正義も平等もあったものではない。

 嘘をつき通せば通ってしまうような世の中では、正直者は馬鹿を見ることになり、世の中、悪いことをしても見つからなければいい、となってしまう。日大のタックルをした選手の潔さは、大人の世界にはなさそうだ。そんな大人が、道徳教育などと、ほざいていることなど、ちゃんちゃら喜劇だ。

 この間、ご飯論法と言う面白い記事を読んだ。「朝ご飯は食べましたか?」「記録もないので分かりませんが、ご飯を食べた記憶はありません。(実はパンは食べていたが、そのことは言わない)」など、全く不誠実に詭弁を弄することらしい。子供たちも、こんな社会で育てば、正直も正義も優しさもなく、ごまかした方が勝ち、と思ってしまうだろう。

 自然は時々、予測にない厳しい反応をするが、しかし、人間のように口先で騙したりはしない。

   降りそうで 降らぬ曇天 夏昏し   

2018年     5月29日     崎谷英文


ポトラの日記27

 新緑が美しい。最近、相棒が僕を縁側で触りたがる。スキンシップと言うのだろうか、僕も家族は誰もいなくなって、やはり、今、最も信頼できるのは相棒で、相棒と遊ぶことは楽しい。相棒とひとしきり遊んだ後、この暖かい、時には暖かすぎる日もあるのだが、そんな時は、縁側の丁度木陰になる所で昼寝するのが、一等気持ちがいい。

 猫というのは、本来は夜行性なのだが、最近の飼い猫たちはどうなのだろう。家の中でばかり生活していたら、人間と同じように、昼は起きていて、夜眠るのだろうか。そういうことも、生活の変化、習慣の変化、猫の進化形としていいのだろうか。しかし、どうも僕は好かない。そんな飼い猫たちは、ただ野性を失っていくばかりだろう。

 相棒が、テレビで野生のヒョウの生活を見たらしい。ヒョウは僕ら猫の仲間で、木登りが上手く、狩りも巧みだ。僕も時々狩りをして、相棒に獲物を土産として持って行ってやるのだが、相棒はあまり喜んでいないようだ。

 野生の動物たちは、人間にとっては残酷な生き物に見えるようだが、そんなことはない。野生の動物たちは、自然の生存競争の中で、精一杯生きているだけなのだ。他の生き物たちとの共生でもあるのだ。もちろん、喧嘩することはあるが、人間のように仲間同士、殺し合ったり、騙し合ったりしない。

 人間と言うのは、賢いらしいが、どうやらただの欲張りな生き物のような気がしてきた。殺し合い、騙し合い、嘘をついてばかりだ。自分ばかりの利益を求め、他人を貶めようとする。

 人間社会は、進化してきたことは進化してきたのであろうが、それは、主に物質文明とか機械文明とかの場面で、物質的に豊かになり、贅沢をし、便利になって、楽をしようとするばかりで、むしろ、野生の時代以上に、品がなくなり、醜くなっているのでははないか。

 相棒の小さかった頃は、田んぼ作りも、それこそ手作りで、トラクターも田植え機もコンバインもなかった。牛を飼って大事に育て、牛に鋤を曳かせて田んぼを耕した。家族総出で、時には早乙女たちに手伝ってもらって、手で田植えをした。秋には、またみんなで、手で稲刈りをし、稲木に掛けて天日干しにした。どれもこれも、大変な重労働で、しかし、それをしなければ食べてはいけなかった。

 しかし、自らの手と身体を使っての仕事だったからこそ、そんな重労働だったからこそ、達成感があり爽快感があった。野生の生き物たちも、自らの本能を発揮して、自力で獲物を手に入れてこそ、その野生動物たちの生きる充実感があるのではないか。僕だって、相棒が用意する食事もいいが、時に野原で野ネズミを捕まえるのは気持ちがいいものだ。

 しかし、人間はどうやら、余計な欲望を抱え込んでしまったようだ。物欲、金銭欲、権力欲、名誉欲、生きていくのには必要のないものに振り回されて、そういうものを手に入れようと必死になる。手に入れたそういうものを必死に守ろうとする。一体人間たちは、まともに生きているのであろうか。相棒は、どうやらそんな人間社会に辟易し、絶望しかかっているようだ。

 相棒の義理のお母さん、つまり奥さんのお母さんが亡くなったようだ。義父の時と同じように、きわめて簡素な葬儀だった。日曜日の朝に施設で亡くなり、その日の内に裏の離れに遺体は運ばれ、その夜に、相棒と奥さんと息子の三人だけで、通夜をしていた。相棒が、般若心経を詠んで終わり、ものの十分も掛からなかった。

 翌日は、葬儀、義母の姉妹二人と奥さんの妹とその子二人、そしてあと三人の、合計僅か八人だけの葬儀だった。義父の時と同じく、相棒が正信偈を詠んでいた。僕は、直ぐ近くで相棒の経を聞いていた。相棒は、なかなか経を詠むのが上手い。そう言えば、僕の母親、兄弟が亡くなった時も、相棒は経を詠んでいた。

 その日の内に,火葬にされ、その日の内に納骨をしたそうだ。合掌。

 ふと見れば 雨に濡れたる 十字花   

2018年     5月23日     崎谷英文


アリの行列

 久しぶりに東京に行く。年に、二・三回は東京へ行くのだが、行く度に人の多さに辟易する。その大人数の熱気にあてられ、息苦しく、くらくらする。太市にいると、会う人よりも会う動物の方が多いぐらいだが、東京に来ると、ほとんど動物には出会わない。会うのは人ばかり、人の群れは、まるでアメを求めて繋がるアリの行列のように、駅のコンコースを行き交う。

 東京へ行く予定の二日前、義母の入っている施設から塾に電話が掛かってきた。妻が偶々家にいなかったのだろう、緊急の連絡先として、塾の方の電話も知らせていた。つい先日、義母の米寿の祝いを兼ねて、見舞いに行ったところだった。

 義母は、もう二十年近くも寝たきりである。施設に入るころから、既に手足はほとんど動かず、流動食をスプーンで食べさせてもらい、日永、イヤホーンでラジオを聞いている。聞こえているのかどうかは分からない。以前は、小さな声で話すことはできたのだが、最近は、その声も聞き取れないほど小さくなり、この間会った時には、眼を開けることも難しそうだった。

 その義母が、感染症に罹ったようで、熱が出ているので、抗菌剤を飲ませ、解熱剤も与えて、様子を見る、と言う知らせであった。施設には、延命治療はしないと言うことで、病院には、入院しないことになっていた。

 その後、妻にも連絡が付き、血圧が四十ほどにも下がったと言うことで、これはいよいよ危険ではないかと思い、東京へ行くことができないかも知れないと感じた。

 翌日、見舞うと義母は、個室に移されていた。見た様子は、以前とそれほど違いはない。大丈夫、一週間ぐらいは大丈夫、と妻が言うので、東京に来たのであった。

 今回、東京に来たのは、友人の彫刻家、柴田君の退官記念の講演会と展覧会のためである。柴田良貴、生まれは大阪だが、五才で父親の実家、姫路市船津町に戻っているので、姫路育ちと言っていいだろう。

 僕の妻と中学校が同じで、彼はその頃から芸術的才能を発揮させていて、妻は頼んで、彼の描いた絵を貰ったそうである。僕は彼と姫路西校の一年生の時に同じ組だった。彼は、音楽的才能も優れていて、クラシックギターも得意だった。その時からだから、五十年もの付き合いになる。

 彼は、東京教育大学の彫塑専攻に入学した。今の筑波大学になる。僕の大学にも近く、昼間からよく立ち寄ったものである。その後彼は、修士課程を修了し、筑波大学付属高校の講師、筑波大学付属盲学校の教諭を経て、筑波大学の、講師、助教授、教授となっていった。その間も、東京にいる高校からの友人たちとも一緒になって、よく飲んでいたものである。

 彼は、筑波大学の学系長にもなり、六十五才になって、今年の三月、筑波大学を退官した。その退官記念だった。

 彼の彫刻は、日展系の具象、人体の塑像が彼の主だった作品になる。日展の彫刻で、2015年、文部大臣賞を受けた。これ以上の、公の評価はない。

 教え子たちや学校、彫刻関係の人たちが、百人程も集まって、彼の講演が始まった。淡々とこれまでの彫刻作りにについて述べる。教え子たちに、包み隠さず自分の全てを出して、身を持って教えているようであった。

 彼の彫刻を、美術評論家、中山典夫氏は、「あやうい均衡」と評していた。あやういは、ネガティブな意味ではない。彼は、芸術と自然との「あやうい均衡」を形象化させている、と言う。

 彼は、これからも彫刻を作り続けるであろう。これからは、ますます悠々と彫刻を作り続けるであろう。これまでの闘ってきた人生から、幾らか解放されて、彫刻を作り続けるであろう。

 アリの行列を逃れて太市に帰ってきた。義母の様子にそれほどの変化はないと言う。

 夏嵐 荒ぶる神の 旅の跡   

2018年     5月16日     崎谷英文


あだし野の

 あだし野の露消ゆるときなく、徒然草の第七段である。あだし野は、京都嵯峨野の奥にあった墓地のこと、露とは儚きものの象徴であろう。

 「あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからむ。世は定めなきこそいみじけれ。」

 鳥部山(清水寺の南、火葬場があった)の煙の立ち去ることの全くないように、人がこの世にいつまでも生きながらえる習わしならば、どんなにか、物のあはれというものもないであろう。この世は、不定、無常であることこそ、いい。

 「命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。蜉蝣の夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢の心地こそせめ。」

 この世の命あるものを見ると、人ほど長生きするものはない。蜉蝣が朝に生まれ夕べを待つことなく、夏の蝉で春秋を知らないものもあるぞよ。ゆっくりと一年を暮らす短い間でさえも、この上なくのんびりすることよ。この一生がもの足りなく、命が惜しいと思ったならば、たとえ永い千年を過ごしたとしても、一夜の夢のような心地がするだろう。

 「住み果てぬ世に、醜き姿を待ち得て何かはせむ。命長ければ恥多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なむこそ、目安かるべけれ。」

