太市では、今しとしとと雨が降っている。八月の気温35度を超えるような暑さが続いた後、急に朝晩ひんやりとして秋の気配が感じられる。それにしても、今の日本列島は、異常気象、異常な自然災害に次々と襲われているように見える。
子供の頃、地震、台風に襲われたことがあっただろうか。昔の家は、今のように頑丈な家ではなかったように思う。我が家でも、大雨の時何処かで雨漏りがして、洗面器などを取って来てその雫を受けて、その音を楽しんだ記憶がある。
何歳の時だっただろうか、確か年末の頃、この太市に大雪が降った時があった。その時初めて雪だるまを作ったりして遊んだ記憶がある。四方の山は一面に白く輝き、いつもの景色ではなかった。無邪気に近くの子供たちと、雪を転がし雪だるまを作って遊んだ。
しかし、記憶にある限り、酷い自然災害に合った記憶はない。日本列島のどこかで、大きな台風、室戸台風、伊勢湾台風などで大きな被害が起きたところがあったのだろうが、この太市は、ほとんど無事であった。
ただ、僕が東京にいた頃、台風だったのだろうか、大雨で大津茂川が氾濫して、我が家の床下まで水が入り込んだことがあったらしい。後で聞くと、大津茂川の橋に材木が引っかかって、それで氾濫したということらしい。その材木は、家の建築のために置いてあった材木が流されたものだったという。
それでも僕が小さかった頃、よく停電などは起きていた。電気はずっと前からきていたのだろうが、その頃はまだ電力供給が不安定で、何かあるとよく停電をしていた。その度に、ろうそくを取り出してきて、みんなでその周りに集まって、大人たちは心配していただろうが、僕はそんなことが楽しかったように思う。
今は、昔とは違った、よく想定外などと言われるが、人間の予測を超える自然の猛威が襲ってくる。現代は、人々はインフラ、電気、水道、ガスなどによって日常の生活を維持している。そして、鉄道、自動車、飛行機などの交通網によって生活が支えられている。現代の人々の生活は、そういったものが当たり前として成り立っている。
僕も、電気のない時代は知らない。しかし、水道のない時代は知っている。ガスなどはもちろんなかった。井戸水を汲み上げて、薪を使って煮炊きをし、風呂を沸かしていた。
そんな時代が、あっという間に文明の波に乗り、人々の生活は変化していく。
旧約聖書に、バベルの塔の話がある。天に届くまでの塔を作り、神に近づこうとしたのだが、神はその人間たちの傲慢さに怒り、人々の言葉か通じ合えないようにした。今の時代、似たような状況かも知れない。文明は、自然を制御できる、自然の脅威は、文明で抑え込める、と人々は信じ込んでいるようである。人々は、文明を謳歌し、文明の中に生き続ける。
しかし、文明は無敵ではない。豊かなる自然は、また恐ろしい自然でもある。どんなに文明が発達しようが、そんな文明を嘲笑うように、自然はその猛威を発揮する。大きなものを作れば作るほど、それが崩れると人々の生活は成り立たなくなる。文明は、何処までそれを克服することができるのか。
文明に頼り切って生きている人々だが、本来人は自然の中で生きてきた。自然の恵みと自然の脅威の中で、折り合いをつけて生きてきた。電気もガスも水道もない時代を人は生きてきた。
もはや昔の原始時代に帰ることはできないだろう。この文明の中で生きていくことしかできないだろう。しかし、この文明は当てにできない。人の作り出した文明は、大きければ大きいほど、それが崩れる時、人々は生き場を失う。
これからも、天と地から、空と大地から、様々な脅威がやってくるだろう。それは何処にやってくるか分からない。幸運にも、といってはいけないのだろう。太市は今回の台風の被害はほとんどなく、地震の被害もない。しかし、それを運がいいとか悪いとかで済ませてはいけないだろう。
乾坤の変は風雅の種である、と芭蕉は言った。それは、四季の変化にこころを通わせることを言っている。生きていくということは、この自然の中で、自然を畏れながら生きていくことだろう。今も静かに雨が降っている。
天と地と 戦慄き迫る 秋の乱
2018年 9月9日 崎谷英文
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