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仙人の戯言 2007年

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希望

 希望とは、未来への可能性である。私は絶望している。若い頃、多くのことに希望を抱いていたが、年を経るにつれ、達成する希望の裏で、多くの失う希望があった。希望というものには、必ず失望が伴う。一つの希望の為に、多くの失望が待ち構えている。希望というものが、将来に向かっての無限の可能性を求めるものだとしたら、生きていくうちに、その希望は無限性を失う。徐々に、その無限性は限られたものへと縮小していく。生きていけば、生きていくほど、生活の不自由さの中で、希望は失望へと変身する。生きていくということは、希望が失望になっていくことを、無限の可能性が空想であったことを知っていくことなのかもしれない。

 好々爺になり、物分りのいい老人になれば、そこには、もはや希望はなくなるのか。もし、希望があるとしても、それは、自分自身の希望ではなくなる。家族たちの、そして他人の希望を、我が希望に取り替えて生きる。未来は短く、可能性は小さい。生き永らえていくことが希望になっていく。

 世の中に希望はあるのか。文明は進歩している。文明の進歩していく姿こそ希望だというのなら、希望はある。しかし、文明の発達は希望なのであろうか。人が求める、希望するものなのであろうか。

 便利になり、豊かになることが、希望の実現だとしたら、文明に頼めばよい。文明が、朝、起こしてくれて、全ての身の回りの世話を文明がやってくれて、おいしいものを文明が作ってくれて、文明が健康を維持してくれる。そんな世界を、人々は求めているのだろうか。何か、違うような気がする。

 こんなことは、絵空事でもある。現実を踏まえない希望は空想である。しかし、観念の世界に浸りきれば、その希望は叶う。空想の世界に身を任せれば、希望は持続する。夢を見ることは、生きていく力になろう。

 子どもたちは、その笑顔がいい。子どもたちは、ほとんど、どんな子も笑う。心からの笑いを持っている。それは、彼らには希望があり夢があるからである。まだ何ものにも束縛されない、無限の可能性を持つ希望がある。

 しかし、今のこの世の中、その子どもたちは、だんだん希望を失っていく。希望が失われていくことを知り、可能性が小さくなっていく。不公平とも言うべき状況を知っていく。さらには、生まれてすぐに可能性を失っていくような子どもたちもいる。そうやって、子どもたちは、老人と同じように、ただ生きるという希望のみが、生きていくことを支えていく。

 この世にもはや希望はないのか。戦い、争い、いじめられ、虐げられ、踏み倒されていく者たちの土台の上に成り立つ社会に陥っている。弱い者たちへの思いやりは、ただ、権力者たちの言い訳、方便にしか思えない。

 私は絶望している。しかし、絶望するということは、希望があったからなのだろう。失望するということは、希望を持っているからなのであろう。絶えたものは、取り戻せないが、失っただけなのなら、また探し求められる。希望はまだある、と信じよう。

  夕暮れて 白き月あり 山眠る

 

2007年  12月29日  崎谷英文


初心忘るべからず

 その昔、徒弟制度というものがあった。職人の世界である。そこでは、十年、あるいは十五年、師匠の下で、弟子たちは、生活を保障されながら技術を習得し、一人前になったら、初めて給料が貰える。このような制度は、今では、採りにくい。労働基準法に、抵触する。

 しかし、仕事ということに関しては、一人前になるには、やはり十年はかかるのではないだろうか。めまぐるしく変化していく現代社会において、十年という修業は、難しいかも知れない。しかし、その仕事というものを、本当に自分のものにして、自在にこなせるようになるには、十年か、そこいらかかる。多分、どんな不器用な者も、十年修業すれば、形になる。また、どんな器用な者も、十年経たないと本質はつかめない。十年経たないうちは、表面をなぞっているだけに過ぎない。

 これから社会に出て行こうとする若者たちは、何事にしても、十年やり遂げるという気持ちが、必要な気がする。君に何ができるのかと問われたとき、十年やっていれば、これができると答えられる。

 学問にしても、同じような気がする。孔子は、十五にして学に志し三十にして立つのである。やはり、その期間は、十五年を要している。

 芸術にしてもそうであろう。十年ほどの基礎的修練の上に、初めて、自分の想像するものが思い通りに創れるのではないだろうか。あのピカソも、若い頃の習作、作品には、技術の熟練性がうかがわれる。

 宗教家たちも、並べて、その若い頃に、修行に時を要している。親鸞にしろ、日蓮にしろ、道元にしろ、若い頃は比叡山に篭っていた。そして、師について、やはり、十年以上かかって、自分の信じるものを究めていった。

 十年のがむしゃらな勉強により、土台が作られる。そこから、自分自身の進むべき道を見つけていく。一般的かもしれないが、人は、このようにして、人生を経ていくのではなかろうか。

 その後大事なことは、初心忘るべからずだと思う。自由自在に仕事ができるようになると、慢心する。感覚が麻痺する。そして、同じことの繰り返しに堕する。

 そうならないように、初心を忘れるべきではない。真の達人は、その究めるところを知らない者ではないのか。真と善と美を、どこまでも追い求めていく者である。

 今の世、組織の中に埋もれてしまうと、本来の仕事を忘れがちなのではなかろうか。官僚、大会社、政治家たち、彼らに慢心はないであろうか。自分たちの世界の論理しか、頭にないのではなかろうか。若い頃の新鮮な気持ちを、常に反すうすべきであろう。

 もはや、遅いかも知れない。グローバル経済、情報化社会の、張り巡らされたくもの糸は、逆に、がんじがらめに人を縛りつけている。

  寒風に 身を晒してや 鷺一羽

 

2007年  12月冬至  崎谷英文


同と異

 言葉遊びである。

 二つのものが同じであるというとき、その二つのものは同じではない。二つという異なるものがあるのであるから、同じではない。二つのものが同じであるというとき、その二つのものと異なるものがあり、それに対してその二つのものは同じであると言う。

 三つのものが同じであるというときも、同じである。三つのものは三つのものであり、異なる。

 同様にして、多数のものが同じであるというときも、それらの多数はそれぞれ異なる。

 その二つの同じもの、三つの同じもの、多数の同じものと、それらに対する異なるものがあり、その同じものと異なるものの両方に対して異なるものがあるとき、その同じものと異なるものとは、その別の異なるものに対して、同じものとなる。

 あらゆるものに、同じものはない。全く同じものはあり得ない。全ては異なっている。しかし、また同じでもある。

 言葉遊びである。

 二つのリンゴは、リンゴとして同じであるが、異なる。リンゴとミカンは果物として同じであるが、異なる。リンゴとホウレンソウは植物として同じであるが、異なる。リンゴとライオンは生物として同じであるが、異なる。リンゴと河原の石は物として同じであるが、異なる。

 異なるものは異なる扱いを受ける。同じものは同じ扱いを受ける。

 人は、それぞれ異なる。だから、人はそれぞれ異なった扱いを受けねばならない。しかし、また、人は人として同じであるから、あらゆる人は同じ扱いを受けねばならない。

 人を傷つけることは、同じ人を傷つけることであり、自らを傷つけることに等しい。

 言葉遊びである。

 全てのものが同じであるとしたら、全てのものに存在価値がある。そうでなければ、人にも存在価値はない。全てのものに存在価値がないとしたら、その全てのものと同じ人も、存在価値はない。

 一部のものにだけ存在価値があるとしたら、その一部のものだけが存在すればいいのかもしれないが、この世の全てのものは、他のあらゆるものと共に存在する。河原の石がなければ、実は、人は存在できない。

 全ての人が同じだとしたら、全ての人に存在価値がある。全ての人に存在価値がないとしたら、自らも存在価値はない。一部の人にだけ存在価値があるとしたら、その一部の人だけが存在すればいいのかもしれないが、この世の全ての人は、他のあらゆる人と共に存在している。他の人がいなければ、その人は存在できない。

 言葉遊びが過ぎたようだ。

 もしかすると、全てのものに存在価値はなく、ただ、存在するだけなのかも知れない。

  山々は 冬の夕日に 動くなり

 

2007年 12月11日  崎谷英文


田中君への手紙 7

 先日は、よく飲みましたね。とても、お世話になりました。奥様にも、大変ご迷惑をおかけしました。

 ところで、柴田君の創った孔子像はよかったですね。江戸時代の若者たちが、温故知新で、懸命に学んでいたことが想像されます。

 私は、孔子という人が、とても常識的なことを言っていた人で、社会生活をする上での心得を、実に的確に言い表してきたように思っていました。

 しかし、そのストイックな、抑制的な言説は、現実を追認し、保守的な体制の維持に有効であったようにも思っていました。確かに、国に対する忠、親に対する孝、師弟関係の重視、社会生活での礼など、それらはまさしく、幕藩体制と平和を維持するのに、大きな働きをしたように思います。

 その意味においてかも分かりませんが、私は、いくらか、孔子の説く所に、物足りなさを感じていました。

 しかし、今、孔子の論語を、少し読み拾ってみますと、私に少なからず影響を与えていたのではないかと思い出しています。

 「学びて時に之を習ふ。また、よろこばしからずや。」などは、私の実感です。「朋あり、遠方より来る。また、楽しからずや。」は、先日の貴君との痛飲を思い出させます。「人知らずして、憤らず、また君子ならずや。」これは、人が自分のことを評価してくれないことに、不平不満を持たずに生きていく人は、君子である、ということですが、私は、君子ではないけれど、とっくにその心境でした。「巧言令色、少なし仁。」も好きな言葉です。「利によりて行えば、恨み多し。」などは、今の時代への警告でしょう。

 「之を知ることを知るとなし、知らざるを知らずと為す。之知るなり。」は、まさしくソクラテスの言う「無知の知」でありましょう。

 武士道というものも、この孔子の様々な言葉が元になっています。

 「富と貴とは、之人の欲する所なり。其の道をもってせざれば、之を得ともおらざるなり。」富貴というものは、誰でも欲しいと願うものではあるが、仁の道、正しい道をもって得たのではなければ、その地位に安心してとどまることはできない。今の世の中、道を外れた金持ちばかりのような気もします。富貴になったとしても、ひやひや、どきどきしながら生きているのでしょう。そのほかにも、いろいろ、いい言葉はありますが、今の私は「粗食を食らい、水を飲み、肱を曲げて、之を枕とす。楽しみもその中に在り。」の生活です。

 論語を読み返してみて、それは、本当に常識的なことを言っているのだと再確認しましたが、実は、もはや、現代では、それが常識ではなくなっているのかもしれません。

 孔子は、儀式や礼儀を重んじてはいましたが、また、外面よりも、そのまごころのだいじなことも言っています。礼儀知らずの私のような者を歓待していただき、貴君と奥様、そのまごころに感謝します。

 私は、高校時代から、この言葉が気にかかっていました。「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。」

 是非、また痛飲しましょう。奥様、パピーによろしく。

 追伸  それから、柴田君の日展の作品、よかったですね。彼の力を再認識しました。

  桃色と 白の野菊の 背は低し

 

2007年 11月30日  崎谷英文


因果

 遺伝子というものの解明が進んでいる。果たして、人というものは、その遺伝子により決まるのであろうか。

 そうではなさそうだ。同じ遺伝子を持っていても、その人となりは異なる。一卵性双生児を考えてみても、まるっきり同じではなく、違った人生を歩む。片一方だけが、病に罹ることもある。

 遺伝により受け継いだものも、それがどのように人生の中で現れるかは、人それぞれだろう。受け継いだものも、変化する。生きてゆく環境の中で、遺伝的なものは、変化する。遺伝と環境とは、多分、およそ半分半分の割合でその人を作り上げていくと言ってよいだろう。

 子どもというものは、可塑性を持つ。子どもこそ、変化し得る。子どもは、環境により、大きく変わることができる。発展途上の子どもは、一度困った方向に進んだとしても、周りの影響を受けて、よい方向に変わることも、大人より容易である。

 しかし、変わることができるのは、何も子どもだけではあるまい。大人にしても、変わることはできる。学問について、遅すぎることはないと言う。いくら大人になったとしても、学び始めることはいつでもでき、変わることができる。

 学び直すこともできる。子どもの頃や青春時代に勉強したことを、中年になって、老年になって、もう一度紐解いてみる。きっと、新しいものが見えてくる。昔は気がつかなかったことが、今になって見えてくる。大人は頑固なものかもしれないが、今の自分が終着の自分ではない。人は、神でも仏でもなく、どこまでも不完全なのだと思う。