 何時までも生きながらえない世に、醜い姿となるまで生きながらえて何になろうか。命長ければ恥多し。長くとも四十才に満たないくらいで死ぬと言うのが、実に見よいことである。

 「そのほど過ぎぬれば、容を恥づる心もなく、人に出て交じはらむことを思ひ、夕の陽に子孫を愛して、栄ゆく末を見むまでの命をあらまし、ひたすら世を貪ることのみ深く、物のあはれも知らずなりゆくなむ、あさましき。」

 その四十才の頃を過ぎてしまうと、自分の年老いた容姿を恥ずかしく思う心もなくなり、世間に出て人々と交際することを思い、夕べに沈む夕陽のように行く末のない身で、子や孫を可愛がって、その子や孫の栄ゆく将来を見届けるまでの命を願い、ひたすら世俗の欲望を貪る心ばかり深く、物のあはれも解からなくなっていくことは、まことに情けなく嫌なことである。

 四十路にて死なむこそと言いながら、兼好は六十八才まで生きたそうだ。その頃の六十八才は充分長生きであろう。今の時代、四十才などと言うのは、とんでもなく若く、全く死ぬべき頃ではない。しかしまた、幾ら医学が発達し、幾ら長く生きようとも、いずれ死ぬことの定めは変わらない。

 六十五才になっている。数えでは、六十七才である。昨日、僕はしないのだが、高校の同級生たちのゴルフの会があり、その後の懇親会に参加した。皆年を取ったが、至って元気である。しかし、その容姿は、自分を含めて、老人の姿である。

 人は、自分を含めて、いずれ死ぬと知りながら、まるで死は遠い彼方にあるように生きている。しかし、若い頃と同じように酒を呑んでいると、思わぬ事故に合う。まだ若いと思ったままでいても、足腰は着実に衰えている。酔っ払い、よろよろと階段を踏み外し、怪我をする。昨夜聞いたことを忘れ、指摘されて慌てる。耳は遠くなり、眼はしょぼしょぼする。

 いのちに限りがあるからこそ、この世に生きる価値もある。長生きをすることは良いことだが、ゆっくりとこの世からフェードアウトしなければなるまい。自らが死んでいった後の、残る若者たちの手本になれとまでは言わないが、醜い姿を晒して、偉そうに威張ってばかりではいられまい。今さら世俗の欲望を貪って何になる。この世の無常を感じ、この世の卑小さを思わねばなるまい。

 一面の 春の野の花 いのち踏む  

2018年     5月6日     崎谷英文


憲法記念日

 5月3日は、憲法記念日である。1946年11月3日、日本国憲法の公布、1947年5月3日施行、その5月3日、憲法記念日である。

 日本国憲法、第二章 第九条

 第一項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 第二項 前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 今、この憲法九条を改正しようとする動きがある。自衛隊が憲法に違反しないと言うことを明らかにする必要があるとして、第三項に、自衛隊の存在を明記しようと言うのである。

 自衛隊は、この平和憲法の下、警察予備隊が作られ、それが保安隊になり、その後自衛隊となったものである。自衛隊ができるまでの過程には、いろいろな要因がある。1950年の6月に朝鮮戦争が勃発し、その年の8月に警察予備隊が作られた。これは、まだ日本が占領されていた頃の時で、GHQの指令による設置であった。これは、在日米軍の朝鮮半島出兵後の日本の米軍基地と在日米居留民の安全の為であった。

 その後、1951年9月、サンフランシスコ平和条約が結ばれ、日本は独立を回復した。同時に、日米安保条約が結ばれる。そして、1952年8月、警察予備隊は保安隊となる。朝鮮戦争の休戦後、1954年3月、日米相互防衛援助協定が調印され、その年の7月に陸海空の自衛隊が誕生する。

 こういった経緯を見てみると、日本国憲法の平和の理想が、アメリカの都合により歪められていった、と言えるのではないか。アメリカは、共産主義の侵攻を怖れ、そのために朝鮮戦争が行われ、日本にその一部を肩代わりさせるために、警察予備隊を創設させた。サンフランシスコ平和条約が結ばれた時も、朝鮮戦争が続いていて、保安隊ができ、朝鮮戦争の休戦後も、東西冷戦の中、日本に自衛隊ができたのである。

 自衛隊は軍隊である。世界でも有数の軍事力を持つ自衛隊である。世界の中で7番目の軍事力とも言う。アメリカから買わされている軍事兵器は、とても自衛のための必要最小限度の軍備ではない、遥かに超えている。警察予備隊の時の隊員の定員は、7万5000人、今の自衛隊は、30万人ほどにもなろうか。陸海空軍の戦力である。

 自衛隊が、日本国憲法に違反していることは、余程のねじ曲がった解釈をしない限り、明白である。時が経てば、憲法の条文の意味が変わると言うことは、あってはならない。普通に、日本語を読むことのできる人ならば、今の自衛隊が憲法に違反していないという解釈ができるはずがない。そんな解釈ができるとしたら、日本語教育は成り立たない。

 憲法学者の多くは、自衛隊は憲法違反であるとしている。文言の解釈としては至極当然である。ただ、しかし、現にある自衛隊の存在を直ちに無効とすることのできないのも現実である。現実に、自衛隊は、日本人にとっては、軍隊としてよりも災害救助隊として大きな役割を担っているように思われる。ただそれが、軍隊としての自衛隊を認める理由にはならない。

 平和に対しては、自国が軍事力を持つことにより他国からの攻撃を抑止できると言う考え方がある。特に、核兵器を持つことにより戦争を抑止すると言う考え方もある。しかし、日本は悲惨な戦争を教訓に、軍事力による平和の愚かしさを知ったのではなかったか。核兵器の恐ろしさを、身を持って知ったからこそ、軍隊を持たず、交戦権も認めないとしたのではなかったか。

 この矛盾したぎりぎりの中で、自衛隊を憲法に沿うように穏やかな組織として変えていくのか、それとも、今の安倍政権、国家主義者たちが目指すように、憲法を変えて、戦争をする自衛隊にするのか。愚かな選択をしないように祈っている。

 透き通り 雀も寄らぬ 柿若葉  

2018年     4月30日     崎谷英文


久しぶりのしっかりした雨

 久しぶりのしっかりした雨のような気がする。昨夜遅くから、ぽつりぽつりと降り始め、今昼前、屋根の雨音がリズム良く響く。

 今年は桜も早かったが、タケノコも早かった。以前ならば、五月の連休の頃までタケノコは生えていたのだが、近年、特に一昨年位から、タケノコはぐんと早く育ち、その終わるのも早まったようだ。

 毎年、友人たちとタケノコ掘りをしているのだが、以前は、四月二十九日、昔の天皇誕生日に行っていて、その頃にも充分タケノコはあったのだが、今はその頃にはあまり残らなくなった。

 地球温暖化と言われて久しいが、これもそのせいかも知れないのだが、本当の理由は分からない。タケノコも柿と同じように、よくできる表年と余りできない裏年とがある、などと言う人もいるが、それほど単純ではなさそうだ。

 以前に、タケノコというものは、その前年の夏に地下茎から芽を出し、それが翌年の春に育つので、その前年の夏に雨が多いほど多くの芽が出て、翌年の春に多くのタケノコができる、ということを村の長老から聞いたことがある。つまり、去年の夏に雨が多いと翌年沢山のタケノコができ、夏の雨が少ないと春のタケノコも少ない、というのである。

 これも、本当かどうか半信半疑だったのだが、テレビで京都のタケノコ農家の人も同じことを言っていたのを聞き、そうなのかとも思う。つまり、夏の雨がタケノコの収穫量を左右するということか。

 だからと言って、竹藪に水を撒くことなどできなくて、雨乞いでもするしかなく、やはり、自然に任せるしかないのである。去年の夏、雨が多かったかどうかは覚えていない。

 桜の花も、気温の上がるのが早くなれば早く咲く、というのでもなさそうだ。桜の花は、冷たい期間をある程度経て、その寒さがしっかりないと、春に花は咲かないと言う。つまり、温暖化すれば早く咲くと言うのでもなさそうだ。今年のことで言えば、一・二月の寒さこそが、桜の花を早く目覚めさせたのかも知れない。このまま温暖化が進めば、逆に暖かい所で冬が短くなりすぎ、桜の花が咲かなくなるのではないかという人もいる。

 タケノコも似たようなものかも知れない。ただ暖かいからと言って、春に早く大きくなるものでもなさそうだ。やはり、冬の寒さが春にタケノコを目覚めさせるのだろう。つまり、桜もタケノコも、この冬の結構な厳しい寒さがあったればこそ、春の温もりに敏感に反応したと言って良さそうだ。

 桜とかタケノコだけではない。あらゆる植物は、それぞれの一年の季節を通しての自分たちの生き方を持っている。春咲く花も夏咲く花も、春に実をつける木も秋に実をつける木も、その最も華やかな季節の裏に、眠ったようにじっと耐え、じっくりと力を溜め込める季節がある。何もしていないように見えて、敏感に季節の流れを捉えて生きている。

 家の裏に柿の木がある。今、柿若葉が綺麗だ。この田舎にいて、もしかしたら若葉の中で、柿若葉が最も美しいのではないかと、ひそかに思っている。とにかく、その光り輝く黄緑の葉は素晴らしい。冬の間、葉を全て落とし、骸骨のようになっていた木が、春になるとゆっくりと透き通るような緑の葉を付け始める。周囲の常緑樹の葉を凌駕する美しさである。その葉が徐々にくすんで、やがて秋に実をつけ、やがて冬に葉を落とす。

 植物たちは、一年一年を繰り返すのだが、その一年は同じように見えて、同じではない。似たような一年でも、それぞれの一年はいろいろである。桜の花の開花具合も、タケノコの出来具合も、その年その年によってさまざまになる。人もまた、一年一年、同じようでいて異なった一年を生きている。

 竹の秋という季語がある。竹は、タケノコを育てた後、葉を茶色くさせる。遠くから見ても分かる竹の秋である。竹の秋は、タケノコの終わりを意味する。今、ほとんど竹の秋である。

