先日は、よく飲みましたね。とても、お世話になりました。奥様にも、大変ご迷惑をおかけしました。
ところで、柴田君の創った孔子像はよかったですね。江戸時代の若者たちが、温故知新で、懸命に学んでいたことが想像されます。
私は、孔子という人が、とても常識的なことを言っていた人で、社会生活をする上での心得を、実に的確に言い表してきたように思っていました。
しかし、そのストイックな、抑制的な言説は、現実を追認し、保守的な体制の維持に有効であったようにも思っていました。確かに、国に対する忠、親に対する孝、師弟関係の重視、社会生活での礼など、それらはまさしく、幕藩体制と平和を維持するのに、大きな働きをしたように思います。
その意味においてかも分かりませんが、私は、いくらか、孔子の説く所に、物足りなさを感じていました。
しかし、今、孔子の論語を、少し読み拾ってみますと、私に少なからず影響を与えていたのではないかと思い出しています。
「学びて時に之を習ふ。また、よろこばしからずや。」などは、私の実感です。「朋あり、遠方より来る。また、楽しからずや。」は、先日の貴君との痛飲を思い出させます。「人知らずして、憤らず、また君子ならずや。」これは、人が自分のことを評価してくれないことに、不平不満を持たずに生きていく人は、君子である、ということですが、私は、君子ではないけれど、とっくにその心境でした。「巧言令色、少なし仁。」も好きな言葉です。「利によりて行えば、恨み多し。」などは、今の時代への警告でしょう。
「之を知ることを知るとなし、知らざるを知らずと為す。之知るなり。」は、まさしくソクラテスの言う「無知の知」でありましょう。
武士道というものも、この孔子の様々な言葉が元になっています。
「富と貴とは、之人の欲する所なり。其の道をもってせざれば、之を得ともおらざるなり。」富貴というものは、誰でも欲しいと願うものではあるが、仁の道、正しい道をもって得たのではなければ、その地位に安心してとどまることはできない。今の世の中、道を外れた金持ちばかりのような気もします。富貴になったとしても、ひやひや、どきどきしながら生きているのでしょう。そのほかにも、いろいろ、いい言葉はありますが、今の私は「粗食を食らい、水を飲み、肱を曲げて、之を枕とす。楽しみもその中に在り。」の生活です。
論語を読み返してみて、それは、本当に常識的なことを言っているのだと再確認しましたが、実は、もはや、現代では、それが常識ではなくなっているのかもしれません。
孔子は、儀式や礼儀を重んじてはいましたが、また、外面よりも、そのまごころのだいじなことも言っています。礼儀知らずの私のような者を歓待していただき、貴君と奥様、そのまごころに感謝します。
私は、高校時代から、この言葉が気にかかっていました。「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。」
是非、また痛飲しましょう。奥様、パピーによろしく。
追伸 それから、柴田君の日展の作品、よかったですね。彼の力を再認識しました。
桃色と 白の野菊の 背は低し
2007年 11月30日 崎谷英文
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