 あらゆることには、原因がある。その原因があるから、その結果になる。原因がなければ、結果はない。これを、因果律という。しかし、その原因があったからといって、必ずその結果になるのではない。原因から結果までの間には、過程がある。その過程の変化により、その結果は生じなくなる。

 その変化は、また新しい原因となって、新しい結果を生じさせる。もともとの原因が、新しい原因を生じさせたとも言える。このような、物事の生じる過程を因縁と言ってもよかろう。因が縁を生み、縁が因となり、さらに因を生み出す。このように因縁は、重なり合って繋がっていく。

 生まれ出ずるという因は、自分の力ではどうしようもない。しかし、そこから人は様々な果を生み出し得る。自分自身が変わる、考え方を変えることにより、結果は変わる。子どもは、多様に生きていくことができ、選択の可能性も大きい。しかし、それは子どもだけではない。大人も変わっていい。学び始めるのもいいし、学び直すのもいい。硬直した世界、暗鬱たる状況から逃れられるかもしれない。

  木枯らしや 膝を抱えて 闇を聴く

 

2007年 11月23日  崎谷英文


シンベー日記 3

 僕が主人と散歩するとき、特に、夕方散歩しているとき、他の散歩している人や、犬を連れている人に出会うことがある。近所の知っている人の場合、主人は、少し立ち話をする。そんな時、時々、相手の人が、僕のことを誉めたりする。

「いい犬ですね。おとなしくて、毛並みもよくて。」

 とんでもない話だ。僕は、正真正銘の雑種犬だ。雑種であることに、誇りを持っている。もちろん、その人のお世辞だとも分かっている。ところが主人は、別れた後、決まって僕に言う。「おい、よかったな。いい犬だってよ。」と、ニコニコして言う。

 冗談じゃない。主人と言うのは、気楽なものだ。何も分かっちゃいない。相手の本心が、見えていない。僕たち犬は、表情などは、あまりよく分からないのだが、声の調子で、その人の言葉の裏が見える。さっきの人も、「自分の犬の方がかわいい。」と思っているのが分かる。言葉に心が込められていないのだ。言葉は、言霊だが、心が込められていないと、ただの記号だ。

 人間は、最近、インターネットとか言うのが流行して、機械的な文字で、意志をやり取りしているらしい。僕の家の北側で、雑草の刈り草の上を寝床にしている野良猫のグレは、何度か、そのインターネットの画面を盗み見したことがあるらしいが、その寒々とした様子を、僕によく語る。

 そんなことを続けているから、面と向かって、相手の心を察すると言う能力が、衰えていく。僕たちは、見えない、聞こえないものを互いに感じとって生きているのだが、人間は、だんだん、それが下手になってきているようだ。

 この間、隣のおじさんが、主人に、五本の椎茸の植えてある枯れ木を持ってきてくれた。僕の隣で、それは、よく椎茸を作っていたのだが、少し経つと、出が悪くなった。主人が、そのおじさんに訊くと、そのおじさんは、「何か、きっかけがあれば出るよ。金づちででも叩いてみれば。」と言う。隣で話していたのでよく聞こえた。あれは、本気だ。そのときは主人も神妙に聞いていたが、後日、暫く思い出し笑いをしていた。全く主人は分かっていない。椎茸君(菌)も眠っているときがある。その目を覚ましてやるのに、木を叩くのもいいかもしれない。

 それでも主人は、昨日、誰にも見られないように、木を叩いていた。少しは、分かったのかも知れない。

 主人は、畑もやっているのだが、二三日前、隣で畑をやっている人と話していた。「日(か)のつく日に、種を播くといいよ。」「二日とか、三日とか、二十日とかですね。でもどうしてです。」「知らないよ。」分かっちゃいない。日(か)は、果(か)なのだ。果実がちゃんとつくようにだ。馬鹿馬鹿しいと思われるだろうが、そんなものだ。

 言葉は、言霊でもある。それによって、気持ちが込められ、伝わることもある。心が込められていなければ駄目だ。心が込められていなければ、枝豆君も、言うことは聞くまい。日(にち)ではなく、日(か)のつく日に種を播くということは、枝豆君への祈りなのだ。

 心を込めて言っていれば、それが成就するのかもしれない。僕たちでも、心を込めて吠えないと、相手に通じない。そういう意味で、言葉は言霊なのだろう。上っ面だけの吠え声や言葉に力はない。

 最近、主人は、僕に、「俺より長生きしろよ。」と無茶を言う。僕の命は、よくて後、五、六年、主人のほうが長生きするのが当然だと思うのだが。ふと、心配になった。

  山焼きの 煙たなびく 紅葉かな

 

2007年 11月13日  崎谷英文


世間虚仮

 世間虚仮、唯仏是真と言ったのは、確か、聖徳太子だっただろうか。世間、現実の人の世は、虚であり、仮のものであり、嘘である。ただ、仏の世界だけが、真実である。厭離穢土、欣求浄土―汚れたこの世を嫌い、仏の浄土をこいねがうー徳川家康が、晩年、旗印にしていた。

 あらゆることは、人の作った基準の中で動いている。当たり前のようだが、その基準は、人により、勝手に作られている。現代人類のわずか十万年の歴史において、人は、さらに、わずか百年足らずの個々の人生を、継いできた。人は、勝手に強い者と弱い者との基準を作り、区別し、強い者こそ豊かなるべしと生きてきている。

 しかし、その強さというものは何であろうか。弱い者がいるから、強い者がいる。しかし、その強い者は、さらに強い者に敵わない。人は、そのわずかな人生の終焉を何時とも知らず、争い続ける。

 そうして、いつか、人は人間自身の弱さを知る。人間というものの存在のはかなさを知る。人はいくら強くなっても、死を超えられない。老いを超えられない。病に罹る。弱っていく。強がりは、弱さの証しであり、豊かさへの希求は、慰めでしかない。

 だとしたら、人は、争うべきではあるまい。競争などしている場合ではない。進歩、発展だけにかまけていては、いけないのではないか。科学の進歩は、豊かさをもたらし、経済の発展は、生活を便利にさせると、言い募るばかりでいいのだろうか。多分、人は、その分だけ、何かを忘れていっている。

 世間虚仮を、忘れているのではないか。人は、古来、目に見えぬものに恐れおののいていた。人は、老少不定の人の命のはかなさは、人の力では克服しようのないという現実を見据えていた。少なくとも、人間より、自分より、強い力を持つものの存在を認め、その分だけ、間違いなく謙虚であった。暴君であり、仏を恐れないような信長でさえ、「人間五十年、下天の内に比ぶれば、夢幻の如くなり」という、「敦盛」を好んで舞っていた。その信長の強さは、人の弱さを充分知り尽くした上での、裏返しであった。

 水は、零度で氷になる。液体から固体に変化する。これは、相移転と言われるものの一つである。一瞬にして、その状態が変化する。ゆっくり冷やせば、ゆっくり相移転する。しかし、やはり、すっかり、その水とは異なる氷に変化する。刈り取った稲を、天日干しにする。三脚にした木を両端にして、竹を渡し、その上に稲を掛けていく。竹はしなる。竹の弾力性は強い。稲の重さを、そのしなやかさで支える。しかし、稲をさらに掛けていったり、雨が降ったりしていくとき、その竹は、一瞬にして折れる。

 人の世も、ポキリと折れそうである。一瞬にして、凍りつくのかもしれない。折れないように、支えの木を補ってやらねばならない。それでも、稲を掛け続けると、木が折れることもあれば、全体が大地に沈むこともある。

 人の世が、凍りつかないように、冷やし過ぎないように、温めてやらねばなるまい。もう、遅いかもしれない。

 世間虚仮である。謙虚になれば、少しは、救われよう。

  邯鄲の 夢を見ており 秋時雨

 

 2007年 11月2日  崎谷英文


メディアリテラシィー

 中学三年生の国語の教科書に、「メディアリテラシィー」という題名の文章が載っている。メディアとは、情報伝達手段、つまり、テレビ、ラジオ、インターネット、新聞、雑誌などのことで、リテラシィーとは、読み書き能力のことである。メディアリテラシィーとは、メディアの読み書き能力ということになる。それは、メディアの発信する情報の捉え方とメディアに発信し利用するということについての文章であった。

 メディアの情報によって人々は動いている、と言っても過言ではない。人々は、昔と違い、様々な情報をメディアから受け、それを基礎として自らの意識、行動を形作る。情報の発信、受信が豊かであることは、一面、情報が行き届かなく、表現も規制されていた時代と比べれば、いいことである。

 しかし、そのメディアの発する情報が、真実だとは限らない。必ず、真実は曲げられて報道される。それが、写真や、映像や、記録であったとしても、主観は入る得るし、偽造の危険はある。昨今の事件が、それを物語っている。事実の報道にして、こういうように、真実とは限らないとしたら、批評的報道となれば、なおさらであろう。

 ところが、人は、もはや考えなくなっている。多分、考えるのではなく、感じ取るしかできなくなっているのではなかろうか。一概に、感覚的に捉えることが間違いではない。しかし、その感覚というものも、報道により作られ得る。怒りのような報道であれば、やはり、怒りに惹きつけられよう。誰それが悪いということであれば、そうなのかと思うであろう。情報、報道の方向が一方向になりがちなのも、そのことに影響する。

 人は、情報を得たとき、意見を聞いたとき、それを鵜呑みにしてはならない。常に分析する心が必要となる。まるで人は、直感的なものを、メディアの報道により、再確認しているように見える。みんなが、自分と同じように思っていることに安心し、声高に言い募る。もしかすると、その直感さえ、メディアにより作られたものかもしれないのに。

 かくも、メディアの力は恐ろしい。逆に、人の心の自由を束縛していく危険がある。あらゆる情報、報道に関して、自分の力で分析することが求められる。精神の自由は、自分の力で考えるところに意味がある。情報に踊らされ、報道に煽られていては、自由ではない。

 社会的報道に関して、かくのようであれば、商業的、芸能的なものについては、なおさら、その報道の支配力に注意せねばなるまい。本当にいいものは、長く残るのであろうが、今は、流行の短期化というものもあり、大宣伝によって、一時的に流行らせてやろうという魂胆が見え見えの報道、コマーシャルも多い。

 私は、人を信じないことはない。しかし、メディアの報道については、常に眉唾物で見ている。幸い、私は、天邪鬼(あまのじゃく)であり、みんなが言い出せば言い出すほど、そうでもあるまいと考えてしまう。

 ほんとかいな、好き勝手なことを言いやがってと、右も左もなく、横目で見ている。

  川音や 時雨の中に 鴨三羽

 

2007年  10月25日  崎谷英文


朝三暮四

 昔、宋の国に、猿を多く飼う猿使いがいた。その主人と猿は、互いによく理解し合い、主人は、猿たちを大切にし、食事も充分与えていた。その猿使いが突然貧しくなり、猿たちの食を減らさなければならなくなった。ある朝、主人は、猿たちに、「これからは、とちの実を朝に三つ、夕に四つ与えようと思うがどうか。」と言った。猿たちは、怒った。すると、主人は、すぐさま、「それでは、朝に四つ、夕に三つにしよう。充分か。」と言った。猿たちは、大いに喜び、ひれ伏した。(列子、荘子)

 ここから得られる教訓として、先ずは、全体として同じなのに、それが理解できない愚かさということだろうか。それは、猿の愚かさを笑い、計算できない者を笑うことだろう。

 更には、人の目先の利益に囚われることを、戒めるものでもあろう。全体として変わることのないことなのに、眼前の利得に眩み、全体が見えない人間の愚かさを言っている。主人は、朝の食事前に、猿たちに話していることが鍵になる。もし、夕食前に言ったのなら、逆になっていたであろう。

 また、ここから、言葉巧みに相手を偽ることともされる。主人は、すぐさま、猿たちに、朝四暮三を言っているところに、意を得たりという主人の心が見える。

 荘子は、更に言う。全ては、自然において一つであるのに、そのことが分からずに、人は、自分の欲心を是とし、それに従う。差別の人為を捨てた自然の境地に立つべしと。

 計算をすると同じであるのに、人は欲にかられ、目先の利益に飛びつく。愚かなる人間なのだろうが、ただ3+4=4+3が理解し得ないことを戒めるものだろうか。もしかすると、3と4の違いさえ、本当は、無いのかも知れない。