 縁側の 正座する猫 竹の秋

2018年     4月24日     崎谷英文


嘘つき2

 嘘つき、という言葉はあるが、本当つきという言葉はない。本当のことを言うことは当たり前で、わざわざ本当つきという必要はない。人は、通常本当のことを言い合って生きているのであって、嘘をつき合って生きているのではない。

 嘘をつくことが悪いことだというのは、誰でもがそう思うことだろう。嘘も方便という言葉はあるが、どうでもいいこと、何も本当のことを言わなくてもいいことならば、嘘は許されるかも知れないが、そんな他愛のないことでも、嘘を言い続けていると、その人の信用はなくなる。

 昨夜、何食べた、と聞かれたら、ほとんどの場合、嘘をついたとしても、大した罪ではない。しかし、その嘘の言葉を本当のこととして、それが話題になって話が続けられたとしたら、その嘘をついた人は、話の続きが難しく、苦労するだろう。実は嘘だった、と言えばいいのだが、そうも言い難い。だとしたら、嘘を本当のこととして、その嘘を隠すために、また嘘をつく。人はそうやって止めどもない嘘つきになっていく。

 小説とか、ドラマとか、そういったものはフィクションであることを公然と表明してなされるものであり、そこではいくら嘘が入っても、それだけで駄目だとはならない。落語や漫才にしても、嘘をつき合って笑わせている。むしろ、その嘘を嘘ではないように思わせる、リアリティを感じさせることで、読み応え、見ごたえのあるフィクションになる。如何に上手に嘘をつくか、ということが、その作者、その演者の能力とも言える。

 しかし、そういったエンターテインメントでない、現実の社会においては、嘘は良いものではない。嘘つき罪、というものはないが、嘘で騙して金銭を取れば、詐欺罪になる。

 太市の駅前に、ヨシダという駄菓子屋がある。僕の子供の頃からあった店で、文房具なども扱っているが、基本的には駄菓子屋である。今もその店に同じような商品があるのかは知らないが、昔、くじ引き付きのお菓子があり、当たればもう一つ貰えるというものである。今もはっきり覚えている。当たりくじが床に落ちていたのを使い、僕はさも今引いたくじのようにして、おじさんを騙した。六十年近く経つのに忘れられない。

 楽しかったことより、悪いことをしたことの方が、こころに残る。それは決して楽しくとも嬉しくともない思い出で、どこまでも苦い思い出である。その他にも、直接嘘をついたというのではないが、やはり悪いことをしたことは、こころを離れない。何も閻魔様に舌を抜かれるのが怖いのではない。人は、平気に嘘をついたり、平気に悪いことをしたら、自分自身、気分が悪く、こころが痛む。そういったものではないか。

 ところで、今の日本の政治はどうだろう。総理大臣自身が、平気で嘘をついているようだ。見え透いた嘘も、白を切り通せば、分からないと思っているのだろうか。

 政治の世界では、嘘は最もいけない。特に、国民主権、民主主義においては、真実こそが、その正当性を担保する。真実に基づいて、法に則り、平等に、手続きを遵守して政治は行われなければならない。真実が隠された中での民主主義などあり得ない。戦前、戦中の権力政治、大本営発表の恐ろしさを思い出さねばならない。

 一つ嘘をつくと、その嘘を隠すためにまた嘘をつく。何とか辻褄を合わせようと画策する。状況証拠が揃い、限りなく黒になっているのに、自白さえしなければ罪にならない、と恥ずかしく、見苦しい弁明を繰り返す。

 本来、日本の官僚は、政権が交代しようが、確固とした中立の立場から、政策の中枢を担っていたのだが、どうやら、今は、公務員の矜持を無くし、国民の公僕という使命感はなくなり、やくざの親分を守る子分にも似て、平気で嘘をつくようになった。

 桜散る 彼方の海は 遠すぎる

2018年     4月12日     崎谷英文


花冷え

 花冷えである。と言って、少し考えた。花冷えというのが、桜の花が咲いているのに寒さが戻ってくることを言うのだとしたら、もうほとんどの桜の花は散ってしまっているのだから、花冷えとは言えないのではないか。しかし、ほとんど散ったとは言え、全てが散っているのではないのだとしたら、花冷えでもいいか。大した話ではない。そんなことは適当でいい。

 とにかく、今日は寒いのである。二日前までは、ずっと暖かく、着るものも冬物から春物に替えたところだったのに、昨日からぐっと寒くなった。年を取ったせいでもあるだろう、こんな気温の変化は、身体に悪い。

 一週間前、桜の花は、ほぼ満開だった。しかし、ここ数日の内に、葉桜になっていく。花吹雪となり、花の絨毯になり、川では花筏となり、花の咲いていたところが、あざやかな緑に入れ替わっていく。葉桜は葉桜として、綺麗だ。

   

 しかし、桜の花が散れば、どの桜も葉桜になるとは限らないようだ。家の前にサクランボの木があるのだが、この木も普通の桜のように花を咲かせる。ソメイヨシノのよりは小さめだが、綺麗な花を咲かせる。その咲くのは早い。今はもうとっくに散ってしまっている。しかし、そのサクランボの木は、綺麗な葉桜にはなっていない。花の散った痕は、茶色く、寧ろ汚らしい。

 今年もこのサクランボの木には、これからサクランボの実が生るだろう。そして今年も、その実は、鳥たちに食べられてしまうことになろう。例年、小さいが甘いサクランボの実が生る。しかし、例年ほとんどの実が、鳥に食べられてしまう。今度こそはと、網を被せるなどの対策をしたこともあるのだが、ことごとく失敗をしてきている。鳥は、網の下を潜り抜けて、実を食べる。もう諦めることにした。

 菜の花が、川の岸辺に一面に咲いている。山村暮鳥の詩に、いちめんのなのはな、いちめんのなのはなというのがあるが、菜の花畑ではないが、川の岸辺にいちめんのなのはなである。菜の花は黄色いが、野菜の花も概して黄色い。下手くそに作って失敗した野菜たちも、放っておくと黄色い花を咲かせる。畑では、野菜の花と野の花が競い合っている。

 花冷えというのも寒の戻りではあるのだろうが、季節は逆戻りはしない。着実に季節は巡る。冬の次には春が来て、春の次には夏が来る。当たり前の話なのだが、重要なことかも知れない。人はやはり、特に日本人は、この季節の循環の中で生きてきた。季節の移り変わりの中、その自然に包まれて生きてきた。季節の変化を楽しみ、季節の移ろいを惜しみ生きてきた。

 その季節の変化が、また自然の恵みをもたらす。人の科学文明が如何に発達しようとも、自然を支配することはできない。

 春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり、道元の書、「傘松道泳」にある。道元の意図は深いものがあるのかも知れないが、自然の移ろいの中、無私となり生きることを言っているのではないか。

 季節の移り変わりは、また生と死の循環を示唆しているのかも知れない。春にいのちは生まれ、夏にそのいのちを輝かせ、秋にはゆるりと衰えていき、冬にいのちを眠らせる。しかし眠っていたいのちは、また春によみがえる。

 今の世の中大丈夫なのか。世界も酷いが、日本はなお酷い。国民主権、民主主義が、絵に描いた餅になっている。日本人はお上意識がとても強い。長い物には巻かれよ、寄らば大樹の陰、虎の威を借る狐、日本には、今も権威に縋りつく人が多い。戦前、戦中の教訓は何処にも生かされていない。

 戦後七十年以上が経つのに、日本には民主主義は根付かず、正義も平等も根付かなかった。もう諦めることにした。

 永遠を 一瞬に化す 桜花

2018年     4月7日     崎谷英文


桜が満開

 桜が満開になった。先週末、漸く咲き始めたのだが、日に日に花の数は増えてゆき、実家の前の桜も、川の土手の桜も、ほぼ満開になった。

 科学文明は進歩し、人工物が世に溢れているが、桜の花の咲いて散るのは、太古の昔から人の力ではなく、自然の力である。どんなに科学が進んでも、桜の花の分析はできても、桜の花を実験室で一から作り出すことはできない。人工の光による色鮮やかなイルミネイションを作り出すことはできても、桜並木を作り出すことはできない。宇宙の営みは、人の力の左右することではない。春になると桜は咲く。人は気を揉む。

 散る桜残る桜も散る桜、良寛の作とも言われるが、太平洋戦争の時の特攻隊員が残した句でもあるらしい。桜は今は満開であるが、いずれ散る。桜の花は潔く散るために咲いているのかも知れない。毎年桜は咲くが、その毎年の桜の花は同じ桜の花ではない。年々歳々花相似たり、年々歳々人同じからず、というが、花もまた同じではなく、同じ花に見えるばかりで、今年の花は、去年と同じ花ではない。毎年新しい花が咲く。

 人は、そのいのちがたとえ百才に延びたとしても、無常の中に生きていることは間違いなく、人も花と同じ、間違いなくいずれいのちは尽き、また新しいいのちの時代になっていく。

 春爛漫、太市の山も山桜であろう、所々ピンク色に染まり、山笑う景色になっている。荒れた畑にはレンゲの花が咲き誇る。長い一畝にタマネギを植えているのだが、その両側をレンゲがガードレールのように咲いている。草取りをしなければならない。この冬の寒さの中、タマネギの生長は遅く、心配していたのだが、この頃の暖かさの中で、タマネギはいのちを取り戻したように、背を伸ばした。

 レンゲだけではない、ナズナもあればイヌフグリもある。ナズナは、その茎は細く、よく見ないと見逃すほどなのだが、レンゲの隙間に、レンゲより少し背が高く、小さな花を咲かせている。イヌフグリのフグリは陰嚢のことで、その実が犬の陰嚢に似ていることからその名が付けられたという。花は、薄青く白く、小さくてかわいい。花を見ている限りは、イヌフグリという名はかわいそうだ。

 今、日本にあるイヌフグリは、外来種らしい。日本の在来種は、絶滅したという。タンポポも咲いているが、これも今は、西洋タンポポがほとんどらしい。セイタカアワダチソウももちろん外来種であり、野花の世界は、人よりもとっくにグローバル化している。それにしても、日本の在来種は弱く、外国からやって来た草花は強い。