 人は、計算をする。しかし、人生は、計算通りにはいかない。計算をすると、多い、少ないと文句を言い出す。実は、逆に、計算することの愚かしさを言っているような気がする。

 無為自然の中では、自ずから、全体として一である。人為が入るとややこしい。人為もまた、大いなる自然の中においては、自然であるとする考え方もあろうが、如何せん、人為は自然と成り難い。もし、あらゆる人為も自然とみなすならば、今は、それは、亡びの道となっている。つまり、自然は亡ぶ。自然が、その道を選んでいる。もしかすると、そうなのかも知れない。

 計算は大切である。今は、計算できなければ、生きにくい。しかし、計算ばかりしないほうがいい。現代社会は、計算ばかりである。そのうえ、人は、数の計算以上に、皮算用をする。欲があるからであろう。損得なしに計算をすることは、現代人には、難しそうだ。計算しなければやっていけない世の中が、おかしいのかも知れない。

 朝三暮四の猿たちは、3+4=4+3を知らず、4>3を知っていた。もし、それも知らなければ、怒ることも騙されることもなかっただろう。

 馬鹿になれと、言っているのではない。

  満天の 星におどろく 秋三十日

 

2007年  10月13日   崎谷英文


シンベー日記 2

 僕の主人は、今、とても疲れているようだ。草取り、稲刈り、天日干しに苦労をしたらしい。それでも、結構、おいしい米ができたらしく、機嫌はいい。

 一度だけ、主人の稲を作っている田んぼに行ったことがある。草が茫々として、これが、稲田かと思うほどであった。確か、その日の次の日だっただろうか。主人が疲れた顔をするようになったのは。それからは、とても、朝早く、僕がまだ、うとうとしている頃に、表に出てくる。主人は、僕の前を通るとき、必ずと言っていいぐらいに、おやつをくれる。僕は、だから、主人が家を出る裏口近くに来たときから、期待する。僕たち犬は、鼻がとてもいいので、主人が出てくるのか、奥さん、子どもが出てくるのかが分かる。

 人間というものは、不便らしい。普通は、顔が見えないと、相手が誰か分からないらしい。声も、あまり当てにならないらしい。いつか、主人が、振り込め詐欺と言うものがはやっていることに憤慨していた。僕たちは、お互い、また人間でも、その匂いでも、声でも、ほとんど完璧に区別できるのだが、人間はそうではないらしい。人間の世の中は、どうやら、騙しあいらしい。どうやって、相手を信用させて、裏で舌を出しながら、貪ることができるかが、生きていく力と勘違いしている人間が多いみたいだ。

 まあ、僕たち犬にとってみれば、醜い世界である。僕たちは、食べ物の取り合いはするが、相手を騙したりしない。けんかをするときも、相手を徹底的にやっつけたりしない。お互いに、適当なところで折り合いをつける。人間の世界では、凶暴にも、相手の命を奪ってでも、欲望を遂げようとする者もいるらしいが、僕らには考えられない。

 主人が、この前、嘆いていた。何で、僕だけに言うのか分からないのだが、面と向かって、奥さんには言えないらしい。僕は、主人といっしょに散歩しながら、その愚痴を聞き流している。

 僕も男だが、人間の男も大変だなとは思う。僕を散歩に連れて行くのも、ほとんど、主人である。奥さんや、子どもは、おやつもほとんどくれない。主人は、僕にはとても優しいと思われるのだが、僕に対してだけなのかも知れない。案外、家の中では、暴君か、借りてきた猫かの、どちらかなのかも知れない。まあ、僕には優しいのだから、別に文句はない。

 この前、珍しく、朝早く散歩に行った。主人が、田の草取りを日の出前にやって、帰って来て、僕を連れ出したのである。川沿いの道を歩いていると、主人が、突然止まった。主人の、目を向けているほうを見ると、東の空に、山の斜面から、赤々とした太陽が、昇り始めていた。とても、眩しかった。これまで、何度か、夕日は見たが、夕日はそれほど眩しくなかった。こんなに朝日が眩しいとは、知らなかった。

 今夜は、キツネが、やってきそうだ。

  時知らず さくら一輪 神無月

 

2007年  10月5日  崎谷英文


米作り

 米は種子から作る。米粒から芽が出て、苗ができる。発芽の三条件は、水、酸素、適当な温度である。苗は農協から買う。よく知っている人は、自分で、昨年の米から、苗を作る。その苗を仕立てる所を、苗代と言う。

 全く、知識、理屈、理論などは、当てにならない。経験がものを言う。私のような素人は、苗の作り方を知らない。だから買う。縦横、30cm、40cmの長方形の盆のような箱に、10cm程の高さの稲の苗が、詰まっている。

 その40箱の苗を、家の前の草の上に置いて、毎日水をやる。発芽して育った苗は、後、充分な日光と水が必要となる。この時点で、肥料はやらない。基本的に、日光と肥料は、発芽の条件ではない。日光は、葉がないと効果はなく、肥料は、根が生えないと意味がない。

 毎日水をやっていると、情が湧く。ただの植物ながら、かわいくなる。

 3週間程経つと、20、30cmにまで成長する。田植えは、6月12日。田植え機でやる。その昔は、家族総出で、田に真っ直ぐな綱を張り、横に並んで、一斉に植えていった。壮観であったろう。必要な時は、近隣から早乙女という人たちを雇って、田植えをしたらしい。

 私の田には、肥料はない。土の中に潜む栄養分だけが頼りである。田一面に水を張った中に、稲の苗が整然と並ぶ。農薬はもちろん、除草剤も使わない。だから、雑草がやたらと生える。仕方なく、毎日、草取りをする。この暑い夏、早朝、毎日のように、草、特に稗(ひえ)を抜く。多分、放っておいたら、稲よりも、草や稗のほうが多かっただろう。昔は、手押しの除草具があった。今は、機械の除草機がある。それを知り合いから借りて使ったが、真っ直ぐ進めないと、苗まで抜ける。ところどころに穴が開いた。

 自然とは、偉大である。それでも稲は生長した。隣の稲と比べない。隣の青々とした稲に比べ、こちらは、背の低い、黄色っぽい、弱小組である。それでも、実はついた。草取りは、3ヶ月続く。

 その昔、イギリスで、4月1日のエイプリルフールの時に、テレビで、スパゲッティが今年は豊作です、という画面を冗談で流したことがある。その時、多くの子どもたち、そして一部の人たちは、たわわにスパゲッティが垂れ下がっている情景を見て、信じたと言う。

 実は、今の人たちも、基本的には同じかも知れない。自然の摂理の中で、人々の知恵によって生まれた米作り、その本質をどれだけ知っているだろう。

 普通は、コンバインを使って、実を袋に入れ、乾燥機にかけるのを、天日干しにした。稲刈りは、9月19日。昔は、手で刈り、手で束にした。今は、バインダーで束にした稲を、稲木の竹に手仕事で架けていく。この前の夜の雨で、一部が倒れた。直ぐに直した。そうしないと、濡れて、芽を出してしまう。後、数日干しておく。

 どんな米ができるか、楽しみにしている。

  名月の 光と影の 走馬灯

 

2007年  9月26日  崎谷英文


自由と平等と民主主義

 自由とは、他人に迷惑をかけない限り、何をしてもいいということである。それは、自分自身が考え、判断し、自分自身が責任を持って生きるという、人間の尊厳の根源である。

 その昔、人に自由はなかった。国家の命令、国王であったり、君主であったり、権威ある者の命令には、盲目的に服従せねばならなかった。そこには、物理的な力と精神的な力とが交じり合って、人々が自分自身の判断で拒否できる余地はなかった。

 しかし、人は、自由であることが、人として当然のことであり、自由であることこそ、人であることの証であると思い出す。国があることの必要性さえ問われ出すのだが、そこまでいかなくても、人は人としての自由を保障される国家を求める。そこに国家が生まれ、民主主義が生まれる。

 人が自由であるということは、自分以外の人も自由であることを認めねばならない。自分だけが自由であることを認めることは、自分だけが他の人より価値のあることを認めることになるのであろうが、それでは、自分より価値があると主張する他の者が現れたとき闘争になる。力で負ければ、その者に服従せねばならない。相対的に人の価値が決まり、命令、服従の関係が決まることはおかしいのである。そもそも、人の価値に差があるであろうか。人は、全て、生きている者全て、同じ価値である。これが平等である。

 人が、皆、平等であることは、普通の人より価値の劣る人たちを認めないことはもちろん、普通の人より価値が優る人たちを認めないことでもある。

 こうして、あらゆる人たちは、自由で平等であらねばならない、と言うことになる。しかし、また、国家というものは、アナーキズムを採らない限り、今のところその存在を認めねばならない。だとすれば、人々、国民は、自由を守るための国家を、自分自身で作る必要がある。単なる警察国家はあり得ない。国政というものがあり、国策というものがある限り、国民国家自体の自由も論じられねばならない。人々は、あらゆる国家判断に、自分自身が関与し、自分自身が判断して作られた国民国家というものを持たねばならない。これが、国民主権である。

 そのために、普通選挙、平等選挙によって国政を委託する者たちを、国民自身が選ぶ。自由を規制できるのは、自分自身しかなく、国家を規制できるのは、国民自身でしかない。国民は、自分自身が作った国の命令であるから、服従するのである。少数意見の者たちは、自分の意志は反映されない。それでも、国民の多数によって作られた国政、国策には従わなければならない。そのために、政権交代という制度の保証された民主主義があるのである。

 全知全能の人間がいたとして、その者が国家、国民を支配すればいいのではない。人は自由であるために、自分自身で決めたことである必要がある。それは、人の価値の平等を認め、多数の意志をもって、自己統一を果たすことなのである。民主主義は、その政策を正すのに手続きを要するが、それは、民主主義に内在するものなのである。

 騙されないように、しっかり、自分で判断することが大切である。

  教え子は 稲刈り終えて ゆきにけり

 

2007年  9月15日  崎谷英文


おいしく食べる

 飽食の時代と言われて久しい。最近、テレビを見ていて、食べ物の番組の多いことに気がついた。高級豪華料理を食べる番組、何々料理ベストランキング、地方の名物料理、隠れた名店、大食いのタレント、タレントの作る料理番組等々、料理番組でないのに料理が出てくる番組も多い。

 確かに、食べることは、生きていくことの基本であり、食文化とも言われ、また、医食同源とも言われ、とても大切なことである。その昔、ローマの貴族たちは、寝そべっておいしいものを食べ続けたと言う。おなかが一杯になれば、口に指を入れ、吐き出しては、また、次の料理を食べ続けたと言う。食べることは、生きていくことにおいての、快楽の一種でもある。

 他人がおいしそうなものを食べていると、自分も食べたくなる。食堂、レストランで、隣の人の食べているものが、おいしく見えることは、きっと、多くの人が経験したことだろう。人の持っている物を、自分も欲しくなる。隣の芝生は青い。これは、食べ物についても言えそうだ。

 飽食の時代は、人の体を蝕む。そうして、人は、贅沢で健康なものを求める。サプリメント、薬を飲みながら、高級料理を食べる。どこか、吐きながら食べ続けたローマの貴族たちに似ている。

 世の中に、おいしそうなものが氾濫している。おいしそうな、贅沢な、高級な料理が、どんどん、目に入ってくる。人々は、ステイタスとばかりに、飛びつく。豊かな世界なのであろう。

 世界の中には、飢えに苦しむ多くの人たちがいる。おなかをすかして泣いている子どもたちが、数多くいる。我々は、おいしいものを求めて奔走している。豊かな生活を求めてもがいている。

 豊かな生活とは、何だろう。文明の届かない人たちは、豊かな生活を送っていないのだろうか。文明社会の中では、豊かな生活は際限がなくなる。しかし、文明の届いていない世界にも、豊かに生きていく人たちはいる。豊かな生活を送っているとは、我々には見えなくとも、豊かに生活を送っている人たちは、実は、私たちの知らない世界に、数多くいそうだ。豊かな生活を求めれば、きりがないが、豊かに生きることは、一寸考え方を切り換えればできる。

 贅沢なおいしいものを求めれば際限がない。しかし、高級でおいしいものは食べられなくとも、たいていのものはおいしく食べることはできる。おいしいものを食べるのではなく、おいしく、ものを食べるのである。

 霞も旨いが、めざしも旨い。

  群れ飛べる 田毎の波の アキアカネ

 

2007年  9月5日  崎谷英文


シンべー日記

 僕は、雑種犬である。名前は、シンべーという。どうやら、ここにやってくる前に、名前はついていたらしい。何故、シンべーというのかは、知らない。

 田舎の家の、車庫の北側の小さな犬小屋に、住んでいる。僕の主人は、塾の講師という、何か、この世のやくざな生業をしているらしい。学校というものがあるのに、わざわざ、学校外で子どもが勉強する場を作り、子どもを誘い込んで、哀れな親から金をむしり取る悪業だとも聞く。

 僕が見る限り、主人は、それ程悪い人には思えないのだが、主人は、自分の仕事をあまり誇れるものとは思っていないようだ。

 僕の家の北側に、少し空き地がある。その一部を使って、主人は、畑をやっている。あまり熱心ではなく、よく、草茫々となる。それでも、毎朝のように、主人は、収穫した野菜をうれしそうに取っていく。野菜などは、僕らの食べる物ではなく、何の腹の足しにもならず、人間のためだけのものである。僕にしては、時々、草刈り機や耕運機の恐ろしい威力と音が、わが身に迫ってくるのが、困る。そんな時には、うろうろしてしまう。

 この夏は、暑い。僕の家は、コンクリートの上にあり、車庫の北側だが、それでも昼は暑い。そんな時は、直ぐ北の土の上にまで行って座ることにしている。土の上、草の上はひんやりとして涼しい。僕たちは、水をあまり必要としないのだが、それでも、この暑さでは、水もよく飲むようになる。主人が、たまに、水の無くなっているのに気づかない時があり、閉口する。

 主人の家では、僕以外には、飼っている動物はいないはずである。しかし、猫が、二、三匹常にいる。一匹の痩せた灰色の猫などは、主人の家の縁側や、木の根元で、いつも寝そべっている。主人が横を通っても、逃げようともしない。主人も、餌まではやらないが、気にしてもいないようで、時々は、その猫に声をかけている。。

 夜ともなれば、訳の分からないやつらが出てくる。暗くてよく分からなかったのだが、この前などは、タヌキらしいのが、僕の餌を狙って近づいてきた。僕は、一瞬ひるんだが、勇気を出して吠えると、やつは、一寸立ち止まり、じっとしている。吠えるのを止めると近づいてくる。一寸怖くもあり、面倒くさくなって家の中に入っていると、餌を食べようとするので、もう一度吠えてやった。やっとタヌキらしいのは、帰っていった。餌は、半分ほど無くなっていた。

 ある夜などは、どうやら、キツネがやってきたらしい。尻尾がふさふさとして羨ましかったが、そいつには、直ぐ目の前で、面と向かって吠えてやったが、やはり、半分ほど餌を食べて帰っていった。山に、食料が少なくなってきているのかも知れない。まあ、僕が飢えなければいいかと、同情する。

 主人は、僕のことを、大食漢と思っているらしい。

  毎年の ツクツクボウシ 子守唄 (シンべー)

 

2007年  8月24日  崎谷英文


でくのぼう

みんなに でくのぼう とよばれ
誉められもせず
苦にもされず
そういうものに 私はなりたい

 宮沢賢治の「雨にも負けず」の終わりの部分である。このでくのぼうと呼ばれることを望み、苦にされてはもちろん困るが、誉められることも欲せず、そういう人に私はなりたい、という意味が若いころ分からなかった。

 自由律俳句で有名な俳人に、種田山頭火と尾崎放哉がいる。この二人は共に自由律俳句の達人であるが、二人にはその生き方に違いがあるように思われる。

 例えば、山頭火の句に、有名な

うしろすがたのしぐれてゆくか

 と言うのがある。

 対して、放哉の句に、

入れものが無い両手で受ける

 と言うのがある。

 共に、放浪、あるいは孤独の人であったろうが、山頭火には、意識する自分があり、放哉には、自己が無い。私の勝手な解釈である。放哉には、自己を空しゅうし、自分自身を捨て去った透明さがある。山頭火には、捨て切れない自己がある。

 賢治は、法華宗の熱心な信者であった。子どものころから、家の関係で別の宗派であるが、仏教に慣れ親しんでいたようである。その後自分で法華経を学び、仏教に帰依していったと思われる。

 でくのぼうと呼ばれて、うれしい人はいないであろう。しかし、他人から自分がどう見られているかなどということは、何の価値も無い。そういうことを気にしていることが、意地汚い。己を空しゅうすることにより、無駄は無くなる。あらゆることに自分自身を勘定に入れないことが、仏に近づけさせる。

 医者になった若者がいる。その若者が、医者を辞めたいと言う。なぜかと問うと、患者から、感謝の言葉、ありがとうの言葉が無いという。その若者は、純粋に人の為になる仕事をと思って、医者になった。しかし、人から感謝される言葉が聴けなくて、やりがいが無いと言う。

 ありがとうを期待するからである。期待しなければいい。感謝の言葉は、報酬では無いように思われるが、それは正に報酬となっている。心の見返りなのである。心の売買になっている。ありがとうなど期待しなければいい。ただ、その人の為に、やるべきことをやっていればいい。

 でくのぼうと呼ばれようと、何も困りはしない。誉められなくても、いいではないか。賢治は、あくまでも、そういう人になりたかったのであろう。「雨にも負けず」は賢治の願望である。一日に玄米四合を食べることのできる丈夫な体を持ちたかったのであろう。

 その賢治の心のかけらにも追いつけない。

  夕暮れの 光に応ふ 夏の山

 

2007年  8月 盆  崎谷英文


教育再生?

 教育再生とよく言われる。再生ということは、どこか悪いのであろう。どこが悪いのであろう。

 学力が全体的に低下している。しつけがなっていない。礼儀知らずだ。わがままだ。やさしさがない。自立心がない。未成年者の犯罪が多い。等々、子どもたちの現状が言われる。

 しかし、今の学校教育を改めることで、これらのことは解決しない。何しろ、子どもは、大人の鏡なのである。今の大人の社会が、子どもに反映されるのだと思う。昔、「親があっても、子は育つ。」と言った作家がいた。そこまではと思うが、本来、子どもは、社会の中で育つのであろう。

 つまり、今の大人たちに知性がない。今の大人たちが、無作法で、礼儀知らずである。今の大人たちが自分勝手である。今の大人たちが、やさしさを持っていない。今の大人たちが、自立心がない。社会全体に、嫌な、変な犯罪が増えている。と言うことである。先ずは、大人たちの社会から、再生せねばなるまい。

 学校教育、学校の先生が変わるだけで、子どもがよくなるというものではない。子どもは、大人たちを見ている。もちろん、学校の先生も見られているし、親も見られているが、子どもたちは、社会の大人たちこそ見ている。

 そもそも、教育とは何だろう。世の権力者たちは、教育によって、自分たちに都合のいい国民を作ろうとしているように見える。子どもたちには、それが分かっているのではないだろうか。もともと、教育とはそんなものかも知れない。子どもたちのためを思って、などと言いながら、実は、今の大人たちにとって役に立つ人間を作り、役に立たない人間を排除しようとするものかも知れない。

 本当に、美しい国、愛すべき国ならば、愛国心など教えるまでもない。愛すべき国だと自然に思われないから、わざわざ愛国心を教えなければならないとしたら、本末転倒であろう。それに、わざわざ教えた愛国心など、いつでも裏切られそうだ。大げさに言えば、再び、お国の為に死んでいく兵隊を作ろうとしている。

 ボランテイアを教科にするなど、ボランテイアの趣旨に反しよう。ボランテイアは、自発的なものであり、子どもに嘘を教えることになる。やさしさが義務化されることは、逆にやさしさの分からない子どもを作ることになろう。

 学校間で競争させて、学力を上げようとすると、教育はますます産業になり、金儲けの手段となる。そんな教育を子どもたちは、信用しまい。子どものための教育ではなくなる。

 子どもに、株式講座をやっているそうである。経済を知ることは必要だろうが、株価の変動を見ながら株の売買をすることは、やはり、博打に近い。上手いことやれば儲かる世界を、子どもに教えてどうなるのだろう。産学協同も、儲からない学問はだめだということなのだろうか。

 子どもたちは、世の大人たちを見ている。悪いことをしても、責任を取らない大人たちを見ている。批判を受けても、頭を下げ、右から左へ受け流す大人たちを見ている。権力と地位を守るために、小手先だけで対処する大人たちを見ている。民主主義を無視して居座る大人を見ている。

 教育は、自由をこそ教えなければならない。全てを疑い、自分で考え、自分で判断し、自立していくことを教えねばならない。

 今の教育は、放り込まれていくがんじがらめの世の中に従順で文句を言わない、権力者にとって都合のいい子どもたちを作ろうとしている。

 子どもたちは、こうして純粋な心から、欲望とごまかしの社会に取り込まれていく。

 などと、今回はほざいてみた。

  蝉逃し 昼寝の猫や 腹白し

 

2007年  8月2日   崎谷英文


田中君への手紙 6

 元気ですか。先日はよく呑み、よく話し、楽しかったですね。新しい仕事、大変でしょうが、貴君の腕前の確かなことは感服しています。応援しています。

 ところで、貴君は、ダ・ヴィンチの「受胎告知」を見、二度目は、一人で、もう一度ゆっくり見たということでしたね。私も、その絵を、美術書ではありますが、暫く鑑賞しました。素晴らしいと思いました。貴君が、もう一度見たいと思ったことも頷けます。

 天使ガブリエルが、マリアの下に降り来て、神よりの知らせ、処女マリアが神の子イエスを受胎することを告知する絵ですね。私は、キリスト教徒ではありませんが、そこにはその信者に対してだけではない万人の心を打つものがあると思います。生活に汲々とし、損得勘定ばかりしている人々に、敬虔な澄み切った心、あるいは本来あるのに、気がついてない心を気づかせてくれることは、キリスト教徒に対してだけではないと思います。宗教画というものは、何もその信者の為のものだけではないでしょう。

 一体、宗教というものは、それほど対立せねばならないのでしょうか。今、世界はキリスト教とイスラム教との対立だと言われています。しかし、宗教というものは、並べて、その目的が、世の中、人の心を安穏にさせるものとしては共通なのではないでしょうか。根本に遡った時、違いはあるでしょう。しかし、人の本質の理解には、さほどの違いは無いような気がします。ローマ法王も、ウラマー(イスラム教の指導者)も、天台宗管主も偉大なる人格者でありましょう。世界はもっと、宗派を超えて、共通の寄る辺を探るときではないでしょうか。

 などと言っても、やはり、ダ・ヴィンチの「受胎告知」は美術的にすごいのでしょう。実は、白状すれば、私は、小、中学校を通して、図工、美術の成績は惨憺たるものでした。実践としての創作の分野の、最も苦手とするところでした。(実は密かに、自分の絵は、今は誰にも理解されないのだと、うそぶいていたのですが)その私が言うのだからと、疑わしく思わないでください。この間、能の話しもしましたよね。能は、人の動きを削りに削り、その真髄を見せているのではないかと。実は、芸術というものは、全て、そのようなもののような気がします。現実よりも存在感のあるものとしての芸術だと思います。このダ・ヴィンチの「受胎告知」について、私は、批評できません。しかし、感じるのです。この絵をじっと見て、コソ泥を働く者はいないでしょう。この絵の前に、五分間立っていた子は、他の子をいじめたりしないでしょう。

 私が、美術書の「受胎告知」を見て、良かったと思っているのだから、実物を見た貴君はなおさら良い時を過ごしたことと思います。

 柴田君も、いい作品を多く創っています。また、見に行きましょう。

 では、奥様、二人の娘さん、パピーによろしく。また、呑みましょう。

  モナリザの 顔しているか 夏の月

 

2007年  7月 大暑   崎谷英文


 右脳、左脳の機能の違いがよく言われる。右脳活性法などというような本がよく出ている。右脳派、左脳派などということもあるそうだ。右の脳と左の脳とは、確かに機能は違うのであろう。右脳は、直感的、感覚的、映像的な機能を有するといわれ、左脳は論理的、言語的、計算的機能を有するとされる。