 今年の冬は寒かったが、少し前から、それまでの寒さが嘘のように暖かくなっている。季節は確実に廻る。年を取ると、本当に時の過ぎるのが速くなる。もう一年が経ったのかと、ここ数年ずっと感じてきている。ずっと若かった頃に比べ、生きている時間の意味、生きている時間の価値は薄らいでいく。生きていることが春の靄に隠れて見えなくなる。

 何かの漫画か、アニメか、ゲームの台詞としてテレビで聞いたのだが、「もう、お前は死んでいる。」と言われれば、そうだったのかと思ってしまうかも知れない。

 生きているとはどういうことなのか、分かったようで分からない。生きているということが分からなければ、今生きているのかどうかも分からない。孔子の言葉だったろう、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」、生きることが分からなければ、死のことも分からない。だとしたら、もう死んでいるのかも知れない。

 森友問題、公文書改竄問題で、近畿財務局の職員が自殺したという。もしこれが本当だとしたら、その森友問題、文書改竄問題に関係していた人は、こころ穏やかに生きてはいられまい。しかし、どうやら恥知らずの者ばかりらしい。国のトップが、人が死のうが、俺のせいではない、と逃げ回っているようで、誠に見苦しい。

 まもなく桜の花は散っていく。

 競ひ咲き 競ひ散りゆく 桜花

2018年     4月1日     崎谷英文


太市の桜は遅い

 太市の桜は遅い。実家の前に一本の桜がある。それは、僕が子供の頃に植えられたものである。その時、その苗木は小さく、今の僕の背たけほどしかなかった。少し離れた所に、老木の古い桜がある。それは、雨や風で時に枝がちぎれ落ち、木の皮はぼろぼろになって苦しげである。それでも、抗うように残った枝に幾つかの花の芽が膨らんでいる。

 小さかった桜が、今は前の道に覆い被さるように枝葉が茂り、邪魔になると切り取られもした。それでも、その一本の桜は、今年もこれから輝いてくれるはずだ。しかし、太市の桜は遅い。上野公園では、もうとっくに花見で騒いでいるらしいし、多くの地域で、桜は満開になっている。

 今日、二十四日土曜日、今朝見た時は、一輪も咲いていなかった。しかし、夕方六時頃、下の方の枝に二・三輪固まって咲いているのが見えた。

 公文書管理法、正式には公文書等の管理に関する法律である。その第一条に、この法律の目的として、次の条文がある。

 この法律は、国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものであることにかんがみ、国民主権の理念にのっとり、公文書等の管理に関する基本的事項を定めること等により、行政文書等の適正な管理、歴史公文書等の適正な保存及び利用等を図り、もって行政が適正かつ効率的に運営されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする。

 恐ろしく長い。これで一文である。法律というものは、何と面倒臭いものかと思ってしまう。

 つまり、この法律は、公文書は、健全な民主主義の根幹を支えるもので、主権者である国民がその公文書を見。利用しようとしたら、国はそれを拒むことができず、国家、政府は自分たちのもろもろの活動を、現在そして将来の国民に説明する責務があり、その責務が充分に果たされるようにすることを目的とする、ということだろう。これでも長い。

 国王、君主、皇帝、天皇が主権者として、国民を統制下に置いている場合の公文書とは異なる。王制の時代においても、行政の歴史を綴るような公文書、歴史書はあった。しかし、それらはほとんど間違いなく、時の政権を優れたものとし、美化するものであったろう。

 中国の昔、司馬遷が史記を綴ったのであるが、淡々と王の善政、王の正当性を語りながら、司馬遷は、その中の所々に、皮肉のような王の悪しき行状を忍び込ませていたという。

 天皇の時代においても、例えば、古事記、日本書紀は、歴史書でありながら、そこにフィクションは入っていない、と豪語する者はなかろう。そうすると、そこに伝説が生まれる。そういった歴史書、公文書というものは、嘘の混じった伝説なのである。それは、時の権力を維持するための、偽りの公文書であり、権力の正当性を誇り、善政を讃え、時の権力者を褒め称えるものであったろう。

 しかし、またそれが、国民のアイデンティティ、心の拠り所として、国家、国民の伝統、文化として残っていくという悩ましい面がある。

 しかし、国民主権、民主主義における公文書に書かれるべき行政としての事実は、時の権力者のためにあるのではない。事実こそが、民主主義の根幹、前提であり、真実の語られない公文書は意味をなさない。大本営発表の苦々しさを思い出さねばならない。

 真実の語られない中で総選挙が行われていたとしたら、そこに誕生した政権は、その正当性を失う。そんな選挙は、国民主権でも民主主義でもない。強権的、独裁的政権である。国民は騙されていたのである。

 飛花落葉という言葉がある。一時の栄華は空しい。花は潔く散り、葉は覚悟して落ちていく。

 三日会はず 男の子は 飛花の中に立つ

2018年     3月25日     崎谷英文


先日の木曜日

 先日の木曜日、朝、目覚めた時、右耳が痛い。これまでにも、耳の奥深く、左右を問わず、少し痛いなと感じたことはあったのだが、この痛みは、これまでのものと比べると酷い。唾を呑み込むと痛みが強くなる。耳近くのどこかが炎症を起こしているのだろう。とにかく痛いのである。朝食は、少しだけ何とか食べたのだが、食べることが痛い。これは、ちょっと今までとは違う。

 耳鼻咽喉科医院をやっている高校時代の同級生、良く知っているM君の所へ行くことにした。耳とか喉とか、おかしいときに、時々診てもらっていたのだが、早速行こうとして、古い診察券を見てみると、何と木曜日は休診日と書いてある。念のために電話すると、録音テープの返答で、やはり木曜日は休みだと言う。痛みは治まりそうになく、別の所へ行くかと思ったのだが、M君が信頼できるので、その日は様子を見て、次の日に行くことにした。

 痛みは消え去るような雰囲気もなく、昼食も夕食も、痛みに耐えながら幾らか口にした。この痛みをインターネットで調べると、どうやら、内耳炎か外耳炎らしく思われた。口の中を照らして鏡で見てみると、右側が少し赤く腫れているようだ。外耳炎でも内耳炎でもなく、別の疾患かも知れない。熱を測ってみると、36度8分、この体温は、僕の平熱にすれば少し高い。

 次の日早く、M君の所へ行く。妻もついてきた。妻は別にどこも悪くはないが、妻は結構な健康オタクで、耳鼻科で聴力を調べてもらいたいらしい。朝から雨が降っている。寒かったのが、突然のように暖かくなり、梅が満開を過ぎ散り始め、サクランボの桜の花が咲き始めている。この雨で、少し寒くなる。三寒四温の春である。今年の桜は早くなるらしい。筍はどうなのだろうと気に掛かる。

 M君の診たてによると、外耳炎で、右の扁桃腺も腫れているので、風邪を引いたようなものらしい。外耳炎は、耳かきを下手にするとなるらしく、そう言えば、1週間ほど前に、久しぶりに両耳の垢をこそぎ取っていた。扁桃腺は、実は、僕は、小学生の時に取り去っていたのだが、その扁桃腺が腫れているというのだ。どうやら、僕の扁桃腺は一部残っていたようだ。

 今、扁桃腺を切り取ることは、あまりしないらしい。昔は、扁桃腺は子供の頃にしか必要ではなく、扁桃腺をしょっちゅう腫らす時は、切り取ってしまってよいとされていたのだが、今は、人の身体に無駄はなく、大人になっても何か役に立っているはずだとして、容易には切り取らないらしい。盲腸炎、虫垂炎のことだが、同じような意味で、今は切り取ることをなるべく控えようとすることもあるらしい。

 人の身体が、それ自体、無駄な所がないのと同じように、この世の自然に存在するものは、本来、全てのものが無駄なく調和をもって共存していたのではなかろうか。人間の科学は、あらゆるものを分析し分解し、エッセンスを抽出しようとしているようだが、本来は生きているものは、その全体で、そして生きているもの同士の全体で調和して生きているのであり、エッセンスを取り出すことは、副作用をもたらす危険があるのではないか。

 M君に、抗生物質と痛み止めと胃腸薬を処方してもらう。妻は、聴力を調べてもらって、40才代の能力とのお墨付きを得て、大いに喜んでいた。僕の方こそ、最近耳の能力が衰えてきている。テレビの音が大き過ぎると妻に文句を言われ、体温を測っていると、そのピッピッという音が聞こえない。

 しかし、目や耳が衰えるということは、正しく、この浮世、この俗世からの脱出を意味しているに違いない。今、この世で、目にし耳にすることは、本当にとんでもないことばかり。能天気な人々は、権力者たちの、やりたい放題、権謀術策を知ってか知らずか、自らも権力に擦り寄って、己の栄華をのみ求め、この世は全く、正義も優しさも無くなる。目を閉じ、耳を塞ぐ。

 一瞬を 積み重ねたる 日永かな

2018年     3月17日     崎谷英文


義父の一周忌

 昨日は義父の一周忌であった。僕はまるっきり忘れていたのだが、さすがに妻は覚えていて、前々日に、そのことを僕に告げ、その日に経をあげてほしいと言う。多分、本来ならば、いや今日では、何が本来なのか分からないような感じなのだが、一般的には、一周忌、三回忌などは、きちんと僧侶に来てもらって、親戚が集まり、法事、法要というものを行っていたと思う。今でもそうする人は多かろう。

 しかし、この義父の場合、葬儀自体、坊さんも呼ばず、家族のみで。その義父の部屋で、僕が経を詠んでやったような次第で、一周忌だからと言って何か特別なことをするものではない。しかし、そういう法要、法事というものが意味のないものだとは思わない。大いに意味のあることだろう。家族、親しくしていた人で、先に亡くなった人のことを思い出し、懐かしむ。

 

 この世の無常を改めて思い起こし、世俗の欲望の空しさを思い知る良い機会となる。

 義父のことは、亡くなったのがこの裏の離れであり、時に思い出すのであるが、やはり確かに一周忌として意識すれば、改めて義父の在りし日のことが、様々に思い出されるのである。