 しかし、右の脳が働いているとき、左の脳が全く働いていないわけではない。右の脳が活発に働いているとき、左の脳の十箇所以上の場所も、また活発に働いているという。逆もまた、然りである。確かに、右脳が中心になって働くときと、左脳が中心になって働くときとがありそうである。しかし、多分、脳は、全体で一つである。全体において、その機能を賄っている。多分、どんな些細なことであっても、脳全体がそれを管理していると考えるべきなのである。左脳だけで、計算しているのではない。

 脳梗塞で、倒れた友人がいる。右半身が麻痺し、不随になった。しかし、彼は偉かった。リハビリをやり、右手、右足がほぼ、以前のように動くようになったのである。このとき、右側の運動機能は、左の脳にあり、そこの血流が止まったと見られる。だとすれば、リハビリによって、その左の脳の血流が回復し、脳細胞が再び活性化したのであろうか。どうやら違うらしい。一度血流が止まり、死に絶えた脳細胞は、回復しない。どうやら、右脳の細胞が、右側の運動機能を制御するようになったらしい。つまり、欠けた左脳の機能を、右脳が補完、補充、代替したのである。脳には、素晴らしい可塑性がある。しかし、その欠けた部分を補うためには、生きている脳にそのことを教えてやらねばならない。機能不全の動きを、何度も何度も脳に教えて、その機能を持たせるようにせねばならない。それが、痛くて、苦しいのである。友人が偉いといったのは、その意味である。

 生まれたばかりの人の脳は、その細胞の繋がりは希薄である。しかし、それがどんどん繋がっていくのである。人として生きているということだけで、様々な刺激が入ってくる。それは、全て、神経細胞の繋がりになっていく。遺伝子の助けを借り、経験によって、適材適所の神経細胞の繋がりができてくる。生きていることは、脳にとって学習であり、脳には絶え間ない刺激が続いている。脳の老化は、刺激を感じなくなるせいかもしれない。ボーとした老後は、脳を老化させる。

 生まれついた脳に違いはある。学習能力にも、違いはある。しかし、ほとんどの脳は、回り道をしながらも、ほとんど人としての機能を持っていく。勉強でも、ストレートに理解できることもあれば、様々な迂回をしながら理解にたどり着くこともある。間違ってはいけないのは、ストレートに理解できるほうがいいとは、限らないことである。

 むしろ、私は、ゆっくり理解していくことのほうが、脳の総合的発達にはいいのではないかと思っている。一見賢そうな頭は、脳の一部が働いていないのかも知れない。

  紫陽花は 雨降る降らず 自在なり

 

2007年   7月 梅雨の盛り  崎谷英文


 この世のことが、すべて、幻ではないかと思うことがある。確かにあるようではあるが、実は、無いのかも知れない。

 社会の仕組みは、人間が創りだしてきた。それは、良かれと思って創られた仕組みであろう。しかし、世界には、数多の社会がある。それぞれに、文化があり、伝統があり、思考様式がある。人、個人個人が、それぞれ、感じ方、考え方、生き方が異なるように、それぞれの社会、そのまとまりの基準は、民族によるものもあれば、宗教によるものもあれば、国家によるものもあるだろうが、それらのそれぞれの社会において、人のあり様は異なる。

 日本人を父、母として生まれた子が、生まれた時から、アメリカの社会の中で、アメリカ人の父、母の子として育てられた場合、その子は、アメリカ人として育つ。肌の色、顔つき、体格が、親と異なるという疑問は別にしよう。その子は、英語はペラペラであるが、日本語は全く話せないのは当然として、その子に、日本人としての意識はなく、日本人の血は流れていようが日本民族として、他の日本人との同胞意識はないであろう。

 人は、生まれてから物事を知る。生まれる前から知っていることはあるのだろうか。何かあるのかも知れない。しかし、知識として得ることは、多分、全て、生まれてからであろう。

 だとしたら、今生きている自分の持っている知識は、全て、先人の得た知識であり、自分自身で獲得したといっても、それは、先人の知識を土台にしているものに過ぎない。文化、思考というものも、親、地域、国、民族が、直接、間接に教えてきたものが土台となっている。今は、世界中から情報が得られるが、それにしても、やはり、人の文化、思考過程には、身近な環境からの先人の文化、思考過程が色濃く漂う。

 今を生きる人々は、常に、過去の蓄積されたものに拘束されている。このことを、因縁と呼んでもいいし、存在の被拘束性と言ってもいい。本当に、自由な存在というものは、無いのかも知れない。幾ら新しい思考をしたとしても、それは、自ずと、社会の柵の中にしかない。

 革命、革命的思想というものがある。それはそれで、先人たちの都合よく創った社会に対し、その都合よく創った説得的な理屈の矛盾を暴露して、新しい秩序を作り上げようというもので意味はある。しかし、それも、やはり社会の柵から逃れてはいない。本当の自由というものは、あらゆるものからの自由ではないのか。アナーキズムを言っているのではない。人は、社会の中で生きねばならないとしても、真の自由を得るには、社会の中にいながらにして、社会から、離脱せねばならない。出家を言っているのではない。現実の幻に、拘束されているような気がする。

  五月雨は 洗いはすれど 消しはせず

 

2007年  7月 独立記念日 崎谷英文


五戒

 私の勝手な解釈である。仏教において、戒律がある。在家の信者の人々にも、戒はある。五戒といわれる。不殺生戒、不妄語戒、不ちゅう盗戒、不邪淫戒、不飲酒戒、の五つである。といっても、生活上、こういう習慣を身につけようというものらしい。

 生き物を殺すな、嘘をつくな、盗みをするな、淫らなことをするな、酒を飲むな、ということである。当然のようなこともあれば、ちょっと難しいねということもある。

 生き物を殺すなということは、自分が殺していなくとも、生き物を食べていることから、人は、ほとんど戒を破っていることになる。かくして、人々は、他の命を持って生きていることに感謝せねばならないということであろう。その意味で、人は、後ろめたい気持ちで生きていく存在なのかもしれない。この間、百足に噛まれた。酷く痛くて、まだ腫れている。百足も必死であったのであろう。私は、百足の命と引き換えに、苦痛を味わった。

 嘘をつくなということは、当たり前のようであるが、人は、えてして、自分を守るために嘘をつくことがある。生きていくためには仕方がないのだという言い訳が聞こえてきそうだ。しかし、それは、間違っている。嘘をつくことは、人を惑わし、自分だけ、いい目に合おうとすることである。

 盗みをするなというのも当たり前のようだ。しかし、原点に返っていったとき、人の所有するものとは何であろうか。太古、あらゆるものは、すべての人々の共有物であったのかもしれない。そこでは、当然、盗みというようなことは考えられない。人が、自己の利益、欲望をのみ満たそうとするようになって、所有が始まり、盗みも生まれる。持たざる者が、持てる者から物を頂戴するのは、持てる者が、持たざる者に分け与えていないからなのかもしれない。この盗みをするなということは、キリスト教にも、イスラム教にも戒律としてある。

 淫らな行為をするなということは、また難しい。しかし、これは、在家信者にとっては、通常のことは子孫のためには必要であり、それ以上に、欲望にかまけて淫らに走ることを戒めているのであろう。

 酒を飲むな、これが私には一番難しい。キリスト教では、ぶどう酒は生きる糧でもあるが、イスラム教では、飲酒を禁止している。しかしこれも、飲酒によって、本来の自己を失って、戒を犯す元になることを戒めているのだろうと勝手に解釈する。だから、楽しく飲むのは良い、と勝手に思う。

 五戒というものは、結局、煩悩の元を断ち切ろうということのような気がする。欲望にかまけていると、過ぎた方向に行き過ぎるのが人間である。しかし、また、この煩悩、欲望というものが、普通の人の生きる力になっているのも事実だろう。そして、この暴走を防ぐ知恵が、五戒なのだろう。欲望への執着は、苦悩に結びつく。私は、もう、枯れた。

  身を苛め さても午睡も できぬなり

 

2007年  6月 夏至 崎谷英文


ゲーム

 子どもたちは、ゲームが大好きである。いろいろなゲームがあるが、今は、コンピューターゲームが盛んである。大人たちにも、好きな人は多くいる。子どもは、遊びながら育つ。遊ぶことにより、いろいろ学び、また他人との関係を覚えていく。

 ゲームの面白さは、第一に、その内容の面白さであろう。コンピューターゲームで言えば、画面の面白さ、その変化、不確定なところを自己判断で、どきどきしながら、決定していく。

 また勝ち進んでいくことに、面白さがある。相手を倒し、勝つことは、自己充実感、優越感、達成感を与えてくれる。単なるゲームでありながら、勝ち進み、壁を突破していくことに、面白さがある。単なるゲームの勝利者は、誇り高き英雄となる。

 大人たちも、ゲームのようなことを楽しんでいる。そこには、金銭の絡んだ、賭け事の要素の入ることもある。ゴルフ、パチンコ、麻雀、競馬等々、ゲームの類は多い。

 人生を、ゲームと考える者もいよう。実際、人生ゲームというのがある。そこでは、出世し、名誉を得、家を持ち、贅沢三昧ができるようになることが上がりである。今では、バーチャルの画面の中で、人生を過ごすゲームもあるらしい。そこでは、現実か、バーチャルか分からないようなお金や、カードも使われているらしい。

 人生をゲームとしたら、やはり、人生ゲームと同じように、その上がりは、社長、大臣、大金持ちであろうか。社長になれずとも、それに近づくことが勝利である。策を弄し、困難を乗り越え、上手に世渡りをする。

 かく言う私も、ゲームは嫌いではない。すべて、下手の横好きであり、強くない。

 子どもにとって、ゲームだけが遊びではない。しかし、今、子どもたちは、ゲームに夢中になっている。大人たちも、いろいろな生き方があるだろうに、人生のゲームに躍起になっているかのようである。

 人生は、ゲームなのだろうか。人生が無意味だと知って、ゲームのように楽しんでいるのだろうか。そうではなさそうだ。人生の目的は、勝ち進み、勝利することで、何とかして、上がりにまで行き着き、または近づこうとしているように見える。ずっと前からなのだろう。ほとんどの人が、マスコミが、政治家が、ゲームのような人生を当たり前のように論じ続けている。大人たちが、人生をそのように生きていることは、子どもたちにも分かる。そうして、子どもたちは、今、遊びのゲームに夢中になった後、その人生のゲームの中に放り込まれる。

 私は、もう、とっくに、人生のゲームから降りている。勝った、負けたの区別がつかなくなっている盆暗である。

  苗運ぶ 爪の間に 土匂い

 

2007年 6月12日 我田引水 崎谷英文


農に忙しい

 農業に忙しいのではない。生業、なりわいでないから農である。農作とも言い難い。何も作れないかもしれないから、作というには恥ずかしい。だから農である。生業でないということは、たわむれ、遊びである。

 野菜にも手を出しているが、今は、田植え間近であり、稲の苗に毎日水をやる。田は、鋤いてもらって、5日後位に水が入る。水が抜けないように、畦シートを周りに立てる。面倒である。しかし、モグラの穴やいろいろな穴が、田と隣の溝や田の間にあり、畦シートをしておかないと、水を入れても、直ぐなくなる。私は、いい加減だから、以前稲を作った時も、直ぐ水が抜けた。だから、直ぐに水を入れることになる。もったいないことである。私は、根が、怠慢なのである。いい加減な者が農をやると、周囲の人々に迷惑をかける。まことに、熱心に農業をやっておられる方々には、申し訳ない次第である。

 たわむれ、遊びであるからいい加減である。たわむれ、遊びであるからおもしろい。生業にすると、とたんにおもしろくなくなる。周りの人々から、いろいろな教えを受ける。教えを受けても、いい加減だから、適当にやる。だから、野菜も小さく、数も少ないようだ。それでも、まことに、野菜と土は有難い。私のようなものが植えたものにも、少しは、実を結ばせてくれる。

 学生は、勉強を生業としている。生業としているからおもしろくないと言う者もいよう。「吾、十有五にして学に志し。」と孔子は言う。十五才で、学問のおもしろさを知り、学問の大切さを知り、熱中していった。しかし、今の日本の十五才は、学問に目覚めるのではなく、否応なしに勉強させられている。十五の春は、試練の春なのである。本当は、遊びに遊び、その後十五才位になったら、自ずと社会、人間への好奇心、疑問から、学問への関心を持つようになるのが、いいのだろう。本当は、放っておけば、いつか子どもたちは勉強するようになると思っている。そんな時は、勉強も生業ではなく、遊び、たわむれの境地になり、熱中できるのだと思う。苦しそうに勉強する子も、勉強しろといわれても勉強しない子も、共に哀れである。