 仏壇も位牌もない、壁の前の物入れの四角い箱に、線香立てを置いて線香に火をつけ、三人がその前に座って、僕が般若心経を唱える。五分も掛からなかったであろう。本当は、義父も僕も、家の宗派は浄土真宗であり、本来ならば、三部経を、そうでなくともせめて正信偈をあげるところなのだろうが、その正信偈も長い。速く詠んでも、二十分は掛かる。妻に聞くと、般若心経でいい、正信偈は長すぎる、ということで般若心経を唱えた。

 だからと言って、別に不信心者と責められることもあるまい。仏は、実に寛容で寛大にあらせられるのだから。

 禅宗などでは、この般若心経がよく唱えられる。浄土真宗では、般若心経は詠まない。禅宗などは、自らが厳しく修行をして悟りを開く、自力の難行を基本とする。一方、浄土真宗は、専修念仏、専ら念仏を唱える、つまり、南無阿弥陀仏を唱えることで、阿弥陀如来が救って下さるという、他力の易行である。

 しかし、禅宗も浄土真宗も、大乗仏教ということでは同じである。大乗仏教とは、ただ個人が悟り、解脱するというのではなく、自分が悟り往生することにより、大衆、他の人々をも救うことにもなる、というものである。それに対して、小乗仏教、これは専ら東南アジアの仏教国に伝わっているものだが、それは修行によりただ自分一人が悟り、解脱していくものと考える。

 日本に伝わってきている仏教は、全て大乗仏教である。仏のこころは狭くない。大きな船として、多くの人を救われるのである。禅宗も浄土真宗も、同じ大乗仏教である。同じお釈迦様である。般若心経を唱えようが正信偈を唱えようが、不埒者、罰当たり者とはされないだろう。

 その般若心経を唱えた所の壁に、掛け軸が掛かっている。書である。どうやら、「君子必慎其独也」と書かれているようだ。これは、四書の内の大学にある。「君子は必ず其の独りを慎むなり」と読む。その始まりは、「小人閑居為不善」である。「小人閑居して不善を為す」と読む。小人、出来の悪い普通の人は、独りでいると、誰も見ていない、誰にも分りはしないと、いろいろ悪いことを考え、悪いことをしてしまう。

 君子、これは王のことではない、偉く立派な人は、独りでいる時も、その身を律し、決して悪いことを考えたりしたりはしないものだ。

 昔の人で偉い人は、独りを慎んでいたのであろう。僕のような馬鹿で愚か者は、もちろん独りを慎むことなどできない。この世の空しさ、この世の無常を感じながら、逃れられない煩悩の迷いの世界を漂うばかりである。世俗の下世話な欲望に絡め捕られ、清廉に成らんとするこころはたちまちに萎えていく。もう一度、般若心経を唱えようか。

 十日程後に、あの百才で亡くなった伯母さんの四十九日の法要がある。その時は、坊さんも来て、本来の三部経が詠まれる。

 繰り返す 嘘偽りの 春の夜

2018年     3月10日     崎谷英文


勝った人

 勝った人を讃えることで、この世は騒がしく、姦しい。平昌オリンピックの日本人の勝者に対し、日本中が拍手喝采である。勝った選手たちは、押しなべて、応援して頂いた人々のお陰です、たくさんの人たちに感謝しています、とか、自分自身の能力や努力を誇ることもなく、誠に、この世の人の生き様として、模範となる鏡のように、謙虚に振る舞い、謙虚に語る。

 人は勝負事が好きである。勝った負けたと一喜一憂しながら、わくわく、どきどきしながら時を過ごすことは、この人生の暇つぶしには、持って来いだろう。勝って喜び、負けて悔しがり、今度もだ、今度こそはと頑張っていくことは、この人生の空しさを埋めてくれる。

 さすらいのギャンブラーなどと言う言葉があるが、さすらいのギャンブラーは、人生の空しさを知っているのではないか。何をしても、どう生きようが、所詮、この世は、無常の極み、一時の幻の中で泣いたり笑ったり。さも高尚に、世の為、人の為などと偉そうにふんぞり返っていても、本当に我欲なく生きている人はいまい。如何な清貧な聖職者に見えていようとも、彼らもまた独りよがりの正義をかざしているばかりであることも多い。

 誠に、自分自身の心性のひねくれていることに感じ入る。世の中が、オリンピックの熱狂に酔いしれていることを、素直に同じように楽しめばいいのに、楽しむ心の裏で、騒ぎ過ぎじゃないか、宴の果ての空しさよ、と人々の喜びに水を差し、ケチをつける悪鬼が、腹の底に漂って、素直に喜ばない。

 他人の不幸は蜜の味、などと言うとんでもない言葉があるようだが、人はどうしても他人と自分とを比べて考えて、他人より豊かに、強く、偉くなりたいと思っているもので、他人との比較において、豊かで、強く、偉くなりたいのだから、他人が貧しく、弱く、馬鹿になれば、嬉しくなってしまう。誠に人のこころは、ひねくれている。

 誰かが勝つということは、誰かが負ける、ということであって、勝つことが喜びならば、負けた人は不幸である。オリンピックでは、もちろん金メダルが最も嬉しいのだろうが、銀でも銅でも、それなりの勝者であろう。入賞、通常は八位以内ということになるようだが、その入賞者たちも、見ようによっては勝者になり得ようか。しかし、それ以下の人は、頑張っていたとしても、報われない敗者となろうか。

 まあ、しかし、オリンピックは参加することに意義があるとすれば、参加しただけで勝者なのだろう。結局は、望みが高ければ、少々の勝利では満足できず、望みが低ければちょっとしたことで勝者にもなり得る、ということか。となれば、人生は欲の深さで自己満足度が違ってくるということにもなりそうだ。

 そうかも知れない。昔、円谷幸吉というマラソン選手がいた。確か、東京オリンピックのマラソンで二位になったと思う。彼は、自衛隊員で、その東京オリンピックの後、更に周囲の期待を集め、厳しい練習を強いられて、また自分自身頑張り屋だったのだろう、その真面目な性格もあり、その練習、重圧に耐えていたのだが、遂に心が折れてしまう。彼は、家族それぞれに、美味しゅうございました、という言葉を残して、自死した。

 死ぬほど頑張るのはいいが、それで死んだら意味はない。死ぬほど頑張るということは、死なないで頑張るということで、死んでしまっては元も子もない。彼は、周囲の期待が強過ぎて、自分自身その重圧に耐えきれなくなってしまったのだろう。つまりは、そんなにも周囲の勝利への拘りが大きかったのが悪かった。

 僕のような敗残者は、もうとっくに勝利するなどという望みは捨てている。囲碁も将棋も、ジャストゲーム、スポーツ、どんなスポーツもゲームであることに変わりはあるまい。一所懸命頑張っている人は眩しいが、あまりに勝負に拘れば、こころが醜くなることもある。どうせ、誰か言っていたように、人生は冥土に行くまでの暇つぶしに過ぎないのだから、のんびりとゲームを楽しめばいい。

 空爆を 見ぬふりをして 春の宴

2018年     3月2日     崎谷英文


老人会

 老人会に入らざるを得なくなった。先日、この太市の相野地区の老人会の会長、我が家の隣でレンコンを作っている人でもあるのだが、その人が突然やって来て、「老人会に入ってくれ。」と言う。

 こう言う、自治会とか婦人会とか老人会とか、と言うものは、厳密に言えば、そういうものには住民は、必ず入らなければならない、というものではなかろう。入らなければならないという義務まではなさそうだ。

 しかし、最も基本的な自治会というものに入らない人は、田舎ではほとんどいない。元々、人々は狭い地域で助け合いながら生きてきた。家としても代々続いている昔からの付き合いのある人々の集まりであったろう。昔から人々は、お互いにいろいろな事で助け合いながら生きてきた。助け合って生きていかなければ普通に暮らせなかった。しかし、都会では元々の助け合いも少なく、自治会に入らない人も多かろう。

 農村ならば、田んぼの水を共有し、共同で水の管理をしなければならないし、そのために、水路の整備、農道の草刈りなども共同でしなければならなかった。村の山は、村人たちのいわゆる総有というもので、そんな山の資源、材木や薪、キノコ、そして捕まえたイノシシなども、みんなで分け合って暮らしていくものだったろう。我田引水、自分の田んぼにばかり水を入れていたら、村八分となり、結局水が貰えなくなる。

 今も水の管理は大切なことで、田んぼの水に共同の池の水を利用するならば、それは昔からの積み重ねで作り上げられた合理的な水路設計、水の配分があるので、田んぼの水をその水に依存している農家は、村の昔からのしきたり、掟、ルールに従わねば水を貰えない。そのためには、村の自治会、昔は自治会とは言わなかったろう、有力な村長(むらおさ)を首長とした村人たちの共同体に、新参者も参入せざるを得なかった。

 しかし、今、このような自治会への入会の強制はできないだろう。マンションなどの共同所有者間においては、法律で民主的にマンション管理の仕方、共有部分の利用の方法とかを決定することとなっていて、その共同所有者たちで構成する管理組合に入ることは、マンションの一室の所有者として義務になっている。しかし、村の自治会、町の自治会においては、法的義務はなさそうだ。飽くまでも自由意思による参加が前提であろう。

 昔の世間は狭かった。生きていく世界はその村でしかなく、その村で生きていく限りは、その村の掟、しきたりに従わなければ生きてはいけなかった。今のように、ガス、電気、水道などの公共的供給などもなく、互いに助け合って資源を分かち合って生きていくしかなかっただろう。

 今世間は広くなった。グローバル化の時代である。人々の生きる場所は、その村、その町ではない。日本の至る所、世界の至る所へと広がって行く。それは狭い世間から解放され、自由に生きていくことでもあった。村に住み残る人々も、生活インフラの整備により、流通機構の整備により、村の中での資源配分、助け合いなどは、以前のようには必要ではなくなってくる。