 古今東西、偉人は嫌々ながら勉強したのではなさそうだ。楽しいからその道に通じたのであろう。生業になったら、勉強ではあるまい。たわむれにするから勉強なのだ。勉強をゆめゆめ、金儲けの手段にしてはなるまい。昔、「勉強なんかすると、ろくなやつにならん。」と言うおばあちゃんがいた(そうだ)。そうかもしれない。

 田舎の日々は、自然との融合である。都会の人たちは、自然は、わざわざ見に行くものらしいが、田舎では、自然は、目の前にあり、生活そのものである。ミミズや青虫や、鳥や蝶や、鹿や、時には、蛇が顔を出す。

 しかし、疲れる。疲れるから、いい加減にやる。でも、農に忙しい。

  戯れの 我にも優し、稲の苗

 

2007年  6月4日 妻の誕生日   崎谷英文


 「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。」

 奥の細道の冒頭である。古人とは、杜甫、西行、宗祇などを指すといわれている。古の旅は、人生そのものであった。

 芭蕉にしても、漂白の思ひやまず、数々の旅をしている。それは、人生におけるとどまることの無意味さを感じとっていたからではないだろうか。いや、無意味さというのは、少し違うかもしれない。ひとところにとどまっていて、意味がないこともなかろう。しかし、たぶん、芭蕉は、人生そのものがうたかたの時であり、とどまり続けることなどできないと思っていたのではなかろうか。とどまることにより、執着は生まれる。

 過去から未来へと続く時間は、そのものが旅である。その中で生きる人もまた、旅人である。行く先は見えはしないが、終点のあることは確かである。

 「じゃんけんで 負けて蛍に 生まれたの」池田澄子氏の句である。これは、必ずしも、輪廻転生を詠んでいるのではなかろう。しかし、人の世も、蛍の世も同じで、どこから旅をしてきたのかもわからないが、もしかすると、生まれる前から、そして、終わった後も、旅人であり続けるのかもしれない。そうすると、人の世も、蛍の世も、旅の途中である。生きている間に、とどまろうとすることは、幻を追いかけていることになろうか。

 中国の春秋時代の楊朱は、「且趣当生」(しばらく、当生におもむく。)と人生を言い、限りある旅の途上、大いに楽しめと言っている。

 芭蕉は、古人の旅に憧れ、古人の思いをたどっていく。旅に病んで、夢は枯野をかけめぐる。古の旅は、人生の旅と重なり、芭蕉は、旅にこそ執着していたのであろう。

 現代の旅は、観光の旅、休養の旅、仕事の旅などであろうか。古の旅とは、その趣がいささか異なる。飛行機や、新幹線や、船に乗る優雅な旅である。ひとときの宿も、予定された、誂えられたものだろう。それは、戻ってくることの保証されている旅なのである。

 旅をする余裕もなく、旅などあまりしない。しかし、たまたま生を得て、しばらくの間、この世に旅をしているつもりでいる。

 藤村は言う。

昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにをあくせく
明日をのみ思ひわづらふ
(千曲川旅情のうたより)
  よりどころ なくて夏の日 よけきれず

 

2007年  5月23日   崎谷英文


力と正義

 パスカルは、パンセの中で、このようなことを言っている。

 「正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強いものに従うのは、必然のことである。力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である。

 力のない正義は、反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は非難される。したがって、正義と力とをいっしょにおかなければならない。そのためには、正しいものが強いか、強いものが正しくなければならない。

 正義は、論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。そのために、人は正義に力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だと言ったからである。

 このようにして、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。」(ひろさちや氏による。)

 先ず、何が正義なのかを、見極めねばならない。しかし、正義に沿うことは、人として求めることであろう。ところが、人は、愚かであり、悪いことに染まっていく。正義に沿うことをせず、力で他を圧倒しようとするものがでてくる。彼らは、力でもって、正義に対抗する。力のない正義は、力に負ける。正義のない力は、非難されるが、問答無用であり、正義を圧倒する。人は、正義に寄り添おうとしても、力に抑え付けられる。

 正義が力を得るか、力が正義を持つか、どちらかがいい。

 しかし、議論して求められる正義は、問答無用の力に負ける。力は、自分自身を、正義と呼ぶ。こうして、力は、正義となっていく。

 絶望的な状況である。力のない正義は、正義のない力に屈服する。人の歴史が教えることでもある。人は、同じことを繰り返す。現代もまた、同じことを繰り返している。

 正義を装った力は強い。化けの皮を剥がされようが、勝てば官軍である。無理が通れば、道理が引っ込むである。

 しかし、力を得た正義も、怪しい。正義は純粋であるが故に、頑なである。正義が力を持つとき、それは、正義のない力より圧倒的に成り得る。歴史上にも、似た例があろう。現代においても、正義を振りかざす非情の輩が増えている。正義は、力を持たない弱い正義であってこそ、正義たり得るのかもしれない。もしかすると、正義のない力は、正義を持たず圧倒的な故に、力を得た正義より寛容になりうるかもしれない。

 つまり、どちらにしても、絶望的である。正しいものが強くなろうが、強いものが正しくなろうが、たいしたことはない。

 などと言っていると、身も蓋もない。

  てんとう虫 驚かすなや そろーりと

 

2007年 5月 立夏 崎谷英文


閉じ込められた力

 水兵、リーベ、僕の船、名前有る、競輪行こう、円有るか。高校時代に習った、元素記号の覚え方である。今は、少し、違うらしい。H、He、Li、Be、B、C、N、O、F、Ne、Na、Mg、Al、Si、P、S、Cl、Ar、K、Ca、までの覚え方になる。原子番号は、陽子の数ということらしい。つまり、H、水素は、陽子の数が1つであり、C、炭素は、陽子の数が6つである。重さ、質量は、中性子の数が加わり、原子番号の数のほぼ2倍になる。と言っても、Cの質量数が12gというのは、原子の数が、アボガドロ数6.02×10(23乗)個集まった時の重さになる。つまり、Cの原子、1個は、とてつもなく小さく、軽いのである。

 人類は、閉じ込められたエネルギー、つまり、石油、石炭、天然ガスの化石燃料を取り出して、利用している。

 私たちの身体も、これらの元素、原子が寄り集まって出来ている。

 無機物、有機物という区別がある。本来それは、生物が保有し、生活機能を持つものを有機物とし、それら以外は、無機物としたのであった。しかし、その有機物は、Cを含むという特徴を持っていたので、Cを含むものを有機物と呼ぶことにしていった。但し、CO2、二酸化炭素は、有機物とは言わない。石油、石炭も、有機物が元になっているといわれている。有機物は、植物により作られ、いわゆる食物連鎖により、あらゆる生物の間を循環する。これら炭素や、酸素や、水素は、結局世の中を循環している。原子、分子状態のものは、時間を越え、場所を越え、世界を回っている。クレオパトラの吸った酸素を、今、私が吸い込んでいるかもしれない。小野小町の食べた物に含まれていた炭素を、あなたは今食べているかもしれない。

 原子というのは、それ以上分けられないものとして観念されていた。しかし今では、その原子も、クオークという原子核を作っている素粒子と、レプトンという素粒子の仲間の電子でできていることがわかっている。小柴氏が研究しているのも、このレプトンの仲間のニュートリノと言う素粒子である。原子核と言うものは、そのクオークでできている陽子と中性子とで硬く閉じられている。ところが、人間は、その閉じ込められたエネルギーを取り出してしまった。それが、原子力である。アインシュタインの言う、E=mc2(エネルギーは、その質量に光速の2乗を掛けたものに等しい。)からすれば、原子核の分裂によるエネルギーは、莫大なものになる。自然状態においては、ゆっくりゆっくり、原子核は崩壊する。それを、人為的に崩壊することにより、膨大なエネルギーを取り出したのである。

 さらに、今、暗黒物質というよくわかっていないエネルギーがあると推測されている。光も発することもなく見ることはできないが、重さ質量を持つものである。

 宇宙の姿は、まだ見えてこない。

  刈り草に 小鳥遊びぬ 五羽六羽

 

2007年 5月こどもの日  崎谷英文


永遠と刹那

 私たちは、今を生きている。刹那、刹那を生きている。この刹那、刹那というのは、現在そのものである。この刹那は、瞬く間に、過去となり、瞬く間に、将来のものとして登場する。

 この刹那が、永遠に続かないのが、生命の運命である。キルケゴールは、「人間は精神である」と言った。その通りであろうが、人間は、生きている物質でもある。人間としての生きている証拠は、やはり、人間という、空間を占める物質である、と言うことと、人間という、精神を持つ存在である、と言うことの、二面性であろう。どちらか一方が欠けても、人としての生きている存在ではない。

 人は、死んでも魂を残すのかもしれない。もし、そうだとしたら、それは永遠の魂となる。しかし、それはあの世のものであり、生きている人ではあるまい。

 命あっての賜物、だとしたら、人は、物質として存在する限りにおいて、生きていると言うことだろう。人は、永遠には生きられないが、刹那、刹那には生きられる。

 人は、永遠と刹那をさまようものかもしれない。永遠の生命の意味を考えるとき、今は、矮小化する。すべては、永遠につながるものであり、死を超えた世界に、安住を見つけようとする。永遠と刹那が結びつき、いともたやすく、生命が犠牲になる。宗教と言うものも、行き過ぎると、今の命を軽んじることになる。イスラム教徒たちのテロ行為しかり、さらに言えば、太平洋戦争で死んでいった愛国の志士たちしかりである。彼らは、死に行く刹那が、永遠につながると信じ、命を惜しまない。しかし、生きている刹那が、永遠と結びつかなければ、生きていることの意味を見失おう。

 生きている今、生きている刹那を犠牲にしても、永遠は得られないであろう。この刹那、刹那こそ生きている証なのであり、精神と物質としての人間の存在を危うくしては、いけないのだろうと思う。遠くばかりを夢見ていては、よくないのであろう。生きているこの時こそ、大切な時なのだと思う。祭りをし、宴をし、楽しむことも生きていることの証であり、元気に生きるということこそ、先ずなければならない。

 しかし、刹那、刹那に生きることは、野放図に、本能的欲望を追求することではあるまい。永遠につながるような刹那、刹那の生き方があるような気がする。今、現在を生きることが前提であるが、好きにすりゃいいものでもなさそうだ。私たちは、何か永遠につながるように生きないと、ストレスを感じるようにできている。祭りの後の侘しさ、宴の後の空しさ、一時の享楽は、その時を癒すものかもしれないが、長続きしない。かえって、空しさを感じさせることもあろう。

 今の世は、苦と楽の間で揺れ動きすぎているように思う。静かなる中庸に浸れればいいのかもしれないが、それも難しい。

  満開の 花見ておらず 蟻の群れ

 

2007年   4月11日  崎谷英文


 善とは何か。善いこと、では、善いこととは何か。善い行いと悪い行いとがある。善くもないが、悪くもない行いというものもありそうである。

 善いことと、悪いこととは、罰せられることと、そうでないこととの違いであろうか。そうでは、あるまい。罰せられることとは、悪いことでも罰せられるべきほどの自明の悪いことなのであろう。罰せられないことにも、悪いことはありそうである。悪いこととして罰せられないが、悪い行いというものもある。

 「法規にのっとってやっているのであり、何ら、悪いことではありません。」などと政治家が言うとき、それは、罰せられはしないが、善い行いではない、悪い行いであることが多いように思う。

 普通の人たちが、法規に従って行うことは当たり前であるが、普通の人たちは、それ以上に、善いことをすることは要求されない。しかし、公的人間は、法規に従って行動すれば良いというものではなかろう。善いことをしなければ、その公的人間の行為は意味がない。政治家たる者、善行を為さずして、政を論ずるなどもってのほかである。ただの、権力亡者、でなければ、守銭奴、名誉欲の塊でしかない。

 しかし、一般の人も、ただ、罰せられないようにだけ注意して行動しているだけでは、生きていくのがしんどいし、疲れるし、張り合いがなく、気は晴れまい。

 そこに、善の意味がありそうな気がする。善は、周囲の者たち、社会の人たち、世界の人たちをも巻き込んで、それに、自分自身も含められて、気持ちよくさせることなのではなかろうか。

 苦しいという言葉には、それだけで、悪のイメージがある。苦しいという言葉自体が、悪い価値観を表明している。苦しい人がいることは、喜ばしくないのである。自分自身が直接苦しくなくとも、苦しい人がいるということは、自分にとってもうれしくないのだ。だから、その苦しさを取り除こうとすることが、人として当然の行為に成り得る。こんなことは、善などと、大見得切って言うべきことではないのかもしれない。

 人が、人の評価によって、生きている面は多い。だが、人の評価など関係なく、人は、善く生きることができると思う。富んでいる者が、貧しい者に分け与えるのも、隣人が苦しんでいれば、助けるのも当たり前である。人の行為として当たり前である。

 人によっては、観念の異なる人もあろう。それはそれでいい。それこそ、その人の自由であり、義務でなければしなくていい、罰せられなければ何をしてもいい、好きにすればいい。それが、善だ、と言うならそれもいい。これが、今の世の中でありそうだ。

 わたしは、好きなことをしても、みんなと一緒に、うれしい、楽しい心を共有したいと思う。これも、自己満足かもしれない。

 あばら家の 隅の何処に 雛の声

 

2007年   3月 晦日  崎谷英文


ふるさと

 生まれ出ずる人のふるさとは、母の胎内であろう。胎内で進化を遂げ、人間として成長したとき、人は始まる。

うさぎおいし かのやま
こぶなつりし かのかわ
ゆめはいまも めぐりて
おもいいずる ふるさと
(高野達之 ふるさと)

 幼き時から、家族と共に居た、生まれ育ったふるさとは、人の意識の中の原点となる。人としての思いは、ふるさとの原景の中にしばしば還り、今を考えさせる。望郷の念は、心の痛手を癒し、安らかにし、また、今を寂しく、憂鬱にさせることもある。安らぎの場所は、人の出発点にあるのかもしれない。

 出発点こそ、人の還る場所かもしれない。しかし、人の出発点を遡れば、さらに先がある。有機物の出発点は、40億年前に遡るのであろうか。哺乳動物は、数億年前に出現したのであろうか。私たちの生命も、その遡った数億年前、40億年前が出発点だとしたら、そこにまで遡って、安らぎを得るのかもしれない。自然の地球の中で、私たちは、帝王であろうが、それは錯覚かもしれない。ただ、自然の中の一員たるべき者が、傲慢に振舞っているだけなのかもしれない。

 さらに、遡っていけば、宇宙の始まりにまで行き着く。まだ、はっきりとは言えないのであるが、微小の世界、あるいはマイナスの世界、あるいは虚数の世界から始まったのであろう。だとすれば、人もまた、その世界に還ることが、運命付けられているような気がする。

 人の遺伝子の中には、すべての歴史が刻み込まれているといえようか。人類創世からの歴史、哺乳動物の歴史、もっと先を行けば、生命の原点からの歴史も、今の人々の遺伝子の中には、刻み込まれているのではないだろうか。

 日本人としての歴史を刻み込まれた遺伝子も、私たちは、持っている。しかし、また、人類の歴史、それは、日本人としてだけではない、世界に普遍な、人としての歴史の刻み込まれた遺伝子も持っている。

 結局は、陳腐な言い方かもしれないが、民族としての文化は大切であるが、人としての普遍性からすると、その文化もまた、還り行くうちに融合すべきものであろう。

 ふるさとは、心の安らぎの場であるからこそ、人は思いを致し、廻らす。短い人生の中で、最も印象的なふるさとは、この歌の言うふるさとであり、母のぬくもりのような気がする。人は、どこかに還ろうとしているのであろう。

  真青なる 空に白蓮 迷いなし

 

2007年  3月春分  崎谷英文


言葉、頓悟、数学

 人間は、言葉を操ることにより、考えることができるようになったといわれる。言葉がなければ考えられないのかどうか、少し、疑問を持つ。

 少なくとも、心は、言葉がなくても、そこにある。心というものは、感じるものであり、考えるものではないのだから、言葉などなくても良いのではないかとも言える。

 デカルトは、「我、思う(考える)ゆえに、我在り。」と言った。この言葉の中の、「思う」ということは、単に、心の感覚的働きを言うのであろうか。そうすれば、言葉がなくても、「感じる」ことはできるのであり、「我、思う」とは、「我、感じる」ということになる。しかし、デカルトは、もうちょっと深い意味に捉えていると思われる。やはり、その「思う」は、「考える」ということらしい。そうなると、やはり、言葉というものを操らないと考えられないのだとしたら、言葉を持たないと、人間らしくないのかも知れない。

 しかし、人間は、考えることによって、何ができるのかと言えば、いろいろなことを、はっきりと、その本質を見極めるということになるのではないか。社会生活における、コミュニケイションという狭い範囲のことだけを、言っているのではない。人間の本質、自然の本質を確知することに、その考えるということの、究極の目的はあるのではないだろうか。そうして、正に、哲学者、思想家、批評家たちは、言葉を駆使して、論争を繰り広げている。

 しかし、言葉などなくても、人は、悟ることができそうな気がする。言葉で説明できないけれども、自分の心の中で、人間、世の中、宇宙、自然はこんなものだ、というイメージが生じる事は、一つの悟りではないかと思う。禅宗において、頓悟(すとんとわかる)というのは、そのようなことを言っているのではないか。だとすれば、言葉などなくても、学問、教養などなくても、勉強などできなくても、人は、頓悟できるような気がする。

 数学というものも、言葉として捉えられる。言葉の中でも、最も厳密な、検証に堪え、一般の言葉のようなあいまいさを残さないものである。科学は、その数学を使って、様々なものを解き明かしてきた。大宇宙の世界から、ナノメートルの世界まで、物質の正体、生命の正体を、ある程度解き明かしてきている。

 しかし、数学の言葉により解き明かされたことを、原始人、古代人、昔の市井の人々は、すでに、頓悟していたのかもしれない。今、彼らに、現代の科学の解明した宇宙の姿、世の中、自然のありよう、人間の命の初めと終わりは、「こんなものだよ」、と説明しても、「そんなの、大体分かっていたよ」と言われそうである。

 言葉で考えているのかもしれないが、言葉を知らない赤ん坊にも、心はある。それは、無心である。私たちは、一所懸命、言葉、数学を使って、昔そうだった無にたどり着こうとしているのかも知れない。

  鶯は 嵐の中に 黙り居り

 

2007年  3月 春の嵐の日  崎谷英文


進化論

 進化論というと、ダーウィンを思い出す。生命は、原始的なものから、環境に適応しながら、高機能のものに変身していったというものである。首の長いキリンも、海に住み鯨も、鼻の長い象も、その進化により、今の姿になっていったというのであろう。

 人間も進化してきた。500万年前、猿人、アウストラロピテクスが誕生している。彼らは、いわゆる猿の仲間からの人間への進化の始まりと言われている。その後、200万年から150万年前ごろに、原人、北京原人、ジャワ原人などが誕生した。アウストラロピテクスより、高度な道具を作り、利用していたと言われる。その後、20万年前ごろ、旧人、ネアンデルタール人が誕生した。高度の知性を持ち、埋葬などの儀式を行っていたと思われている。しかし、彼らは、約3万年前に絶滅したのではないかとも言われている。

 10万年前ごろから、現代の人類につながる、新人、クロマニヨン人が誕生したと言われる。彼らは、脳の仕組みが、ネアンデルタール人と異なっていて、さらに知性は発達し、心というものもこのころになって、初めて生じたのではないかと言う人もいる。

 進化の影には、必ず淘汰がある。適応できないものは、滅んでいくのである。数多の植物たちも、動物たちも、そして古い人類も、淘汰されていったのである。

 その現代人類も、進化して今に至っている。狩猟、採集の時代から、人工的穀物の栽培生産の発見、発明から、大きな進化を始める。豊かな土地に定住し、村が生まれ、村が集まり国ができ、家族生活から共同的生活への広がりができてくる。四大文明が起こり、やがて、釈迦、孔子、ソクラテスが、宗教や哲学を始める。

 それぞれの地域で、文化が発達し、地域のつながりから、文明が世界に広がったのである。人間は、こうして、やはり、進化していったと言えるのであろう。

 特に、この近代から現代にかけての500年の科学技術の発達は、目を見張るものがある。機械を作り、エネルギーを操り、人間の能力のほとんどすべての、また、はるかに超える作業を、機械、ロボット、電子機器に、代替させることができるようになった。

 経済の進化も、素晴らしいものなのであろう。物々交換から、貨幣経済になり、カード時代になってきている。人々の生活全般において、財産の多寡が、すべてに代替するかのような様相である。自由という、人間の価値を全面に押し出し、自由主義的市場経済が、すべての人の守り、従い、育てていく対象となってきている。マックス・ウェーバーは、資本主義の精神が行き渡ることが、現代の経済的進化であり、制度として定着することが大切であると言っているようである。進化に取り残されるものは、淘汰されるのである。

 私は、どうやら、進化に取り残されていくようである。世の中についていけないのは、ただ、私が、進化していないからなのかもしれない。そうなれば、退化とは言わずとも、進化に乗り遅れたまま、静かに生きていくしかない。

  朧月 見上ぐる下の はぐれ道

 

2007年   3月   崎谷英文 


田中君への手紙 5

 お元気ですか。この間は、大きなヒラメの収穫、感心しました。

 釣りというものにも、上手い、下手というのがあるようですね。さしずめ、貴君は、釣り名人というところでしょうか。

 ところで、釣りというのにも、マニュアルがあると思います。しかし、いくらマニュアル通りにやったとしても、よく釣る人と、釣れない人がいると思います。それは、単に、釣り場所が良かったとか、船のどこにいたか、という、そういう運なのでしょうか。

 貴君も同意してくれるかと思いますが、単なる運なのではないような気がします。同じテクニックを持っていたとしても、よく釣る人と、そうでない人とは、何かが違うような気がします。

 先日、奥様の手料理をいただきましたが、料理の上手い、下手というのも、単にマニュアル、レシピ通りに作ったら同じ味ができるというものではないのかもしれません。料理の最高の調味料は、「愛」などということがあります。正に、レシピ、マニュアル、技術に、

 プラス、アルファ@が、その料理の最高の味をもたらしてくれるのかもしれません。奥様の料理は、愛のこもった最高の味だったのです。また、馳走に預かりたいものです。

 あらゆることに関して、このプラス、アルファ@というものが大切なのではないでしょうか。今の世の中、とにかくマニュアルで動いています。マニュアルに書いてあることを忠実に守る事により、すべて順調に動くと思われているのかも知れません。

 しかし、そうではないでしょう。企業活動においても、組織、マニュアルに頼りすぎていると、そこには、必然的に、たるみ、ゆるみというものが生じるように思います。本来の目的、本質というものが、日々に、時々に再確認される必要があると思います。でないと、本来の目的を忘れ、失い、組織は滅ぶのです。

 法律は、最低限のマニュアルです。法律の精神は、もっと深いのです。政治家たちが、時に、法律に従っているからいいのです、などということがありますが、実に嘆かわしいことです。

 経験は大切ですが、経験だけでは足りない。目に見えないその人の心、思いやり、愛情というものが、世の中に安らぎをもたらし、深みのある、ゆとりのあるものにしていくのではないでしょうか。きちんとしたマニュアルを作らなければいけない。しかし、それだけでは足りないのだと思います。嫌々ながらの、義務的な、打算的な仕事には、何かが足りないのです。生き生きとした、活動のうちにこそ、素晴らしい作品が生まれるのだと思います。

 マニュアル嫌いの私は、あまり、仕事をしないほうがいいのかもしれません。

 貴君のヒラメも、奥様の手料理も、心の果実と、敬意を表します。また、飲みましょう。

  山猿は  春の嵐に  寄り添へり

 

2007年   3月5日    崎谷英文


アキレスと亀

 昔、ギリシャのゼノンという哲学者が出した命題に、有名なこういうのがある。

 「足の速いアキレスは、前を行く亀に追いつくことはできない。なぜなら、アキレスが、前を行く亀がいた位置に着いたとき、必ず亀は、それよりも前にいる。そうして、またアキレスが、その亀のいた位置に着いたとき、また亀は、それよりも前にいる。こうして、アキレスは、永遠に、亀に追いつくことができないのである。」

 さて、この言い分に対して、どう反論できるだろうか。ゼノンの言っていることがおかしいことは、お分かりだろう。例えば、アキレスが、秒速10m、亀が秒速1mだとして、90m離れていたとして、亀を追いかけるならば、10−1=9、90÷9=10で、10秒で、アキレスは、亀に追いつけるはずである。