 世間が広くなり、自由が拡大するにつけ、村の掟、しきたり、そして慣習というものは、取り払うべき拘束ともなってくる。村のしきたりは、封建的なものの名残となる。人々は、みな平等で、生まれついての差別はなく、自由に生きていくのだ。楽しいことは、広い世間に沢山ある。村の中の付き合いは、面倒臭くて、煩わしいものとなる。しかし、そのために寂しさは増し、失うものも多いのだが。

 村の自治会でさえ、そのような状況であれば、老人会はどうなることか。一応六十五才で老人会に入る年令になるのだが、僕は元々入る気はなかった。しかし、浮世の義理か人情か、お隣さんと仲良くした方が良さそうでもあり、仕方がないので、「入るだけですよ。不義理にしますからね。」と釘を刺して、入会を了承した。

 それにしても、カーリングという競技を好んでみているのだが、面白いのだが、何か相手の失敗を願っているようなことが多く、少し卑しい気になる。

 春浅し 行方定めぬ 浮浪雲

2018年     2月24日     崎谷英文


百才の伯母さん

 百才の伯母さんが亡くなった。伯母さんと言っても、三親等の伯母ではない。近所の新宅の伯母さんである。子供の頃から新宅と教えられ、直ぐ近くにその家はあった。新宅と言うのは、分家のことだろう。いつ分家されたのかは知らない。伯母さんの旦那さんは、昔の有名な中学校の校長先生であった。その旦那さんが亡くなってから、二十年近く経つだろうか。子供の頃から、よくかわいがってもらった伯母さんである。

 百才であるが、ずっと自宅で娘さんと暮らしていた。娘さんと言っても、七十才を越えている。孫が二人、ひ孫が六人いる。少し痴呆の様子も見られたが、毎日のようにデイサービスを利用しておられた。毎朝、送り迎えの車を待っていた。物事にこだわらない、さっぱりとした気性の人であった。「もう、ええやん。」と言うのが口癖のような人だった。咳で苦しんでいて、病院に入院しようとしたその夜に、その病院で亡くなった。

 年の取り方もいろいろである。百才近くになっても、身体も頭もしっかりしている人もいるかと思えば、定年を過ぎ高齢者になったばかりで、足腰が弱りよぼよぼになったり、あるいは痴呆症が出てきたり、といろいろである。日頃の生活習慣、気の持ち様などもあるかも知れないが、多分に運、不運が纏う。伯母さんは、身体は細かったが、背筋は伸び、自分の足でしっかり歩くことのできる人だった。太市の最高齢者であった。

 義父の葬儀程あっさりしたものではないが、伯母さんの葬儀も家族葬だった。本当に今、昔のような葬儀をする人が少なくなった。今では、元々大きな葬儀屋が、わざわざ新しく家族葬用の小さな葬儀場も作っていたりしていて、伯母の葬儀は、そこで行われた。僕と妻を含めて、十五人ほどの集まりになった。

 その葬儀の終わった頃、平昌オリンピックでのフィギュアスケートの羽生選手のショートプログラムの演技があった。足の怪我から復帰しての素晴らしい演技であった。それを丁度、葬儀の後、寺に向かう車中で見た。百才の人が亡くなり、その骨を拾った後、二十三才の溌溂とした青年の素晴らしい演技を見た。

 翌日には、羽生選手はフリープログラムで、またまた素晴らしい演技をして金メダルを取った。日本中が騒いだ。

 人と言うのは、やはり勝負事が好きなのであろう。それは野生の証明である。人もまた野生の血を持っているのである。弱肉強食の世界で生きる野生の力は、また生きる力でもある。ただ人は野生の力に加え、共に生きる力も持っている。共生の力である。勝負に勝つと言うことは、とてもうれしいことであるが、勝つ者がいれば、負ける者がいる。負ければ悔しい。だから、また戦いを挑む。そうやって、戦も始まる。

 勝負事が、スポーツだけの話ならば罪のない平和なことであるが、何か今のオリンピックは、そんな純粋なスポーツ精神から離れてしまっていないだろうか。スポーツを強くすることが国家の政策になり、スポーツは利用されようとしている。オリンピック招致は、経済発展のためらしい。メダルの数など争わなくてもよかろう。いっそ、メダルは、金、銀、銅、だけでなく鉄やアルミや鉛など一杯作ってはどうか。

 今、カーリングを見ている。このスポーツを初めて見た時、おかしなスポーツだと思った。これがスポーツかとも思った。ビー玉遊びの陣地取りのようでもあり、それを大の大人が真剣にやっている。ブラシのようなもので懸命に掃く姿もおかしい。しかし、何度か見ていると、なかなか面白いではないか。どのような作戦にするか、どのようにストーンを真ん中に集めるか、なかなかのマインドスポーツである。

 調べてみたら、このカーリングは、十五世紀のイギリスのスコットランドに発祥を見るようだ。かなり古い。しかし日本に入って来たのは新しい。長野オリンピックからオリンピックの正式競技になったらしい。今、日本のチームは、男女とも頑張っている。でも、やはり、ちょっとおかしな競技である。

 梅一輪 百才の伯母 旅立ちぬ

2018年     2月18日     崎谷英文


冷たい雨

 冷たい雨が降っている。この冬はとても寒く感じる。年を取ったせいもあり、手足が冷える。数年前までは、こんなに手の先、足の先が冷たくなることはなかった。年を経て、血液の循環が悪くなっているのだろう。この冬から、靴下にカイロを入れることにした。時々手を温めるために、ポケットにはもう一つカイロを入れておく。

 昔はもっと寒かった、と言う人もいる。冬は寒いのが当たり前で、近年の暖冬傾向こそおかしいのだ、と言うのも納得できるのだが、その暖冬傾向に慣れた身であるが故か、なおさらこの冬の寒さは堪える。

 日本海側は、大雪になっている。北陸地域では、千台以上の自動車が幹線道路上で何十時間も立ち往生し、閉じ込められた車内で亡くなった人もいたらしい。除雪が間に合わず、家の周囲に堆積した雪で、外出もままならなくなったり、スーパーやコンビニには商品が届かなくなったり、いろいろ大変なことになっているらしい。

 科学文明は、世の中の人々の生活を便利にし、楽にしてきたのだろう。しかし、自然の脅威の前では、存外文明の利器は脆いものである。便利な自動車だが、雪の中で身動きが取れなければ、何の意味もなくなる。食料を含めいろいろな商品が、その流通によって支えられているとしても、大雪によってその流通が途絶してしまえば、酷いことになる。スーパーに商品が入ってこなくなれば、人々はたちまちの内に生活に困ってしまうだろう。

 機械文明に頼るにしても、限界がある。小さな道路や家の周辺の雪は、機械に頼るよりも人の力が頼りになる。自衛隊が立ち往生した自動車の救援を行ったのだが、道路上の雪掻きは、自衛隊員の人海戦術でコツコツやるしかなかったようだ。日頃から、あまり機械に頼り過ぎず、自分自身の身体を鍛え、いざと言う時には、自らの力で克服すると言う気構えが必要だろう。

 この寒い中、もっと寒い所、韓国の平昌で冬季オリンピックが始まっている。マイナス20℃、30℃にもなるそうで、僕に言わせれば、よくもまあ、そんな寒いところでやらなくてもいいだろうに、なのだが、選手たちは元気に頑張っているようで、テレビでは今、オリンピックの放送ばかりである。

 スポーツに興じることは、最も罪のない健全な姿だろう。古代ギリシャでも、このオリンピックをやっている時は、戦争しないで平和にしていようとしていたようだ。それでも、時にオリンピックの最中に、諍いが起こり紛争が起こったこともあったようだ。

 さて、今回のオリンピックはどうだろう。北朝鮮の核兵器開発に対しての不安が言われる中、アメリカのトランプ大統領、日本の安倍首相は、危機を煽り、日米の軍事同盟を強化し、軍事力の増強を図ろうとしている。日本はアメリカから更なる新兵器の購入をし、アメリカは小型核兵器の開発をし、逆に北朝鮮に脅しをかけるようなことをやっている。

 日米韓は、三国の強い繋がりがあり、その三国の結束によって北朝鮮に対抗しようとしてきた。

 しかし、今、北朝鮮と韓国とが友好ムードを高めている。メディア、世間は姦しい。これは、韓国が北朝鮮の戦略にまんまと嵌められているのだとか、アメリカと韓国との分断を図っているのだとか、融和外交に騙されてはいけないとか、いろいろ言われる。せっかく少しは仲良くなろうとしている北と南に、寧ろ警戒心を抱いているようだ。

 しかし、本来、朝鮮半島は同一民族であり、言葉も同じである。今は、偶々二つに分裂しているのである。朝鮮半島の一つの国としての李氏朝鮮時代に、日本が侵略を始め、やがて韓国併合をし、太平洋戦争に突入し、日本が敗れて、戦後、朝鮮半島は北と南に分裂した。

 今の朝鮮半島の分断の原因は、日本にもある。殴った方は忘れようとするが、殴られた方はそう簡単には忘れられない。慰安婦問題もその延長にある。ただ単に、どこまでも北朝鮮を敵視するだけで収まるとは思えない。北と南が友好に対話すること自体、それをけしからんとは、少なくとも日本は言えないのではないか。

 一歩出る 凍てつく朝の 寒さかな

2018年     2月12日     崎谷英文


小鳥が鳴く

 小鳥が鳴く、一羽の小鳥ではない、数十羽の小鳥が一斉に鳴いている。ガラス窓を開けると庭の先の何という木だったろうか、五メートル程の高さの木の枝々に、まるで木の実が生っているかのように、膨らみが並んでいる。薄茶色の実のようなものは、小鳥の群れである。小鳥の鳴き声は、チュルチュルという感じであろうか、一羽なら可愛いのだろうが、数十羽になるとうるさいほどになる。

 何という鳥かは知らない。スズメほどの大きさに見えるのだが、スズメの鳴き声でもなさそうで、スズメではなさそうなのだが、何の鳥かは分からない。此処にもう二十年以上住んでいるのだが、このような数十羽の小鳥の群れは初めてである。東の裏の柿の木に群れていたりもする。一斉に飛び立ち、また一斉に戻ってくる。