 人間の思考というものは、頼りないものである。こんな分かりきったような、ごまかしの理屈にさえ、上手く反論することが難しい。子供たちに、この命題への反論を訊いても、たいてい、上手く答えられない。大いに学ばなければならないということであろう。

 現実社会においても、もっともらしい語り口で、もっともらしいことを言う詭弁家、もっと悪くなれば、詐欺師のような人もいる。何も、世の中信用できない、と言っているのではない。しかし、金さえ入れば勝ちだ、というような風潮の現代では、困った人たちがいる。騙されないと思っていても、騙されてしまうのである。物事の本質を捉え、見抜く力を、養わなければならない。

 また、多くの人が同じことを言うから、正しいのではない。私たちは、往々にして、みんながそういっているから、そうなのだろうと思いがちである。しかし、時には、多くの人が、そろって間違ったことを言っていることがある。

 特に、現代のように、情報があふれかえり、マスメディアが縦横に張り巡らされていると、一つの方向に意見が傾くとき、思いもかけない勢いに成り得る。民主主義は、多数決であり、多数が民意だ、善だと言う。そして、間違っていれば、将来に向かって、それこそ、少数を多数にすることにより、解決すべきだと言う。しかし、国民が賢くならないと、民主主義は利用される。それは、歴史が、教えるところであろう。

 ゼノンの言っていることは、一見正しそうであるが、時間の感覚において錯覚するのである。亀のいた所に着いたとき、亀は前にいるということが、永遠に続くような錯覚に陥っている。しかし、前に亀のいた所に着く時間は、どんどん短くなっていく。そして、その時間は0に近づいていく。この時間の和は、等比数列の和である。N回までの和として計算できる。そして、そのNを無限大にした時間の和は、一定のものとなる。高校で習う、無限級数の和の収束である。前の例では、やはり、10秒となる。ゼノンの命題への、きちんとした反論としては、これが妥当であろう。数学も、おもしろいでしょう?

  水ぬるみ 餌漁る千鳥 五羽六羽

 

2007年  2月暖冬  崎谷英文


戸を閉め忘れる猫

 部屋に入る時、戸を開けて入る。当たり前である。それは、戸を開けないと、部屋に入れないからである。

 馬鹿げた話をしているようであるが、それでは、部屋を出た時、戸を閉め忘れることはないだろうか。きっと、多くの人が、経験されているだろう。それは、部屋を出た時に、戸を閉めようが開けておこうが、自分にとって、何ら利害関係がないからである。戸を開けるだけなら、猫でもできる。戸を閉める猫は、寡聞にして、知らない。

 人は、自分自身の次の立場の為に、行動するのが基本なのである。行動分析学という学問では、そんなことを分析し、熱心に論じているという。

 同様にして、雨が降り出したら傘を差すというのも、先に述べた、部屋に入るときに戸を開けるのとは、逆の意味で、自分自身のためにすることである。雨に当たっていると嫌だから、それを避ける為に、傘を差す。

 また、別の逆の意味で、ある行動をしないというときにも言える。崖から飛び降りると痛いから、飛び降りないのである。本能的に危ないと感じるのかも知れないが、子供だと、危険知らずに、崖から飛び降りることもある。しかし、一度痛さを経験すると、もうしなくなる。学習効果である。

 誉めることと、叱ることにも関連する。あることをして、誉められると、うれしいからまた同じことをする。叱られると嫌だから、もうしない。

 誉めて育てるという本があるけれども、ただ誉めていれば良いというものでもあるまい。豚もおだてりゃ木に登るという言葉もあり、誉められて、普通はうれしいだろうが、ほっといてくれということもある。また、叱られるとそうしなくなる、とも限らない。叱られることを楽しんで、また同じことをするということもある。小さな子供が、いたずらを止めないのは、そういうことだろう。

 叱るほうも叱るほうで、叱ったら、嫌なことがいったん収まるから叱るのである。相手の為を、本当に思っているのか、よく考える必要がある。

 何を為すべきか、為さざるべきか、瞬時の人間の反応というものは、勝手なものである。

 飲んだ空き缶を、邪魔だから道端に捨てる。しかし、ゴミが道に落ちていることを、不快に感じるようになれば、自然に、そういうことをしなくなる。

 相手のこと、人々のこと、社会のこと、地球のことを思い、その行動がどういう影響を及ぼすのかを考えて、判断せねばなるまい。

 人の痛みを自分の痛みとし、人の喜びを自分の喜びとすることができれば、瞬時の反応にも、それが現れてくるのかもしれない。

 やはり、勉強し、感性を磨くことが、大切なのだと思う。

  祈る日の 続く春なり 石地蔵

 

2007年  2月8日  てらこった 崎谷英文


反対語 対義語

 創造の対義語は、模倣である。破壊ではない。破壊の対義語は、建設である。誰が決めたのかは知らない。

 黒の反対は、白であろうが、黒字の反対は、赤字である。赤の反対は、何であろうか。色の配色からすると、緑になる。しかし、紅白という言葉もある。

 快楽の反対は、苦痛とか、苦悩である。快いということは、どういうことであろうか。もしかすると、苦しみを取り除くときにこそ、快いと感じるのかも知れない。そのとき、苦痛とともに、快楽を感じるのである。例えば、体が痒いとき、懸命に掻く。すると、気持ちがいいものである。痒いと感じないときに、いくら掻いても、快いとは感じないであろう。いくらおいしいものでも、満腹のときは、おいしいとは感じない。いくらかは、空腹でないと、おいしいとは感じないであろう。ソクラテスとソフィストたちは、こんなことを、真剣に論じ合っていたという。

 幸福の対義語は、不幸であろう。そうすると、不幸というものがあって、その対極に幸福がある。そうすると、不幸というものを知らなければ、幸福というものは、手に入らないのかも知れない。つまり、ある状態を不幸だと感じるとき、そこからの脱却が、幸福になるのである。ある状態を不幸と感じなければ、幸福というものはないのかも知れない。

 逆の意味から言えば、幸福というものを知っているから、不幸を感じるのである。ある状態を、不幸とも幸福とも感じなければ、幸福も不幸もないのかも知れない。

 長いの反対は、短いであるが、その長いものより長いものからすれば、その長かったものは、短くなる。すべては、相対的なのだろうか。

 真の反対は、偽である。善の反対は、悪である。美の反対は、醜である。それらもやはり、相対的なものだろうか。しかし、真も、善も、美も、厳然として存在するように思う。

 人には、分からないことが多々ある。科学が発達し、マクロの世界、ミクロの世界が明らかにされようとしている。しかし、その先、その初めは、明らかではない。人は、全知全能を尽くしても、無知蒙昧なのである。

 憎しみは、愛から生まれる。よく愛するものこそ、よく憎むものである。喜びを封印すれば、悲しみも封印される。寂しい世界である。華やいだ世界に生きるには、愛することと喜ぶことを獲得せねばならない。しかし、あまり愛と喜びとを追い求めていると、憎しみと悲しみに出くわすのかも知れない。

 建設の裏には、破壊があるとも言う。火は、火を作り出すために、何かを、壊しているのである。理想の対義語が、現実だとしたら、現実は、理想の世界に成りえないことになる。

 真と善と美を、信じたい。

  すきま風 時計の針の 容赦なし

 

2007年   大寒   崎谷英文


役者じゃのう

 芝居はおもしろい。おもしろくなければ、芝居ではない。おもしろいといっても、いろいろある。馬鹿笑いするだけのものもあれば、泣かせるものもある。

 原始の時代から、人は、芝居らしきものをしていたようである。それは、ただ、歌い、踊るだけのものだったかも知れないが、やはり、それも芝居であろう。

 芝居というのは、役者が、何かになりきって演じるものと考えていいように思う。

 原始の時代、それは、仮面を被り、あるいは、顔や体に化粧をして、自分たち人間ではないものになりきって、見えぬ力を畏れ、敬って行われたものであろう。

 リアリズムというものがある。それは、現実を、そのまま写し取って見せようというものだと思うが、芝居においても、それはある。現実の人間のしぐさ、ことばを、それらしく見せようというものである。

 現実の人間の生活、日常行動を、そのままに演じることのできるのが、いい役者だと思われていないだろうか。違うと思う。何を見せようとするのか、それによって、役者のしぐさとせりふは、現実のものと、大きく異なっているのだと思う。テレビドラマにおいても、いい役者は、現実にない大げさな表現を、巧みにしているのである。

 日本の古くからある、能、狂言、歌舞伎などにおいては、その動作、せりふ、音楽、それらは、様式が決まったものであり、全く、現実の人間のものではないであろう。しかし、そこには、見る者を感動させるものがある。神となり、狐となり、幽霊となり、現実の人ではない人になり、現実の人の心に潜むものを、抉り出そうとするものではないだろうか。私たちは、様式美の中に隠された、人間の真実を感じ取るのではないだろうか。そして、それを観客に、上手に訴えることのできるのが、いい役者なのである。

 実は、私たちは、現実の生活の中で、芝居を演じているのではないかと思う。本当の自分、一体そういうものがあるのかどうかも分からないのだが、それを押し隠して、常に何ものかになろうとしている、あるいは、なったつもりになって生活しているのかも知れない。演じ続けているうちに、神になった、犬になったと、錯覚してしまう困った人たちもいる。

 人は、役者に惚れたりする。そこで、注意しなければならないのは、私たちの見る目である。巧みな演技に、安易に、乗っからないことも大切である。

 子供たちも、役者になって、成長する。童話の中のクマさんになって森で遊び、ままごと遊びをして、お母さんにもお父さんにもなる。仮面ライダーになって、悪者をやっつけるのである。

 人は、生涯、何かを演じ続けていくのかも知れない。

 さて、私は、これから、何を演じようか。

  朝霜の 西より融けて 菜は光り

 

2007年1月10日 てらこった 崎谷英文


個は全体であり、全体は個である

 全く、訳の分からないことを、書いているのかも知れない。

 宮沢賢治の残した言葉に、「世界が全体幸福にならない限り、個人の幸福はあり得ない。」というのがある。

 人の欲望というものは、限りがない。財産、地位、名誉、権力、贅沢を追求すれば、止めどもない餓鬼になる。貧しいものたちが、餓鬼になるのではない。むしろ、富める者たちこそ、餓鬼になっていく。

 人は、自分一人、あるいは、自分たちだけで、幸福というものを充足できるのであろうか。

 世界の中には、貧しさに苦しみ、飢えていく人たちがたくさんいる。親を亡くし、路上で物乞いをする子供たちがいる。戦争、内乱で、故郷を追われ、住まいをなくし、新しい地を目指し、さまよう人たちがいる。

 彼らを、一概に、不幸だとは言えないのかもしれないが、私の目には、私より不幸な境遇に映る。

 たぶん、私は、一生、充ち足りることはないと思う。それは、金持ちになれないからではない。地位がないからではない。権力がないからではない。贅沢できないからではない。もちろん、それらは、持ち合わせてはいないのだが、たとえ、それらを持ち合わせていたとしても、充ち足りることはないと思う。

 個は全体であり、全体は個である。

 個は、個として個別でありながら、それぞれが全体である。全体は、個の集合体としての全体でありながら、個別の個であり、個別の個の中にもある。融通無礙の世界である。

 また、訳の分からないことを書いているようである。

 しかし、人の心には、個をふりかえることと、全体を見つめることとが、同居しているような気がする。全体を離れては、個は存在し得ないのは、当たり前だが、人の心も、全体を離れては、存在し得ないように思う。

 人は、自分だけで、自分たちだけで、充ち足りていては、真の幸福にはなれないのではないだろうか。

 個は全体であり、全体は個である。

 このことは、人類を全体としての人間の場合にのみ当てはまるものではない。自然を全体として、あらゆるものを個としても、当てはまるものである。賢治の心は、そうであったらしい。

 ますます、訳の分からないことを、言っているような気がしてきた。

 とにかく、今年も、幸福になれそうにない。

  木枯らしの 破れ窓打つ 四畳半

 

2007年1月1日    崎谷英文


仙人の戯言

 自由は実は、苦しいのである。
自分自身で判断し、自分自身で責任を持つ
これは実に大変なことである。
勉強するのは、この考えること、判断すること
責任をもつことの前提としてある。