 今年の冬は寒い。そのせいにしているのだが、野菜もさっぱり出来が悪い。ブロッコリーもいくつか植えているのだが、この寒さの中、一向に大きくならない。それでもこのまま置いておいて、春に近づき少しは暖かくなってくれば、大きくなってくれるのではないかと期待していたのだが、そのブロッコリーの葉が齧られている。あの小鳥たちのせいであろうか、それとも、別のヒヨドリとかムクドリのせいであろうか。

 この冬は、例年通りジョウビタキも来ていた。11月の終わり頃だったろうか、二羽のジョウビタキが庭で戯れていた。小鳥の区別などほとんどできないのだが、このジョウビタキはその色と白斑により見分けられる。これまでの冬には、一羽だけが来ていたようなのだが、この冬は二羽もやって来て喜んでいた。二羽は追いかけっこをしたり、ガラス窓に近づいては少しぶつかり、また枝に止まったりして、遊んでいる。

 以前、どこの駅だったろうか、春過ぎて山の中近くの駅だったろう、ホームで電車を待っていた。ホームの上の天井のある周囲がガラス張りの待合室で待っていた。その時、一羽の小鳥がそのガラスに勢いよく激突して、下に落ちた。驚いて外に出て確かめてみると、少し緑っぽい色をした小さな鳥が、ホームに横向きに倒れている。ピクリとも動かない。鳥の名は知らない。

 透明なガラスは、人間でも知らずにぶつかることがあるぐらいで、鳥にとっても透明なガラスを、それを壁と見分けることは困難なのではなかろうか。特に明るさのコントラストのない昼間のガラス窓は、見分けにくいだろう。このホームに落ちた小鳥は、全くガラスに気が付かなかったのだろう。ガラスの向こう側に何か獲物を見つけていたのかも分からない。

 ジョウビタキが、ガラス窓に少しぶつかっては離れなどしていて、勢いよく衝突しないか心配になる。自然界には、このようなガラスの壁はなさそうだ。湖や池の水面が鏡のようになることはあっても、ガラスのような透明な壁は自然界にはないだろう。ジョウビタキも、少しぶつかってその痛さから、学ぶしかなさそうだ。徐々に学習していくだろう。

 ある日、ポトラが小鳥を口に咥えて縁側にやって来た。またかと思った。これまでにも、ポトラは、スズメ、モグラ、ネズミなどを捕まえては、この縁側に咥え持ってくることがあった。ポトラにしてみれば、僕へのお土産のつもりなのだろう。その度に、もう土産は要らないよ、と言うのだが、直ぐ忘れるらしい。どうやらポトラは、自分の食べるものとして獲物を捕まえるのではなさそうだ。野生の本能で狩りをしているようだ。

 その日、ポトラが持ってきたのはジョウビタキだった。あのジョウビタキの一羽をポトラが捕らえたのだ。ポトラが土産を持ってくる度に、土に埋めているのだが、このジョウビタキも、柿の木の近くに埋めてやる。ポトラに悪気のないことは知っているが、もう一羽のジョウビタキが気になる。

 小鳥は自由だと言っても、小鳥には小鳥の生きていく試練がありそうだ。トンビやタカなどの大きな鳥に注意しなければいけないだろうし、地上の猫にも油断してはならず、そして、透明なガラスにも気を付けなければならないのだ。

 風花や 縁側の猫 一つ鳴き

2018年     2月4日     崎谷英文


いわゆる片頭痛

 いわゆる片頭痛、だろうと思う。右のこめかみ辺りが疼くように痛む。以前から時々あったことで、命に関わるようなものではないのだが、痛むことは煩わしい。

 片頭痛は偏頭痛でもいいのだろうが、調べてみると、どうやら血管の拡張によって起こるらしい。目の左右のこめかみ辺りの血管が拡張し、三叉神経を圧迫し刺激して、痛みを感じさせる、ということらしい。普通は、僕のように左右どちらかに偏るらしいが、左右とも痛くなると言う人もあるようだ。

 緊張型頭痛、というものもあるが、それは文字通りに考えれば、腕、肩、首などの筋肉からの緊張が頭痛を引き起こすと言うことになろうか。少し調べてみたが、この緊張型頭痛と片頭痛の関係は、いろいろ説があるようで、はっきりしない。僕の片頭痛も、筋肉の緊張と関係するのかも知れない。

 僕は、冷たい物、アイスクリームとかかき氷とかを食べると、決まって頭が痛くなる。これも、冷たいものが口に入り、周囲の一度収縮した血管が、取り戻すように拡張することによって起こるらしい。その痛みは、今の片頭痛の痛みの比ではない。目の周辺が、錐を刺したように痛むのである。子供の頃から冷たいもので頭を痛めていたと思う。

 若い頃、夏場元気に汗を出して、かき氷を急いで食べ、あげく痛みのためにその場に蹲ることが何度かあった。こういうことは、多分その人の体質に寄るのであろう。どんな冷たいものを食べても、頭が痛くなることなど全くない、と言う人も多い。

 僕の今の片頭痛も、多分に持って生まれた体質に関係があるだろう。子供を教えていて、これまでに、天気が悪くなると頭痛がしたり、気分が悪くなったりする子が、何人かいた。そういう子は女の子に多かった。天気の悪い時というのは、低気圧が通過することが多い。そんな時には、空気圧が低くなり、逆に血管が拡張し、頭痛がしたり、低血圧になったりするのではなかろうか。そんな子は、自分の体調で天気予報ができると言う。

 この年末年始、太市にある小さな葬儀屋が忙しそうだった。さすがに一月一日は休んでいたのだろうが、年末の25日ぐらいから年始の五日ぐらいまで、何件かの通夜と葬儀が続いたのではないか。その葬儀場の前は、毎日通るのでよく分かる。

 先日、その葬儀屋さんの人に、偶然出会い、「年末年始、忙しそうでしたね。」と言うと、「本当に続きましたね。低気圧のせいですよ。」と言う。どうやら、低気圧の時は、死ぬ人が多いと言うことらしい。そういえば、ずっと以前、似たようなことを聞いたような聞かなかったような。考えてみれば、先の話と同じように、血管拡張による低血圧とか、逆の脳出血とか、心疾患とかが増えるのかも知れない。葬儀屋さんたちの中では、定説となっているのかも知れない。

 冷たいものを食べて頭痛になる、片頭痛によくなる、天気が悪いと頭が痛くなる、こう言ったことは、やはりその人の持って生まれた体質の影響が大きいだろう。しかし、そのこと自体は、別に死に至る病ではなく、上手に付き合っていけばいい。人の身体と言うものは、親から受け継ぐものであり、親の体質がある程度遺伝して伝えられていくと言うのは当然だろう。親からもらった個性でもある。

 脳もまた身体の一部であり、脳もまた遺伝する。と言うことは、こころも遺伝するのだろうか。はっきりとは分からない。気の強さとか優しさとか、そういったものは、気質的に受け継がれる可能性はある。

 進化と言う言葉がある。自然淘汰、適者生存、弱肉強食の中で、生物的、身体的、行動的進化があった。それらは、遺伝によって受け継がれていく。では、こころの進化と言うものはあるのだろうか。人のこころが何か新しく発見したとしても、それは脳の遺伝では伝えられないのではないか。

 人のこころは、語り伝えられることによって進化するのではないか。善いことばかりではなく、悪いことも醜いことも、語り伝えられることが大切だろう。そうしないと、人は過ちを繰り返す。過ちが語り伝えられないと、過ちは繰り返されるのである。

 風冴ゆる 一片の雲 赤みたり

2018年     1月28日     崎谷英文


冬の大三角

 冬の大三角、と言えば分かるだろうか。冬の南の空には、三ツ星が目印になるオリオン座がある。オリオンは、ギリシャ神話で語られる猟師であり、女神に恋をして女神の怒りを買い、サソリに刺されて死んだとか。オリオンは死んだ後、天に上ってオリオン座になった。その三ツ星とそれを囲む四方の星などで猟師の形が作られる。オリオンは、天に上ってもサソリを怖れ、同じ空には姿を見せないと言う。

 そのオリオン座の左上の角に、少し赤っぽい星、ベテルギウスが見える。そこから左下にすっと行くと、こいぬ座のα星、少し黄色っぽいプロキオンがある。そこから右下に行くと、おおいぬ座のα星、夜空の全天で最も明るい、青白いシリウスが見えてくる。このベテルギウスとプロキオンとシリウスを結んで、冬の大三角と言う。

 オリオン座には、その右下に青っぽいリゲルという明るい星がある。α星とは、その星座の中で最も明るい星のことであるが、オリオン座では、α星はこのリゲルになる。因みに、夏の大三角は、こと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブを繋ぐ。星の色は、その温度による。温度が低ければ赤っぽく、高ければ青白っぽくなる。ベテルギウスは温度が低く、シリウスは熱い。

 太市は、小さな盆地である。四方は山に囲まれ、三方には高速道路が走っている。昔のようには、夜だからと言って、全くの暗闇にはならないが、太市の星空は昔から綺麗で、まだまだ、その夜空は美しい。毎晩、塾から帰る時、いつも夜空を見上げる。今の季節、冴える月を見ることもあれば、空に広がる星を見ることもある。ゆっくりと目が慣れてくると、星空は輝いてくる。

 雨の夜や曇り空の夜は、暗がりの遠くに高速道路の光、てらこったの看板の光、街灯の光、近くの家の二階の窓の光、など人工の光が目立つ。

 都会ではどうなのだろう。昔、東京に住んでいた頃、夜空を見上げたことなどあっただろうか。東京では、夜の光は専ら人工の光だったろう。今はなおさら、人工の光に満ち溢れていることだろう。都会では、夜、塔の上高くから、ビルの上高くから、地上の光を見下ろす。満天の星ではなく、満地の灯を美しいと愛でる。百万ドルの夜景とか言われたりして、人々はキラキラと輝く地上を見下ろす。

 文明の光である。夜空の光を見上げていたのが、夜の地上の光を見下ろすようになったのである。人は偉くなったものだ。

 万物は流転する、諸行無常である、と言えども、この夜の光はどうだろう。地上の光はいつ消えるか分からない。天災人災で灯は消える。戦争中、日本中で光は消えた。地震や津波で、灯は消えた。

 夜空の星も不変ではない。何しろ、今見えている星の光は、その星の位置、一万光年離れた星の光なら、今見ているその星の光は、一万年前の星の輝きである。

 夜空の星は、太陽系の惑星、小惑星、流れ星でなければ、太陽と同じ恒星である。恒星は、太陽と同じように自ら光っている。では、太陽は不変なのであろうか。不変ではない。太陽にも寿命がある。それは約百億年とか。だとすれば、今既に太陽誕生から五十億年近く経つのだから、後五十億年程で太陽は消滅する。同じように夜空の星にも寿命はあろう。現にベテルギウスはもうじき無くなるという説もある。

 心配しただろうか、しかし、心配には及ばない。そんな数十億年という時間は、人間にとって無限に近い、気の遠くなる時間であり、今数十億年後のことを心配しても詮無きことだ。実は、その太陽が消滅する以前、今から一億年後とか二億年後とかに、太陽が膨張し地球は呑み込まれてしまうと言う説がある。それだって心配するには及ばない。現生人類が誕生してまだ十万年、一億年という時間もまた無限であろう。

 それよりも今、この地球、この人類は、自らの所業によって滅亡することを心配しなければなるまい。いつもどこかで戦争をし、自分勝手な理屈ばかりが横行し、核戦争さえ起こりかねない。原子爆弾を受けた日本は、とっくに平和主義を放棄したようだ。

 三ツ星の 光の先の はぐれもの

2018年     1月21日     崎谷英文


寒い日が続く

 寒い日が続く、今朝起きると、庭は薄っすらと雪模様である。今は降っていないが、夜中から早朝にかけて降ったのだろう。天気予報がほぼあたった。ポトラの水にも氷が張り、ポトラが水を飲むのに、まるで舐めるようにしている。少し暖かい水を入れてやる。猫は寒がりだろうから、ポトラもきっと、朝、ぶるぶる震えていたのではなかろうか。

 地球の温暖化に反するような、この冬の寒さである。しかし、だからと言って、一部の人の言うように、二酸化炭素などの温暖化ガスの過剰排出による地球温暖化という現象はない、というのは早計だろう。自然はそれほど単純ではない。地球が、やはり温暖化しているのは確かで、その温暖化の過程で、世界中で異常気象が起こっているというのが実状だろう。

 ラニーニャ現象とかエルニーニョ現象とかで、地球の気象は、いろいろな様相を呈す。ある地域に寒波が訪れ、別のある地域に大雨が降る、というようなことが起こる。今、ラニーニャ現象が続いているらしい。ラニーニャとは、太平洋の赤道東側付近の海水温が上昇し、反対に赤道西側付近の海水温が下降する現象らしい。

 それにより、日本近海の黒潮は蛇行し、北極周辺の寒気が日本列島に降りてきて、日本は大雪になり、寒さが厳しくなっている。エルニーニョは、ラニーニャの逆で、その場合には、日本は暖冬化傾向になるらしい。

 しかし、エルニーニョとかラニーニャとか言っても、そうなったからと言って、確実に天候が決まるわけではない。気象、天候には様々な要因がある。人の記録することのできるデータ、気温、湿度、気圧などばかりでなく、空と大地の無数の条件が気象、天候に関わっている。自然は、確かに複雑系なのである。有史以来、全く同じ気象などなかっただろう。一日として同じ日はない。同じような天気に見えて、同じではあり得ない。

 自然は、複雑系である。花びらの落ち方を予測しても、決して当たらない。蝶の羽ばたきが、大風を呼び込むこともある。人間社会がグローバル化している以上に、自然は、とっくにもっと地球全体で繋がっている。そして、科学文明は発達し、世界中からデータが集められているのだが、それでも、人が確実に気象を予測することはできない。人は何処までも、確率でしか天気予報はできないのだろう。

 米を作っていても、野菜を作っていても、自然の中で育てている限り、その出来具合は自然の条件に左右される。上手に作る人にとっては、そうは思わないのかも知れないが、僕のようないい加減な米作り、野菜作りをしている者にとっては、農もまた複雑系である。良かれと思ってしたことが裏目に出たり、逆に面倒で放ったらしにししておいたら、良く収穫できたりして、田んぼや畑に何が起こっているのか、解り難いことだ。

 自然は複雑系で、それこそ無数の条件により、自然は千変万化している。人の世はどうかと言えば、人の世も複雑系ではないのか。人の世は、約束事で作られていて、こうすればああなるとか、こうだからそうなるとか、思われているかも知れないが、存外、こうしてもああならず、こうであってもそうならないことばかりではなかろうか。

 成人式の晴れ着を予約していたら、夜逃げされ、列車に乗って目的地に行こうとしたら、途中で雪の中で立ち往生したりする。

 人の世の中、約束事で動いているのだが、その約束が当てにならないとしたら、約束などする気も無くなろう。一所懸命、そうなればと思ってやってみても、そんな苦労を小馬鹿にするような結果になれば、もう頑張る気も失せよう。

 しかし、人の世も複雑系であり、何が起こるか分からないのが人の世と思い定めよう。そのつもりで生きた方がいい。万物は流転する、諸行無常。流れる水は同じからず、明日は明日の風が吹く、一日として同じ日はない。

 この寒い日の夕べ、とんど焼きがあった。年々、とんどの塔は小さくなっていくのだが、それでもその火は熱かった。

 道無くも 一歩歩まん 冬の道

2018年     1月14日     崎谷英文


神社へ行った

 神社へ行った。大晦日の夜、太市の破磐神社へ行った。

 大晦日の夜、年越しそばを食べ、自分で作った失敗作の少し焦げた田作りを食べながら、焼酎の湯割りを呑んでいた。毎年、大晦日は、一応紅白歌合戦を見ているのだが、年々、歌も歌手も分からなくなってくる。僕には、顔がみんな同じに見えるような若い女の子のグループが、こんなにも沢山あるのかと驚かされる。

 歌は世に連れ、世は歌に連れ、などという言葉があるが、つまりは、今の歌は僕の世代の歌ではないということで、それは、今はもはや僕の時代ではないということだ。僕は今、今の時代を生きているのだが、昔の時代を生きても来たのであって、そう簡単に、今の時代に浸れない。年を取ると、行く末は短いが、来し方は長い。その長い来し方を見据えないと、今を生きられない。

 紅白歌合戦が終わって、ふと、神社に行くことを思いつく。パジャマの上からジーパンを穿き、セーターを着てジャンパーを羽織る。案の定、外は結構寒い。南の空高く、円い月が見える。満月には少し足りないようだが、乱視の目には、ほとんどまん丸く見える。除夜の鐘が聞こえる。近くの専光寺の鐘だろう。もしかしたら、テレビのゆく年くる年の中のどこかの鐘の音かも知れない。

 神社までゆっくり歩く。早く行き過ぎては、まだ年が明けてはいないだろう。大鳥居を潜り、手を清め、口を漱ぎ、階段を上ると、もう二十人ほどが並んでいる。その最後尾に着いた時、丁度太鼓が打たれた。携帯電話で確かめると、0:00だった。

 元日の朝、家族と一緒にまた破磐神社に行く。これはいつもの行事である。元西洋料理人のDさんが作って売っているプリンを、土産用に買う。Dさんは、もう優に七十才を越えているだろうに、至って元気で、その日は、舞台でマジックも披露するらしい。

 マジックは見ずに、龍野の粒坐天照神社、(粒坐の読みは、本当はイイボニマスだが、みんなリュウザと読んでいる)へ行く。これもいつもの正月の行事である。一人だけいる受験生のために、学業成就のお守りを買う。いつものことである。

 その後、義母、妻の母が入っている施設に行く。これもいつもの行事である。もう義母は、寝たっきりになって二十年以上も経つだろうか、妻は月に数回来ているが、僕と息子は、年に一度の面会である。頭はしっかりしているようなのだが、身体は弱ってきているようで、その日は、義母の声も聞けなかった。

 その後、これもいつものことなのだが、毎年行っているドライブインレストランに寄って、昼食を摂る。ラーメンを食べたが、不味かった。元日は、開いている店は少ない。

 その後、西楽寺に行く。これもいつもの正月行事である。破磐神社で買ったプリンが土産になる。住職の祖母が亡くなってまだ二か月も経っていないので、「おめでとうとは言えないのでしょうね。」と言うと、住職は、「いいえ、大丈夫です。」と言う。喪中はないのかと聞くと、若い住職は、そもそも浄土真宗には、喪中という観念はありませんと言う。

 真宗では、亡くなるということは、その人が極楽往生されて、仏になられたということで、少しも悲しいことではないのです、と宣う。

 妻が、破磐神社の宮司に、義父、妻にとっては実父が去年の四月に亡くなっているので、年賀状のこともあり、喪中はどうなっているのかと聞くと、宮司は、神道では五十日はお宮に参らない方がいいと言ったそうだ。しかし、そのことを知らずに鳥居をくぐったとしても、神様は許してくださると言う。何しろ、破磐神社は妻の散歩コースであり、義父が亡くなった次の日から、妻は神社に来ていただろう。無知は許される。

 日本人は面白い。クリスマスを祝ったかと思えば、除夜の鐘を撞き、神社に初詣でをする。信心がいい加減と言えばそうかも知れないが、何でも信心と言うようなもので、神も仏も一緒になってしまっているようだ。喪中などと言っても、それは、巷の慣習、決まり事のようなもので、そんな世間に、人が寄り添っているようなものではないか。

 一月三日、また、破磐神社に行った。今年三回目である。

 田作りを ポキッと折って 目を覚ます

2018年     1月8日     崎谷英文


仙人の戯言

 自由は実は、苦しいのである。
自分自身で判断し、自分自身で責任を持つ
これは実に大変なことである。
勉強するのは、この考えること、判断すること
責任をもつことの前提としてある。